森光子さんを困惑させた島倉さんの“勉強熱心” 突然楽屋を訪ね…

November 20 [Wed], 2013, 11:41
バッグ昭和歌謡を彩った大輪がまた逝ってしまった。

 島倉千代子さんの「人生いろいろ」が耳から離れない。出会いは50年近く前に遡る。日本コロムビアに入社して、初陣で担当したひとりが島倉さんだった。

 芸能界の作法に非常に厳しく、何も知らなかった新人社員の私に、厳しく細かく教えてくださった。プロデューサーとして非常に勉強になり、恩人でもある。

 島倉さんが歌手を志したのは、歌のうまい病弱な姉を喜ばせたかったからだった。12歳で童謡歌手として「お山のお猿」のレコードを出し、16歳でコロムビア全国歌謡コンクールで優勝。専属契約となり、「この世の花」でデビュー。200万枚の大ヒットとなる。

 島倉さんは新しい試みを取り入れることに積極的で、それまでの“泣き節”からガラリと変えることにも挑んでくれた。新曲は先日亡くなった岩谷時子さん作詩の「ほんきかしら」。これが大好評で、リズム歌謡路線へと転換。その路線は「愛のさざなみ」や「人生いろいろ」へとつながる。

 島倉さんは言葉を非常に大事にした。特に詩にこだわり、どん欲なまでに質問してくる。詩の一節と一節の行間について「ここはどういう気持ちで展開すればいいかしら」と必ず聞かれたものだ。

 そんな勉強熱心さは時に先輩にも向けられた。あるとき、「放浪記」の舞台の休憩時間だという森光子さんからお電話をいただいた。聞けば、島倉さんが突然楽屋に訪ねて来て「勉強したいんです」とだけ言って座り込んでいる、どう対応したら良いかと言う。

 慌てて芸術座の楽屋に向かった。

 言葉にこだわる分、逆に端的すぎてどこか言葉足らずの人だった。ディジョルジオもうひと言「ここで黙って見ていたいのですが、いいでしょうか」と言えば相手に伝わるのだが、遠慮のあまりか、考えの深さなのか、何かポイントを欠くことが多かった。

 それがないために森さんは困ってしまったのだ。

 歌手としての成功とは裏腹に、彼女の人生は波乱に満ちていた。

 ファンの投げたテープが目に当たり、失明の危機に陥ったり、周囲の反対を押し切り野球選手と結婚したが子供を諦め、結果、離婚に。

 その際、実家に戻ろうとしたが、反対を押しての結婚だったため実家に拒絶され、仕方なく戸籍を新しく作成した。

 その後、知人や恩人だけでなく他人の借金の保証人になり、3度、4度と総額で16億円にも及ぶ莫大な借金を抱えた。借金返済の半生になってしまったが、島倉さんの言葉足らずさも騙される原因の一端になったのだと思う。

 1988年、50歳で出したのが「人生いろいろ」。

 実はこの曲が用意されたとき、島倉は言葉にこだわり「男もいろいろ」の歌詞を変更してほしいと頑に粘った。しかし、聞き入れらず、そのままの歌詞となり、結果的に若い世代にも支持された。山田邦子やコロッケがものマネをしたこともあり、国民的アイドルに近い状態になる。

 この後、制作側が用意した新曲が実は「珍島物語」。ところがこのときも、歌詞が気に入らないからと歌うのをいやがり、結局、天童よしみが歌ってヒット。

 来年のデビュー60周年のため、南こうせつに依頼した新曲「からたちの小径」を亡くなる3日前に自宅でレコーディングを済ませていた。

 可憐に咲いた昭和の歌花は借金と病魔に何度も打ち克ちながら、歌に命を賭け、日本中に癒やしを振りまいて旅立った。http://www.spiritfangs.com/
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