20歳までのchronology 

2007年09月29日(土) 7時41分
まずは、私の大まかな粗筋から・・・

【0歳】
誰から見てもド田舎と思うような某県で第2子ではあるが、長女として誕生。

【5歳】
母の家出、残された私達【兄と私】母方の祖父母に預けられる。
その後、父の自殺によって母が帰宅

【6歳】
母方の祖父母宅にて数ヶ月過ごす。
母に新しい彼氏1号が出来た事で祖父母宅を離れ4人での生活が始まる。
ある日彼氏1号と別れる。
母に彼氏2号が出来る。また4人での生活が始まる。
祖父母に男の存在がバレる。

【7歳】
地元で過ごしにくくなった為、近隣にある都会といえば都会とも呼べなくもない県に引っ越す。
その後、何十年も付き合う事になる幼馴染【Sちゃん】と出会う。

【8歳】
その後、何十年と付き合う事になる友人【Mちゃん】と出会う

【9歳】
兄からの虐待とも言える暴力がこの頃から激しくなる。

【13歳】
自宅が火事にあい同市内で引越し。
この頃から【Mちゃん】とつるみ夜遊びを始める。

【14歳】
同市内であったものの転校する。
今までの生活を改め真面目に勉強をする。
【Mちゃん】も転校先の中学に転校してくる。彼女はヤンキーへの道を進む。
母、彼氏2号と別れる。

【15歳】
薬物を始める。
中学を卒業【兄は高校を卒業】
兄は就職と同時に一人暮らしを始める。
母に彼氏3号現れ、週に2、3度の帰宅しかしなくなり、プチ一人暮らしが始まる。
高校中退。

【16歳】
同高校の定時制に再入学。
母とはお金だけの関係になる。
ほぼ毎日薬物を摂取、自宅は溜り場となる。
再度、中退。
母と彼氏3号との間に女児誕生。
これをきっかけに家を出て、当時の彼【O君】の実家で生活を始める。
1年とあけずに母と彼氏3号との間に男児誕生
これをきっかけに自宅へもどる。

【17歳】
今までの友人関係を清算し、真面目に働く。
雑貨屋の店長をやりながら、夜BARで働く。
この頃【Tちゃん】と出会いクラブ遊びにハマっていく。。。

【18歳】
毎夜のようにクラブへ通いハシゴする。

【19歳】
ひょんな事からその後忘れられなくなる彼【I君】と出会い、交際する。
その後、彼以外の人との夜遊びがなくなっていく。
2人暮らしを始めるも、職を転々とするし、生活が困窮する。
I君の実家での生活を始める。
洋服屋に就職。

【20歳】
I君の実家を出て彼と自宅に戻り生活を始める。
数ヶ月過ごした後、I君だけI君の実家に戻る。
I君と別れたわけではナイが、距離をとるようになる。
この頃から幼馴染の【Sちゃん】と再度付き合いが始まる。
Sちゃんの紹介で【Y君】と出会い、交際が始まる。







21歳からのchronology 

2007年09月29日(土) 9時01分
前ブログからの続き・・・

【21歳】
I君、Y君と10数ヶ月間同時進行での交際を続ける。
I君が時期に沖縄へ行く事が決まり、付いて行く事に決める。
Y君に黙って沖縄へ発つ

【22歳】
沖縄でI君との生活が始まる。
この頃風変わりな【Aちゃん】と出会い、親友となる。
Aちゃんが彼を追って某県へと引っ越す。

【23歳】
I君との生活が嫌になり、【Aちゃん】の住んでいるド田舎な某県に移り住む。
Aちゃんと共に水商売へと進む。
そこで、【K君】と出会い交際が始まる。
この頃いずれ夫となる【J】と出合っているものの印象悪くしばらく関わりがない。
水商売を辞め、販売員となる。

【24歳】
k君と2人暮らしを始める。

【25歳】
この頃からK君との仲が冷めてくる。
その後自殺してしまう事になる【R君】と出会う。
K君と別れる
水商売に再度進む。
現夫【J】と再開し交際を始める。

【26歳】
過去の異性関係をほとんど清算する。

【27歳】
【J】の海外勤務の辞令をきっかけに結婚する。

【28歳】
夫【J】が先に日本を離れる。
実家に戻り数ヶ月過ごす。
日本を離れ、海外での生活が始まる。

【29歳】
語学力に限界を感じ苦痛になっていく。

【30歳】
相変わらずな生活をしている。。。




PLOT 

2007年09月29日(土) 10時23分
私は今年で30歳になったのですが、これを機に自分を見つめ直したいと思いました。
そう思った時、自分の過去について整理出来ていない思い、出来事が多いとゆう事に気づきました。
頭の中だけでは、とても整理する事が出来そうにもなく、こうして書き認める事にします。

ココには主に私の過去についての話です。
でも、私の過去を説明する為に私を取り巻く人の話をする事もあります。

父の自殺、その原因になったであろう母の家出。
自由奔放な母に振り回される私達兄弟の苦痛。
兄の虐待ともいえる私への仕打ち。
自由とゆう名の母の親としての放棄。
極力他人と関わらずにいたいと思っていた幼少期。
逃げる事ばかりを考えていた思春期。
屈折していく考え方。
腐っていく感情。

まぁ、そんな事ばかりを書いていきます。
読んで気持ちのイイものでないとも思いますが、
自分探しのブログなので、お許し下さい。

父の死まで、 

2007年09月30日(日) 20時59分
私の父が亡くなったのは、兄が小学3年から4年に上がる頃でした。
当時、私は幼稚園から小学校へと入学をする為に用意をしているような暖かい季節だったと思います。

私は、人見知りがヒドく家族以外に対して懐く事もしない子でした。(父、母、兄だけで祖父母すらだめでした)
母がいなくなった時の記憶がないので、どのくらいの期間いなかったのかは覚えていません。
覚えている記憶は、父が神社だかお寺だかに連れていってくれたのですが、
そこで、『お母さんが、早く帰ってきますようにって祈りなさい』と言われたことです。
それは、私達が父の元を離れ母方の祖父母に預けられる直前だったと思います。

幼かったからなのか、バカだからなのかは分からないけれど、その次の記憶は祖父母に預けられた日になります。

その日、父が休みだったのか、休んだのかは分からないけれど朝も遅く起き父の朝食を食べました。
父は料理が苦手な人だったので、『大した物ではないけど』とゆう様な事を言いながら食事を出してくれました。

チャーハンとポテトともう1つ
(3品あったのは覚えているのですが、もう一つが思いだせません。)

その後の記憶もないので、そのまま祖父母の家に行ったのか、どこかに寄ったのかは分かりません。
兄も覚えてないのか、記憶をすり替えてるのか・・・とゆう感じです。

祖父母の家でどのくらい過ごした後なのかも分からないのですが、
ある日、父の訃報の電話がかかってきました。
小さいながらに病気でも、事故でもナイ事だけは分かってしまったのです。
でも、【死】そのものの意味が、私は分かっていなかったのです。

その日のうちに祖父母と母と兄と従兄弟と自宅へ戻りました。
何故だか、首をつって死んだ事もこの時に分かっていました。
私達には聞かせないようにしていたはずなのに何故だかは今だに分かりません。

今になって思えばですけど、【死】を理解出来てなかったとゆう理由は、
私は、当時ピアノを習っていて、大切にしているメトロノームがありました。
それを、一つ年下の従兄弟と取り合いをしていたのです。
私は、父から買ってもらった大切な宝物だったのに、大人達には諌められていてとても不快だったのを覚えています。
通夜、お葬式は父の実家で行われたので、この自宅の話は父が自殺してスグか、発見されてスグだったのだと思います。
それを見ていた大人達は、この子どれだけ空気が読めないバカなの?と思われたと今では分かります

結局の所理由は分かりません。
推測の域を超えないし、問い詰めてまで死の原因を見つけたいとも思いません。
ただ、何となくですが・・・
父は今でこそDVなんて言葉がありますが、母に暴力をふるっていたようです。
母自体も19歳で結婚し、その結婚までは蝶よ花よと育てられ、21歳、25歳で子供を産み育て遊ぶ事も他の異性と関わる事もなく生きてきたような人だったので、夫婦とゆう関係においては幼かったのかもしれません。
もしかすると、交際相手がいたから家出をしたのかもしれません。(私はそうだと思っていますが、確認はしません。)
こうゆう事は、私にとってはそんな事は大した事ではないです。




次は父の通夜、葬式のお話なので、父や母の恥部を念頭にお願いします。



私の思いはまた、別の機会にお話します。


父の死後、数日。 

2007年10月01日(月) 9時06分
父が亡くなってからの記憶も断片的ですが、父の遺体が帰ってきてからの話です。

父の遺体が父の実家に運ばれてきました。
父方の親戚が集まり、身体を拭いたり、葬儀の準備などで慌しくしていました。
誰が言っていたのか分からないけど、作業しながら
『この世に悔いが残ってるから、目を開けたままだね。』だとか、
『こんなに小さい子を残して死ぬなんて』だとか、
『何も死ぬ事はなかっただろうに』とか無責任な大人達が勝手な会話をしていました。

私に対しても、『もうお父さんに会えないんだからサヨナラを言いなさい』だの、
『かわいそうにねぇ』だの『お兄ちゃんとお母さんの言う事をチャントきくんだよ』だの、
関係ない人達が言い放っては帰り、また、同じ事を他の誰かが言う。の繰り返しだったと思います。

葬式の当日の話ですが、【死】そのものの意味がよく分かっていなかった私は、母が泣くのが辛くて泣いていただけだったと思います。
そんな幼い子供が葬式で暇を持て余さないわけもなく、従妹と庭や近所で花をつんだりして遊んでいました。
丁度その頃、棺に花を入れているのを知り、
大人の真似をしたかっただけなのですが、父の棺に野花を入れたのです。
すると、急に大人達が泣き出し、『小さくても分かるのねぇ』とか、『可哀想に。。。』とか、無責任な大人達が私を慰め始めたのですが、
私は泣く大人達を見て、悪い事をしたと怖くなり母に抱きつき泣き始めたと思います。
すると、その人達は母に向かって『この子を大切にしないとね!』だとか、『これ以上傷つけるような事をしたらダメよ。』だとか言っていました。

この無責任な大人達は言いたい事を言いたいだけいって、親切ぶるだけ親切ぶって、私達を傷つけて帰っていきました。
幼かった私にもこの大人達は、私達を助ける気もないのに言いたい事だけ言う嫌な奴らだと、嘘つきだと分かっていました。
もし、その頃に【偽善者】とゆう言葉を知っていたら、そう思っていたに違いないと思います。

順調に葬儀も火葬も終わり、もしかすると、49日の後かは定かではないのですが、
父方の身内と私達家族だけが残され今後についての話し合いがはじまりました。
話とゆうのは、やっぱりお金と、兄についての話でした。

兄についての話とゆうは、父方に養子に出せとゆうものでした。
この件に関しては、母も引くことをせず養子に出される事はなかったのですが、
それと引き換えのように財産放棄の書類に捺印させられる事になりました。

父が自殺で、別に両親が離婚したわけではなかったので、祖父、祖母が亡くなった時、私達に財産を1円も渡らないようにしたかったのです。
私達は幼かったので、関係ないと思っていたようですが、その後20たって祖父、祖母が亡くなった時に彼らはまた、私達を騙しにきます。
コレは、又後にお話します。
それまで、父方の人間とは一切関わる事がなく助けてもらうこともなく生きていく事になりました。

小学1年 

2007年10月01日(月) 9時59分
父が亡くなってすぐ私は小学校へ入学しました。

この頃、私達は母の実家にお世話になっていました。
本当に畑と田んぼと川があるだけで、何にも無いド田舎だったし、
学校までは大人の足でも1時間以上もかかるような所です。

祖父母宅には母の兄夫婦と子供、歩いて1分程度のところにもう一人の兄夫婦が住んでいました。
住まい自体も昔の家といった感じで、だだ広く増築もされていた為、家を窮屈と思うことはありませんでした。
父がいなくなったとはいえ、前より賑やかな生活が始まったのです。
体が小さかった私は近所の大人達から『ランドセルが歩いてるみたい』などど、笑いのネタにされてはいたものの、通学距離が長い事もあり、私を見つけると家まで送ってくれたものです。

父と暮らしていた家も祖父母の家も、同県にあったのですが、父の家の周りより祖父母の家は自然だらけでした。(自然しかありませんでした。)

元々人見知りな性格なゆえ学校生活は楽しいとは言えませんでした。
幼稚園の頃からの友達もいないし、知り合いの子すらいなかったし、食の細い子供だったので給食自体も苦痛で仕方なかったのが学校の記憶です。
いつも、従兄弟や兄と通学していたのですが、1年生だけ帰宅時間が早い為帰りは一人なので、学校は嫌なものでしかありませんでした。

帰宅してからは、従兄弟た兄、近所の子供達と昔の日本といった様な子供の遊びをして過ごしました。
年上の子が年下の面倒を見るのが当たり前で、
川でフナや鯉、ザリガニ釣りをし、カエルの卵を持ち帰り孵化させたり
山で鳥もちしかけ、小さな野鳥を取ったり、
農作業の手伝いをしたり、
養鶏場に行って黄身の入ってない破棄用の卵を貰っては投げて遊んだり、
牛舎に行って子牛を見たりと、今では到底考えられない遊びをし、楽しい時間を過ごしていました。
この時が、一番無邪気に楽しく生きていた時期のように思います。
でも、それも長くはつづきませんでした。

母に男ができたのです。

夏休みに入る前か後か分かりませんが、小学校の近くに引っ越す事になりました。
母は、祖父に『OO(←私)が通学が大変だし、お母さん達にも迷惑かけられないから出て行くね』と言っていました。
そして、母、兄、私の3人での生活が始まったのです。
その数日後、突然知らない男性が一緒に住むようになりました。
【彼氏1号】です。

家を引越してからしばらくは、いつもの様に遊ぶとゆう事が出来なかったので寂しかった記憶があります。
家に帰っても誰もいないとゆう体験をこの頃初めてしました。
この頃から学校でも、友達が出来、放課後遊んだりするようになったと思います。
周りの大人達に『やっと落ち着いたんだろうねぇ』なんて言われていた記憶があります。

【彼氏1号】はとても、優しく接してくれ、よく遊んでくれました。
私も、兄もスグ懐いたと思います。でも、その彼も、すぐいなくなりました。
何故なのかは今だに分かりません。
私は、また捨てられたと思ったものです。もしかすると兄も思っていたのかもしれません。
しかし、その直後又しても母に男が出来るのです。きっとこれが原因だと今では思うのですが・・・
それが【彼氏2号】です。
【彼氏2号】はこの時期から中学2年の終わり頃まで一緒に暮らす事になります。
【彼氏2号】もこの頃は優しかったと思いますが、ヤクザあがりとゆう事もあり気が荒く、
母とはよく揉めていたようでしたし、暴力も振るっていたようです。

起きると、母が唇を何針も縫う怪我をしていたり、青痣を作っていたり、
夜中起きると泣いていたりしていました。
そんな【彼氏2号】も私達にはとても優しかったので私は懐いていましたが、
兄は、そんな母の様子を理解していたので、懐くことはありませんでした。
しかし、週末やまとまった休みになると、どこかへ出かけたり、旅行に行ったりしていました。
普段も、私の見ている限りでは、父親になろうと努力していたし、私達をむやみに叱るような事もありませんでした。
知らない人が見れば普通の親子にしか見えなかったでしょうし、私もそうなりたかったのだと思います。

そんな生活をしてた所に何かを嗅ぎ付けてか、祖父が突然やってきました。
祖父は母を叱っていたと思います。
父が亡くなって1年もたっていないのに家に男を連れ込んでるんだから仕方ない事だとは思うのですが、元々、田舎な事もあって、自殺の事も、原因が母の家出とゆう事も皆知っていて、居心地が悪かったはずです。
まぁ、この事をきっかけに母は地元を離れる事を決断したのだと思います。

小学1年生を終えると共に、父と母の故郷を離れ、大都会ではないけど、田舎でもない地へ引っ越す事になります。

父の話。 

2007年10月01日(月) 11時06分
まずは父の話から・・・
私は、幼い頃の記憶があまりないのですが、後に聞いた話と織り交ぜてお話します。

私の記憶の中の父は、とても優しい人でした。
女の子にはピアノを男の子にはスポーツをといった感じで、私はピアノを兄はサッカーを習っていました。
1サラリーマンの父ですし、まだ若かったので給料もよくなかったはずなのにピアノも買い与えてくれました。
働き者な人だったので、普段は朝幼稚園に送ってくれたら次の朝まで会う事のないくらい夜は残業ばかりしていました。
それでも、子煩悩な人だったので休日には必ず何処かへ出掛け私達と遊んでくれていました。
釣りやキャンプといったアウトドア好きな父だったので、遊ぶといったら山や川、海ばかりでした。

母は、私が物覚えが悪かった事もあり、よく叱り、『これを覚えるまで遊ばせない』と言い。父と兄が遊んでいる傍らでよく泣いている所を『遊びに来たんだから可哀想だよ』と母に言い。私を助けてくれていました。

幼稚園の通園中には車内で歌をかけては一緒に歌ってくれ、
ヒゲが伸びていると私の頬にそのヒゲをジョリジョリと擦りつけたり、
早く帰ってきた日などは私を膝にのせ夕食を採ったり、
冬の朝は車内が冷えている為早めにエンジンをかけ私が乗り込む頃には暖かくしていてくれたり、
近所の子に『逆上がりも出来ないの〜?』とバカにされ、狂ったように毎日毎日暗くなっても、近所の公園て逆上がりの練習する私の為に、自宅に鉄棒を作ってくれたり、
母の実家の従兄弟や私達のためにブランコを作ってくれたり、
大した事ではないのですが、良き父であり、優しい父でした。
そんな父を兄も心から慕い、家庭は円満そのものだと思っていた、とゆうかそうで無くなる想像すら出来ませんでした。

母に父の事を何度か聞いた事があります。
仲には衝撃的な物もありましたが・・・母曰く。。。

父は情熱的な人で、末娘である当時18歳だった母と交際の許し得るが為、
祖父の元へ毎日通い、祖父は許しもしなかったので、それを半年も続けたそうです。
最後には祖父の方が根負けし、結婚にいたったそうです。

父は、男の子しか欲しくなかったそうです。私が女だと分かった瞬間に名前も考える事をしなくなったそうです。
産まれてしばらくしてからは溺愛してくれたのですが、赤ちゃんの時は触りもしなかったといいます。

車が好きな人で、どうしても欲しい車に出会うとその時乗っていた車を母に内緒で処分し、勝手に購入していたりとゆう事が何度もあったそうです。

仕事に関してとても真面目な人で、酒も、ギャンブルも、借金(ローン)もしなかったそうです。

手先の器用な人だったらしく、日曜大工や子供用の遊具などもよく作ってくれていたそうです。
(私の記憶では、先ほど書いた、ブランコと鉄棒だけなのですが、他にも沢山あるらしいです。)

しかし、母に暴力をふるっていたと聞きました。
コレが日常的になのか、たまになのかは聞けませんでした。とゆうより聞きたくありませんでした。

こんな事を言っておきながら母は、『でも、お母さんはお父さんが今までで1番好きだった』と言うのです。
この話のつづきは、母の話を書く時に書きます。

今冷静に考えても、私の知る父と、兄の知る父はとてもいいお父さんで、優しくて、頼りがいのある男の人だったのです。
何故死んだのか、私達が可愛くなかったのか、もうそんな事を考える力もなかったのか、
私達が邪魔だったのか、と考えてみるもののやっぱり分かりません。

私達が生きる支えにはならなかった事実だけを残して逝ってしまった父の気持ちを理解する時がくるのかこないのかも分かりません。

私の記憶はこれ以上でも、これ以下でもないので、これで終わりにします。

母の話 

2007年10月06日(土) 2時01分
今日は母についてのお話です。

母は、今の現在30歳になった私から見ても自由奔放と言った感じの人だったのだと思います。
こういう書き方をすると、この世にいないかの様に聞こえると思いますが、
奔放だった母も、50歳を過ぎ落ち着いたといいますか、老いたと言いますか、異性から相手にされなくなったと言うか、なんと言ったら分かりませんが、ある意味落ち着いたのだと思うだけの事なのです。

私の母は2男2女の末娘だった事もあり、祖父からも祖母からも大変可愛がられて育ったそうです。
学生時代も、(当時がどの様な感じだったのかは分かりませんが・・・)異性関係もなかったようですし、
勉強も部活動も真面目にこなしていたようです。

母の外の世界への興味がいつ頃から沸いたのかも分かりませんが、
18歳で就職し、その職場で知り合った父と19歳で結婚を決めたトコロから見ると、浅はかで、世間知らずで、言い寄られた事で相手を好きになってしまうような、幼稚な少女だったのだと思います。
(その後の異性関係を見てもその節があったと思います。)

19歳で結婚し、21歳で兄を出産し、25歳で私を産んだのですが、少し人より結婚が早いのを除けば、他人様から見ても、極々普通の家庭の様だったと思います。

父が生きていた頃の母は、教育にも熱心な方だったのかもしれません。
兄の為に高い教材を揃えた事もありましたし、私のピアノのレッスンも叱りながらなんて事はザラだったように覚えています。

その母が30歳を過ぎたあたりでしょうか、突然(私達兄弟にとってはですけど。)失踪しました。
母曰く、『京都の知り合いの所にお世話になってた』と言いましたが、私は今でもそれを信じていません。
きっと父以外の異性の存在があったと思います。
これも、父の死をきっかけに帰ってくるのですが。。。

それから数ヶ月後には、彼氏1号を連れ込みました。その1号がいなくなったのもそのスグ後でした。
その理由も『その人はトラックの運転手で、死んだからいなくなった。』と母はいいましたが、子供でも信じないような言い訳だと、その時から今も思っています。

父の死から1年もたたないし、1号がいなくなって(連れ込んでからも)半年もたっていなかったのではないかと思います。
その頃母は、彼氏2号と交際を初め一緒に住むようになりました。
この男には苦労させられたようでした。
一緒に住み始めて半年と経たないうちから暴力を振るわれていたようでしたし、酒もギャンブルも好んでやっていたようでしたし、かといってまともな仕事に就いている様子はありませんでした。
ヨクヨク聞くと元暴力団員で、(親父)とでも呼ばれるのでしょうか、何が原因かは分かりませんが、その人が組を止める時に一緒に止めたそうです。

その頃の母は世間知らずも祟ってか、悪い事に興味があったのだと思います。
父は、サラリーマンで、酒もギャンブルもしない人だったし、そうゆう世界が新鮮で、ワクワクしたのだろうと安易に推測できます。

しがないサラリーマンの父は、生命保険をかけていました。
多額とゆうほどでは無いにしろ私達親子3人がしばらく暮らせるだけのお金を残していてくれたようです。
そのお金も、その男と母が毎日パチンコに通い食いつぶしたようですから。

その男との生活は7年くらいだったと思います。
その男と別れるきっかけになったのは、その後妹と弟の父親となる彼氏3号の存在があったからでした。
その頃には父のお金も尽き(遺族年金とやらが2ヶ月に1度入っていたので完全になかったわけではないのですが・・・)彼氏2号も働きにでていました。
遊びたい母はそんな2号に対して面白味がなくなったのだと思います。
その当時の3号は、とある事から大金を持っていました。
母からみるとさぞかし真新しい存在だったと思います。
そして2号との修羅場の様な別れと共に3号と一緒に住むようになりました。

その頃の私は一般的に不良娘と言われるような事をしていました。
母も引け目からか文句も言わない代わりにお金だけの関係を、と思っていたのだと思います。
兄が就職で家を出たのをきっかけに、母は3号と一緒に住むようになり、必然的に私は一人暮らしとなりました。
私が高校入学が決まった頃の事です。

母の、そうゆう部分はその頃に始まった事ではなく、幼い頃からありました。
今でこそネグレクト(養育放棄)とでもいうのでしょか・・・
私達が小学生の頃、遊びたいさかり母は、夕飯も作らず、お金だけを置いて私達が寝る頃になっても帰宅せず、朝1度あったらそれっきり、とゆう生活が大半でした。
そんな母は、負い目と引け目で私達にあまり文句や躾のような事はしませんでした。
叩かれた記憶がないくらいです。

そんな母なので私が薬物に手を出そうが、家出をしようが、悪い友人と窃盗バイクや車にのってようが、頻繁に変わる異性関係も、何も言いませんでした。言えなかったのだと思いますが・・・

丁度その頃妹は産まれました。
嘘みたいな話、母の妊娠に気付きませんでした。出産後病院でしったのです。
弟の時は久しぶりに帰宅した際、母が陣痛を起こしていたのです。
兄にいたっては、久しぶりの帰省で2人の赤ちゃんに遭遇し、困惑し、終いにはお前の子かと
私に対して怒ったくらいです。(私は当時17歳でしたので。)

しかし、妹と弟ができた事に感謝すべきなのかもしれないと、今でも思います。
これは、母にとっても、私にとってもですが。
これをきっかけに母は、女ではなく母の部分が強くなっていったと思います。
私はこれをきっかけに更正しましたし。
兄にとっては、恥ずかしい、唯それだけのようでしたが・・・

1つだけ言っておかなければいけないのですが、私はそんな母を恨んだ事はなかったのです。
兄は、男だったからか、母の女としての部分を嫌悪していたと思います。
今でも、その部分に関して許していないようです。

私もその部分は理解できないですが、(今だに本気で人を愛する事ができないでいる欠陥品だからです。)母自体はとても優しかったですし、実際私は友人達からもマザコンと今だに言われます。
グレていた頃も母に文句を言ったことはありません。
母も言わなかったとゆう理由もあるのですが・・・
まぁ奇妙な親子関係だと思います。それもこれも私の欠落している部分が影響しているのだと今でも思います。

それと、母の『お母さんはね今でもお父さんが1番好き。』と言った時の顔が忘れられないからもあります。
その頃には妹、弟も産まれており、今の内縁の夫とも旨くいっていたと思います。
もしかすると罪悪感から出た言葉なのかもしれないし、死んでいなくなったからそう思うのかは解りかねる所ではあるのですが、唯単純に自分のルーツである父を1番好きだと言ってくれた事が嬉しかったのだと思います。
普通の人なら、(こんな事よく平気で言えるよなぁ。)とか(じゃあ何でこの結果?)とか思うのかもしれないですが。。。(笑)


簡単な話、母が父を殺した。そして異性関係も派手だった。放任ではなく無責任な母親だった。
兄を傷つけ、私を放置し、弁解も説明もせず、また母親になった。
経済的に困ったら私に頼っては金の無心をする。女としても母としても最低であることには変わりなく、世間知らずで、無責任で、我が強くて、手のかかる母親だけど、私にとって唯一の親であり、そんな子供のような母は可愛くも思える存在だとゆう事です。

愛おしいってなに? 

2007年10月06日(土) 3時24分
私は、とある人から『君にとって愛おしいってなに?』と聞かれました。

彼女は他の友人にも質問をしたそうです。
その友人の返答は『失いたくない』だったそうです。

この質問の意図は【異性に対して・・・】とゆう事が前提にあるので、他人を、まして異性に関してそんな感情をもった事のない私にとっては、難問でした。

悩んだ結果私は、『許せる。かな?』と答えましたが・・・

【失いたくない】が間違ってるとは思わないのですが、居なくなれば愛おしく無いと聞こえるようで嫌だったのかもしれません。
分かれたら終わり、死んだら終わり。とゆうような感覚になったのだと思います。

後になってからですが・・・
そんな感情を持った事がないので、私は、幻想を抱きたいのだとも思いました。
言ったはいいものの、答えが分からないのです。
答えがあるのかも分かりません。人それぞれと言われれば終わる話ですから・・・

皆様はどの様にお考えになりますか?

兄の話。 

2007年10月06日(土) 4時01分
今日は私から見た兄の話です。

今の兄は結婚もし、子供を3人も授かり裕福ではないけども、
それなりに暮らし、人より子煩悩で、愛妻家で、お酒とギャンブルも好きだけど、家庭を壊すほどのめり込むわけでもなく、浮気するわけでもない、普通の(生活は普通以下ですが・・・)父親です。

兄は私が気付いた時から、大人に対してとても容量のいい子だったと思います。
人間関係を円滑に円満に作り、皆に可愛がられていた様でした。

兄は父をとても慕い、絵に書いたような仲睦ましい父と息子とゆう関係だったのだと思います。
物覚えも良く、人当たりも良く、品行方正を絵に描いた様な少年でした。

これは、父が亡くなってしばらくして変わっていくのですが・・・

父が亡くなったのは兄が小学3年から4年に上がる少し前の事です。
この頃の私の記憶の中には兄はあまりないので、想像の域を超えないのですが、
父の死で衝撃を受けただろうとは思います。
それと、兄は自殺の意味も、母がいなかった事も理解している(理由は分からないでしょうが・・・)とゆう事です。
その点、私より兄の方が数倍、数十倍辛かったと思います。

これは父の葬儀中や、その後に兄が言われ続ける事ですが、
兄は事ある事に『お兄ちゃんなんだから、お母さんと○ちゃん(私)を守るのよ。』だとか、
『男の子なんだから、しっかりするのよ。』だとか、『おとうさんの代わりに頑張るのよ。』だとか言われ続けていました。
今考えても、理不尽で無責任な発言だと思います。
まず、小学4年生何が出来るとゆうのでしょう。理解に苦しみます。馬鹿じゃないのかとさえ思います。

良い子だった兄も最初はそうしなければいけないんだ、と脅迫観念にかられたのだと思います。
言った大人達もそれが裏目にでるなんて想像すらしてなかったでしょう。

兄が変わり始めたのは、父、母の故郷を離れた時期(兄小5 私が小2)になります。
この頃から、母の養育放棄が酷くなり、週に半分は朝1度会うか、寝る前くらいの時間に帰ってくるかのどちらかで、兄と私だけ。とゆう時間が多くなっていいました。
その頃から兄の虐待とも言える私への仕打ちが始まりました。

それでも、最初の頃、言葉でいじめ、かるく叩く程度だったのですが、こうゆうのは日常化するとエスカレートしていくもので、文句が脅しに変わり、叩くが殴る蹴るに変わるのもスグでした。
夕飯代と母が置いていったお金も(2人で1500円)兄がほとんど取り、私はカップラーメンなんてのも普通になっていきました。

DVの典型とも言える要素でしょうが、暴力の後は優しいとゆう感じがあり、
母の不在で兄の言う事に逆らってもっと酷い事をされるのが怖いとゆう思いがトラウマのようになり、
私は逃げ出す事もしない代わりに、家の中では感情を押し殺す様になりました。
まぁ外では、友人に意地悪したり、万引きしたり問題児ではあったのですが・・・

まぁ兄は外顔がよく家で発散させるタイプだったようです。

思春期には家の壁を壊すだとか、母や彼氏2号と口論なんて事も何度かありましたが。その矛先の9割は私に向けられていました。
この頃には、授業で柔道をならっていたのか(落とす)と言っては気絶させられたり、散々殴られた後、髪の毛捕まれ家中を引きずり回されるなんて事も日常的に行われていました。

こんな風に書くと鬼の様に聞こえるので弁解もしておきます。
私は人見知りが酷く、話べただったので、友人を作る際後押しをしてくれたり、休み時間まで給食を食べていると先生がいなくなったのを見計らって教室に現れ食べてくれたり、夏休みの工作を作ってくれたり、日々の勉強をみてくれたり、私が中学に入学する際も、自分の後輩達に妹が入るから虐めるなと釘をさしてくれていたり、私が可哀想だからと手助けしてくれる良き兄でもあったのです。

そんな兄も高校に入学した頃から落ち着き始めたのか、その回数も減っていきました。
もちろんまったく無くなったわけではないのですが・・・

就職し、家を離れて頃からは私を心配していた様に感じます。
(この頃悪さをしてましたので・・・)

幼少期、思春期の兄との思い出は辛いもののの方が遥かに多いですが、それでも母同様恨んではいません。兄も苦しんでいたのを知っていたからだと思います。
恨んだり、憎んだり出来ればもっと楽だっただろうとも思います。

私の思春期も過ぎたあたりからは、一人の人間とはいかないまでも、状況は少しづつ変わっていきました。
それは、私が変わったからです。

異性に対しては利害関係でしか考えなくなっていたし、こういう言い方すると勘違い女のようで恥ずかしいのですが、母の血からか擦り寄ってくる男には事欠かなかったからです。
それによって兄は私に嫌悪を抱いただろうと思います。
そして、私を相手にしなくなりました。

私と兄の今の関係は対等に近いと思います。
それは、私が結婚した頃から始まりました。
私の夫は、しがないサラリーマンですが、誰もが知っている会社のサラリーマンです。
給料も、どこぞの誰かが発表する、サラリーマンの平均年収とやらを超えていると思います。

散々バカにして虫けら以下に扱ってきた妹が自分より良い生活をしている。
困窮する事もなく、ある程度の蓄えもある。母や、妹弟に生活費を分け与えるだけの余力もあると苦々しい思いもしたと思います。

兄も私にお金の無心をした事もありました。彼にとっては屈辱的な事だったのではないかと感じます。

だからといって、私は兄に偉そうな事を言いません。バカにもしません。
まぁこれは面倒臭いからなのですが・・・
素直に兄にも頼って貰える様になったと思う事にしています。

そんな兄との関係が今後どう変わっていくのかは分かりません。
少なくともあの悪夢のような関係にはならない事だけは分かるのですが、
今以上に良くなるのか、今がピークなのか・・・

でも、私は、兄にはずっと兄のままでいて欲しいと思っています。
彼に関して、1番多く時を刻んだ家族なので、今後も補足していくと思います。




プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:imperfectly
  • アイコン画像 性別:女性
  • アイコン画像 誕生日:1977年
  • アイコン画像 職業:専業主婦
  • アイコン画像 趣味:
    ・読書-ミステリー系が多いかも
    ・ペット-愛犬家です。
読者になる
このブログは基本的に暗いです。
唯、今まで逃げてきた過去を見つめなおす作業しようと思い始めました。

記憶違い時期のズレは多少ありますが、本音で本当の事を書こうと思っています。

何か思う所、ご指摘、批判、何かお感じになったらコメント宜しくお願いします。
2007年09月
« 前の月  |  次の月 »
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
最新コメント
Yapme!一覧
読者になる