現前の安心感

April 21 [Mon], 2014, 20:51
現前の安心感は不在の可能性に由来します。子供にとって最も不安を生みだすのは、それをとおして子どもが、彼を欲望させる欠如にもとづいて、存在するようになる諸関係が、きわめて不安定なとき、欠如のいかなる可能性もないとき、彼の母が絶えず彼の背後にいるときなのです。この例は、ラカンの分離という概念と合致しない。なぜなら、ここでの欠如のいかなる司能性もないという二重の否定(二重の欠如)は、いずれも同じ項である母に、言い換えれば他者に当てはまるからである。母=他者は、分離が遂行され、主体がsになるためには、何らかの不完全性、誤謬可能性、欠損のサインを示さなければならない。言い換えれば、私たちが主体の到来を目撃するためには、母=他者は、彼女が欲望する、それゆえ欠如し疎外された主体であるということを、そして彼女もまた言語の分裂させ斜線を引く作用に服従してきたということを示さなければならないのである。母はその領域を独占してしまっている。すなわち、彼女自身が分割された主体として存在するようになったのかどうかが明らかでないのである。

かなりの食い違い

April 20 [Sun], 2014, 20:17
ある決断は子どもが主体として到来する可能性を排除する。もし主体として存在するようになるのであれば、服従するという選択はなくてはならないものである。しかしそれにもかかわらず、主体性を拒絶することは可能なので、この選択は選択としての地位を維持している。ラカンの疎外概念においては、子どもは、ある意味次のような選択をするのだと理解できる。すなわち子どもは、言語に服従すること、自分の欲求を言語という歪曲する媒体あるいは拘束具をとおして表現するのに同意すること、自分自身を言葉によって表象されるようにすること、これらのことを選択するのである。ラカンの二つめの操作すなわち分離は、疎外された主体が、今度は言語ではなく欲望としての他者に直面することに関わっている。世界における主体の物理的現前の原因は、両親の側の何か、快感、復讐、充足、力、不死などに対する欲望であった。両親の片方ないし両方が何かを欲しており、子どもはそのことの帰結として生まれてくる。人が子どもを持とうとする動機は、しばしばきわめて複雑で多層的であり、両親はお互いの動機に関してかなりの食い違いをしているかもしれない。


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