気づくこと

April 06 [Sun], 2014, 0:30
さまざまなモノ、だからスマートフォンやタブレットのような電子機器もまた症状としてのパートナーの役割を担いうる。スマートフォンがユーザーにとってα機能の不在を埋め合わせる働きをしているとすれば、症状(的)パートナーの名にこれほどふさわしいものはないくらいだ。もう一方のターム、パートナー(的)症状は参照されたのはやはり最晩年のラカンだった。ラカンは、分析の終わり(ひとりの主体の精神分析の終わりに何が起こるのか)という問いについて、一九五○年代から、主体の歴史の書き直し、幻想の横断、主体の廃位、対象の転落、とさまざまに説明してきたが、一九七七年に新たな、そして決定的な定式を与える。それは、症状への同一化である。といっても、症状に同一化した状態は、神経症のケースでは、じつは分析のはじめにも見られる。自分が何に悩んでいるのかをしきりに訴える患者が、その悩みを自己のアイデンティティとして分析家に提示していることは明らかだ。こうした主体が真に分析に入ってゆくためには、この悩み・症状が果てしなく続く理由は自分自身のうちにあるのではないかと、自分がそれにしがみつき、そのなかで享楽しているからなのではないかと、たとえ明確にではなくても、気づくことができなくてはならない。

倭小化されていること

March 31 [Mon], 2014, 11:29
アコイエ修正案に向けた批判は、主に三つの観点から整理することができる。まず、精神分析が他の精神療法と同一視されること、あるいは、さまざまな精神療法の一種とみなされることへの反発がある。精神分析家の育成、訓練は教育分析、精神分析家によるスーパーヴィジョン、理論的学習の三つの柱からなる。これにたいして、精神分析家以外の精神療法家の場合、実際には教育分析を受ける人も少なくないとはいえ、それがオブリゲーションにはなっていない。精神分析家の側には、それゆえ一般に、他の精神療法とは異なる育成を受けてきたという自負がある。加えて、精神療法が一般にその名のとおりセラピーであるのにたいし、精神分析は本来セラピーに還元されない。セラピーがもっぱら症状の解消や軽減を目標とするのにたいし、精神分析は症状を方向づけている享楽モード、同一物の永劫回帰を強いる享楽のありかたそのものの変更をめざす。それゆえ、精神分析がセラピーと同一視されること、セラピーとして機能してしまうことは、精神分析の非本質化、あるいは倭小化にほかならない。


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