映画『武士の家計簿』を見た。 

2011年01月16日(日) 1時12分
 一昨日だったか正確な日は曖昧だが、mixiを退会した。なんだか、「マイミク」とよばれるmixiを通じて友達と連絡を取り合うという環境がイヤになった。それまではいわゆる「mixi中毒(ミク中)」だったが、mixiでなければならない理由はないし、四六時中ログインしているミク中だからといってもただボーッと開いているだけで、不必要であれば自分の生活から切り離すことは容易だ。
 そんなこんなで、すっきりスマートにtwitter生活をスタートさせてまだ数日しか経っていないのだが――twitter自体は去年からやっている――、長文を書く場所がなくなってしまったことに気づいた。以前なら言いたいことはmixiで書いていたのだがtwitterの一四〇文字という制限で言いたいことを書くのは不可能に近い。全体の一割も言いたいことが含まれていない私の文章ならなおさらだ。別に連続投稿で書いてもそれはフォロワーが私をフォローするかのしないかの問題で誰にも文句を言われる筋合いは無いのだけれど。
 

 先日かなり久しぶりの映画を観て来た。現在上映中の『武士の家計簿』だ。
 彼女と行ったのだけれど、周りのお客さんは六十ちかい熟年カップルばかり。映画の中で上等の着物を売らなければならなくなったが松坂慶子演じるお常が「いつか着るー!」と言って話さないシーンでどっと笑いが起きた。きっと彼らのような熟年カポーにはあるあるネタだったのだろう。
 全体的に感じたことはこれを映画にする必要は無いけどドラマにして何週も持たせることはできないだろう、という感じ。「見る価値はない!」なんて言い切りはしない。
 当時の下級(?、)武士はどういうものを買っていたのか、という内容にはあまり触れていないのでそういった知的好奇心を持って映画館に行ったとしてもその気持ちは満たされることはないだろう。少なくとも私は満たされなかった。そういった面で興味のある方は新書の『武士の家計簿』(著:磯田道史)を素直に買った方が得策である。
 個人的には「武士の家計簿」というタイトルの書き方が、決して達筆ではないところが家計簿にすっと書き込まれた一項目のようで好き。
 

 というわけでこれからは何か言いたいことがあればこっちのヤプログに書くことにする。
 これでこのブログの更新率が上がれば良いのだが。

 

事物は存在するだろう。だがそれ以上に意識は絶対的な存在である。 

2010年06月25日(金) 0時50分
 現在『現代哲学の名著』(熊野純彦(編):中公新書)を読んでいる。
 これほど美味しい本に出会ったことが無い。「面白い」のでも「興味深い」のでもない。「美味しい」のだ。
 よく「何かの"美味しいところだけ"を食べたよう」という風に表現することがあるが、そんなものではない。さまざまな美味しいところだけのエキスをたっぷり含んだスープを飲んでいるかのような美味しさだ。透き通ったスープ。そういったものを想像してもらえれば良い。それはもう堪らない。

 今日会話友達(?)とカフェへ行き、話をしていた。
 その友達といつもどこかの"カフェ"へ行き、本(作家)や自分の考えなどを話し合う仲なのだが、今日もいつものように無駄な話をして有意義な時間を過ごした。
 その帰り道に「この間社会学者の本を読んでそこに、遺伝子的には人間は異性を好きになるというプログラミングはされていないっていう話が載っててん」と話題が飛んできた。
 以下会話のみ。本来は関西弁。
 ついでに駅まで歩きながらの会話。

 「へーそうなんだ。でもそれならどうやって異性を好きになっていくの?」
 「そこは書いてなかった。ただ、その『遺伝子的には異性を好きになるというプログラミングはされていない』ということしか書いてなかったから」
 「そうなんだ。遺伝子的にそうだとするとどうするんだろうね。今少し考えていたんだけど、男女を隔離してみるのかな。ほら、隠されるものって見たくなるでしょ? そんな感じで男女を分けるていると次第とそうなるんじゃないかなと思ったんだけど、でもそれだともともと"異性を好きになるプログラミングがない"っていう部分が忘れられてるよね。もしかしたらその分けられた男の方で満足して男を好きになってしまうかもしれない。だから違うね」
 「雰囲気で好きになっていくんじゃない?」
 「『あれ? 女の子好きになっとかなきゃだめなんじゃないか?』って?(笑)」
 「そうそう(笑) でもわたしはたまに女の子が好きになってしまいそうになるんだけど、そういうこと無い?」
 「無いない(笑)」
 「そうなんだ。ゲイの人はそういうことに流されない人だったのかもしれないね」
 「ほんとだね。でも、作られた感情って、それって少し"犯罪は何故犯してはならないか"ということに似てるね。誰かが殺されると本当に心の底から怒りを感じるやつとかそこまで感じなくても『うわっ』とか思うやつがいるけれど、あれも作られた感情だよね。もともと"人間を殺してはならない"っていうルールは人間が作ったもので、遺伝子のどこにも人間を殺したら嫌悪感を感じるなんてプログラミングされていないでしょ? まあ僕はあまり『うわっ』なんて思わないけど」
 「そこは嘘でも思っとこうよ!(笑) それじゃ、わたしはこっちだから。バイバイ」
 「バイバイ」

 こういうことをいつもカフェで二、三時間話しているのだけれど面白い。

 最近考えていることは「言語は理性なのか?」ということである。「最近]と言っても昨日の寝る前に目を閉じた時間である。考えていないに等しいため、おかしなことを言うかもしれないことを断っておく。
 人間が他人と意思疎通を図るとき、当然のようにすべて言語に変換して話す。さらに、口に出さず頭の中で考えているときも言語である。そうなると、言語が人間の理性を独占しているのではないかという疑問が生まれた。言語で考え言語を行動にする。では、その言語が無くなってしまえば人間はイヌやネコと同じ存在に成り下がってしまうのか。恐らくそうである。言語を持たない人間はヒトであり、イヌやネコと同じなのだ。
 言語を持っていなければ"人間らしい"行動をとることは不可能である。なぜなら、"人間の理性"と呼ばれるものはすべてが「真理」を元にして作られるからである。そしてその真理は言葉をメディアにして私たちのうちに存在する。
 「真理」自体は言葉が無くとも存在していた。それも何億年も昔から、この世界に起源があるのならそこから。もし起源が無ければ真理の起源も存在せずに真理は今も存在し続けている。だが、人間はその真理を言葉に表し目に見えるようにした。数学で使う「直線」や「三角形」などがわかりやすい例であろう。「直線」や「三角形」は言語ではないが、言語によって言い換えることができる。例えば直線は「幅を持たないプラス方向マイナス方向に永遠に伸びる線」というものである。まあそこはどうでもいい。
 人間はそれらの真理に言葉を付随させ、われわれの目に見えるようにしてわれわれのうちに記録した。だが、言語がなくなってしまうとそれらの目印が無くなってしまい、「理性」を支えることができなくなる。その結果言語が無くなると理性がなくなってしまうのである。
 たぶん。

ジャック・デリダ。 

2010年06月18日(金) 19時49分
 明日、土曜日から勉強会に参加することになった。今回はジャック・デリダについての本を読み解くらしい。デリダのテーマになってからもう既に一回終わってしまっているらしく、この本での勉強会は明日で二回目らしい。
 なのに、本を買うのを忘れていて、今買って帰ってきた。早速読まなければならないのだが、生憎、二十世紀の哲学というのはまだフッサール以外手付かずだ――ウィトゲンシュタインも一時期読んだが「読んだ」と言ってはいけないほどしか読んでいない。
 デリダといえば「ポスト構造主義」「脱構築」だが、イマイチわからない領域である。もっとも、変に誤解してしまって、その考えをリセットして新しい知識を蓄えるよりかはいいと思うが。

 近頃あまり日記を書いていなかった。そもそも文章もあまり書いていなかったため、話のテンポが悪くなってしまっているかも知れないがご了承願いたい。

 私はあまり漫画を読まないのだが、考えられる漫画というのはなかなか面白い。『ソラニン』や『素晴らしい世界』で有名な浅尾いにおや、『レストランテ・パラディーゾ』『さらい屋五葉』で有名なオノ・ナツメなどは読む。あ、あと『ワンピース』。
 よく漫画家や小説家、歌手、画家などの作品を評するのに「独特な世界観」という言葉が使われるが、なにも彼らはそういったふうに世界を見ているわけではないだろう。私が思うに、「独特な世界像」と言ったほうがしっくりくるのではないか。
 彼ら芸術家の作品を私たちが見るまでには少なくとも三段階を経ている。そしてそのうち変換は二度なされている。
 
 現実世界芸術家カンバス私(他者)

 現実世界が芸術家の主観で現象した世界は――哲学的には一緒にしたくは無いが――現実世界と同じである。その現実世界をそのままカンバスに描くことは誰にだってできるが、しかしカンバスに描く時に芸術家によって第一変換がなされる。そこには恐らく現実ではありえない世界が描かれているだろう。そこで「独特な世界観」。つまり、芸術家にはこういう世界が見えていると言ってしまったのではその芸術家に「早く病院に行け」と言いたくなる。芸術家が描き出した世界は芸術家にしか見えない虚像であるはずである。
 芸術家が描き出した世界なのだから「私」がそれを見ても理解できるわけがないだろう。分かるように描いてあるのならそれは商業用に描かれたものである。

戦争と子供。 

2010年06月09日(水) 21時05分
 「戦争と子供」というテーマで何かメディア資料を見て、それについてレポートを書くという課題がでている。
 何で書こうかと迷った挙句、森博嗣の『スカイ・クロラ』がまさにこの作品にうってつけなのではないかという気がしてきた。残念なことに「気がしている」だけである。

 『スカイ・クロラ』は何度も見たが、もう一度見てからレポートを書こうと思う。
 それではレポートが出来たときまた会おう。

 夕方ぐらいにビールを飲んだら頭が痛くなった。
 こんなアルコールを飲んだ後は全く文章が書けないのだが、こんな頭でレポートは大丈夫だろうか。

「空飛ぶテレビ」。 

2010年06月05日(土) 11時58分
「空飛ぶテレビ」

夕べテレビを見たんだ 古いSF映画の
人類は宇宙船に乗って奇妙な世界へ
壊れかけの世界で夢を見る
「新商品!空を飛ぶテレビです!」

やる気はマンタン
なのにやるべきことが見つからない
結局何がしたいのか

感動を取り戻せ そんな可能性を秘めた鍵
テレビが空を飛んだっていいじゃないか
そんなことはもう日常

夢を喰ったあいつを屑箱へ
指を切った紙切れを灰皿へ
すべてが止まってしまう時空の中で
何か聞こえたような風が流れる

すべてが起こる 奇妙な世界へ続く扉
ブタに翼があったっていいじゃないか
そんなこともう不思議じゃない世界だ

いつか必ず来る この世界の終わりの時
また別の世界がどこかにあるさ
どんなに遠くたって どこへでも行けるさ

そこでテレビが飛んでいなくたって
空が黄色だったって
空気に色があったって
それが世界さ

大学生な一日。 

2010年05月30日(日) 21時53分
 目が覚めると昼前だった。寝たのが午前四時ぐらいだったはずだから、それほど寝たという気もしなかった。
 布団の中から携帯に来ていたメールにリプライをし、しばらくして体も置き始めたので布団から出ることにした。パソコンを立ち上げて、ブログをチェックしながらお茶を少し飲み、煙草を一本吸った。

 着替えて近くの本屋へ行くことにした。すぐ帰ってくるだろうとパソコンはつけっぱなしで、音楽も垂れ流しだった。
 本屋は何度も通いつめている小さな本屋なのでチェックすべき棚は知り尽くしている。やはり目当ての本は見当たらず、その上の階にある図書館へ行くことにした。
 現象学の用語を調べるつもりで来た。千ページ以上ある『哲学・思想事典』から気になる項目を十個ほどピックアップ。一つの項目で二ページ以上使っている場合があったため、コピーすると二十枚以上になってしまった。十分ほどコピー機を占領してしまっていただろうか。
 その後隣にあるアルプラザに行き、ラッキーストライクを一箱買って帰った。そうそう、先日山科駅のハートインで煙草を買ったら年齢を聞かれた。初体験だった。免許証なんてあんまり出さないから提示するまでにしばらく時間を要した。

 家に帰ったらパソコンがつけっぱなしだったことに気づいて落胆。時間を見たらたっぷり一時間ほど図書館にいたようである。
 そういえば雑誌の『Newsweek』が何冊かたまっていることに気づいて、音楽を聴きながらそれを読んでいた。

 気づいたら十九時ごろだったので、ご飯を食べて風呂に入り、今ビールを飲みながらこれを書いている。
 最近ビールがうまくて仕方が無い。

 最近以前よりはテレビを見るようになったのだが、やはりどうもうるさくてかなわない。こういう文章を書いている時に何か聞こえて、その度に振り向く――テレビはパソコンの真向かいにおいてあるため、見る時は後ろを振り向かなければならない――というのはなかなか面倒である。

 

現象学とは、「己れを示すものを、それが己れを己れ自身から示すとおりに、己れ自身のほうから見させる」ことであるから、優れた意味で現象といわれるものは、さしあたり大抵は隠れているが、己れを示すものに本質的に属するもの、存在者の存在である。 

2010年05月26日(水) 22時05分
 ↑
 ( ゜Д゜)ハァ?


 ずっと竹田青嗣の『現象学入門』読んでるのに・・・・・・わからないよ・・・・・・。
 
 タイトル『現象学事典』弘文社 第百二十項 より。

私の場合のゲシュタルト崩壊。 

2010年05月25日(火) 5時22分
 心理学の概念に「ゲシュタルト崩壊」というものがある(ほとんどの人がその言葉を知っているであろうから、その説明は省く)。
 他の人がどう「ゲシュタルト崩壊」を感じているかしらないが、私の場合は言葉の並びの意味が分からなくなる。どういうことか説明すると、「切る」という言葉を見ていたとき、なぜ「切」と「る」の並びで「切る」という動詞をあらわすのかが分からなくなる。それと同時になぜ「きる」という発音で「切る」と書くのか混乱する。だが、よく考えてみるとその混乱はこれから言葉を覚えるという幼い子供が持つ混乱のようなものではないか。
 今回の記事はその混乱について考え直してみることにする。タイトルからして、さっきkazu524の記事を見てこの内容を思いついたことがばればれである。

 世界中にはさまざまな言語がある。英語、フランス語、ドイツ語、日本語。さまざまであるが、そのどれもが――例外はあるが――独自の単語を持っている。一つの事物に対してさまざまな名前がつけられているのだ。つまるところその事物はその名前で呼ばれずともよかったというわけだ。例えば、階段はどの国にも階上へ登る手段として自然と出来上がった。坂では人間が登って行ける角度は限られ、その限られた角度で坂道を作るとなると場所をとるが、階段ならばかなりの角度でもなんとか上がれる。つまり人間が階上へ行くための手段としてできあがった階段はあの方法しかあ"あり得ない"のである。うん、つまり過去の記事で散々言ってきた「概念」のようなものである。世界のどこでも同じである。
 だが、言語にはさまざまな単語がある。「夏」という単語には英語の「summer」、フランス語の「ete」、ドイツ語の「sommer」、日本語の「夏」である。英語とドイツ語の綴りが似てはいるが、ドイツ語の「sommer」の発音をネットで調べてみたところ「ゾナー」であり、やはり全て単語が違うのである。これらを見る限り、概念に結びつく単語は必ずしもその単語である必要は無い。ではなぜその単語が文字として、言葉として選ばれたのかということが疑問である。「たまたま」なんて返答は許さない。
 たしかこの辺りは、以前読んだ町田健『ソシュールと言語学』(http://www.amazon.co.jp/dp/4061497634)に詳しく書いてあったはずなのだが、あまり理解していなかった。
 
 とにかく、私には荷が重過ぎるので、疑問を疑問のまま残しておくことを許してほしい。
 みんなはどう考えただろうか? なぜ単語はその「単語」でなければならなかったのか。

絶対に疑えないものを考える。 

2010年05月23日(日) 5時12分
 「何も考えない状態」というのは人間にとってなかなか致命的だ。「何も考えない状態」というのには二つ意味があるが、私の言う「何も考えない状態」とは本当に何も考えないのではなく、何かしらの問題を考えないという意味である。何も考えないのでは人間とはいえない。それはイヌやネコと同等レベルにまで落ちてしまったいわゆる生物的なヒトでしかない。そこに理性が加わって初めて「人間」になるのである。哲学の用語で、クオリアなどを感じていない人間の「哲学的ゾンビ」というものに近いのではないか(哲学的ゾンビ:クオリアについて論じる際に度々出てくる用語であるが、実際にそういう人間が存在しているのではなく、クオリアを持たない人間が生まれたらどうなるかという思考実験内での仮説である)。
 もう一つは「生活をしている上で"問題"について考えない」という意味である。

 どうやら私は一つの問題について状況的に考えることを得意としているようである。先日友人と会話をしていて気がついた。私は人の感情を考えに含めるのが苦手なのである。例えば、「金と同価値のものは存在するか」という問題で話した時、「命」との比較が出てくるだろうとは考えていたが、そこに人間の「感情」が含まれるとは考えてもいなく、議論は私の意図したものとは違う方向へと進んで行った。正直に言うがその時の議論はあまり面白く無いものだった。人の感情という曖昧な存在、言葉では表現しきれないものを議論の対象とすることはあまり得策ではないように思う。
 例えば、痛いという感情を「痛い」という言葉を使わずには表現できないようにそういった議論の中で偶然生まれた感情をうまく言葉に表現できないかもしれない。それでは議論にならないうえに、他人との情報に齟齬が生じる。

 学問の立場で「人間はミスをする」といわれる。例えば、「私」という存在を「私」から脱却して他人が見るように客観的に見たいと思ったとしてもそれはできないため、そのための機械を作ったとする。その結果、機械を通してみた「私」は鏡で見た「私」となんら変わりはなかった。だから他人が私を見ている時、この「私」と全く同じ私が見られているのだという結論に至ったとする。だが、その機械は私、つまり人間が作ったものであり、その機械の設計、プログラミングが間違っている可能性は無いとは言えない。少しでも疑いの余地(可疑性)があることは「完全に証明された」と胸を張って宣言できないのである。
 そうなると人間の「感情」という曖昧な存在を含めた議論ではさまざまな可疑性が生じることになる。上で例にあげた「金と命は同等か」という問題も確かに答えの出にくい問題ではあるが、もし答えが出たとしてもその答えは隙間だらけのレンガでくみ上げられたようなものだ。少し押しただけで崩れ去るだろう。

 そのように問題を考えるということは、疑うことのできなさ(不可疑性)を重視することが大切なのだ。私にとってそれが重要であり、そこに感情を加えるということは言葉では表現しきれないばかりか、後々の結論に影響を及ぼす。

 うん、この間の議論にあまり参加できなかった苦しい言い訳である。

なりたいと思っていたらなっていた。 

2010年05月16日(日) 19時28分
 以前友達が「パスタが食べたい」と言い出したことからカプリチョーザへ行った時に世間話がひと段落ついた後に少しの沈黙が現れたので、自分が勉強している哲学の話を自分のイメージに沿って話した。すると二十分ほど話し続け、「楽しそうやね」と言われた。
 何かを勉強、研究している人はそれが好きだからやっているのであって、誰にやらされているというわけではない。自分が好きだから・興味があるからやっているだけなのだ。そういう人は話をしている時に喜々として話をする。そんな人になりたいと思っていた。だが、この一言で自分も既にそれに近づいていることに気がついた。少し嬉しい瞬間だった。結局自分は「オタク」なのだった。

 ところで、最近『新世紀 エヴァンゲリオン(以下:エヴァ)』を第壱話から見直している。『エヴァ』の面白さに気がついたのはそれからだ。つまりここ数日のことである。
 それまで何故これほどの人が『エヴァ』にはまっているのかわからなかった。あんな意味のわからないアニメの何が楽しいのだ、と思っていたのだ。だが、あるサイトの解説を読んでその考えは一変した。面白すぎる。
 おそらく多くの人が何もわからず見ているのだろうと思う。第拾六話の「死に至る病、そして」というタイトルも哲学者のキルケゴールの主著『死に至る病』からきていることを知っている人がどれくらいいるだろう。僕が働いていたバイト先のエヴァ信者の女の子達も確実に知らないだろう。彼女たちは何をもって「エヴァいいよねー!」と言っていたのだろう? バイト先最大の謎である。こんどメールでもして訊いてみようか。


 昨日、中学の頃の友達とカラオケと食事に行ってきた。なかなか面白い面子だった。いや、あのメンツに俺がいることが特殊だった。
 当然初めてのグループに入るということは面白くない。どういう話をするのかわからないし、そもそも話のテンポが全く違う。「あれ? なんでみんな何も話さないの?」と不思議だった。こいつらは何故、何も話さないでいるのだ、と俺が思ってしまうほどだった。全く話していないということはないが、それでもやはりいつも俺が学校でご贔屓にさせていただいているグループやスカイプのような感じとは違った。
 今まで特にグループというのは入ったことがないのだが、やはり自分に向いているグループというものはあるものだなとその時実感した。
 だって、話が面白くないんだもの。
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:る。
  • アイコン画像 性別:男性
  • アイコン画像 誕生日:1990年2月7日
  • アイコン画像 血液型:AB型
  • アイコン画像 現住所:京都府
  • アイコン画像 趣味:
読者になる