ディビット・リンチ

March 25 [Fri], 2011, 4:53
「いつだって、悪いことが起こる可能性はある・・・たくさんの。・・・たくさんの秘密がある・・・目に映らないものがあるんだ。原子とか、目にみえないものがたくさんある・・・雰囲気を悪くするネガティブな物が、状況を変えてしまう・・・いったん完成すると、そこからすぐに腐敗が始まる・・・何もかも、建てるより、直すより早く壊れて行く・・・」

「防御なんかない。だれも何もコントロール出来ないから、一度そういうことを心配し始めると、もう止まらなくなってしまう・・・基本的に、生きているのはただラッキーなだけだ」

「ぼくは完全に幸福であってしかるべき状況の中にいた。だけど幸せじゃなかった」

ことば

March 02 [Wed], 2011, 11:49
謝れ職業人


「ああ今日も会社に泊まりこみで仕事だよ」

疲れた声で言う
職業人は
謝れ
全ての「だめなヤツ」に
細い声で
謝れ
「ああ、忙しい忙しい」

朝早く出てゆくひと
乗り換えの駅で朝食をかっこみ
後続列車に乗ってゆく
職業人は
謝れ
手をついて
謝れ

「俺はやっとやりがいをみつけた」
なら
謝れ
仕事にきちんと就くことは罪なのだから
それをきちんと謝罪せよ

そう、あなた
今日も働いて働いて
上司に怒鳴られてもがんばって
同僚とのおしゃべりで気晴らして
ときどき仕事でも嬉しい事があるんだよ・・・・・・・
それなら
足下も見ろ
そこに横たういくつもの白い腹を見ろ

白いブヨブヨした腹を踏みつけてサーフィンしているあなた
いえい♪ゴーゴー♪しているあなた
内臓破裂の暖かさに包まれている
あなたは
全ての弱いものに謝罪せよ
あなたの強さを謝罪せよ

仕事

 仕事
  
  仕事

取引
 
 連絡
  
  申し送り

あなたがそうやって一生懸命に生きる事で壊してきた
そしてそうやって一生懸命働くことで壊している
すべてのダメなもの弱いものアホなもの
恥ずかしいもの腐ったもの古くなったもの

謝罪せよ

 あなたが彼らの年金をはらってやることに対して
 謝れ
 あなたが彼らの医療費をまかなうことに
 謝れ
 あなたが彼らを保護しいたわり慰めることに
 謝れ

3月15日くもり
自分がたまたま頑丈であり
毎朝おはようと笑って出かける
そのことに
ごめんな
さい

不機嫌な子猫ちゃん

February 21 [Mon], 2011, 23:59
※公演終了までこの記事がトップページにきます。

青年団若手自主企画 vol.47
『不機嫌な子猫ちゃん』
作・演出:田川啓介

どんなに強い敵がいても、そいつが敵だと認識できているのならば、それほど手強くはないだろう。 本当に手強い敵というのは、自分が敵だということに気づかせない。むしろ味方のような気さえしてくる。いやむしろ大好きだ、いや愛してる、もう抱きしめたい。
当然抱きしめたい相手は抱きしめたいんであって、戦いたくなんかない。だから対立することもなく、気づかないうちにそいつにやられてしまう。そして、やられていることにすら気づかない。
そういう敵こそが本当に手強い敵だ。
だから臭くて暴力的なお父さんが敵になるよりも、優しくてあったかくていい匂いのするお母さんが 敵になったほうがより厄介になる。
それでもお母さんをやっつけないと、今すぐに。

.出演 兵藤公美、井上三奈子、村井まどか、森山貴邦、善積元

スタッフ 舞台美術:濱崎賢二  照明:山岡茉友子  音響:池田野歩  宣伝美術:根古敬生  制作:堤佳奈  芸術監督:平田オリザ 

公演日程 2011年2月15日(火)〜2月21日(月)
15日 火 19:30▼
16日 水 19:30▼
17日 木 19:30
18日 金 19:30
19日 土 14:00 19:30
20日 日 14:00 19:30
21日 月 19:30

※受付開始は開演の30分前、開場は開演の20分前

▼= アフタートークあり
15日(火)19:30の回、公演終了後
16日(水)19:30の回、公演終了後
・参加条件 公演のチケットか半券を持っていらっしゃる方。
・ゲスト 未定
・料金 無料

会場 アトリエ春風舎
東京都板橋区向原2-22-17 すぺいすしょう向原B1
東京メトロ有楽町線/西武有楽町線・副都心線「小竹向原」駅 下車4番出口より徒歩3分
Tel:03-3957-5099 (公演期間中のみ)
※公演期間以外のお問い合わせはこまばアゴラ劇場(03-3467-2743)まで。

チケット料金 予約:2000円/当日:2500円
「母娘」ご招待
「母娘」の親子でご観劇のお客様は、ご予約の際にその旨お申し付け下さい。
特別にご招待させて頂きます。
[※当日お名前の分かる身分証をお持ち下さい。]
※全席自由・日時指定・整理番号付
※未就学児童はご入場いただけません。
※本公演は芸術地域通貨ARTS(アーツ)をご利用いただけます。
(ARTSとは、桜美林大学内の演劇施設で施行されている地域通貨です。1ARTS=1円で使用できます。)

チケット発売開始 2011年1月5日(水)

チケット取り扱い 青年団 03-3469-9107
WEB予約
お問い合わせ 青年団 03-3469-9107

WEBサイト 青年団 http://www.seinendan.org
ブログ http://wakate47.exblog.jp/
twitter http://twitter.com/fukigenkoneko

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
平成22年度文化庁芸術拠点形成事業


雑記

November 26 [Fri], 2010, 14:52
≪摂食障害の家族は、それぞれが自己中心的でありながら、お互いの結びつきは強く、思考や感情を共有する傾向が見られます。問題は、お互いが相手の考えていることをすべて理解しているかのように振る舞い、本人がどんなに「それは違う」と主張しても、自分の推測や理解を相手に押しつけようとすることです。これが「代名詞の混乱」です。
もちろんこの傾向も、摂食障害の家族に限ったことではありません。こじれた母娘関係においては「うちの娘はこうだから」「お母さんはああいう人だから」という決めつけや間違った理解の応酬がしばしば見られます。
ここには、自分の感情を相手のものと錯覚する「投影性同一視」のメカニズムも関わってくるでしょう。これはたとえば、本当は自分が相手に怒りを感じているのに、まるで相手が自分に対して腹を立てているように感ずるような場合を指しています。投影性同一視は、単にこうした錯覚をもたらすのみならず、その錯覚を相手に押しつけ、相手の行動や感情に影響を与えることすらあるといわれています。たとえば、相手から「あなたは怒っている」という誤解が繰り返し押しつけられると、本当に腹が立ってくることがあるように。≫

※誰もが「不完全な一人の人間」に過ぎない、という発見。<呪縛>を解くためには、その呪縛されている対象を、白日の下にさらしてみることである。白日の下で、その人間がいかに「不完全」であるか(すべての人間は「不完全」である)、その等身大の姿を発見することで、<呪縛>を解くことができる。
≪母というのは要するに一人の不完全な女のことなんだ、と。≫


のために尽くそうとするのです。「彼女たちが何か目に見えるものを与えるかぎりにおいて、彼女たちの頭は、自分は内的に空虚ではないと彼女たちに語りかけるのである」といいます。
たとえば「体がぼろぼろ」という表現があります。個人的な経験に照らすなら、私は男性がこの表現を使うのを聞いたことがありません。私の経験した使用例は、すべて女性のものでした。女性の皆さんは、きっとこの感覚がよくわかるのだろうと思います。しかし男性としての私自身は、「体がぼろぼろ」ってどんな感覚なんだろう、とどうしても疑問に思ってしまうのです。
女性に圧倒的に多い病気である摂食障害も、あるいはこのために生ずるのかもしれません。オリヴィエはこの病気を女性に特有の空虚さの感覚と結びつけようとします。しかしおそらく、それだけではありません。女性は男性と異なり、食欲と体重を意のままにすることによって自己コントロール感を高めることは、高い自己肯定感に通じています。
ここで、これまでの流れをざっと整理しておきましょう。
女性性とはすなわち身体性のことであり、女性らしさとは主として外見的な身体性への配慮です。それゆえ女の子へのしつけは、男の子の場合とは異なり、他人に気に入られるような身体の獲得を目指してなされます。このため母親による娘へのしつけは、ほとんど無意識的に娘の身体を支配することを通じてなされがちです。
身体的な同一化による支配において、母親は時に、娘に自分の人生の生き直しすら期待します。こうした支配は、高圧的な命令によってではなく、表向きは献身的なまでの善意にもとづいてなされるため、支配に反抗する娘たちに罪悪感をもたらします。
しかし、母親による支配を素直に受け入れれば、自分の欲望は放棄して他者の欲望を惹き付ける存在(「おしとやか」で「可愛い」女性)という「女性らしさ」の分裂を引き受けなければなりません。それゆえ母親による支配は、それに抵抗して従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらずにはおかないのです。≫

『だから母と娘はむずかしい』キャロリーヌ・エリアシェフ ナタリー・ヱニック

November 17 [Wed], 2010, 17:01
・「子どもを愛しすぎるなんてあり得ないわ!」という熱狂的な母性愛の叫びは、愛する対象に飢えた女たちのスローガンに他ならない。彼女たちは融合できる愛の対象を探し、対象との限りない一体化を求めてやまないが、こうした愛の形を男性はふつう受け入れない。男性は性的に他者でありすぎるため、愛でもって「支配」することができるほど柔軟でも脆弱でもないからだ。逆に子どもは幼少時には「支配」の対象として理想的で、母親に完全に依存しているため、捕まえて思い通りにできる。しかも女の子の方が好都合なのは、母親による「支配」が自分に似た存在への自己愛の投影によって強化されるからだ。娘が母親と異なることが許されるのは、母親が果たし得なかった希望や抑圧された欲望を実現する場合のみだ。


『リリイ・シュシュのすべて』から

October 12 [Tue], 2010, 4:27
蓮見「おまえ佐々木とどうなったんだよ?」 
津田「断ったよ、私じゃつりあわないっしょ」 
蓮見「なんでだよ!馬鹿か!あいつならおまえを星野から守ってくれたのに!」 
津田「だったらあんたがあたしを守ってよ」 
蓮見「・・・・・」
津田「でもあんた久野さんなんでしょ」

イノセントピープルを観て

September 13 [Mon], 2010, 4:46
ずいぶん前ですが観てきました。
台本がうまいなあと思いました。
でもおもしろかったかというと正直言ってあまり楽しめませんでした。
評判はよかったみたいです。確かに上手な台本だし、演出も緊密間があったと思いますし、俳優さんも頑張っていたと思います。優れた作品だと思います心から。
これが楽しめなかったのはオレのせいです。

オレはマキノさんの「東京原子核クラブ」が好きですし、畑澤さんの「修学旅行」も好きです。
「東京原子核クラブ」は日本人も原爆をつくれたらつくったのでありつくらなかったのはつくれなかったからだと言っています(私感)。これは今まで誰も言わなかったことなんじゃないかと思いました。オレが無知なだけで言ってたのかもしれないけど。でもそういうテーマ以上に群像劇として優れています。くだらなくて好きです。
畑澤さんの「修学旅行」も好きです。戦争のことを書いているけどくだらないからとっても。

オレくらいの年の人って未来がとても不安なんじゃないだろうか。いや年齢関係なくみんな不安なんじゃないだろうか。
自分の価値を高めることにみんな必死です。だからそれ以外のことに時間を使っているヒマがないんじゃないかしら。だってそうじゃないと生きられないから。死んじゃうから。
オレは日本人ですが、原爆をつくったアメリカ人が謝らなかったと言われても、ああそうですか、としか思えないです。最低ですね。
そういえば「銭ゲバ」というマンガでも主人公は自分の会社が引き起こした公害病に苦しむ人たちに謝らなかったなあ。

オレには原爆のことを真面目に考えてる余裕がなのかもしれないです。バカな若者なんです。もっともっと笑いたかったです。心に余裕がないのかもしれません。
もっとくだらなくしてほしかったです。
個人的に何の役にもたたないような芝居か、イマを描いているものが好きです。

『めぐりあう時間たち』から

September 10 [Fri], 2010, 2:38
「翌朝、限りない可能性を感じた。『そう、これが幸せの始まりなのね。この先、もっと幸せが訪れるんだわ』って(笑)。でも違った。始まりではなかった。あの瞬間こそが幸せそのものだった」

『文学の断層』斎藤環著

September 03 [Fri], 2010, 0:34
・すでに現実という「大きな物語」がフィクション化し、複数の視点が複数の現実を主張する現代においては、現実の事件をネタにすること(メタ的視点)が、そのままベタな語り口に直結してしまう。
複数の視点は物語が主張する物語の単一性を解体する。ここでは「あらゆる物語は、この社会においては、つねにメタ物語的な社交性の介入によって脱臼される運命にある」。
それゆえ現実もまたメタ物語と化しているのであり、そこでは「ベタに作品をつくればメタフィクションになるに決まっている」のだ。このような世界では、徒未の「物語―メタ物語―批評」という区分が成立しなくなる。
それゆえ現代のメタフィクションは、「批評性を回避するために=感情移入を強化するために書かれてしまう」。また多くの物語はラカン/ジジェクの言う「現実界」と「想像界」を直結させる傾向があり、そこでの物語は「荒唐無稽なフィクションの回路」を介して、「自分の周囲の世界をリアルだと感じる」ことを目指すのである。こうした方向性を解くキーワードこそが「メタ(ネタ)とベタの乖離的な共存」ということになる。

おそらく金原ひとみは、虚構と現実をごく素朴に区別しているはずで、その限りにおいて彼女の姿勢は「ベタ」なものだ。しかし佐藤友哉らの姿勢は、「この現実はすみずみまで虚構で構築されているのかもしれない」という懐疑に向けて開かれている。そうであるなら、ここで伝えられるのは、彼らの「懐疑」と「葛藤」そのものであり、そこにこそ彼らの固有性が宿るのだ。「ベタ」な姿勢には決して宿ることのない固有性を、彼らの作品が胚胎し得るのは、フィクションというメディアの特殊なフィルター性によると考えられる。

・何かを信じすがろうとして、何一つ信ずるに足るものがないと知らされたとき、人はどう行動するだろうか。
「愛は祈りだ。僕は祈る」で始まる舞城王太郎『好き好き大好き超愛している。』は奇妙な小説だ。
「祈り」についてのモノローグがある。
「祈ることに何の意味があるんだろう?僕達は祈ることで救われてたりするんだろうか?気が楽になったりしてるんだろうか?何かを解決したり、発見できたり、その手触りを感じられたりするんだろうか?まさか。祈るという一瞬の行為に僕達は救いも不安の解消も、問題の解決も、何も期待などできない。祈りはあくまでも膝をついたり手を合わせたり頭をうつむかせたりして願いを言う、思う、その刹那だけに始まって終わる。それ以上何もしないし何も思わない。ただひたするに欲しいものを欲しいと言うことが祈りだ。(中略)祈りとは、ただ、何かを求めていると、それをくれるわけではない誰かに、あるいは誰でもないものに、訴えかける行為なのだ。(中略)僕達の気持ちの中には、絶対に言葉にしないと、何と言うか、自分を蝕んでしまうようなものが紛れ込んでいる。(中略)『死なないでくれ』と言わなかったことで、僕はまるで、自分が柿緒の死を受け入れたみたいに見えたように思えて、それが僕を蝕む。(中略)無駄と知りながらも言うべき言葉は一つの祈りだ」
祈りの無効性は知りつつもなおも祈り理由。それは言葉への信頼である。そう、祈りとは言葉の持つ臨海的機能を駆使することだ。喪失に悩む恋人たちというわずかな共通項だけで、時空も関係も設定すらもかけ離れた複数のエピソードを強引に接続するのも、また「祈り」であり言葉への信頼だ。舞城による、この凶暴なまでの言葉の酷使は、ここではまさに祈りとしてなされるのであり、それが祈りであることによって、虚構空間内での幻想と現実が接合される。もちろん虚構は虚構でしかないが、舞城の凶暴なまでの「祈り」の感情は、確実にわれわれに転移されることになるだろう。

ジジェクは信仰について、次のように言う。
「人間の私が自身を神から切り離されたと経験するとき、まさにその放棄のきわみの瞬間において、私は絶対的に神に近づく。自分は見捨てられたキリストと同じ位置にいるのだから」と、信仰もまた位相空間の問題に置き換えられる。
それゆえ、いま私に言い得ることは、次のことである。
たとえそれがどれほど虚構に浸された空間であろうとも、「この空間」と「あの空間」の合一を切望する言葉こそが、すなわち「祈り」である、ということだ。もし「震災文学」の可能性があり得るとすれば、それはひとえに、私たちがいかにして複数化・多重化した空間を再接合するための言葉を生み出し得たのか、この一点において判断し得るように思われる。

『ビリー・ザ・キッド全仕事』より3

August 28 [Sat], 2010, 14:28
雨の中で花たちのそばに
腫れあがって裂けた
あの花粉のひどい匂いがする蕾たちのそばにいる
浪費の白い滴をきみにむけて
空中へ吹き出している
かれらのジュースをそのままにさせて
どぎつい色で死んでいくものの匂いをかぐ
その匂いはきみの鼻をつまらせ
湿った綿みたいに脳の中に入りこむ
ほとんど息ができない、なにも
なにもない濃厚な甘ったるい死だ
P R
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