形を持たないという事

May 11 [Sun], 2014, 17:24
父なしには男は何者でもなく形を持たない。境界としての父はいかなる領域も占めていない。父は自身の境界のうちに、ある二次元の表面を画定するが、いかなるスペースも満たさない。男が持つ男らしさの限界をマークするこのような父は、ただの年老いた父ではない。ラカンはこの父を、フロイ卜のトーテムとタブーで提示されている原父と関連づける。それは原始種族の父であり去勢に屈服したことがなく種族のなかのありとあらゆる女を支配すると考えられている。あらゆる男は象徴的去勢によってマークされているが、それにもかかわらずファルス関数の効力が及ばないひとりの男が現実存在し続ける。それは象徴的去勢に屈服することによって男の場所に位置づけられたことが決してないようなひとりの法である。彼は法に従属しない。彼が彼自身の法なのである。この原父は、男の構造を表す公式のなかに現実存在すると言えるように思われるが、通常の意味で現実存在するのだろうか。否、彼は外存在するのである。原父の場合、ファルス関数が否定されるのは単純に何らかの穏やかな意味においてではない。

解釈することから成りたつ

May 09 [Fri], 2014, 14:42
フロイトはエディプス・コンプレックスとその解決、ある愛の対象を諦めて別の対象をどこか別の場所に探さなければならないこと、に関連づけ、そして少女に求められる断念よりも少年に求められる断念のほうが多いと信じた。全体として文化への女性の貢献はより少ないと想定された。ラカンの仕事においては、他者が私たちに話すよう要求することによって、享楽の犠牲、その犠牲の程度は過小評価されるべきではなく、それというのもその犠牲はほんの少しだけの快感しか残さないからである、が余儀なくされ、自閉症者だけがそれを退ける。その要求は明らかに文化のすべて、知識体系のすべてに結びついている。というのも言語がなければ、私たちはいかなる文化、いかなる知識体系へもアクセスできないからである。レヴィストロースは、これと似た構造が親族規則においてはたらいている、すなわち、女の交換と循環はインセスト・タブーによって生じた根源的な喪失にもとづいている、ということを示唆したと考えることができる。彼が構造人類学で、言っていることを考察すると、社会や文化を言語へと還元することなしに、このコベルニクス的転回を導くことができる。その転回は、社会をコミュニケーション理論の観点からひとつの全体として解釈することから成りたつだろう。


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