中世の嵯峨と天龍寺―原田 正俊 著― 

December 21 [Fri], 2007, 2:56




 中世において、京都の嵯峨は天龍寺や臨川寺といった2つの寺を中心に洛外最大の都市として繁栄していた。それは、中世の嵯峨には多くの禅院が集まり、金融・流通・交易などの中心となっていたためである。つまり、禅院が都市機能を担って洛外最大の都市としての繁栄を支えていたのである。 嵯峨の都市は、北には源融を祀る清涼寺(釈迦堂)、その南には洛中の御所前に延びる道と同じ名を冠する朱雀大路が、さらに朱雀大路からは直角に造道が伸び、その先には天下龍門と呼ばれる大門が造られている。嵯峨の地は、この大門を入り口にして天龍寺・臨川寺を中心とした「一つの完結した空間」が形成されているのである。

 この嵯峨には数多くの禅院と酒屋や土倉などが多く集まっており、特に酒屋は嵯峨の地名を持つものは17軒みられる。このような禅院と酒屋・土倉との関係が、この都の発展に大きく関わっているのである。酒屋・土倉の詳しい位置は「鈞命絵図」や「大井郷界畔絵図」などを照らしあわせることで正確な位置が判明するようで、その位置から17軒の内10軒の酒屋が天龍寺・臨川寺の支配領域内にあることがわかっている。当時禅院は室町幕府との関係も深く、金融資本の代表であった。さらに財政的にも豊かということも関係して、大陸との通交なども担う国際的な窓口でもあった。禅院からは低金利で酒屋・土倉に貸付が行われたり、禅僧が乗組員の遣明船に酒屋・土倉が献上物の調達や出資を助けたりしていた。また、酒屋・土倉も乗組員としても同乗することで利益を上げたりするなど両者は非常に密接に関係していた。学問を学ぶ場でもあった禅院には嵯峨に集まる酒屋・土倉の子弟が禅僧として入ることも日常的にあったことであり、そのことからも禅院と酒屋・土倉は一体であったということができる。こうした関係によって天龍寺・臨川寺周辺の嵯峨は、2つの寺を中心として、「一大金融資本の集住地」として栄えたのである。

 禅院が大きな影響力を持ったのは、酒屋・土倉のみではなく、その地に住む住人に対しても見られた。それは、禅院が門前境内の検断権を有しており、禅院の管轄内での争い・諍いに対して処分することができたのである。さらに、天龍寺に視点を当ててみると、天龍寺に勤仕するものは他領主の役を逃れることが出来るといったこともあり、住民にとっても寺と結びつくことで有利になるということもあった。

 さらに嵯峨の地に流れる大堰川による水運を利用して資材・物資などを輸送する河川交通の港としても繁栄する。丹波国と京を結ぶ物資の輸送ルートは、臨川寺前の川に沿って築かれた石垣が地図上に見ることができ、港としての整備が進んでいたことがわかる。そしてこの川に沿って築かれた港も天龍寺や臨川寺の所有であり、水運にもまた禅院が関係していることがわかるのである。

 こうした金融・物流・交易などに非常に大きく関与している禅院は、文化面でもその影響力を発揮している。というのも、当時刊行されている書物の多くが、臨川寺によるものであったのである。つまり、寺々が出版活動も積極的に行っていたということである。

 中世の嵯峨は、幕府の保護を受けた禅院が非常に大きな勢力でもって、大きな金融センターを築き経済的な発展を促した。且つ、大陸との交易ルートや国内への輸送ルートも押さえ、交通・流通が盛んになることで、人々の交流も活発に行われたのである。さらに禅院が嵯峨の住民とも結びつくということもあり、経済・住民・流通などに関わった禅院がこの地の中心としてあったことは言うまでもなく明らかである。嵯峨の天龍寺や臨川寺を中心とする禅院の集まりは、ただの仏教勢力と片付けるには余りにも巨大な、もう一つの政治的装置としての役割をもった勢力となり、嵯峨の地に禅僧によるもう一つの「京の都」が形成されていったと考えられる。こうして嵯峨嵐山は、禅院によって洛外では最大の都市として繁栄することになったのである。





地誌編纂と民衆の歴史意識 ―佐竹 昭 著― 

December 19 [Wed], 2007, 2:25



 この論文は、広島の地誌編纂の過程を追っていくことで、「日本」という概念が民衆に目覚めさせた歴史意識が「日本国民」としての意識を根付かせ、近代日本に蔓延したナショナリズム・リアリズムの形成の土台になったということを分析しているように思える。

 まず、「日本」という一国家としての意識が起こったのは、外国との接触によって民族意識が形成されたことによると考えられる。例えば徳川光圀監修で「大日本史」が編纂され、「日本」というものを強く意識した歴史書の作成も行われていることからも、一地方が人々の世界だったものが、一つの国家として世界認識がなされてきていることがわかる。そしてこうして誕生した日本民族としての意識は、伝承を歴史として編纂し、さらに日本という国家の中の一つとしての「地方の歴史」へと発展させた。

 論文では広島の遣唐使船の造船地の話が、地方を歴史によって権威付けるためのものであったと述べている。18世紀中ごろから、元々の伝承に日本書記や続日本書紀の記事を用いて、本朝大船を遣唐使船に結び付けが行われている。しかしこれは研究者がよく仮説として述べるものと同様であるように思える。これが権威付けとして用いられるのは、19世紀前半の書物であり、古い書にない記事や信憑性の低い日本書紀からの話を取り入れ、造船地としての権威を主張する目的で編纂されているようだ。こうした事実である歴史を書き換えて書物として残すということは、古代から行われてきたことではある。しかしそれは、それ以前の伝承が残されておらず、書き換えられたものがそうとはわからないものが多いように思える。広島のものでは史料があるにも関わらず、時代を経るごとに書き換えが進んでいる。そして後に加えられた伝承・歴史が定着し、やがて本来の伝承が失われて、その地の「歴史」として残されている。あくまで造船地としての起源を説明して正当化するためのものであってのかもしれないが、日本という大きな国家概念の中で他の地方と比較し、「その他の地域」というのではなく、国家の中での独自性を確立するための地方の動きにも思える。

 島の伝説から歴史への章では、島の支配者についてのエピソードが荒唐無稽だが事実を背景にして作られているように思われるというようなことを述べている箇所がある。そこではあくまでその地方の人々に、自分たちの住んでいる地の正当性を物語によって伝える目的で作られていることが、英雄的人物の創造からも伺える。

 これが江戸期になると、ただの伝承を歴史とは認めない動きが現れるようで、これも日本の歴史との関連付けが行われて地方に日本の歴史を共有させることに繋がったようである。こうした地方の歴史を編纂する上で、著者は日本の歴史を見る価値観でもって地方の歴史もみるという、一つの価値観によって国も地方も見てしまっている点を指摘していた。こうした見方は同一の歴史観を地方に広め、さらに先に述べられた歴史の共有によって日本国民という同一民族としての意識の形成と地方の特色の喪失を招くことになったのである。

 特に面白い過程が、実証的な精神での叙述の際に参考にされていた書が、日本の民族意識が高まると否定されることである。漢文に無理に編纂している点が日本にそぐわず、和文で書かれた『筑前風土記』が激賞されたそうである。これも日本人という意識が高まったために、民族の文字として和文を用いた歴史書が推奨されたとみることができる。そして著者はこの流れを風土記への回帰と述べている。日本という国家意識の浸透を意識したような政治色の強い歴史が地方にも広がり、それによって編纂された地方史は、地方外の人々に語る歴史として書かれ、国内でもある分野での優位性などを協調しているように感じられる。これはやがて現れる近代国家のナショナリズム形成の前段階となったのではないかと考えられる。

 そして現代、著者は現代の地方史は「教科書にかかれた歴史」として空虚なものとなっているとし、懸念を示している。そしてさらに現代の課題として、グローバル化の時代において日本の歴史が「世界史」の中の「地方史」という時代になっていることを示し、広島の迎えかたを案じている。しかしこれは広島に限ったことではなく、日本そのものが歩んだ歴史を失うという危機にさらされることになるだろうということである。日本の地方史と同じ過程をたどるとすれば、やがて日本の歴史(=伝承)は失われ、世界史との関連付けの中でのみ語られる権威付けのための歴史、世界の価値観で見られる世界史(=国家史)という大きな概念の中での一部(=地方)として、日本の歴史がやがて埋没していく危険性があると考えられるのである。





Iframe 

December 07 [Fri], 2007, 13:29
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宇津戸 

December 07 [Fri], 2007, 2:58



 現在世羅郡に属している宇津戸は、元は御調郡に属しており、石見大森銀山からの街道(赤名越)が通過する位置にあった。そして、御調郡の市(現御調町)と甲山の丙駅の中間の在郷町として繁栄していた。平城や平安の京と九州の大宰府とを結ぶ唯一の幹線道路の山陽道も通っていたといわれるが、北に迂回し過ぎるとも考えられ、実質的な証拠が今のところないために断定はできていない。
街道は江戸時代には銀の路として、また人力や馬で物資の運搬のために整備が進められていた。さらに一里ごと造る一里塚は旅人達の目安となっていた。一里塚には、それぞれ目印に二本の松が植えられており、昭和初期まであったのだが、枯れたり道路拡張で伐採されたりして今は跡形もない。甲山町では平成 十六年に位置の復元をし、そこに石碑を建てた。
 宇津戸は十一世紀頃世羅郡の有力豪族橘氏によって開かれたのが始まりとされている。平安末期、当時勢力を誇っていた平清盛の五男重衡(しげひら)に大田庄を預け、永万二年には重衡は後白河法皇に寄進して「海裹荘」という荘園となった。
 「海裹荘」は延慶二年に下地中分が行われたことで有名である。伝説によると、白鹿が走ったところを中分の境界に定めて決めたといい、長尾道(石見路)西方の田に「姥石」とよばれる境界石部が現存している。
 現在の宇津戸も、下地中分に関する六波羅下知状に「海裹庄」とあり,この名に由来したと言われている。名前の由来に関しては、「渦を渡る」(川を渡る場所の意)から地名がついたという説もある。
 下地中分が行われたことによって、宇津戸の八幡神社は二つに分祀された。領家八幡神社と地頭八幡神社とがあるが、それはこの時に分けられたものである。
領家八幡神社は領家側の氏神として祭られたものである。「領家」とは土地の所有主という意味のことばである。伝承では延慶二年(一三〇九)に分祀され、元和元年(一六一五)に焼失により再建が行われたという。領家八幡宮を別に「一の宮」とも呼ぶ。
 一方、地頭八幡神社は文字通り地頭側の神社で、伝承では延慶二年(一三〇九)に分祀され、元和九年(一六二三)に再建が行われたといわれている。地頭八幡宮は「向こうの宮」とも呼び、領家八幡神社と意識的に呼び分けれられていることがわかる。
 地頭方の地頭八幡神社は町重文の古い棟札を蔵し、領家方の領家八幡神社の社叢は県の天然記念物に指定されているなど、歴史的価値の高いものが残っている。
 領家八幡神社の社叢は海抜三二一mのところにあるウラジロガシ・ツクバネガシを主とする樹林のことで、大径木の他、多数の小径木が生育して常緑カシ林の自己維持性が認められる。県内の社叢における常緑カシの組合せには、シラカシ型・シラカシーツクバネガシ型・シラカシーアラカシ型・ウラジロガシ型・ツクバネガシ型等があるが、本社叢はウラジロガシーツクバネガシ型ともいうべきもので常緑カシ類の植物分布地理学的見地からも植物社会学的見地からも重要なものである。
 また宇津戸には、江戸時代には大かんばつに対する雨乞いをしたのが始まりといわれる宇津戸夏の神祇という神事がある。延享年間(一七七四〜一七四八)に起こり、嘉永四年(一八五一年)に獅子舞を加え現在の形になって種々の踊りや舞が太鼓に合わせて行われるものである。
 宇津戸の人々の歴史は出土した土器・石鏃などの遺物から縄文時代中期までさかのぼることができる。さらに室町時代後期には石州街道・出雲街道の交通の要地となっていたこともあり歴史的に価値のある建物も多く見られる。
 また、宇津戸を東西に流れる宇津戸川の上には、「陰陽橋」がかかり、この橋を渡って町に入ることができる。
 現在の宇津戸には一本道に沿い細長く伸びる街道集落の形が今でも崩されず保たれている。中には大柄な商家の連続する家並もみられ繁盛していたことが伺える。
 町筋は中央部で直角に折れてその位置に観音寺がある。江戸期の街道はここで吉舎などを経て石見地方に向う石州街道と、天領であった上下を経由し庄原・西城を経由し出雲に向う道への追分であった。寺の門前には道標も残っている。
 宿駅にも銀や中国山地の砂鉄を運ぶ馬や、太田荘(現在の甲山町中心部)の年貢米を紀州高野山に納めるための往来が絶えず、ここで一時の休息を取っていたと考えれられる。国道から外れ静まり返ったこの旧街道は今でも「市筋」と呼ばれ、当時商店が多く栄えていたことを示しているようである。



領家八幡神社          宇津戸領家八幡神社の社叢


真っ直ぐな町並みと大柄な商家の家並み       宇津戸夏の神祇
          


平田玉蘊
http://www.bbbn.jp/~museum/artists/gyokuun/episode/epi1.htm
宇津戸警察駐在所
http://www.police.pref.hiroshima.lg.jp/ps/sera/cyu.uzuto.html
広島県の文化財 - 県天然記念物
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/bunkazai/shitei/shitei11.html
「宇津戸画像」
http://magok.cool.ne.jp/uzuto.html
尾道石見銀山街道を行く
   市村宿〜宇津戸
http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/493utudo.html
古道を歩く
http://www.geocities.jp/heartland_kaede9328/utu.htm

アニメ 

December 01 [Sat], 2007, 23:44




アナグリフ 

November 28 [Wed], 2007, 0:38









エクスカーション 

November 27 [Tue], 2007, 23:27

大学祭に展示発表で参加していたため課題upが遅れました・・・。


    





 空中写真を見ながら嵯峨嵐山を歩いた。
 駅を出発し、渡月橋を渡る。中ノ島から対岸へ桂川を縦断。桂川には農業用の水路や角倉了以によって作られた資材運搬のための運河が現在も残っている。現在の渡月橋は中ノ島に架かっているが、中世では現在より西側、ニレ科の大木のあるあたりか、その少し手前あたりが元々の渡月橋の場所だと思われる。渡月橋のすぐ東側にも榎の大木が植わっており、そこから臨川寺の敷地に入る。 
臨川寺の敷地両側には関所があり、出入りが厳しくチェックされていた。空中写真と山城国嵯峨諸寺鈞命絵図と照らし合わせると、渡月橋すぐ東横の大木のあたりがそうであったとわかる。
 天竜寺に向かって小道を行く。途中料亭(?)の敷地内を通った。自由に通れて大変自然が美しい道だが、観光客は朱雀大路を通るので知られていないようだ。天竜寺に入ると、大変美しい池泉庭園があった。池泉の奥には枯滝がある。庭園において石組は様々なものを表現するが、天竜寺の庭園では、枯滝石組が鯉が滝を昇りきると龍へと変化する登竜門の話を表現している。庭園を正面に、左斜めから見た景観が最も美しいようだ。池泉と亀山がまず視界に入り、その奥の愛宕山(あたごやま)を借景として、庭園の空間が天竜寺を越えて広がっている。
 天竜寺内には後醍醐天皇の廟もある。廟までの通路には「水月」の文字の看板(?)があり、通路周辺の景色は木々や遣水のようなもので嵯峨周辺の景観を縮小して表現している。
 天竜寺を出ると次に鈞命絵図で「六尊坊」と書かれているところへ向かった。トロッコ列車の線路を越えると、「六尊坊」という地名が残る墓地へ着く。
 エクスカーションに関係無いが、管理人らしき興奮したおじさんがいた。墓地に入る人を監視しているような感じだったが、墓地への入り口を見張っても裏からは自由に入れるので全くもって意味が無いと感じた。
 六尊坊を過ぎると絵図には遮那院と書かれた辺りへ行き、昼食をとった。遺物・遺構が出てくるため(?)花畑っぽくなっている場所があった。そこから東のほうへ歩いていくと、古代からの道があり、直に毘沙門堂へ出るようだ。
 昼食後は香厳院のあった辺りまで北上し、光源氏のモデルとなったと言われる源融を祀る釈迦堂へ向かった。途中、民家の屋根の千木を見て、千木の数で住民のランクがわかることを知った。
釈迦堂に着くと、その大きさに驚いた。だが、それが一般的な大きさらしい。江戸期における信仰のための装置としての重要性が表れているようだ。釈迦堂の前には政治的中心の証のような朱雀大路が真っ直ぐ伸びている。朱雀大路から見ると、釈迦堂の本堂はその直線からは外れて少し斜めに入ったところに立てられていていることがわかる。
 門を出てすぐ横にあった豆腐屋へ行き、豆腐を食べた。何もつけなくても十分おいしいと思った。また門の方へ戻り、次に朱雀大路を南へ進む。途中で造道へ入り、薄馬場へ出る。それを下り、天下龍門のあったと思われる場所へ向かった。鈞命絵図同様その近辺に絵図で示されている小溝と今掘にあたると思われる二つの道があった。周辺の景観は大分変わってわかりづらいが、道だけは絵図と照らし合わせると現在でも同じ形で残っていることがわかった。
 そのまま道を行き、鹿王院へ。実物の応永鈞命絵図を見た。非常に大きく一軒一軒の寺社名や在家などが記入されており細かかった。紙背文書の部分も透けて見えたが、吊るしてあるので裏は見ることが出来なかった。吊るしたままで絵図が傷まないのか不思議だ。地図自体の重みですでに裂けている部分からどんどん破れていきそうな気がする。
 塔の中にも入れた。中に釈迦が亡くなった時の様子が描かれた大きな絵が飾ってあった。絵の中には虎と豹の姿もあった。昔は豹を虎のメスの姿だと勘違いしていたようだが、これはメスのつもりで描いたのか、元から豹として描いたのか・・・どちらなのか興味深い。
 鹿王院をでると周辺を歩きつつ清明墓へ。絵図にも記入されているが、実際はとてもきれいに整備された五芒星の描かれた墓で、昔からそこにあるものという気がしなかった。
 絵図と空中写真を照らし合わせ実際に歩いてみると、絵図に描かれている寺のほとんどはもうほとんど残っていないようだったが、一部の道や寺がそのまま同じ位置にあり、絵図の通りに進めるので面白かった。桂川付近の観光地として店が展開している場所は人が混雑して進むのもやっとという感じだったが、少し北に行くだけで人気が無くなる。店で売っているものは京都ならどこでも買えそうなものだったので、嵯峨嵐山へ観光に行く人々は何を思ってそこへ行き、何をして満足して帰っていくのか気になるところだ。





地球の自転 

October 30 [Tue], 2007, 1:59






衛星画像バージョン

難しい・・・。絵(大陸)がフラフラしている。

地図補修 

October 20 [Sat], 2007, 22:12





嵯峨嵐山 

October 17 [Wed], 2007, 0:33










学校で課題する時間がないので5.0を買ってみた。
機能がまとまりすぎて、やりにくい・・・。


P R
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