享楽が枯れ果てる

May 09 [Fri], 2014, 17:15
経済の規則が商品とサービスの循環を保証する役割を担い、言語の規則がメッセージの循環を保証する役割を担うのと同じように、親族と婚姻の規則は集団間での女の循環を保証する役割を担うからである。コミュニケーション理論をシニフィアンの理論へと、女の循環を欲望のシニフィアンの循環へと、商品とサービスの循環を剰余価値の循環へと、メッセージの循環を享楽の欠如の循環へと変更すれば、三つのシステムのすべてに同じ構造が見いだされる。いずれのシステムにおいても、欠如ないし喪失が生じ、そしてそれが他者のなかを循環するようになるのである。ラカン自身は、政治の領域から例を与えている。私には私自身の身体以外のいかなる享楽も与えられていないし、与えられえないのです。そのことはただちに明白というわけではないですが想定されることです。人々はこの享楽、それはよいもの(財産)であり、それゆえ私だけの財産なのですが、その享楽のまわりに人間の権利と呼ばれるいわゆる普遍法という保護壁を創設するのです。私が快適だと思うように自分の身体を用いることを相手も求めることはできません。そのような限界づけの結果は誰にとっても享楽が枯れ果てるというものです。

欲望そのもの

May 07 [Wed], 2014, 22:45
欲望はそのものとしては見ることができず、いかなる鏡像も持たず、そして象徴化し、形式化することが極度に困難である。それらはラカンが現実的なものと呼ぶ領域に属し、想像化と象徴化に抵抗する。にもかかわらずそれらは、快感と苦痛、興奮と失望、スリルと恐怖という、主体の最も決定的な経験に密接に関わっている。それらは分析的な行為、発話、物事を言葉にすること、問題は何かを言おうとすること、それについて話すこと、に抵抗し、そして主体の存在そのものを定義する享楽に関わるのである。現実的なものは、本質的に象徴化に抵抗し、それゆえある物事を別の物事へと置き換え可能にするような象徴的な秩序を特徴づける弁証法化に抵抗する。すべてが代替可能なのではない。ある種の物事は、それがシニフィアン化されえないという単純な理由で、交換不可能である。それらの物事は、もののような性質を有するがゆえに、他の場所で見いだすことができず、主体は繰り返しそれへと立ち戻らざるをえない。ラカンの精神分析が受けて立つ挑戦とは、現実的なものを打ち、現実的なものが生みだす反復を転倒させ、孤立したものを弁証法化し、主体が原因との関係で自らを構築するところの根源的な幻想を刷新する、そのための方法を発明することである。


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