たった一度の武勇伝(2) 

December 09 [Thu], 2004, 14:40
どうもこの男性、しょっちゅうこのような騒ぎを起こしているのではないか?
奥さんの態度を見てそう思った。

ふと気が付くと私達の周りには人だかりが出来ていた。
近くで事の成り行きを見ていたおばさんが、「奥さん、強いね。男が暴力を振るったら警察に電話しようと思ってたんだよ。母は強しだね。」と言ってくれ、ホッとした瞬間手足はガクガク、喉はカラカラ、立っていられなくなりその場に座り込んでしまった。
子供達は呆気に取られてどうしたらいいかわからず、その場に立ちすくんでいた。

その時、やっと駐車場が空いたからと店にやってきた夫が、その私の姿を見て「どうしたの?」とお気楽に尋ね、「どうもこうもないわよ〜〜!もっと早く来てよ!」と半分泣きそうになりながら今の出来事を報告すると、「相手が凶器でも持ってたらどうするんだ!何事もなかったからいいような物の、気をつけろ!」とひどく怒られ、更に悔しい思いをした。
美味しい筈のお寿司も砂を噛むような味気なさ。
家に帰ってきて号泣したのは言うまでもない。

その後、長男が学校で作文に「僕のお母さんは強いです。」と書いてくれたのが、せめてもの慰めになったのである。

今思い起こすと何であれほどまでに強くなれたのか。
あんなエネルギーがどこから湧き上がってきたんだろう。
あとにも先にももうあんなことはないだろうな。
たった一度の私の武勇伝。。。

たった一度の武勇伝(1) 

December 09 [Thu], 2004, 14:37
まだ関西に住んでいた頃のこと。

車で10分ほどのところに美味しいと評判の回転寿司屋があった。
私達が行った日は土曜日の夕食時ということもあって、駐車場に車が入れないくらい混んでいた。
その為私と子供達を店の前で降ろし、夫は少し離れた駐車場へ車を停めに行くことに。
私達3人は空きを待っている人をかき分け、奥に設置してある順番待ちのノートに名前を書き、店の外で席待ちをしていた。

まだ小学生だった息子達は待ちきれず、何度か店の中のそのノートを見に行き、「あと○番で順番が回ってくる〜!」と私に報告してくれていた。

そうこうしている内、次男が泣きそうな顔で店の中から出てきた。
私「どうしたの?」
次男「あのおっちゃんがゲンコツで頭叩いた〜!」
どんな理由があれ、人様の子供を叩くなんて許せない!
ましてゲンコツで頭を叩くなんて!

ガラス張りのドアを見ると、すごい剣幕でこっちを見ている中年男性と目が合った。
『はは〜ん。。アイツだな。。』
カーッと頭に血が上っている私は大胆にもその男性に手招きをし、店の外に呼び出したのである。

私「ウチの子供の頭を叩いたのはあなたですか?」
男性「混んでる店の中でチョロチョロしやがって! おまえのしつけが悪いからだ!」
私「まだ子供なんだからチョロチョロするのは仕方ないでしょ!」
男性「おまえのしつけが悪い!」
私「あなたに何か迷惑掛けたのですか?」
男性「おまえのしつけが悪い!」
私「あなたそれしか言えないの? あなたにも子供がいるんでしょ? 人の子供を叩いていいんですか? 謝ってくださいよ!」

私がそこまで言い終わると、男性は拳を振り上げて今にも私に殴りかかるようなそぶりを見せた。
私「殴りたければ殴りなさいよ!」
男性「おまえのしつけが悪いんだ!」

そこで男性の拳を引き下げる人物が登場。
「お父さん、もうやめておきなさいよ!」
男性の奥さんだ。
私「奥さん!あなたのところにもお子さんがいらっしゃるんでしょ? 何で人の子を叩くなんてこと出来るんですか?」
奥さん「無言。。。」
私「謝りなさいよ!」
男性がまた拳を振り上げる。
奥さんが男性をなだめ、私には一言もなくふたりで自転車で帰って行った。
その後姿に私はまだ「謝りなさいよ〜!」と怒鳴っていた。

いたずら電話 

October 10 [Sun], 2004, 14:36
今から20年前。
実家の母が『このところ毎朝4時になるといたずら電話が掛かってきて困る』とこぼしていた。
何を尋ねても一言も喋らず、ハーハ―という息づかいだけが聞こえてくるらしい。
「そんな電話、取らなきゃいいじゃないの!」と言っていた矢先、犯人が意外なところから判明した。

3歳と1歳になったばかりの我が家の息子達。
ふたりともおもちゃの電話で回らない舌でお喋りするのが大好きだった。
週に一度は会っているにも関わらず、時々本物の電話でお婆ちゃんやお爺ちゃんと話すのが習慣になっていた。
次男は受話器から自分を呼ぶ声がするのが不思議で仕方がないようで、受話器をひっくり返してはその姿を探していた。

ある日の朝早く、電話機のそばで次男がちょこんと正座し、自分の顔より大きな受話器を両手で抱えじっとしているのを見た瞬間、確信した。
「犯人はこいつだ!」

実家の電話番号を短縮ダイヤルの1番に登録していたので、そこを押せばお婆ちゃんが出てくることをいつの間にか覚えていたのだろう。
それで目が覚めるとすぐ布団から抜け出しては1番を押していたのだ。
お婆ちゃんの「もしもし、どなたですか?」の声が毎朝の楽しみだったようだ。

それがわかってからは今度はそれが父母の楽しみに変わり、毎朝4時の定期便を心待ちするようになった。

今では息子達が祖父に電話することは滅多になく、お小遣いが送られてきた時だけ「じいちゃん、ありがとうな。」と甘い声で受話器に囁くのである。

火鉢 

August 28 [Sat], 2004, 14:32


これは実家から持ち帰ってきた練炭火鉢である。
私が物心ついた頃にはすでにあったので、相当な骨とう品だ。
今はもうすでに役目を終え、実家の物置で眠っているところを無理に起こし、車で東京に持ち帰った。
余生は観葉植物の鉢カバーとして大きな顔で鎮座している。

この火鉢には思い出がギッシリ詰まっていて、例えば、練炭をかんてき(七輪のこと)で真っ赤になるまで焚き、火鉢に戻すのが私の毎日の役割だったこと、股で火鉢を挟みながらいつの間にか寝てしまったこと、アンカの中に入れる豆炭を練炭の上に置き、赤くなるのを待ったこと等。。。
数え上げればキリがない。

今のように電気コタツが普及していなかった昔むかし。
手先の器用な父が真ん中を丸くくり抜いたテーブルを手作りし、そこにこの火鉢をうまい具合に入れ込んだ。
テーブルの周りには、使い古しの毛布がくるっと一周貼り付けられていて、まぎれもなくそれは即席家具調コタツだった。

足を入れると温かく、つい体ごと全部入り、顔だけ出してテレビを見るのが楽しみだった。

ハリハリ鍋もお好み焼きもおでんも火鉢を囲んで食べた。
優しかった祖父がいた。
父の怒鳴り声や母の笑い声があった。
一家団欒の中心にはいつもこの火鉢があった。

いつの間にか練炭火鉢は出る幕を失ってしまったが、私にとってはかけがえのない思い出の品である。

年齢なんてどうだって 

August 20 [Fri], 2004, 14:30
公園デビューの時も学校のPTA役員をした時もどんな時も、女同士の会話のスタートは決まって「あなたいくつ?」

『なんで気になるの?』『何のために聞くの?』
ずっとそう思ってきた私は、自分から年齢を明かすことも聞く事も滅多にしない。

長男の高校で3年間PTAの役員をしたが、ついに年齢は明かさずじまいだった。
「ねぇ、何年生まれ?」から始まり、曖昧な答え方をすると今度は「何歳で子供産んだ?」とくる。
あまりしつこく聞く人には夫の年齢を教えることにしている。
そこからどうにでも想像していただいて結構。

「大抵はご主人より2〜3歳年下よね。」
「いいえ、同い年ってこともあるわ。」
「ペタジーニの例だってあるわよ。」

年齢を聞くことによって何がどうなんだろう。
年齢が近ければ親近感を覚えるのは事実だけど、年齢差なんてどうってことないんじゃないかな。
年齢は強いて聞くまでもなく、付き合っていく内に自然とわかることだ。

「喜び組」とは年齢差を越えて楽しいお付き合いをさせてもらっている。
年齢差があるからこそ楽しい。

年齢なんてどうだってと思っている私。
変ですか?

入院騒動記(2) 

June 09 [Wed], 2004, 14:27
翌日点滴と薬が効いたのか顔色もよくなり、食欲も少し出てきた。
そうしたら今度は「帰ろう!帰ろう!」と駄々をこねだす。
回診の先生が聴診器を胸に当てようとすると、その先生の膝を蹴るわ蹴るわ。
先生も根負けして聴診器を当てず仕舞い。

その日の夜も地獄。
泣いて泣いて横にしただけで泣き叫ぶ。
「おうちに帰ろうよ〜!」
病院中に響き渡るほどの声で泣き叫ぶものだから、たまりかねて隣の病室のお婆ちゃんが『私の部屋で寝る? テレビもあるよ。』と言ってくださった。
それでも泣くのをやめない。
帰ろう、帰ろうの一点張り。

他の入院患者さんに迷惑だからと次男を抱いて下のロビーに行き、待合室のベンチで子守唄代わりの童謡を歌ってやりながら、私も涙が止まらなかった。

翌日の回診で担当医が「○○ちゃんは、今日おうちに帰っていいよ。その代わり毎日先生にお顔を見せにきてね。」と言ってくれた。
昨夜のロビーでの光景を先生か看護婦さんが見ていたのだと思う。
有難かった。

熱はまだ下がりきっていなかったが、次男の入院生活はたったの2泊3日の強制退去命令で終了(^^ゞ
退院する時は同室の人は勿論、向こう三軒両隣(?)の病室にまでお詫びに回った。
『あら!もう退院するの?早く退院できてよかったわね。』と喜んでくださったが、内心静かな夜がまた帰ってくるとホッと胸を撫で下ろしただろうな。

退院してきた次男に向かって父が、「お〜お〜♪ お前は愚連隊よりすごいなぁ〜! 泣いて相手を負かしたか!」と訳のわからないことを言って目を細めた。

次男は頑固で人の言う事を聞かず猪突猛進だが、あの頃からその性格は変わらない。
そんな性格が父は大のお気に入りなのだ。
類は類を好むというか何というか。。
似たもの同士ですわ・・^^;

入院騒動記(1) 

June 09 [Wed], 2004, 14:25
我が家の息子達は私に体質が似ているのか二人とも気管が弱く、しょっちゅう熱を出しては親を慌てさせていた。
「コン!」と咳を1回すれば必ずその夜は氷枕が必要だった。
咳き込む度に食べた物を吐く。
カーペットを何回取り換えたか。
一人が熱を出すと続けてもう一人も熱を出す。
長男は医者の薬ですぐ治るのだが、次男は薬だけではなかなか治らず、いつも点滴を数回してもらってやっと治るというパターンだった。

寒い時期など、おんぶした次男に亀の子を被せ、長男にはジャンパーの上からバスタオルをグルグル巻き、息が出来るように口と目だけを出させて、まるでエスキモーの子のような出で立ちで自転車に乗せ、全速力で小児科まで漕いでいく。
格好もへったくれもあったもんじゃない!
必死だったし、若かった^^;

次男が3歳になってすぐ、また高熱を出した。
いつもより熱が高いし、点滴をしても一向に治る気配がない。
医者は「風邪だから心配ない」と言う。
それにしては息遣いがいつもと違う。
ぐったりしてるし、食欲もない。
「これはおかしいわ。。」
すぐ実家の近くの救急病院に連れて行った。
長男を実家に預ける為にその病院を選んだのだ。
日曜日だったが運良く小児科医が当直で、すぐにレントゲン撮影。
今までぐったりしていた次男が泣き叫ぶ。

「肺炎だからすぐ入院してください」
その後ちょうど当時流行っていた川崎病の疑いもあるということで血を採ることに。
採血の様子は親には見せないらしく、診察室から夫と私は追い出された。
診察室からは今にも殺されるかと思わんばかりの次男の叫び声。
その声を廊下で聞きながら私も泣いた。
もっと早く気づいてやればこんなことにはならなかったのに。。

診断の結果、幸いにも川崎病は患っていなかったが、肺炎の治療の為即入院。
短くて3週間。 場合によってはそれ以上になりますとのこと。

病室はふたり部屋にベッドを三つ置き、定員オーバーの状態。
患者は3人とも子供だったが親がそれぞれ寝泊りするので実際には6人だ。

夜は小さい子供用のベッドに小さくなってふたりで寝る。
グッタリして歩けないため次男にはおしめを当てていた。
そのおしめも気に食わなくて散々泣いてやらせてくれなかったが、入院初日はいつの間にか泣き疲れて寝てしまった。

出物腫れ物ところ構わず 

May 16 [Sun], 2004, 14:22
何年か前、夫とふたりで川崎大師に行ったときのこと。

大渋滞に巻き込まれやっと着いたのがちょうどお昼時。
川崎大師の近くのうどん屋に入ると、ふたりがけのテーブルに通された。

人がやっとひとり通れるくらいのスペースを挟んで、またふたりがけのテーブルがある。
私達の隣のテーブルには、同じように夫婦連れがうどんの来るのを待っていた。

二組の夫婦はお互い知らん振りを装いながらも、それとなく気にはしていた。
蓮向かいに座った厚化粧の奥様と時々目が合い、私はそのたびに視線を調理場のほうに泳がせ、『まだかなぁ〜』と独り言を言うのである。

私達がうどんを食べ出してすぐ隣の夫婦にもうどんが来た。
しばらく食べていると夫のとなりの厚化粧が、うどんを食べながらやおら片方のお尻を上げたと思った瞬間、

「ブリ〜!」

なんと、おならを垂れなすったのだ!

向かいの夫は目を見開いて私を見るし、私は厚化粧と隣の旦那様の顔を交互に見るし。
とっさにどんな顔をすればいいのかわからなかった。

だけど、この夫婦、私の視線もなんのその、知らん顔してうどんを食べ続けているのである。

私達のお箸は止まったまま。
おなら音が聞こえたのは私達だけだったようだ。

音の割りに臭いはしなかったのがせめてもの救い。
(まぁね、昔から大きなおならは臭いがしないというけど。)

家でご飯を食べながらおならをしようが、何をしようが一向にかまわないが、人前でそれも食事をしている時におならはないだろう!おならは!
出物腫れ物ところ構わずっていうけれど・・・

うどん屋を出てからの私達の会話が弾んだことはいうまでもない。

10年経ちました(2) 

March 31 [Wed], 2004, 14:19
『このままじゃ、私、ダメになるわ。何かしなきゃ!』

その時偶然目に入ったのがスーパーの階段脇の掲示板だった。
”生徒募集”
『これしかない!』

パッチワーク、編物、洋裁、和裁・・・
その中で特に私の目を引いたのが「紙粘土教室」だった。
不器用な私でも粘土なら小さい時に何度か手にして遊んだ記憶がある。
これなら出来るかもしれない。。。
ビビっときたのだ!
このひらめきが今の私の幸せに繋がっている。


生き方上手な先生に恵まれ、楽しい友達にも恵まれた。
粘土教室さまさまだ。
おかげさまでそれまでの孤独感や疎外感から徐々に開放された。
手を動かすより口を動かすのに忙しい賑やかな教室でみんな輝いている。
この人たちと巡り合えてよかった。。。

つくづく思う。
人の縁は不思議だ。
私が夫に付いて関東に来なければ、スーパーの掲示板を見なければこんなに楽しい日々はなかっただろう。
あの、寂しかった日々があったからこそ、今の楽しさがあるんだと思えば、あの辛い孤独感も無駄ではなかったんだ。

コテコテの関西弁も10年も経つとなんとか人並みに標準語に変わった。
引っ越した当初、「テレビ↑」を「テレビ↓」と言った私を嘲笑した女性!
『関西弁の何が悪いの?』と腹立たしく思ったことも今ではいい思い出。

いろいろあった10年。
激動の10年。
今まで生きてきた環境がコロッと変わることに、こんなに神経を使うなんてことは思っても見なかった。
私って自分が思ってた以上に寂しがり屋で泣き虫だったことも発見。
この経験で一回り大人になったかな。。。

10年経ちました(1) 

March 31 [Wed], 2004, 14:17
私達家族が関西から関東に引っ越して来たのはちょうど10年前。
夫の転勤がきっかけだった。
単身赴任のこともチラッと頭をかすめたが、長男が中学に上がる年だったのでいい区切りだと思い、家族全員の移住を決意した。
色んなグループの人たちに歓送会を盛大にやってもらい、私達コテコテの関西人4名は意気揚揚と関東に乗り込んだのである。

・・・そして・・・
今まで何の気なしに使っていた関西弁。
スーパーで大きな声で「何してんの。はよこんかいな!」なんて息子に話し掛けようものなら周囲の人たちの視線が集まる。
その時初めて外国に来たような気分、普段の会話に違和感を覚えた。
何とも言い表しようがない孤独感に襲われた。
頼れるのは家族だけ。
話し相手はテレビだけだった。
どんなに心細かったか。。。

心臓に毛が生えてると言われていた私が神経性の下痢に悩まされた。
毎日夫の顔を見るたび「もう関西に帰ろうよ〜」と無理を言った。
一緒に関西から関東に来た人たちは子供がまだ小さい人が多く、公園などですぐに打ち解け楽しそうに毎日を過ごしている(ように見えた)。
私だけがひとり取り残されたような疎外感。

ほとんど一日中家に閉じこもっていた。
夫は会社、息子達は学校へ。
息子達はすぐ学校にも慣れ、友達も出来て楽しそうにしている。。
日に日に帰宅時間も遅くなる。。。
私は。。。スーパーに行くときだけの外出、誰とも話せない。。。
電話代だけが嵩んだ。
関西から連れてきたインコのピーちゃんも逃げてしまった。
関西の友達と似た人を見かけると知らず知らずの内に涙がこぼれる日々。。
布団の中でいつも泣いていた。
もう、ノイローゼ状態寸前。。。

P R
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:hisachan
読者になる
2004年12月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
Yapme!一覧
読者になる