人生と運命

April 16 [Sat], 2011, 4:45

ガチ★まん!


今日は、多くの人々が、とかく、誤解に陥りやすい、
"運命"というものに対する正しい悟りを開こう。


こうした事実を知っているのと知らないのとでは、
どのくらい人生を有意義にするか、
また無意義にするか分らないという、
重大な関係が人生に存在しているのである。


ところが多くの人を見てみると、
遺憾千万ながら、人生に対する大切な事柄を、
意外にも無自覚である。


むしろ大部分の人は、
貴重な人生を漫然として活きている。


今の人達は自分がある程度努力して、
この努力が実らないと、
それを"運命"だと思ってしまう。


たとえば病のときでも、
一所懸命手を尽くしても治りが遅いと、
"運命"だと思ってしまう。


あるいは、事業を盛り返そうと一所懸命努力しても、
自分の思うとおりにならないと、
これもまた"運命"だと思ってしまう。


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こうして何もかも運命だと、
片付けてしまうのだけれども、
人間の力では、どうにもしょうがない運命というものは、
たくさんあるものではない。


自分の思慮が足りないか、
あるいは力が足らないかの理由で運命が開けないことを、
いわゆるどうすることも出来ない運命だと決めてしまうのは
軽率極まりない話であり運命には2種類あることを知らないのだ。


すなわち"天命"と"宿命"というものがある。


天命は絶対で、宿命は相対的なものである。


もっと判りやすくいうなら、
天命というものはどうすることも出来ない。


女が女に生まれ、男が男に生まれたのを、女が男になりたい、
男が女になりたいといっても、どうしても、そうはいかない。


これは天命だからである。


この現代に生まれるのも天命なら、昔に生まれたのも天命。


また末の世に生まれるのも天命だ。


これはどうともすることは出来ない。


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しかし、宿命というのは、
人間の力で打ち開いて行くことが出来るものである。


ところが今の人は、
打ち開くことの出来る宿命にぶつかったときでも、
それを天命という。


自分の努力が足らないことは棚に上げ、
どうにも仕様がない、というのである。


万国の人間の持っている、
心の欠点だと思うのは、
どこの国に行っても「どうにもしょうがない」という言葉がある。


繰り返していう。
運命というものには2種類ある。
どうにも仕様のない運命を"天命"といい、
人間の力で打ち開くことの出来るものを"宿命"というのである。


どうにもしょうがないと思うようなことは、
よく考えると、自分では仕様がないかもしれない。


しかしその時に、ひょいと自分の心の持ち方を考えてみなさい。


「自分の心の持ち方が消極的だったためなんだな」
とわかると、
「そうか、積極的な心に振り替えれば出来るんだ」
ということに気付くのだ。


ところが、こういうことを聞いたことのない人は、
人生を活きるのに、安心と勇気と調和などという気持ちなど持っていない。


万事がびくびくと活きている。


口では偉そうなことをいっているが、
やたらと迷信に陥りやすく、
ただ偶然ということのみを当てにして人生を活きている人が多い。


それでは、くだらない人生だけが結果に来るだけである。


なぜかというと、自分でそういうくだらない状態を、
選び出しているからである。


そして結局は、医者のお得意になったり、
薬屋のお客になったりと、
引き受けなくてもいいようなことを引き受けているのである。


そしてもちろん自分ではそれに気がつかない。


自己の無自覚 − 無自覚というのは人生に対するはなはだ低級の人間をいうが − と、
それから神経過敏の心 − 神経過敏というのは気の弱い人間のことをいう − 
この二つが人生をくだらない、価値のない、哀れなものにしているかそして、
自分だけが、非常によくない運命に囲まれている人間のように思ってしまっているのだ。


世の中の人々をよく見てみると、よくわかる。


あるいは自分もまた今までは、
そのような仲間の一人であったかもしれないということも考えてみよう。


毎日の人生を神経過敏になり、
なんとなく不安な気持ちになり、
何事に対しても、安心というものを持って、
人生を活きている人が少ないという証拠に、
文化の世の中に、どうだ、占いがどうだ、拝み屋がどうだ、八卦(はっけ)がどうだ、
干支(えと)がどうだ……と、下らないことをいっている者が、なんと多いことか。


そういうことをいっている者は自分の胸によく手を当てて少し考えなさい。


文化民族なのか、野蛮人なのか。


アメリカにもこういう諺がある。
「迷信深い人間は、さかりのついた動物よりも下等だ」


このような人間は、
人生うろちょろうろちょろ自分自身のことを
自分自身で決定が出来ない人間だ。


自分よりも教養が少ない、自分よりも劣っている、
拝み屋や易者のところに行き、
運勢や卦(け)を占ってもらうなんて、恥ずかしいと思いなさい。


やれ東の方へ行ってはいけないとか、
やれ西の方へ行ってはいけない、とか。


第一、東とか西だとかいったいどこを当てにして拵(こしら)えているのか。


東西南北いったいどこを起点としてやっているのか。


自分のいるところから右か左か、
前か後かを決める方便のために、
ただ東西南北があるだけじゃないか。


地球の芯に行ってみなさい。


南極や北極に行けば、磁石の針は南北を指さない。


また、やれ日が悪いの、やれすべったの、ころんだの、と。


第一、1年が約365日と4分1、それだけかかって、
太陽を中心に廻っているこの地球に、
日がいいとか悪いとかあるわけがない。


科学的に、もっとスーパーな考え方で人生を考えなさい。


やれ大安がどうだ、友引がどうだ、やれ仏滅がどうだ、などと。


人間が、そんなものを当てにして活きていると思ったら、大違いだ。


日本人だけがそんな下らないことをいっているのだ。


やれ姓名判断がどうだとか、
ここへ釘打ってはいけないだとか、
やれ畳の数がどうだとか、
やれ東北の暗刺殺とか、
北の方塞がりとか。


馬鹿馬鹿しいかぎりだ。


考えてみても吹き出すほどおかしなことではないか。


そのようなことを鼻の先にもひっかけないのに、
相当な教養を付けた人間がどうしたことか。


中には「科学的にいえばそうかもしれませんが、
昔からいっていることを良いとか悪いとか、何も逆らうことはないでしょう」と、
変なことをいっている人がいる。


これは迷信を自己弁護している極めて卑劣な言葉である。

 
そのようなことを考えている人に遠慮なくいおう。


日本人は、昔、頭に髷(まげ)をつけていたからといって、
今も、ちょん髷をつけた方がよいといって、髷つけて歩いたら何というだろうか。


あいつ、仮装行列のハグレ″じゃないかと思うだろう。


時代遅れの、姿形をしている人があったら諸君は感心するだろうか。
「あれ、クラシックな古典的な人間だねえ」といって尊敬するか。


「何とくだらない、馬鹿馬鹿しい」と思うだろう。


それなのに、肉体的には、そういう流行遅れなことをやらずに、
モダンモダンと流行を追いながら、
心には、2千年も3千年も昔のことをしている。


つまらないじゃないか。くだらないじゃないか。


若い人間には特にいっておく。


これからの新しい社会を背負って立とうとする青年男女!


断じてそういう下らないことに陥るな。


何が暗剣殺で、何が北の塞がりで、何が大安で、何が友引だ。


やれ、お弔いは友引に出してはいけない。


それなら、生まれるときに仏滅に生まれたらどうするのか。


「今日は仏滅だから、明日は大安だから、生まれるのを明日まで待って下さい」
と頼んでも、そうはいかない。


実際、そういうことにカブれている人間を見ると、
姿形は人間だけれども、心はチンパンジーにも劣っていると思う。


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