並外れた症状

March 27 [Thu], 2014, 16:34
フロイトが分析したある手記をラカンも一九五○年代後半に再検討し、彼の精神病論の中核に据えたことで、ラカン派では長らくシュレーバーこそが精神病のパラダイムだった。二○世紀後半は統合失調症全盛の時代だったから、このようにパラノイアが前面に置かれるラカン派の精神病観は、そもそも同時代の精神医学やアングロサクソン圏の精神分析の一般的な潮流からは、ずれていたと言えるかもしれない。ラカン派はこの間ももちろん統合失調症に接していたし、けっしてパラノイアを特権的な精神病とみなしていたわけではない。重要なのはむしろ、フランスでは一九九○年代まで、シュレーバーが精神病のパラダイムとして君臨することに違和感がない程度には、精神分析家が出会う精神病患者は一般的に並外れた症状の持ち主だった、いいかえれば、明らかにそれと分かる妄想や幻覚を示していたということだ。ところが、一九九○年代の末になると、事情がはっきりと変わってくる。精神分析家たちが変化を実感せざるをえなくなる。シュレーバーふうの精神病、そこまでいかなくとも、自分が人類にとって特殊な使命をもつと信じて疑わぬパラノイア患者や、自分を操ろうとする組織にいつも監視されていると訴える統合失調症患者が、いつのまにか目立たなくなってきた。





小さからぬ距離が横たわっている

March 21 [Fri], 2014, 21:50
ハーゲンスによる身体の提示は、この知りたいにたいするもっともあからさまな、もっとも身も蓋もない答えであることは明らかだが、こうした提示の暴力的なまでの明証性によって、私たちはいったい何を学ぶというのか。私たちが目にするのは、いま生きてここに存在している私の身体の感覚や経験とはほとんど何の関係もない、ただの臓器と組織の集合にすぎないでそれにたいして、ホーキンソンのオブジェは表象の領域に頑固に留まり続けているように見える。表象とはつまり、そこにはない何かを別のもので代理して表すこと。自己の身体への烈しい関心をモチーフに製作するホーキンソンは、観客たちが自らの身体に抱いている興味にそれをシンクロさせるかのように、持ち前のマッドサイエンティストふうの才気をフル稼働させて、私たちが見たこともない奇想天外な身体を出現させる。だがそれはホーキンソン自身の身体でもなければ、私たちの身体に似たなにかでもない。そこでは、作品とそれが表しているもののあいだに小さからぬ距離が横たわっていることが前提にされている。


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