カラカスの歴史について

July 28 [Sun], 2013, 17:57
スペイン人の到達以前のこの地はカリブ系のカラカス族の土地であり、都市は存在しなかった。スペイン人の征服者がこの地を訪れると先住民は頑強に抵抗し、特にテケス族の指導者グアイカイプーロに率いられた軍団は頑強に抵抗を続けたが、1567年にスペイン人の征服者ディエゴ・デ・ロサーダが、先住民との戦争の最中にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカス (Santiago de León de Caracas) という名でこの街を建設した。カラカスの名は、この地に住んでいたカリブ人の一部族、カラカス人からとられた。

17世紀に入り、先住民の抵抗が排除されるとスペイン植民地時代にカラカスはベネズエラの中心になった。植民地時代のカラカスはイギリス海賊に幾度となく襲撃され、1594年には海賊の放った火で全焼した。その後カラカスの再建は進んだが1641年に地震で再び壊滅し、以降18世紀まで停滞が続いた。

スペインの制海権喪失やユトレヒト条約(1713年)により、ベネズエラとオランダ、イギリスの密輸が横行するようになると、1728年にフェリペ5世はこの密輸を取り締まるために、バスク人商人の資本でカラカス王立ギプスコア会社を設立した。会社にはスペインとの貿易特権が認められ、ベネズエラ経済の拡大の一翼を担う存在となった。1777年にカラカスはヌエバ・グラナダ副王領内のベネズエラ総監領の首府となり、1786年にはイスパニョーラ島のサントドミンゴのアウディエンシアから独立する形でカラカスにアウディエンシアが設立された。1800年にアレクサンダー・フンボルトがカラカスを訪れた際の人口は40,000人から45,000人に達し、市民の半数以上が有色人種だった。1808年には初めて印刷機が導入され、同年ベネズエラ初となる新聞が刊行された。

ベネズエラ独立戦争がはじまると、カラカスは独立闘争の中心地となった。1811年5月5日にスペイン領インディアス植民地で初めて独立宣言を発し、アルゼンチンのブエノスアイレスと共に南米独立運動の先頭に立った。解放者シモン・ボリーバルはカラカスでアメリカ大陸屈指の名家に生まれこの町で独立運動に参加した。地理的にスペインに近いこともあって、カラカスは王党派と共和派の争奪の的となった。さらに戦争中に地震に見舞われ、市街地の2/3を喪失するなど艱難を舐めた。長い死闘の末に1819年にカラボボの戦いで解放軍が王党派軍に勝利すると、カラカスは最後の解放を経て正式にベネズエラ第三共和国の首都となり、ヌエバ・グラナダとベネズエラは両国からなるコロンビア共和国(大コロンビア)を発足した。しかし、独立後のコロンビア共和国の首都はヌエバ・グラナダのボゴタに置かれたため、カラカスは繁栄を失った。これに対するカラカス市民の不満がベネズエラ分離の一因となった。1830年にベネズエラはジャネーロの頭目のホセ・アントニオ・パエスの下でコロンビアから分離独立した。

分離後のベネズエラの首都は、一貫してカラカスに置かれた。植民地時代のカラカスには教会以外の公共的建築物が貧弱だったが、19世紀半ばにアントニオ・グスマン・ブランコ大統領のもとで首都として整備された。フランスとアメリカ合衆国の文化に憧れていたブランコはカラカスをパリのように改造することを望み、当時ベネズエラの主産業だったコーヒー産業の利益がカラカスに投下され、イギリス資本によって市街電車や鉄道が整備された。1899年に始まるシプリアーノ・カストロの時代にアレハンドロ・チャタイングの手によって美術館や劇場が整備された。

植民地時代から19世紀までカラカスの市街部の面積はほとんど変わらなかったが、20世紀に入って人口が著しく増加しはじめた。1917年にマラカイボ湖で石油が採掘されるようになると、石油収入がマラカイボとカラカスに重点的に投資されるようになった。特に1930年代後半以降石油収入による工業化政策が進むと、カラカスはベネズエラの工業センターとなり、国内移民の流入が進んだ。1950年代以降この政策はさらに進展し、カラカスはアメリカ合衆国の大都市を模した現代的なビルが立ち並ぶ街に変貌していった。都市化とそれに伴う人口流入が進むと共に都市の周りの山々にランチョと呼ばれるスラムが形成され、治安は著しく悪化した。1983年にはフランスの技術によってカラカス地下鉄が開通した。

1989年にランチョの住人の公共料金の値上げへの抗議から暴動が勃発し、軍隊の発砲によって700人以上の死傷者を出した(カラカソ)[2]。

21世紀初めまでに盆地の全域を市街が覆い、周辺の丘陵部まで宅地になっている。

参照元:Wikipedia「カラカス

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カラカスのスポーツについて

July 28 [Sun], 2013, 17:57
・ベネズエラは世界でも有数の野球大国であることもあり,カラカスにおいても野球は盛んである。野球国内リーグのカラカス・レオネスというチームがあり、野茂英雄はそこでプレーしたことがある。
・ベネズエラのサッカーリーグであるリーガ・ベネソラーナで9度の優勝を誇るカラカスFCの本拠地である。

参照元:Wikipedia「カラカス

カラカスの文化について

July 28 [Sun], 2013, 17:56
カラカスはベネズエラの文化的首都であり、複数のレストラン、劇場、博物館、ショッピングセンターを誇っている。市はこれらにまた限定されるわけではないが、スペイン、イタリア、ポルトガル、中東、ドイツ、中国、ラテンアメリカ諸国と列挙される移民の故郷でもある。カラカスはラテンアメリカで最も危険な街の一つであるという評価がある。 [1] [2] [3] [4]

○博物館、図書館、文化的中心
カラカスはその辿った歴史を通じて偉大な文化的熱望を抱えた都市である。古いアテネウムのような施設はこの意識の証拠となるものである。国立図書館は大量の蔵書を持ち、ベネズエラの発見と独立について十分な書誌情報を学生に提供している。 コロニアル・アート博物館は独立以前の時代の万年筆、家具、コロニアル庭園、その他といった興味深いベネズエラン・アートの展示を行う。ファイン・アート博物館は先コロンブス期の陶器など考古学的発見の好例を保持している。

1974年からカラカスは現代美術館を保持しており、現代美術の最も重要な傾向に相当する作品を含み、1982年から、カラカス児童博物館が加わり、私設運営博物館財団によって児童に科学、技術、文化、芸術を教授している。国立科学博物館は原始的土着文化からの考古学的な遺物の豊富な収蔵品を所蔵し、これらの収蔵品とその他のそれほど重要ではないギャラリー(ラウル・サンタナ・クレオール博物館、交通博物館、貨幣博物館、ボリバリアーナ博物館、ハコボ・ボルヘス博物館、カルロス・クルス=ディエス博物館、アレハンドロ・オテーロ博物館、宗教博物館、etc)により、カラカスの文化的熱望は十分に明白である。

○食事
カラカスは移民の影響による豊かな美食の財産を抱えており、幅広い地域料理や国際料理の選択を導いている。フランス料理、イタリア料理、スペイン料理、インド料理、中華料理、日本料理、メキシコ料理を含んだ多くの種類の国際的なレストランが存在する。ラ・カンデラリア地区はスペインレストランによって有名であり、20世紀半ばに多くのガリシア人とカナリア諸島人の移民がこの地区に来たことによる。典型的な料理としてはパベリオン・クリオージョ、エンパナーダ、アレパ、アジャーカ、ブラック・ローストビーフ、チキンサラダなどが挙げられる。チチャ、グアラポ、カラート、ティサーナ(フルーツと飲み物を混ぜたもの)が典型的な飲み物である。

参照元:Wikipedia「カラカス
P R
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