遊牧民の時間の概念? 

2004年09月09日(木) 15時43分
(つづき)パオの生活でちょっと困ったのは、トイレと風呂でした。なぜなら、そんなものはどこにもなかったからです。トイレはどこか近くでと言われて、風呂は、あれっ、入っていなかったかなあ。でもあそこは気候が乾燥していたから。。。 家族の女性たちは一体どうしていたのだろう。。。

もうパオを離れるという日の午前中、二番目の女の子(ハンガリー人ふうの子)とパオの外の野原で別れを惜しんでいました。これも今思うと非常に不思議なのですが、言葉も通じないのに、1時間くらい話していた気がするんです。いろいろ話した後(何を?)、覚え形見に何か置いていきたくなって、腕にはめていた時計を渡しました。

けれども、、、彼女には時計が何か、わからなかったんです。。。

これ何ですか? そういう目で彼女は僕のことを見ていました。これを説明するのには一苦労でした。ちょうどその時、太陽が朝の10時くらいを示していました。時計の時間は勿論覚えていないけれど、太陽がどこにあったかは今でも割とはっきり記憶に残っているんです。

あとは手まね足真似(?)で、朝、太陽が上って、夕方、日が沈むことを説明して、それにつれて時計の針が進むことを説明しました。

さらに難しかったのは、、中国のこのウルムチでは今xx時だけど、僕がいる日本は違う場所で、時間も違うということでした。

これはどうやって説明したのか、今となってはよく覚えていませんが、地面に世界地図とか書きながら(これも彼女は全くわからないですよね・・・)、いろいろ説明した記憶があります。説明って言ってもねえ。

でも、とても楽しい時間でした(今から思うと)。彼女もわかってくれたようでした(ホント?)

なんでこの子だけ仲よかったのか、今となってはよくわかりませんが、きっと気が合ったんでしょうね。。。??

それにしても、時計のない生活、地球儀なんて知らない生活。。。 なんか考えさせられてしまいます。

ここで時計をあげてしまったことが、あとで、少しだけ面倒なことを引き起こすのですが、それはまたいつかの機会に。 (つづく)

パオの生活 

2004年09月07日(火) 10時49分
(つづき) そのパオの家族は大人二人に子供が一、二、三、えーと、全部で四人。それがみんな微妙に違う顔をしてるんです。違う顔っていっても日本人同士の違う顔みたいなのではなくて、人種がちょっと違うって顔をしてるのです。

ベースはきっと、あー、ここで困ってしまった、中国人の中にはかなりの人種がいるはずで僕にはそういう知識がない、とにかく中国系、モンゴル系、中近東系、東ヨーロッパ系。そのあたりが混ざったのでないかと見受けられる顔々。

一番下の男の子はモンゴルで見そうな顔でふさふさした茶色っぽい髪。一番上の女の子は中国人に近い黒髪。その下の女の子はハンガリー人みたいな感じで金髪。その下の女の子は目がくりくりっとしてラテン系の黒髪。

やっぱり場所柄なんですねえ。この家族の先祖をずぅーっと辿っていくと、いろんな歴史が見られるんだろうなあと思ってしまいました。良いことばかりではなかったかもしれないけれど。遊牧民って過酷な生活してきたんじゃないかというイメージあるから。

着いた初日の夕食は、山羊の頭をそのまま焼いたもの。あまりに生々しくて最初はびっくり。パオの外で焚き火の上で串刺しにして焼いたものがそのままパオの中に運ばれて。その肉を外側から長いナイフで薄く何枚もそぎ落としていくんです。

ちょっと苦しかった。ちょっと慣れない味だったから。けれど「ハオ?」「ハオ?」(美味しいか?)と聞かれると、これしか通じる言葉もないし、こちらも「ハオ」と答えてしまって、、、厳しかったあ。

パンはそこでこねて、そこのフライパンで火の上で焼く。焼き立てのパンも美味しかった。

一番美味しかったのは、ティー。チャイ・ティーのような感じ。甘さが独特で、ミルク入り。これとパンとをとにかく沢山食べた。それだけで食事は充分満足でした。 (つづく)

漢字が通じない時 

2004年09月06日(月) 17時47分
(つづき) 筆談ができているうちはまだ良かった。そのうち、漢字が通じないところまで来てしまいました。それがウルムチの天池です。

ここは遊牧民が暮らしているあたりで、とはいっても、当時すでにやや商業化された嫌いがあって、僕が辿りついたパオ(テントみたいなもの)も、泊めてあげるからお金頂戴みたいな感じでした。
マリオレーンから、「そういうのもいるよ」と聞かされていたので、これかと思いましたが、とにかく池のまわりを散々歩いて、夕暮れ間際にやっと見つけたところだったので、もう限界。ここしかない。

辿りついたのはいいけれど、彼らは中国語の文字の教養なんてないわけです。言葉が通じない、漢字も通じない、ということが即座にわかり、仕方なくボディランゲージに頼りました。

交渉成立で泊めてもらえることになって、それから二泊三日、彼らのパオで過ごしたのでした。それだけの時間、言葉通じないでどうしていたんだろうと今でも思いますが、とにかくそんなに困らなかった、というのが正直なところです。

逆に言葉が通じない方がいい、なんて気さえしました。余計なことをしゃべらない。気持ちはだいたい見ていてわかる。かえってこじれたりしない。素直な気持ちで、常識に任せた判断をするという感じでした。まあ、一緒にいた人達がいい人達だったからなんでしょうけどね。 (つづく)

日本人への感情 

2004年09月06日(月) 16時20分
(つづく)あ、それで肝心のなぜ列車の旅が面白かったかですが、いろんな人(中国人)と会話ができたことです。勿論、中国語はできないので、会話は筆談です。(出かける前に一ヶ月だけNHK中国語会話とかで勉強して、あとは現地で本を見ながら見よう見真似で、いろいろトライはしました。それで片言はしゃべってたかな)。

筆談が意外と通じるので、びっくりしました。彼らの書く漢字は多くの場合、崩した漢字なので、同じ意味でも僕らが使っているのとは違うことが多いのだけど、それでも大体わかっちゃうんですね。

最初は、「夏目漱石」を知っている、「森鴎外」を知っているとか言われて、へぇーって感じでした。ある時は、夜みんなで集まって「もなか」を食べていて、おじさんが「おまえも食え」ってくれるので何だろうと思ったら「中秋の名月」て書いてくれました。団子じゃなかったな。

毛沢東は問題があったが、周恩来はみんなに尊敬されているとか。あといろいろ忘れてしまったけれど、日本に帰れば、筆談した時に使ったノートが残っているので、いつかまた見てみようと思います。

戦争のことがあったから、反日感情があったらどうしようとちょっと心配してましたが、いやな思いをすることが殆どなかったですね。今回は、北の方には行かなかったこともあるけど、多くの人は、日本は戦後の復興が素晴らしかった、中国の見本だって言ってました。

むしろ、香港人が嫌われてました。同じ中国人なのに、豊かで、中国人を見下ろしているという理由からだそうです。実際、旅の途中で知り合った香港人と話していて、自分たちは彼らとは違うっていうことを言って蔑視する発言を聞いて、こういうことなのかって思いました。

ただ最後の最後に、鄭州のあたりで、列車で僕の目の前に座っていた50くらいのおじさんが僕に向かって強い語気でいろいろ言っていたことがありました。聞くと、ノートに書いた言葉が「満州帝国」「軍国日本」。隣のおじさんがいい人で、もうやめろって言ってくれたけれど(たぶん)、そのおじさんは止めなかったですね。僕が列車を降りるまで言われ続けました。(つづく)

中国らしさ 

2004年09月05日(日) 13時10分
(つづき) 中国の列車の旅というのは面白いものでした。前に書いた60時間のことではなくて、その前と後に乗った寝台車(硬臥)です。桂林から西安の間や、帰りのトルファンから広東までは寝台車に乗りました。

今思い出したのですけど、60時間の時は、寝台の券が取れなかったんですね。前日に、他の日本人組と一緒に切符売り場へ出かけていきました。薄暗い売り場は凄い人でごったがえしていて。

でもちゃんと人々は並んでいたな。とにかく中国人の大衆が「静かに並んでる」なんてことは、滅多に見ないことだったです。バスや地下鉄の切符売り場では、ウワァーと、もう凄いたかり方で、ふつうにしてたら絶対に窓口まで辿り着けない。あのエネルギッシュなところが、翌年に行ったメキシコとは大きな違いでした。

戦後の日本もあんな感じだったのかなぁと思うことが何度もありました。ちょっと貧しい感じ、みんな一生懸命なところ、道にはごみが多い、トイレが汚い、何となく埃っぽい、蒸し暑い、建物やお店が大抵ちょっと薄暗い、壁が古い、屋台が沢山出ている。

でもそれらが合わさって、どこの都市へ行っても同様に感じられる、中国独特の雰囲気を醸し出していました。何だか不思議な熱気を感じたのは、単に夏だったからということではないように思えます。(つづく)

中国旅行(目的?) 

2004年09月04日(土) 16時08分
(つづき) 実はこの時、風邪ひいてて、60時間、朦朧としながら過ごしました。途中で覚えているのは、駅で売っている肉まんを朝ごはん代わりに買って食べたこと。

中国へ行った理由の一つは、仏教遺跡のある敦煌へ行きたかったことです。井上靖さんの同名の小説「敦煌」を読んで無性にその場を自分の目で見てみたくなったのでした。敦煌は、膨大な量の仏典や仏教壁画が何百年もの時を生き延びて20世紀に発見されたところです。小説は、歴史と仏教と恋愛が折り重なって、不思議とロマンを感じさせる優れ物でした。

もう一つの理由は、知り合いだったオランダ人のマリオレーンという女性が「私、中国のウルムチの天池っていうところで、遊牧民たちと一緒にパオで暮らしたのよ」って言うのを聞いたからで、自分もやってみたい!っていう単純な理由。

旅行は都合一ヶ月。香港→広東→桂林→西安→敦煌→ウルムチ→トルファン→鄭州(?)→香港。

香港に入ってから出てくるまで、たしか全部で5万円くらいしか使ってないです。このうち列車代が2万5千円。ホテル(というイメージとは程遠くて)も一泊100円とか高くても500円とかにしか泊まってなかった。

西安は6人部屋だったし、敦煌もたしか6人部屋くらい。敦煌では、香港人の大学生群と一緒になって、なんだか薄暗い部屋でしたが、チベットのラサという都市(国境あたり)で買ったという西瓜みたいな食べ物を、「一緒に食べろ」って言ってくれて、みんなで囲むようにして食べました。

チベットへは敦煌からもわりと近いんですよ(でもバスでたしか半日くらいかかったから時間がなくて諦めました)。

(つづく)

中国旅行(列車) 

2004年09月03日(金) 15時15分
(つづき) 例えば、西安(長安)から敦煌まで列車で「60時間」。西安は中国の真ん中ちょっと東あたり。敦煌はシルクロードをもっと西へ行ったところ。砂漠の真ん中。

列車って言っても機関車みたいなものです。すすが凄くて、窓をあけてるとお茶(勿論、中国茶)を入れた湯呑みが真っ黒になってしまう有様。(だから蓋つきが必要)

それも僕らは、寝台車(硬臥、軟臥)ではなくて、直立の背もたれ板があるだけの硬い長椅子車(硬坐:文字通り)。夜の11時発車で、それから二晩をそこで越しました。貧乏旅行のお金節約のゆえ。学生の頃の楽しみですね。

寝台に乗ってる日本人の女の子がいて、「疲れたら代わってあげますよー」なんて優しい声をかけてくれたけど、僕らは痩せ我慢してかずっとそこにいましたね。

僕は西安で出会った日本人二人組と方向が一緒だったので、同じ長椅子に並んで座って。彼らは一気にもっと西のウルムチまで行ったから連続72時間の旅。ここまで行くと、もうすぐ中近東

椅子は向かい合って座るスタイルで、その間の窓側に、小さな横20cmx縦15cmくらいの板が弁当置き場みたいに付いていて、夜はその小さなスポットにうつ伏せて寝るんですが、それができるのは窓側の人だけだったから、みんなで交代交代寝てました。

(つづく)

中国旅行(1984) 

2004年09月03日(金) 15時08分
ようやく筆を取りました。ホッ。

これからお世話になりますが、よろしくお願いします。コメントもご気軽にどうぞ。

初めから、書くことの指針が決まっている人達を見ると偉いなと思います。僕はまだそんな感じでないので、試行錯誤でいきたいと思います。

いろいろ考えたのだけど、自分は旅好きなので、まずは、最初の海外一人旅で、一番心に残っているような気がする中国へ行った時のことを書こうと思います。

(これ、日記じゃないよね。ま、いいか)

1984年の中国。

当時の中国はまだ共産国の色が濃くて、普通のビザを取っても全ての地域に行けるわけではなかった。僕が行った都市の一つ新疆ウイグル自治区ウルムチも、事前に別の都市で町役場みたいなところへ行って旅行許可証を取らなくてはいけなかった。(勝手に下手なところへ行くと逮捕されるとか)

現地で出会った人に、中国を旅できたらどこでも行けるぞって言われました。ここはインドよりも大変だって。

(つづく)
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