現代政治学の展開 - 合理的選択理論 

August 18 [Mon], 2014, 1:13
1950年代以降、行動科学政治学か主流となる一方で経済学の方法論を政治学に導入することを端緒として、これまでとはまったく異なるアプローチが登場した。それらを総称して合理的選択理論と呼ぶ。合理的選択理論に共通する特徴は、ミクロ経済学のいくつかの仮定を受け入れるということである。すなわち合理的選択理論において政治現象は、自己の利益・効用を最大化しようと行動する政治的アクターの相互作用の総体となる。これはアクターの合理性仮定ともいわれる。同時に合理的選択理論は個々のアクターの選択に焦点を当て、その選択の帰結として政治現象を説明する。つまり、方法論的個人主義に立脚した理論である。アクターの合理性仮定と方法論的個人主義は、程度の差はあれ合理的選択理論に共通する大前提である。このような前提に立ってマクロの政治過程をミクロの観点から分析する、或いはマクロの政治現象にミクロによる基礎付けを行う理論として発生した。このミクロ的分析視角を体系的に確立したというのは、合理的選択理論の斬新な点であった。また他の方法論的特徴としてはフォーマル・セオリーによる手法、すなわち演繹主義が挙げられる。合理的選択理論に立つ論者は理論やモデルを構築し、その正当性を検証するために実際の事例やデータを用いてきた。このことは、行動科学政治学の帰納的アプローチとは対照的である。こうした特徴から、合理的選択理論のモデルとしては数理モデルがよく用いられる。戦略的状況の下でのアクターの意思決定を分析するゲーム理論を政治学に導入したのも、合理的選択理論の系譜である。
他方経済学においては非市場的意思決定の研究が既に行われていた。第二次世界大戦後発達した公共経済学の分野がそれに当たる。他の経済学における研究は後に合理的選択理論のうちでも特に社会的選択理論と呼ばれる分野に結実した。いわゆる集合的意思決定に関する研究であり、その1つの記念碑的研究の成果がアローの一般可能性定理である。アローの研究は『社会的選択と個人的評価』(Social Choice and Individual Values,1951)に纏められている。
政治学における合理的選択理論の先駆となる研究は、ブラックによりなされた。ブラックは社会的選択理論の研究を行う一方、選挙における有権者や政党を研究対象とし中位投票者理論を構築した。しかし、合理的選択理論を政治学において確立する契機となったといえるのはダウンズとその著書『民主主義の経済理論』[15](1957)である。ダウンズはブラックらの議論を空間モデル(一次元空間モデル)などを駆使して精緻化し、体系付けた。これ以降、有権者・政治家・政党・議会(立法府)・行政府・官僚等の政治的アクターの分析が本格化した。
ブキャナンとタロックによる『公共選択の理論-合意の経済論理』[16](1962)以降の研究は、これまでのケインズ経済学、及びケインズの理論に立脚する経済政策の正当性に疑問を投げかけるものであった。すなわち市場の失敗の解決や公共財の供給のためには政府の介入が必要とされ、実際に政府の介入により効率的な資源分配、公共財の供給が行われるという見解が従来の主流であった。また不景気の際に政府が市場への介入、具体的には政府支出を増大させる財政政策をとることが解決策になるという主張が一般的であった。ブキャナンらは財政学の視点を交えて政治過程における多様なアクターの相互作用を分析した結果、政府による介入がかえって非効率につながり効果が得られない場合があることを明らかにした[17]。
この他の合理的選択理論の知見としては、集合行為論が挙げられる。オルソンは著書『集合行為論』[18](1965)でアクターの合理性を仮定した場合、どのように集団が形成されるかを明らかにした。これ以降、集合行為や公共財の供給におけるフリーライディングなどの問題が政治学の場で正面から扱われるようになった。またライカーは『政治的連立の理論』[19](1962)でゲーム理論を政治学の分析に応用した先駆者となった。このようにライカーはゲーム理論をはじめとしてフォーマル・セオリー[20]を使い合理的選択理論を精緻化、ほぼ完成に導いた。ライカーは合理的選択理論をベースとした実証政治理論(Positive Political Theory)の創始者とも看做されている。
現在では合理的選択理論は公式・非公式の様々な制度の分析、及び制度とアクターの相互作用の分析に取り組んでいる。これがいわゆる合理的選択新制度論(合理的選択制度論)である。

参照元:Wikipedia「政治学史

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現代政治学の展開 - 脱行動科学の動き 

August 18 [Mon], 2014, 1:13
かくして政治学における主流派の地位を占めるに至った行動科学政治学だが、1960年代には様々な角度から批判されるようになる。さらに行動科学政治学側でも、それらの批判をうけて脱行動科学の方向を模索し始めた。
既に1940年代・50年代から行動科学政治学と一線を画す研究は行われていた。その代表的なものの一つは、後述する合理的選択理論である。さらにモーゲンソーは社会科学のディシプリンとしての国際政治学の確立を目指す一方で、行動科学の手法とは距離を置いた。『科学的人間 対 権力政治』(Scientific Man versus Power Politics, 1946)において行動科学的手法がアクター間関係にはたらくパワーの要素を見落としがちであることを指摘し、政治学はそうしたパワーの要素を捉えるべきだと論じた。ラズウェルとカプランの共著『経済と社会』(Power and Society, 1950)の書評では同じような論点から、哲学的・規範的視点の軽視を批判した。しかし行動科学政治学に対するより端的で鋭い批判は、それとは異なる観点から生じた。シュトラウスを筆頭とするシュトラウス派による批判と、いわゆるニュー・レフトからの批判である。
行動科学政治学の基礎となるのは、価値と事実は峻別できるという考え方である。その上で客観的な事実だけを政治現象として取り出し、帰納法による実証を通じて政治現象を科学的に把握・説明できるというのが行動科学政治学の基本的立場である。この思想は古くはコントの実証主義に遡ることができ、新しくはヴェーバーが強く主張したものであった。シュトラウスは、こうした行動科学政治学の背景思想に真っ向から異を唱え、政治哲学の復権を強く主張した。
いわゆるニュー・レフトによる批判はシュトラウスのそれとは些か異なる趣を持つ。すなわち、彼らの批判は1960年代後半の社会情勢に起因する。ニュー・レフトははっきりと体制に対する不満を表明し、さかんに社会運動を繰り広げた。さらにヴェトナム戦争は人々に体制への疑問を喚起することとなった。その結果彼らの影響力は政治学にも及び、体制の変動もしくは「よりよい社会」の建設のための政治学を提起した。彼らにとって価値中立性を謳う行動科学政治学は、現実政治の実証的分析の名の下に現体制を擁護する「死んだ政治学」にほかならなかった。実はこの種の論争は、既に1950年代の政治学において見出すことが出来る。社会学者ミルズは、1956年に『パワー・エリート』(The Power Elite)を著した。この中でミルズは有名な政・軍・産複合体の概念を打ち出し、アメリカの政治における決定はこれら一部のエリートに握られていると論じた。これは体制批判の含意をもつものであった。対して行動科学政治学を代表する研究者であるダールは、『統治するのはだれか――アメリカの一都市における民主主義と権力』(Who Governs?:Democracy and Power in the American City, 1961)において反論を繰り広げた。ダールはコネティカット州ニュー・ヘヴン市における実証研究を通じて、決定のシステムが多元主義的であることを示した。ミルズの影響の下アメリカ政治の多元性を疑うニュー・レフトにとってみれば、行動科学政治学の知見は欺瞞に満ちておりそれは単なる体制擁護のイデオロギーに過ぎなくなる。従って、ニュー・レフトの観点からすれば行動科学政治学は社会に対する有意性すなわち体制変動に貢献する要素を持たない。新しい政治学を求める者はこの点を強く批判し、新政治学コーカス(The Caucus for a New Political Science, CNPS)を立ち上げた。
こうした批判を受けて行動科学政治学側も「脱行動科学」を打ち出した。行動科学政治学の第一人者、イーストンが1969年に行ったアメリカ政治学会会長演説がその契機といわれている。この中でイーストンは有意性と行為をキーワードに「脱行動科学革命」を提唱した。これは行動科学が経験的保守主義のイデオロギーを隠している、つまり体制擁護的であることを認めたものであった。さらに行動科学政治学が現実との接触を失っていること、政治学が「よりよい社会」の実現に資すべき事など、新しい政治学を求める一派の主張を一部取り入れたものでもある。一方でイーストンは従来の行動科学政治学の成果を否定したわけではない。彼は「脱行動科学革命」をむしろ行動科学政治学の拡張と捉えた。行動科学的手法を維持したまま、1960年代後半に見られたような社会的危機の克服に政治学が資することが出来ると考えたのだ[13]。
こうした脱行動科学の動きは、新しい政治学のあり方を提示するのに必ずしも成功しなかった。CNPSにつながる政治学者たちは、参加民主制[14]などの新しい思潮を生み出したが、新しい政治学の潮流を築き得なかった。これはイーストンの「脱行動科学革命」も同様である。行動科学政治学は政治過程論などの分野で有力な地位にとどまる一方、支配的な方法論ではなくなった。政治哲学の復権、合理的選択理論の台頭など政治学は方法論的な多様性と支配的パラダイムの不在という状況を迎えることになったのである。

参照元:Wikipedia「政治学史

現代政治学の展開 - 行動科学政治学 

August 18 [Mon], 2014, 1:12
1950年代に入ると、シカゴ学派の研究を基礎として、政治学は新しい局面を迎えた。行動科学的アプローチという新しい手法が導入され、「行動科学革命(行動論革命、behavioralist revolution)」と呼ばれるほどのインパクトを与えた。
行動科学政治学の先駆は1945年、サイモンによる『経営行動--経営組織における意志決定過程の研究』である。同書において「行動」「意志決定」「組織」といった用語が使われ、政治学に定着した。サイモンは多才で学際的な性格の研究者で、社会学や経営学など隣接諸科学とも積極的に学的交流をはかり、その結果社会学の分野でもこれらの用語が定着した上、サイモンによって現代行政学が基礎づけられ、政治学からの独立の契機となった。次に、キーは『南部の政治』を著して政党研究の先駆となり、トルーマンはベントレーの政治過程論を見直した。アーモンドは政治システム論を比較政治学の分野に導入した。彼ら行動科学政治学の開拓者達は、いずれもシカゴ学派の系譜に属する研究者であった。
行動科学政治学において、政治学は行動科学の一種と看做される。すなわち政治現象を行為者としての人間及び集団の行動と考え、行動科学の方法論に従ってその科学的説明を行い人間の行動としての政治現象に関する一般法則を樹立する立場である。より具体的には次のような方法論的特徴を持つ。政治現象についての客観的データを計量的、統計学的な手法により収集する。そのデータから実証的に理論を構築する。政治行動はどんな環境にあっても統一性・共通性を持つとする観点から、理論の一般性を重視する。政治現象を人間の行動と看做す立場から、分析単位として制度を退け人間及び集団により現実に作動する政治の過程を選択する。以上が際立った方法論的特徴である。こうした特徴は価値中立的で、自然科学の方法論に類似したものと考えられた。行動科学政治学はデータに基づく実証分析を確立し、その後の行動科学的手法以外の手法をとる政治学にも大きな影響を与えた。一方でこのようなデータに基づく実証は、膨大なデータを処理することが可能なコンピュータの出現により可能なものとなった。
行動科学政治学は、政治過程の分析と比較に関してこれまでにない成果を挙げた。代表的な論者であるイーストンは政治現象を捉える一般的な枠組みとして、政治システム論を構築した。これは政治現象を政治システムへの入力・政治システムからの出力・フィードバックの総体と捉えるものである。政治システム論は特定の、或いはある政治社会に固有の制度を乗り越えて政治現象のあり方を分析できる画期的な一般理論であった。こうしたアプローチは、制度が未発達なところでの政治現象の分析には特に優位性を持つ。さらにアーモンドは政治システム論を発展させ、比較政治学に適応した。すなわち、社会学者パーソンズの構造=機能分析を政治システムに応用するとともに、政治システム論を基に政治文化論を提唱した。これにより従来の制度的比較を超克し、政治過程に関してのより意義ある比較が可能となったわけである。ダールはポリアーキーなどの概念を用いて、行動科学政治学の視点からデモクラシーや政治的多元主義を説明した。国際政治学にシステム論を応用しようと試みたカプランや、ドイッチュも有力な論者である。

参照元:Wikipedia「政治学史