だいきの願い 〜2013年度ラスト〜 

March 18 [Tue], 2014, 10:18
hi-b.a.町田 2014年2月27日(木) 3学期 8回
〜2013年度最後の定期集会〜
〜鈴木大輝定期集会最後〜

+メッセージ   鈴木大輝
使徒の働き 20章 17節〜38節
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・祈り
愛する天の父なる神様。
あなたが御手をもって、私たちをここまで導き、支え、また変わらずに愛し続けてきてくださったことを覚えてありがとうございます。また私たちはあなたによってみことばに立ち、ここから遣わされたいと願いますから、今語りかけられたみことばをしっかりと心に刻み込むことができますように。私たちがどう思おうと、あなたのみことばこそが確かな真実であるということを覚えて、今そのみことばに耳を傾けます。主よ、どうぞ私たちの心を御霊によって開いて、そのみことばを悟らせてくださいますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

・メッセージ
最後になります。定期集会最後のメッセージです。
みなさんに向けてみことばを語っていきたいと思います。

この町田集会というのは、僕の愛する一人ひとり、誇りである一人ひとりがいる集会です。
聖書は神様を誇るようにと言い、自分のことは誇るなと言いますが、パウロが同労者を誇ったのと同じ権利が僕にあるとするならば、僕が誇りに思っているのは、間違いなくここにいるみんなだ、ということを伝えたいと思います。
僕にとってみんなとキャンプ、ジョイサタ、お泊まり会、そしてこの定期集会で過ごした時間は、どこを切り取ってもかけがえのない時間です。
僕にとってみんなと神様の愛を喜んで賛美することは何よりも楽しい時間で、一緒に心を注ぎだして神様に祈ることは何よりもの喜びで、そしてみんなと神様のことを宣べ伝えていくということはなによりも価値あるものでした。

パウロが獄中のなかから書き送ったエペソの手紙のなかで、彼はイエス・キリストを宣べ伝えていくなかで自分自身は捕えられているが、それは人にではなくイエス・キリストに主の囚人として捕えられているのだと語ったことがありました。パウロはまさに囚人であったわけですけれども「主の囚人である私」として自分自身を紹介しました。福音を大胆に証する中で捕らえられたパウロは、「今捕まっているはいるが人にではない。私は神様にこそ捕らえられている。今私は主イエスの命令なしには何もできない主の囚人なのだ。主がそうせよ、ということに従っているだけのことだ」とパウロは語ったのです。

今日の箇所はそのパウロがあるときに、エペソ教会のもう会うことはできないだろうと、船で立ち寄ったミレトという場所にエペソ教会のリーダー達を呼び出したというシーンです。

パウロはここで自分の思いの丈を心注ぎだして語ります。
今日はそんなパウロの言葉を借りてhi-b.a.を卒業するみんなを送りたいと思います。

みんなに質問したいことがあります。

あなたにとって愛を知りそれを受け取るとはどういう意味ですか?
また、愛するとはどういうことですか?
あなたにとって価値あるものとは一体どのようなことですか?

振り返ってみると私たちがこのhi-b.a.で学んできたことは、この答えとこの答えを振り返って生きる生き方なんだと思います。

愛を知るというのは、イエス・キリストの十字架の大きさを知り、何をするでもなく一方的に注がれている神の恵みを知ることです。
そして愛を受け取るとは、自分ではどうにもならないという罪を悔い改めてイエス様に背負ってもらうことであって、自分自身の弱さを認めて、「自分はできないけど、神様あなたになら」と聖霊に身を委ねていくということを意味します。

私たちはそんなメッセージをなんど聞いてきたことでしょうか。
それを聞いてある時には「納得できない」といって反抗したり、「もっと具体的なものがほしい」と言って他のものにそれを求めてみたりするということもあります。
しかし神様は、同じみことばと同じメッセージを思い起こさせることによって語りかけてきます。

「あなたが考えていることよりもわたしの愛はもっと深いんだ」
「この愛で満足し、それを受け取り続けなさい」

その繰り返しのなかで自分がどれほど罪深い存在であるかを知り、しかしそれでも注がれ続ける神様の愛の大きさというものを体験するというのが、私たちの信仰生活なのだと思わされます。

「彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。『皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存知です。
私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で主に仕えました。
益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」(使徒の働き20:18〜21)


パウロはずっとこのことを主張し続けてきました。「神様に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰こそが大切なのだ」と真っ直ぐ語ったのです。
そしてそれこそが彼が進むべき方向性の基礎であって、また動機となったわけです。

愛を知り、そして愛を受け取ったパウロは、精一杯生きるということを選びました。一生懸命に生きたのです。誰に評価されたいでもない。こんな罪深い自分をそれでも見捨てないで、愛して、選んでくださって、救い上げてくださって、罪深いけれどもその愛を宣べ伝えるという働きへと召してくださった神様。そんな神様への感謝の思いから彼は一生懸命に生きるということを選んだのです。
「やりなさい」と言われてではなく自らそこへ進んでいったのがパウロでした。自らの罪を悔い改め、イエス様の愛によって変えられたパウロは主の前に出て行く生き方、ただずっと立っているのではなくて神様の前に出ていきたい、そういう生き方をしっかりと握り選び続けたのです。

ある時は云われのない避難を受けることもありました。ある時には鞭打たれたり、石打で殺されそうになったこともありました。
しかしパウロはそのような困難も含めて「これでいい」と言ったのです。

神様が与えてくださった道を走り抜けて自分の成すべきことができたなら、この命は全然惜しいとも思わない。
「けれでも、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒の働き20:24)

パウロにとって自分の走るべき道のりとは、神の恵みの福音という、愛と信仰と希望を人々にあかししていくということでした。自分自身でそれを体験しながら走り抜き、それをひとりでも多くの人に渡していくことでした。
パウロはそのことのために労を惜しまずに益になることはひとつも惜しまずに歩んだのです。

その内容は、自己中心から神中心への悔い改め、十字架のキリストに対する信仰でした。
そして、イエス・キリストが生きたようにとその歩みに連なっていく生き方、その福音を生きる生活であったわけです。

多くの人たちは愛を実感する時というのを、自分の理解できる言葉と行動で、自分に良いことをしてもらえる時と言います。愛されるという言葉を自分にとって都合の良いことを言ってもらえることであると思っていることがあります。
しかし本当に愛するというのは、真実を告げることであり、その人を諦めないことであり、その人が回復し、その人が装わない自分自身を握って歩んでいくことなのだということをパウロは心底実感していました。

パウロがクリスチャンを迫害していたとき、彼を動かしていた動機は彼の義でした。「正しいことはなにか?…」
「あいつらは間違っている」「あいつらをあのままにしておくわけにはいかない」という視点だったのです。
しかし、イエス・キリストに出会ってから彼を動かす根本の理由が変わりました。
彼は神の恵みというものを動機として生きるようになりました。
ただの正しさではない…。神の慈しみ憐れみ、その恵みというものが彼の動機となったのです。

「私は愛されているんだ」「罪人である私のために十字架かかってくださった方がいるんだ」「復活されたその方と今生きることができる」「だからこの喜びを他の人にも伝えたい!」

そういう前向きで積極的な動機が彼のうちに芽生えたと言うのです。

愛を知り、愛を受け取ったパウロは、愛を知る素晴らしさを宣べ伝える伝道者として価値あることのために生きる者へと変えられました。
パウロにとって神様の愛を知ったことはなによりもの喜びでした。そしてパウロにとって最高に価値あることとはその時から、その愛を多くの人に伝えることだったのです。

私たちにとって最高なことって、何か素晴らしいプレゼントを貰うことよりも、「愛しているよ」ということをただ投げかけることよりも、本当に価値あることのために一緒に労をして、そのところで良い実を見ることではないかと思うことがあります。少なくともパウロにとってはそうでした。

彼はみんなから感謝の言葉を受け取るよりも、神様を共に賛美して、神の国を共に建て上げ、どんな困難があっても励ましあいながらみことばを慕い求め、主を宣べ伝えていくことが彼にとっての喜びであったのです。

多くの迫害がありました。この時代主を宣べ伝えるということで命を落とす人たちがいました。むしろパウロは命を奪う側でもあったわけです。
パウロは決してなくなることはない罪を犯してしまった負債を抱えながら、しかしそれをすべて払ってくださったイエス・キリストの愛に感動しつつ、歩んでいったのです。

「これを伝えなければならない」「このためにこの命を使わなければならない」


あなたにとって愛するとはなんですか?

多くの人は迷っていると聖書は記しています。多くの群衆は弱り倒れていると語ります。イエス様は群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てている彼らを可哀想に思われた、と記されています。

私たちの生きる歩み、それは「神様がいれば大丈夫」と言えるものなのかもしれない。でも「大丈夫」ということ以上にもっと価値あるものはなんであるのかを考えていきたいのです。そしてこの世が必要としているものはなんであるのか、その世が必要としているもののために自分を捧げることをしていくことができたらと思います。

「私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
あなたがた自身からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを思い出してください。」(使徒の働き20:29〜31)

ここからみんなが出て行く先は決して容易く必要なことを自動的に提供してくれるような世界ではありません。むしろ激しい戦いの中で、いやむしろ戦いの中に置かれていることも気づかせないように巧みに私たちの魂を引きずり下ろそうとするような、そういう攻撃が待ち受けています。私たちの進む先には凶暴な狼が攻撃を仕掛けてくると言うのです。

「真理を握っている人は誰でも偽りからの挑戦を受ける」と語った人がいました。その言葉の通りに真理を握っている私たちはこれから多くの挑戦を通らされ試される時が来るわけです。


だからこそ今、みことばによってみんなに勧めます。

目をさましていなさい。

イエス様から目を離してはいけません。

私たちが身を委ねるべきは、世の楽しみや、その時に感じる心地よさではなく、永遠のなかで価値あるものを獲得する歩みであるということを覚えていなさい。



だからこそ32節、
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々のなかにあって御国を継がせることができるのです。」(使徒の働き20:32)

この三年間、町田集会で五年間でしたけれども、僕がhi-b.a.で成してきた指導がみんなの目にどう写っているのか僕の目にはわかりません。でも僕がこのところでこのことを握ってほしいと思ってきたことがあります。

それはみんなが、みことばを握り、キリストのからだなる教会に連なり、しっかりと立ってその信仰を持って歩むことです。自立をして、信仰を持って歩むことができるようにということです。
僕がみんなにチャレンジすることのなかには「それは雑じゃない?」と責められるような多々あって自分でも雑だと思いつつ、あえてそれをさせてもらったことがあります。

神様は一から十まで必要なことをすべて手とり足とり教えてくれる人を送ってはくれません。むしろ自分でしっかりと立って歩むことができるようにと、私たちを励まされるお方であると信じています。
個人的に整えてもらったものにとにかく取り組む、「これを、あれをやりさない」と言われてそれに取り組むというのは、中学生の時期までの過ごし方であると僕は思っています。
そして高校生の時期に、自分はどういうふうにして立っていくのかということを励ましを受けながら、必要な訓練を経て、自立への歩みを踏み出します。
なぜなら、大学生になると多くの場合、無造作にリミットのないところに開け放たれるというのが、今の日本の社会だからです。


だからこそ、今一度みんなにこのことを伝えます。

みことばに留まり、それを灯りとして、主に信頼し、主に身を委ねて生きなさい。


パウロは、今私はあなたがたを神と恵みのみことばとに委ねますと語ったように、僕もみんなを神と恵みのみことばとに委ねます。

いろいろな誘惑があるこの世界において揺り動かされることがあるでしょう。だからこそ、変わることのない揺らぐことのない、永遠に続く神とそのことばが私たちには必要です。

そして、神とともに生きるということは、キリストのからだである教会ことなのだということを決して忘れないでください。

日曜日には教会で礼拝を捧げること。他のものに惑わされて優先順位を間違えることがないように。礼拝の時間だけではなくその教会での交わりを大切にすること。そのところにいる誰もが主が愛しておられる神の家族であるということを忘れないこと。
教会をただ批判して自分が教会の被害者のようにして振る舞うのではなく、当事者としてその教会を建て上げる歩みに加わること。
もし教会に祈祷会があるのであればぜひそのところに出席し、教会を覚えてとりなし、主を求めるということに加わってもらいたい。

教会を離れての信仰生活というのはありえません。礼拝を疎かにしてあなたに良いことというのは決してありません。

卒業生のみんな。ある人は三年、ある人は二年、ある人は最後の少しだけという関わりの人もいました。あるいは今いる1、2年生、中学生、OBOG。
自分がやってきたなかでどれだけのことをみんなに伝えることができたのか、それに十分な自信を持つことはできないけれども、はっきりと言うことができるのは、みんなは確かに、養われてきたということです。
それはなにによってか。神のみことばによってです。
そして成長しているということです。

hi-b.a.は素晴らしいところで、ここに来ると信仰の友がいて、一緒に祈って励まし合ってみことばに感動してイエス様のことを伝えていこうという気持ちになれるところです。
でもhi-b.a.はそれ自体が教会になろうということはしません。それはみんなが所属している地域教会、ローカルチャーチを建て上げて行くということが、この神の国という時代と世代と地域を超えた、神様の大きなからだである教会を建て上げて行くことに繋がると信じているからです。

僕が高校生の頃にhi-b.a.の代表であった吉枝さんが「hi-b.a.のゴールはhi-b.a.が必要とされなくなることだ」と語った話を聞いたことがあります。hi-b.a.なしに一人ひとりが自ら、神様を愛し、教会を建て上げ、みことばを求めつつ、主の御顔を慕い求め続ける、神様との関係を豊かに築いていくことができれば、hi-b.a.はいらないと語ったのです。
そしてそれこそがこのhi-b.a.の働きを進めていくゴールであると言いました。

「hi-b.a.が大好きだ」と言って神様と教会から離れていった人がどれほどいるでしょうか。僕が願うことは、このhi-b.a.での仲間とこの集会の時間をずっと共有していくことではなく、みんなが遣わされたところで、神の国を建て上げる一人ひとりとして歩んでいくことです。


この卒業を期に、必要な勧めをしたいと思います。

自分の教会を大切に、その教会を愛し、その教会の牧師を励まし、教会に仕えていってください。

神様を信じて歩んでいくとき、私たちはいろいろな季節を通らされます。ある時には神様の愛がすごく嬉しいと感じる中を歩まされる時もあります。
しかしある時には「なんで神様のことを信じているのにこんなことが起こるのだろうか」「神様がいるのになぜ?」「私は神様に仕えてきたと思うんだけど」「なんでこんなことが?」「神様本当に自分のことを愛しているのだろうか?」「なぜこの祈りに応えてくださらないのか?」と叫びたくなる時もあります。「一体そんななかで自分はどうすればいいのか…?」と叫びたくなります。

でも今日みんなに覚えてほしいことというのは、

しかしそのなかであっても与える歩みをしてほしい、ということです。


「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒の働き20:35)


今日、三年生にとっては最後の集会になりますけれどもみことばによってお勧めしたいことがあります。

与える祝福を味わい、与える祝福を伝えることができる。そういう人になってほしい。


他の人を祝福して生きる生き方が、私たちが祝福される生き方であるということが、聖書が教えていることです。私たちが与える人になるということは、私たちは自分の中に祝福される管を通すことと同じなのです。
イエス・キリストはどうであったでしょうか。
イエス・キリストは私たちのために自分を造った神を全く見ようとしない者たちのために十字架に向かってその道を歩まれました。それは私たちを苦しみから救い出し、喜びで満たすためであり、希望に満ち溢れさせるためです。
死を打ち破り復活されたイエス様にとって十字架の道は呪いではなく、私たちを愛し救い出すという、祝福の道であったのです。

私たちは神様の前にどのような生き方を選び取るでしょうか。


一つの詩を紹介したいと思います。ジョン・パイパーという人が書いた「無駄でなかったと言える生き方」という一つの文章です。

「あなたは人生を違ったものにしたいとは思っていないかもしれません。

偉大なことのために違ったものであり続けるかどうかなど恐らく気にかけていないでしょう。

ただ人に好かれたいだけです。

人々があなたの周りにいたいと思ってくれるなら、それで満足です。

あるいは良い仕事があり、良い妻か夫がいて、二、三人の良い子供と、素敵な車と、長い週末と、数人の親しい友と、楽しい老後と、安らかな死があり、そして地獄がなければ、

そのすべてを得ることさえできれば、例え神なしでも満足します。

これが信仰中の悲劇です。

無駄にされた人生です。」


私たちの人生をなんのために使っていくのか…?
楽しく過ごせればいいというのではなくて、もっと大切なものが他にあるのではないのかと聖書を読む中で僕は問われるのです。

「もういいよ」と言われれば「もういいかな?もう疲れた」と言いたくなる時もあるかもしれません。でも、それではダメだと思わせるような思いがずっと僕のなかでは消えません。

ただ楽しく過ごせてればいいというのではなくて、この神様の福音のために生きる生き方をしなければ、そのいのちはもったいない。そう思う思いが僕のなかから消えません。

だからこそ、みんなにもそのように歩んでいってほしいと思うのです。

私たちが生きる生き方、それはただ救いで終わる生き方ではなく福音を生きる生き方です。

自分の弱さを分かち合い、祈り合い、お互いを建て上げていくそのような歩みに私たちは連なっていきたいと願います。

ただ自動的に物事をいつも待つのではなく、神様を求め、いつも叫びながら、「自分はどうすればいいですか!」と神様に言い続けていく生き方をしたいと思います。

私たちの最高の悔い改めの祈りは、「私を用いてください」という祈りである。

そのような生き方を私たちはここから歩んでいきたいと思います。

決して自分の強さを誇る必要はない。
ただ自分の弱さにあっても神様はその私を愛して下さり、その私を通して神様が私のことを力づけて下さる。
そのことを証すればそれでいいのだ。

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒の働き20:24)

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒の働き20:35)


このみことばに今、皆さんを委ねてお祈りをします。

・祈り
愛する天の父なる神様。ありがとうございます。
あなたが今日この時与えてくださったことを覚えてありがとうございます。
神様、あなたの前に私たちがどのような生き方をしていきたでしょうか。また、私たちがどのような愛を求めてきたでしょうか。
神様あなたの前に私たちが喜びをもって生きることができますように。
神様、救いに留まるのではなく、神様あなたの福音のうちに立ち上がることができますように。
神様あなたが私たちを愛し、私たちのことを確かに喜んでくださる方であることを信じます。そのあなたにすべてを委ねて、そして期待してイエス・キリストの御名でお祈りをします。アーメン
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☆プログラム☆
どんな時も
いのちの光
自己紹介
きぼう
求めて
メッセージ
栄光から栄光へと

高校生31人!!!

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2013年度の定期集会も終わりました。
高校3年生のみなさん、今まで三年間ありがとうございました。
来年度からの新生活のことお祈りしています。
そしてだいきくんも今までお疲れ様!
ありがとうございました!

来年度の町田集会は4月10日(木)からです!
メンバーも変わり、スタッフも変わる2014年度の町田集会。
新しい風がぶんぶん吹きまわります。
どんな町田集会になるのか...。
楽しみです。
ぜひみなさん新しい町田集会にお越し下さい。

さて私事ですが、今までブログの更新担当としてやらせてもらってましたが、この投稿が最後にブログ担当を引退します!
来年度から新しいブログ担当者が毎週のメッセージを更新してくれます。
だれになるのでしょう。
それもまた楽しみにしていてください!

(最後のブログ更新がかなり遅くなってすみませんでした)

福音の文化に生きる!〜愛とはなにか〜 

February 15 [Sat], 2014, 11:29
2014年2月13日(木) hi-b.a.町田 3学期 第6回
+メッセージ   鈴木大輝
エペソ人への手紙 2章 1節-10節 
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このエペソ2:1-10は今回で五回目です。今回でこのシリーズは最後にしますが、今までどのようなことをここから学んできたのか振り返りたいと思います。
1節-3節には人間がどういう姿なのか。神様に造られた姿から外れてしまった人間というのはどういう存在なのかということが記されています。それは霊的に死んだ状態であって、サタンの支配に置かれて、裁き(御怒り)を受けるべき存在であった…。そんな暗い悲しい歩みをしていたのが人間なんだというお話をしました。
しかし4節-7節のところ、特に4節のはじめの部分で1節-3節の歩みが覆されるのです。『しかし、あわれみ豊かな神は(4節)』この一つの御言葉が暗くて悲しい歩みをしていた人間の歩みを変える。光も希望もなかった人間の歩みがあわれみ豊かな神によってすべてが変わるんだという話をしました。
私たちはいろいろな罪を犯しながら道に逸れます。「神様なんて知らない」とか「もう嫌だ」とか「こっちの道に行かせてもらう」とか言って勝手に進んでいきます。でもそのうちに自分でも訳がわからなくなってしまう、そんな姿に対して神様は「勝手にやってきたことでしょ」とは言わず、放っておかずに手を差し伸べて「おまえを愛する」「おまえを引き戻したい」と言ってくださるお方であるということをこのところで教えられるわけです。
私たちが滅ぶべき道を歩んでいたのに、一方的な、圧倒的な救いの道が神様によって備えられたのです。神様であられる方が人となって十字架にまで架かられた。そして血を流し、罪を洗い流し、復活をもって私たちを”永遠のいのち”に招き入れてくださいました。
そしてそれはただ恵みによるのです。私たちが自分自身で勝ち取れるものは何一つありません。私たちが自分で「これをしてきたから救いに入れられた」とか、「自分がやったこのことがあったから救われたんだよ」と言いたくなるものですが、でもそんなものは何一つない。神様によって一方的にただ備えられた道がそこにあって、そこを進むだけでいい。だからこそ私たちは、自分を誇るのではなくて神様に感謝して神様を誇る生き方へと招かれているということをお話しました。

エペソ2:1-10はよく救いの証で取り扱われる箇所です。私たちは以前どうであったか、でも神様はどういうお方で、その方にあってどう変えられていくのか、そのことがここには詰め込まれています。

さてこのなかで、私たちは救いの全体像を教えられてきました。罪に支配され滅びの道にあった私たちがイエス・キリストの十字架によって救いの道が用意された。圧倒的な恵みによって救われるという事実がこのところに記されています。
けれども、エペソ2章のわずか10節のなかで”救い”ということだけで終わろうとはしないのです。
救われた私たちの続く道というものを語ります。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)

このところにはさらに、救われた私たちが向かっていくべき、私たちが変わり悔い改めて生きていく福音への応答の生き方が記されています。
私たちが救われただけではない。天国に入れる、ということだけではない。私たちの人生、生き方が変えられるということをここでは語っているのです。

最近よくお話することで、僕自身よく学ばされていることですが、私たちの最高の悔い改めというのは「天国に行けてありがとう」ということではなく、「私を用いてください」と言うことなのです。「あなたの福音に応答させて私を用いてください」という祈りというが私たちの最高の悔い改めです。

神の作品である私たちは良い行いをするためにキリスト・イエスにおいて造られたというのがこのところで語られていることです。しかし今日、教会が福音というふうにして説明しているものに違うものが混ぜられていたり、あるいは本来あるべきものが取り除かれているということがあるというのです。その根本の問題は、私たちが福音と救いを混同しているところにあるのです。それが現代キリスト教会において直面している大きな問題です。
聖書の神が造り主であることを認め、また自分の罪を認めてイエス・キリストがその罪の身代わりとなって十字架に掛かって復活して救いの道を備えてくださったということが教会では語られています。そして悔い改めの決心をした者だけが信仰に入った人として数えられていきます。イエスを主として信じた者だけが救われる、これというのはキリスト教においてなくすことのできない大事な教義・教理であるわけです。
個人的な信仰の招きを大切にしています。「イエスを主として認め、罪を認め、十字架を信じ、永遠のいのちが与えられることを信じるか?」ということを一人ひとりが問われて洗礼へと導かれていきます。
しかし今日、特に福音派と呼ばれる教派のなかでは、聖書のなかで語られている福音を信じる福音派ではなくて、“救い”だけに集中して他を忘れてしまった教派があるようです。

あるところで訪問伝道をした青年がいました。その青年は教会の熱心な長老とともに家を訪問したそうです。チャイムを鳴らして一人の人が出てきました。早速身分を明かしはじめるとなんとその人は前に教会に通っていたことがあるということを話してくれたそうです。その話を聞いた長老は「この人は教会に帰ってきてイエス・キリストを信じなければならない!」と意気込み、熱心にイエス・キリストの十字架をその人に語ったそうです。するとその人は「イエス様は信じます」と言ったそうです。長老は教会に帰って協会の人に「一人の人が救われた!」言って喜んでいました。しかしその二人の様子を見ていた青年にはその人があきらかに長老が語ることばを必要としていないように見えたそうです。結局のところその人は教会に来ることはなかったそうです。「イエスを信じる」と言ったのはただ玄関の扉を閉めたかっただけに過ぎなかったのかもしれません。

私たちはしてはいけないものがあります。それは教会を救いだけを大切にする文化にしてはいけないということです。救いだけを重要視する文化に入れてはいけないのです。
“救いの文化”というのは「誰がイエス・キリストを信じていて誰がイエス・キリストを信じていないのか」というふうに人と人を二つに分けていく文化のことです。「決心した者か?それともそれ以外か?」「誰が属していて、誰が属していないのか」ということをただ切り分けていく生き方です。
個人的な救いの体験を重視することは大事です。しかし、それのみにとらわれることによって教会は人々を二分する文化を作る原因となってしまったという痛みが教会にはあるのです。
その“救いの文化”にどういう間違いがあるか、誤りがあるか、弊害があるのでしょうか。
“救いの文化”は教会員、決心した人々が、その決心は求めるけれども、弟子となっていく生き方をしていくことを要求しないものになってしまうというのです。

私たちは福音をどう捉えるでしょうか。イエス・キリスト、聖書が語っている福音とは一体どういうものでしょうか。
このところで語られていることはただ「イエス・キリストを信じる者だけが救われて天国に行けて良かった!」というだけでしょうか。いいえ、違います。それ以上のことがここでは語られているのです。
私たちは、決心した者たちのグループに入ることは求めるけれども、弟子となった者たちのステージに行くことはできないという“救いの文化”に留まるのではなくて、もう一度聖書に立ち返り“福音の文化”を取り戻さなくてはならないのです。“福音の文化”を教会の中心に据える必要があるのです。もしそうならなければ教会は、「ただ救われてはいて礼拝には出席するけれども教会は私になにもしてくれないんだよね」とボヤきながら歩んでいく教会にしかなっていかないということが言われてしまうのです。
一概には言えませんが多くの教会は高齢化を迎えています。そして10年、20年の間に今いる牧師の8割が引退か、亡くなってしまうかという時代になります。でもその時代のなかで、もし私たちが「なにを信じているの?」と言われた時に「イエス様愛してくれて救ってくれて天国行けるんだよね」「まぁ嬉しいよ」と「本当に嬉しいのか!?」というような状況にいるのであれば、教会はどんどん失われていきます。

私たちは今、この時代にあってこの世代にあって求められていることがあります。
この1節-9節のところには救いがどういうふうに起こるか、そして救われたのはイエス様のどういうことのゆえなのかということが語られていますけれども、この10節まで含めて教会のなかで生きてゆかなければならないのです。そしてそれを生きることによって私たちはこの世界変えていく存在として遣わされていく必要があるのです。

決心者を生むことだけに集中する伝道は短絡的で福音の設計図を台無しにするのです。

死後に天国へ行けるようになるために自分の罪を赦してもらうことというのを、ある本では罪を処理するためだけの福音と表現されていました。そんなものにしていいわけがありません。もっとすごいものがここにあるはずです。
私たちはイエス様を信じて生きるということをもっと自信をもっていきたいと思います。その時のなかに、ただ「イエス様はこんなことをして私を救ってくださいました」というだけではなくて誰かに伝道していってほしいと思います。自分のことを分かち合ってほしいと思います。「自分はイエス様に出会って変えられてこんなふうに生きることができています!」だとか、あるいはそうは言えないのかもしれない。でも「自分はこんなにダメなんだけれども、今聖書や教会でこんなふうに励まされているんだ」。そういう生き方をしながらこの福音に生きていきたいと願います。そこに、イエス・キリストの生きたいのちがあるのだと思います。

今の時代は自分を愛することを強調する信仰が教会のなかで多くあると言われます。なによりも大切なのは神の愛ではなく、自分の自尊心だという考え方。「自分は、あなたはそのままで素晴らしい!」ということのみを語るということが教会で為される。でもそれには弊害があります。自分が遣わされているいろいろな奉仕の場や関係の場に一生懸命と自分を注ぐということはせずに、自分の心を満足させるものだけに集中し続けるということがあります。
「人生を導く五つの目的」という本があります。その本には、礼拝・交わり・成長・伝道・奉仕、これらをするために私たちは造られたのだと語られている本ですが、むしろそうではない教会では「自分の自尊心を満足させることが教会の果たすべき責任だ」ということが語られているのです。その結果、愛はイエス様がしたように誰かのために犠牲になるようなものではなくて、その人の顔に鏡を向けて「あなた素敵だね!そのままでいいよ!それだけでいいよ!」と語ってしまうような教会になってしまうのです。
今の時代福音宣教が進んでいないのは、もちろん時代が難しいというのもあるのかもしれません。でもそれ以上に教会がもう一度燃やされなければならないということを思わされます。神様のまえに聖霊に頼らなければならない。その歩みのなかでその火に燃やされて私たちはもう一度、この御言葉が語っているものを受け取って生きていく必要があるのです。
不健全な自己愛に生きる人たちは、神のことばに従うことができません。なぜなら、神と聖書のことばに従うには、自分の自尊心さえも犠牲にしなければならないことが求められるからです。「自分はこれでいいのだ」ということに対して「ダメだ」と言わなければならないことがあります。私たちは全部肯定して受け入れてだけではなくて、今このことは本当に神様の前に正しいのか?と本気で向き合い、本当に必要なことを求めていくことに集中しなければいけないのです。
どんなことに関しても自分の自尊心を損なわい程度のレベルまでしか福音を受け入れない。まして従うなんてことはできない。自分の自尊心を満たすために、他の人々から賞賛を受けるために教会に属する。それは福音に応答しているのはないのです。私たちは組織の中で認められたいからそうしているに過ぎないのです。私たちはそこから脱却していかなければなりません。自分の失敗や過ち、不充分さを認めずに人に責任転換をするような生き方をやめなければならない。
あるいは人前で自分を責めて「自分がダメだから!」と言って人に憐れんでもらい「あなたは悪くない」という言葉を人から勝ち取っていく。しかしその人は教会のなかで責任をいつまで経ってもとれない生き方になってしまうのです。
同じ失敗、過ち、罪を繰り返してしまう生き方が私たちのなかにあるのです。また、そういう生き方をしていると教会を傷つける存在となってしまうこともあります。「自分は傷ついた」「教会に責任がある」「私の心を満たしてくれなかった」と言って教会を去っていく。そしてそこにいる人たちも気付かない内に、「その心を満たすことこそが愛だ」と思ってしまい、「あなたはそれで大丈夫だよ」と人に向き合い続けるのが愛だと思い込み歩んでいく中で、徒労感に襲われて自分自身を傷つけてその信仰に疲れ果ててしまうなんてことが起こってしまうことがあります。

私たちはそこから脱げ出さなければなりません。
真面目なクリスチャンは距離を置くことが愛に反するように感じるので、効果がないと悟りつつも、同じような愛の支援を継続し続ける。その結果、その人の自己愛・自尊心に利用され続け一種の霊的搾取の被害者となってしまう。
こんなことが教会で行われているのかもしれません。いつまで経っても関係性を変えることなくエスカレートする要求に応答することが献身的愛だと考え違いするならば、ついには愛する側が破綻してしまう。心身の病になり愛の乏しさを占めて自分の信仰をおとしめていく…。

私たちはもう一度なにが愛なのかということを問い返さなくてはならないと思います。

ただの救いではない。

しっかりと罪を罪だと認めて、そこからもう一度立ち上がるように迫っていくことができるような歩みが必要なのです。

神様の前に私たちはどう生きるでしょうか。

仕えるということはただ相手に利用されることではない。惜しみなく与えるとは相手に無制限に搾取されることを意味しない。ありのままで愛するとは他者からの愛を利用し搾取しその罪をあるがままで容認し、放置し、戒めず、悔い改めに導こうとしないということではない。

神様の前に本当の愛とはなにか。
救いをただ強調する教会ではなくて、そのところにイエス様の福音とはなにか。パリサイ人の罪を撥ね付け、「愛とはこれだ」と語るその文化。誰かのために犠牲になり、しかしその正しさは一歩も譲ることのない福音の高尚さを私たちは忘れてはならない。

私たちの教会、hi-b.a.の歩みがただ“救いの文化”に留まるのではなく、神様の“福音の文化”に歩んでいくことを忘れずに歩んでいきましょう。
お祈りしましょう。
-------------------------------------------------
☆プログラム☆
どんな時も
いのちの光
自己紹介
イエスが愛したように
吹雪卒メ
帆奈卒メ
まいか卒メ
きぼう
求めて
メッセージ
栄光から栄光へと

高校生25人!!
-------------------------------------------------
今週もありました。卒業メッセージ。
今回の三人は全員証でした。
高校3年間の歩みを振り返り証してくださいました。
今までありがとうございました。
進学してもそのところでの歩みが守られますように。
いつでも町田に遊びに来てください!!

今週の町田は珍客揃いでしたねー笑
変な人がいっぱい来てました。
また来てください。
町田はいつでも誰でもウェルカムです!!

され今週のメッセージ。
個人的にどストライクのメッセージで、
鳥肌が止まりませんでした笑
まだ消化しきれてない部分が多く
これからじっくりと消化していこうと思います。
みなさんもぜひ、“福音の文化”に生きるということ
考えてみてください!

来週も卒業メッセージあります!
まさき、みと、ののか
の三人がしてくれます。
楽しみです。

ぜひ町田に足を運んでみてくださいね!!
それでは!もとい!

神を誇る〜私を用いてください〜 

February 10 [Mon], 2014, 23:07
2014年2月6日(木) hi-b.a.町田 3学期 第5回
+メッセージ   鈴木大輝
エペソ人への手紙 2章 8節-9節
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

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2014年も2月になりました。みなさんはここまでの歩みをどう歩んできたでしょうか。
さて、今週もエペソの2章を見ていきたいと思います。
今まで、1節-3節のところで私たちは霊的に死んでいた者であってサタンの支配下にある存在で御怒りを受けるべき子らでその歩みには希望がなかったということを学びました(「闇」1/16)。しかし4節-7節で『しかし、あわれみ豊かな神は』のその一言ですべてが変わった。神様が憐れみ豊かな方であることによって私たちの人生はすべてが変わって、イエス・キリストの前に生きていく歩みなかに希望が取り戻されていって歩んでいくことができるということでした(「しかし、あわれみ豊かな神は」1/30)。
今日はその続き。8節-9節のところを見ていきたいと思います。

自意識過剰という言葉があります。なんでもかんでも自分がいたからこうなったとか自分のせいでこんな結果になってしまったとか、周りに起こる一つ一つの事に対して自分の功績である、または自分の失敗として物事を捉えてしまうという見方のことです。
その人は、あの人がこういう行動をしたのは自分がいたからというように、なにが起こっても自分への反応としてそれを捉えてしまいます。恐らく自分に対しての不安があって自分の歩みに自信を持てていないというのが大きな原因のようです。その反動で自分のなかで上手くいったことがあれば「このことは認められて当然だ」「認められるべきだ」と周りにアピールしていくことがあります。
考えてみると確かにそういう人がいると思う以上に、私たちにもそのような性質のどこかを抱えているように思います。「自分が!自分が!」とほかの人に見えるように振舞いとして見せることがなくても、心のうちにそう思っているというところがあるというのが人間の醜いところだと思います。

では神様の救いに立つ私たちはどうでしょうか。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

聖書は明確に語ります。
私たちの救いというのは、私たちのなにかの行いによってもたらされたのではない。救いに対して私たちができることは、ただそれを待って受け取るということでしかありえません。救いの道を備えるために必要なことで私たちがしたことは何一つないわけです。
私たちは罪に陥るために、あるいはその深みに下っていくためにしたことは確かに多くあったかもしれません。でも逆はないのです。私たちが救いのためにしたと言えることは一つもないと聖書は語るのです。
「いやそれほど酷い歩みじゃなかった」「結構今までもいい歩みしてきた」「人に褒められることもよくあった」とか、それはそうかもしれません。でもそんなことで聖なる神様の前には私たちがふさわしいと認められるものは持つことができません。神様の前には私たちの歩みは圧倒的な断絶があります。
ある人は信仰をもって、そのことを自分の功績のように扱ってしまうことがあるようです。しかしそれは、信仰を持つということは本来受け取るという態度のことであって、私たちが褒められる成果ではないのです。

簡単に信仰を持つということを例えるならば、薬を飲むという行為に例えられます。
私たちは罪という病のもとにあります。それは自分と自分の周りにいる人たちを蝕んで傷つけるという重い病です。しかし、イエス・キリストという愛と恵みに満ちた方が自らを犠牲にして薬を用意した。そしてそれを飲めば私たちは救われることができる…。
それを飲むか飲まないかは自由です。私たちが選ぶことができます。
では、「じゃあ飲んだからあなたは偉いんですか?」となるとそうではありません。「私これ飲んだから偉いんだぞ!」と言う類のものとは違います。それは見当違いです。
むしろ私たちに求められていることというのは、それを飲んだ自分を誇るのではなくて、その薬のすばらしさを感謝して、「みなさんもこれを飲んでみてください」とほかの人に話していくことです。でも人間は自意識過剰のようで、その救いの功績を自分のものとしてしまうことがあるのです。

ここで記されている、“恵みと信仰による救い”というものと対極に記されているものがあります。それは“行いによる救い”です。
人間は私たちが何によって救われたのかということを「自分がこうしたから」というふうに言いたいという性質があるように思います。日本人は特にそうだなと感じます。この苦行を積めば悟りが得られるとか、この修行によってこのようなものが得られるなど、「自分がこれをしたから!」というものを求めるものです。でもそれは多くの場合「自分が救われたい」ということよりも「自分が救われている」という事実をなんらかの行動を通して勝ち取りたいなど、救われる理由を自分のもとに置きたいということにほかならないわけです。

旧約聖書にナアマンという将軍が出てくるのをご存知でしょうか。第二列王記にある記事ですけれども、ナアマンというのはイスラエルの隣の国の将軍でした。ある時ナアマン将軍はツァラアトと呼ばれる重い皮膚病にかかってしまいます。ナアマン将軍の国の王様はどうにか治したいと思い隣の国のイスラエルに行って治して欲しいと頼みます。いろいろあってエリシャという預言者のところに行き、ナアマン将軍は「これをしたら癒さる」ということを告げられます。それはなにかというと、七回ヨルダン川に身を浸すならば癒されるということでした。しかし、ナアマン将軍にとってそれは望んでいない答えでした。ナアマン将軍はエリシャに主の御名によって祈ったりして一発で治してもらえるものだと思っていたのです。望んでいなかった答えを言われ愚痴っていたナアマン将軍は近くにいた召使いに「そんな難しいことを言われているわけじゃないですから行ってやってみたらどうですか?むしろあなたは難しいことを命じられたのであればそれをやったのではありませんか?」と問いかけられてしまいます。考えてみると、私たちがなにかを行動するという時に難しいことならやってみる。それというのは自分がこれをして成果としてそれを得られるのだったらというような思いがどこかにあるのかもしれないと思います。
それかもう一方で、自分が欲しいものだけをもらえるならそれはもらう、というような思いもあるのかもしれません。イエス様のもとにたくさんの群衆が来ました。病を癒された。それで群集たちは癒されたことを喜んで帰っていった。イエス様のもとには戻ってこない、そういうことがあった。その癒しは欲しいけれども、イエス様のことは求めようとしないという状況になってしまうわけです。

ナアマンはそのところで問われたのです。ただ癒しだけを求めにやって来たのか、それとも難しいことをして癒しを自分の手柄にしたいのか、そしてすごく簡単だけれどもしたくないそして意味がわからなくて「これをしろ」と言われ、ただ神に信頼を置く道を歩むのか?…。求められているのは神様に信頼してそこに生きるということです。それというのはただ神様から得られる癒しや奇跡だけを受け取るのではなくて、神様ご自身に対しての歩みをスタートさせていくということです。そして、「自分がこれをしたからこうなったんだ!」ではなくて、神様が恵みと憐れみのゆえに与えてくださったものを受け取ることであります。

私たちは信仰生活の中でいろいろな失敗をしています。ある時には自分の信仰を誇ろうとしたり、他の人の信仰を裁いたりしてしまうこともあります。
「自分はこれだけの奉仕をしているんだ。だからあの人よりもえらい!」というような考え方。「自分は前に立って人を導いているとえらい」。あるいは「あれをしているあの人は良いけど自分はだめだな」と思ってしまっているその心というのも、神様の見方ではなく自分の見方というものが混ざっています。

私たちは生きる中でどういう見方をもって生きていくか?というと自分の思いに縛られることはしてはいけません。「自分の思いは大切に」と言いますが、もちろん自分自身で考えて決断していくというのは大事ですけれども、自分の思いで自分の思いだけで生きていってしまっては失敗する道に行ってしまいます。そしてあるいは「自分は合ってた」と思っても“永遠”にとっては価値がない歩みという虚しい歩みになってしまうことがあります。そうではなくて私たちが生きる道は神様の前に喜ばれる、神様の前に素晴らしい道に歩む必要があります。その生き方は神様を賛美して神様に感謝を捧げて生きる生き方です。そこには自分を誇るのではなくて神様を誇る生き方。その生き方を求めていきましょう。

教会の中で「あの人ずるい」「自分はこんなことやっているのに」「こんなの平等じゃない」などという言い方がされることがあります。でも、そもそものこととして教会の中ですべての人が平等に負担を背負ってやっていくなんてことはありえないことです。なぜかと言ったら、その人の成長のステージがあり、信仰の状態、日々向き合わされているところなども違うのです。だからこそ「あの人はこの人と比べてこのことしていない」などとは私たちに言えることではありません。
むしろ問う必要があることは、“あなたは神様の前に今必要なことをしていますか?”“今必要なことを選べてますか?”、と隣人に問いまた助けを望んでいることがあるならば、「そのために私ができることはありますか?」と声をかけることです。

どのようにしてそれが届くのかも、どうすれば正しく表現されるのかも僕自身うまくわからないなかでやっています。でも僕自身もそういうふうにして今ここにいるみんなのためにも、教会にいる一人ひとりのためにも祈らされています。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

私たちが救われた理由は自分自身がなにかしたからではなく、神様がしてくださったから。イエス様が私たちのために、私たちがまだ罪人であったときに十字架にかかって私たちのために死んでくださったことにより私たちには救いの道が備えられたわけです。
私たちがそれを渡ったというのは、それをただ受け取っただけです。それを私たちは感謝して神様の前にどのような歩みをなしていくでしょうか。

「イエス様ってこんなことしてくださったんだよ!」というふうにして生きていけたらいいと思います。霊的に死んでいてサタンの支配にあって御怒りを受けるべき状態であった私たち。
イエス・キリストの愛のゆえに今変えられて生きることができる。救いの内に入れられている。であるならば、私たちはこの歩みを自分を誇るのではなくはなくて、神様に感謝を捧げて神様からの賜物をいかし用いて生きていくことができるのではないでしょうか。

自分自身はどうしていくことができるのか。この人のためにどう生きることができるか。人を裁くのではなく神様の前にどうやって生きることができるかということを自分自身に問いかけながら、また他の人にそのためにどんな助けができるかと、神様の召しに立つ者としてどういう助けができるかと、そうやって祈りながらお互いを支えあって歩んでいくことができたらと思います。

神様の前にできる最大の悔い改めの祈りは、“私を用いてください”という祈りです。
神様の前に恵みのゆえに信仰によって救われた私たちが、今捧げなければならない祈り。それを捧げていきたいと思います。
祈りしましょう。
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★プログラム★
求めて
心から
届けたい
自己紹介
Q&A
主の愛注ぐ
えり卒メ(証)
アリス卒メ(証)
満たしてくださる方
メッセージ
栄光から栄光へと

高校生20人くらい!!!←
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卒業メッセージシーズン始まりました。
初回はえりちゃんとありすが高校三年間の歩みを振り返り、
みんなの前で証してくださいました。感謝です。
二人の進学してからの歩みが守られるように祈ります。
次の集会も卒メあります!!
吹雪とハンナがしてくれます!祈りましょう!

さて2月11日(火)は学生企画伝道集会です!!
集会のため祈りましょう!!
町田からもコアメンバーとして遣わされた人がいます。
どうぞ覚えてお祈りください!!

町田集会改めて本当に良い集会です。
高校生伝道みんなで頑張っていきましょう。
メッセージにあるように神様を誇りつつ。

集会に来れるみんな。
本当に恵まれていますね☆
三学期残り少ないですから休まず町田に集まろう!

事情があって来れない一人ひとりを覚え祈りつつ、
主に喜ばれること集会していきましょう。
(今日はなんか長くなった←)

それでは!もとい!

しかし、あわれみ豊かな神は 

February 02 [Sun], 2014, 21:46
2014年1月30日(木) hi-b.a.町田 3学期 第4回
+メッセージ   鈴木大輝

エペソ人への手紙 2章 4節〜6節
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―
6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

-------------------------------------------------
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめて備えてくださったのです。(エペソ2:10)

聖書は私たちが神の作品であり良い行いをするために造られたと語ります。そしてさらにはその良い行いをも神様が備えてくださっていると。だから私たちはその道を歩むことができるし、その歩みに感謝して歩む者となっていきたいと思います。

さて、先々週は1節〜3節の御言葉を重点的に学びました。「キリストのいない人生」(「闇」1/16)とはいかなるものかということを見たわけですが、あまりじっくりとは聞きたくはない内容だったかもしれません。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それら罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
(エペソ2:1-3)

私たちは罪人です。そして罪人というのは神から離れた存在であり、霊的に死んでおり、神の怒りに値し滅ぶべきであった、というのが先々週学んだことです。
単に「日本の法律がこうであなたにはこんな罪がありますよ」という話ではありません。私たちが罪人であるということは本来あるべき状態を失っているということなのです。本当は素晴らしく造られたのに、神様が造られたかたちがあったのに、それから離れて逃げて歩んでいってしまった。そしてそこで、苦しんで、傷ついているわけです。
神のかたちとして造られた人間がその姿を失い誤った道に進んで迷っている、これが人間の状態です。この“罪”には「的を外している」という意味があります。私たちが神に造られたことを忘れて生きることにおいて「的を外している」状態、それが罪です。

人間というものは思えば気ままに生きているものだなと思います。今自分が何に支配されているのかということを分からずに自分の人生を自分の決断によって動かします。でも実際どうかというと、自分にいろいろな付加価値を加えてどうにか高く売ることができないかと言って一生懸命になっていたり、この社会の中で人を出し抜いて必要のある存在になりたいと言い苦しみながらもどうにかと頑張っている。でもその姿というのは考えてみると、罪とサタンの支配の中にあって自分と人とを傷つける歩みなのです。
羊飼いのもとからいなくなった羊は自分で食べ物を探すこともできず、そして狼に襲われても身を守ることができない。自分で自由を探しに行った羊の行先は、羊飼いがいない中では不自由で危険な中なのです。そういうのが私たちの生き方、人生です。人間というのはそのままでいるならば滅びへの道を辿る存在にしか過ぎないということを聖書は語ります。

このエペソ人への手紙2章1節〜3節はすごく衝撃的な箇所であるのかなと思います。聖書は確かに人間は愛されるべき存在であることを語ります。でも罪の中にある私たちは霊的なところでは生きているのではなく、死んでいる状態であって神の国では意味あることができていないのです。
聖書の人間観というのは単純に「神様が造ってくださったからあなた素晴らしい!最高!」と言ってくれるようなものとは一つ違うところにある。元々神様が人間を造った時には非常に良かったのです。でもすでにアダムの時代に善悪の知識の実を食べた彼によって人間には罪が入りました。罪とは神様との関係が絶たれることです。神様の支配から逃げていくことです。

罪は神との断絶を意味しますけれども、罪を犯した時以来人間はこのところで滅びに向かって生きるようになったわけです。人間は神様によって愛されている存在です。でも同時に神様には受け入れることができない罪を持った存在であるのです。愛されるべきなのに受け入れることができないものを持っているのが人間なのです。

こういうことを話すといつも「じゃあなんで神様というのは人間が罪を犯すように造ったの?」と聞かれます。どうしてだと思いますか?
「罪を犯さないように完璧に造ればよかったじゃないか!」
であれば、人間が罪を犯して滅びに向かっている責任は神にあるのではないか?ということが言われます。でもそれは本当にそうなのでしょうか。

神は罪を犯すように人間を造ったわけではありません。神様の交わりのなかで、神様が歩んでいいというその囲いのなかで、しあわせに生きる存在として造ったのです。
でも確かに罪をも犯すことができる存在として人間を造ったことは事実です。それには理由があります。それは一体なぜでしょうか。

「愛する」というのは、それは“選択”することだからです。だからこそ人間は罪をも犯すことができる存在として造られたのです。神様は人間をすべて自動運転で神様に従うロボットのようには造られませんでした。「愛する」存在として、選ぶことができるように人間を造ったのです。だからエデンの園には食べてはいけない善悪の知識の木の実がひとつだけ置かれたわけです。
「“選ぶ”ということは、これを“選ばない”ということだ」というふうにして、そのことをちゃんと明らかにするために神様は人間を造ったのです。人間の最初は美しいものでした。アダムとエバは裸で生活をしていました。それというのは何も隠す必要がなかったからです。誰に見られても恥ずかしいところなどない。これでいいという生き方が彼らにはありました。でもある時サタンである蛇の誘惑に負けて食べてはならない木の実を食べてしまいます。神との約束を破ってしまいました。神を選び愛するということをしなかったのです。その結果人間には罪が入りました。そして死が待ち受けています。
「ここを生きなさいよ」というところを神様はちゃんと言っていました。「そこ行ったらいけない」と羊飼いは羊に言います。でも人間は「自分の人生は自分で選ぶ」とか言って勝手に歩み出すのです。その結果、迷って傷ついて使い物にならなくなる…。

確かに神様は人間を愛しています。でも同時に人間は聖なる神様からすると受け入れられない罪を持った存在になってしまいました。罪というのは神を離れること。そしてそれがもたらすものは神との断絶です。

そしてそれを選んだのは人間であるのです。
でもそうやって罪を選んだのは人間であるけれども、しかしまた同時に、罪に苦しんいるのも人間なのです。
人間は愚かなことをします。自分でそれを選んでおいてその結果に苦しんでいます。私たちにもそういうことがあるかもしれません。大切な忠告を受けたのにそれをせずに困っていることになっている。自分でそれを選んでおいてその結果に苦しむ。みなさんはいかがでしょうか。

私たちは自分が罪人であることをかならずどこかで理解しているはずです。旧約聖書では罪とは“隠す”という意味があります。何かを隠しながら人の目に見られてはいけない、神の目に見せたくないと思うことをしていることはあるでしょうか。新約聖書では罪とは“的を外す”という意味があります。私たちが自分で自分の人生を選択しながら本当にこれでいいのかと悩み迷い苦しんでいるということがあるでしょうか。それは自分の生き方が的を外してしまっているということにどこか気づいているからではないでしょうか。

さて考えれば考えるほど悲惨な状態にあるのが人間です。これを楽観視することはできません。もしこのような状態にありながらも楽観視して生きているとすれば、それはその時がよければいいという刹那的な生き方であると言わざるを得ません。でも確かに事実はよくない方向に向かっているということがわかります。ではどうすればいいのか。
どうすればいいのか、といっても人間にはなにもできません。どうすることもできないのです。何一つできません。私たちではどうすることもできないのです。

神によって造られたのに神を裏切り、神によって良いものを与えられていたのにそれではないものを選んだのが人間。

このエペソの2章の記事には1節〜3節にはキリストのいない人間の現実が語れていますけれども、このところには希望がありません。希望がない。
しかしこれが4節になると一変します。一気に変わります。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、(エペソ2:4)

この一言で全て変わりました。
しかし、あわれみ豊かな神は、
これで全部が変わったのです!

なんの希望もなく滅びに向かって悲惨のなかにあった人間。その罪と咎のなかに死んでいた私たちのことを『しかし』この神はキリストにあって救い出す道を備えてくださったというのです。

人間というのは神を裏切った存在です。神を愛することを自らやめ罪に手を伸ばしました。でも罪のなかに苦しんでいる人間を『あわれみ豊かな神』は放っておきませんでした。
私たちならばどうか。自分のことを裏切っておいてその過ちも認めようとしない。そして勝手に苦しんでいる姿を見て自業自得だと言って歩んでいく。そんなことはないでしょうか。私たちは自分の行いは棚にあげていとも簡単にそういう人たちのことを見捨てて切り捨てていくことがあるのに、しかし、『あわれみ豊かな神』は違うというのです。

しかし、あわれみ豊かな神は、
その私たちの姿を見てそれでも愛することをやめません。人間がその愛に応答するかどうかはわかりません。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに』私たちを救おうと人となり、十字架で死ぬという道まで選ばれたのです。

なんということなのか…。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
(エペソ2:4-6)

イエス・キリストこの方にあって私たちには新しい歩みが与えられています。この方にあって“のみ”私たちには新しい歩みが与えられています。
私たちがどうこう自分の人生を選ぼうとしても、その行く道はその状態ではもう無理なのです。でも『あわれみ豊かな神』がそこに手を差し伸べられたから、人となって十字架にかかって復活して私たちに救いの道を用意してくださったから、だからすべてが変わりました。

私たちは、この恵みをどう受け止めているでしょうか?


生きるというのは、悪い思いからの攻撃というのを常に受けるものです。「これじゃだめかもしれない」とか、「これでいいんだろうか」という思い、攻撃を受けることがあります。でもそれは当然なのです。だって私たちが向かっている先はもしかしたらダメなところかもしれないからです。
もし完璧に物事を考えないのであれば、その人はよっぽどのほど現実が見えていないか、ものすごく誰よりも物事が完璧にできるかのどちらかです。ですが普通はそうじゃないはずです。
でも神様を見るならば、私たちはその悲観的な思いの攻撃から解放されることができます。私たちはそこで新しい一歩を踏み出すことができる。それはイエス・キリストによって私たちに愛が示されて、イエス・キリストによって私たちに道が示されて、真理が示されて、いのちが与えられたからです。

私たちが罪の中にいたということは道がなかったということです。どこに住めばいいのかわからなかった。なにを生きればいいのかわからなかった。でも神様は荒野に道を荒地に川を設ける、そんな方です。荒野でなにが大変かといったら道がないことだそうです。どこに行けばいいのかわからない。その中で道が設けられるのが神様の業です。ほんとに潤いがない私たちの人生に砂漠に大河を与えて流してくださるのが神様の業です。
そしてその道には真理が与えられます。私たちが本当に求めているもの。自分を騙すのではなくて、「本当にこれでいいんだ」というふうにして生きることができるその生き方、それが私たちに与えられるのです。
そして、そのイエス様の備える道に歩み、その真理の中を生きる自由な生き方が私たちにいのちを吹き込むのです。

私たちにそのところで神様がいのちを与えてくださって「これでいいんだ」「これがいいんだ」と生きる生き方を神様が私たちに示してくださいます。

キリストのいない人生の現実はとても厳しいと思います。私たちが死んでいる状態にあり、サタンに支配されている状態であり、裁かれる状態、
『しかし、あわれみ豊かな神が』
私たちに現れてくださったことによってその歩みすべてが変わった…。

この恵みを私たちは受けています。

であれば、このいのちをどう用いるでしょうか。
またこの世界でどう生きるか。

それが私たちには、またひとつ問いかけられてくるのではないでしょうか。
お祈りします。
-------------------------------------------------
★プログラム★
今ここに
きぼう
暗唱聖句 Tペテロ3:15
分かち合い
心から
主の足元に
メッセージ
求めて

高校生20人!!
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今回の集会ではだいきくんの婚約祝いをやりました!!
だいきくん婚約おめでとう!!

さて次の集会から卒メあります!!
ぜひ来てください!!
高3のみなさま、残り少ないhiba現役生活!!
楽しんじゃってくださーい!!!

それでは〜。もとい。

Q&Aはまた後日アップします!!

 

January 21 [Tue], 2014, 23:18
2014年1月16日(木) hi-b.a.町田 3学期 第2回
+メッセージ   鈴木大輝

エペソ人への手紙 2章1節〜3節
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
-------------------------------------------------
聖書を信じる、イエス様を信じるということは、人を死から命へ移すという価値のあるものです。

1節〜3節は、聖書が語る人間の現実というものが記されてあります。もし神から離れているならば人間にはこんな歩みがあるのだと聖書は語っているわけです。聖書のなかでもこれほどまでに神を知らない歩みの現実を語っている箇所は他にないのかもしない、とさえも言えるほどこの箇所ではストレートに語っています。多くの人はこのことを聞いて批判の声を挙げるのかもしれません。「それは受け入れられない」と。
しかし、“真理”を知るということは、私たちが愛と憐れみと義を知るとともに、“過ちと裁きの現実”を知らなければならないのです。
あるいは、クリスチャンと告白しておいて、このところに書かれている現実を曲げてしまうことがあるとするならば、それは、神のみことばを真理のみことばとする信仰を失われているのかもしれない、と言えるほどの問題であります。


Qみなさん、イエス・キリストのいない人生はどんな人生ですか?

1.「罪と罪過のなかに死んでいる」

イエス・キリストのいない人生の一つ目は、自分の犯した違反と罪のなかに死んでいる状態であるということです。人の目には生きているように見えるかもしれませんが、それは神からすれば“死んだ歩み”だと言われてしまいます。

聖書で「死」というのは“神の呪い”を指す言葉です。また逆に「神のいのち」というのは“祝福”を意味する言葉であります。

神様によって造られ、神様によって存在し、生かされている私たちの人生というのは、決して神なしには立ち行くことはないのだ、ということがここを見るとわかります。

「神なしで生きるということは、コンセントがささっていない電化製品みたいなものだ。」
このようにして、神と生きることを電化製品を例えとして説明した人がいました。
“それ”が本来の力を発揮するための“いのち”がかよっていない状態。上手い例えです。

「罪から来る報酬は死です」と聖書が語る“死”には簡単に分けて二つの意味があります。
一つは「肉体の死」です。いつかこの体には終りが来て動かなくなる時がくる、それが一つ目の“死”です。私たちが普通に考える“死”はこのことです。
でもそれ以上に聖書が語る“死”があります。それは「霊的な死」です。
神様と繋がっていない状態、神様の祝福を受けることができずに切り離されている状態、それが「霊的な死」と呼ばれる状態です。
なぜそのようなことが起こるのか。それは自分の犯した違反と罪のためであるのです。

1節に出てくる「罪過」という言葉は、私たちが犯した罪の具体的なことを意味します。元々の言葉では「道を踏み外す」という意味です。私たちは今まで歩んできたなかで、道を踏み外してしまったことがあったことでしょう。それが1節に書かれている「罪過」という言葉の意味です。
一方、「罪」という言葉は「的を外す」という意味です。本来、的に向かって放たれた矢が、私たちの心が少しズレたことによって、進めば進むほど的から外れていってしまう。そうして進んでいる矢が的を外れていっていることを語っている言葉です。
この「罪過」と「罪」とは関連性の高い言葉ですが、違いを挙げると、
「罪過」は私たちが実際に誤っている生き方をしていることを指して、「罪」は私たちが間違った道に進んでいってしまって、的を外した生き方をしている“状態”そのものを指す言葉なのです。

本来は、私たちを完全な人間として神様は造られたのです。
ですから、私たちが愛に溢れた人間になろうと思えばなれたはずです。しかし私たちは神から離れたために、この人生の的を損なってしまい、自分の気分や感情で他の人々を困らせたり苦しめたりするようになってしまったのです。それが的外れの罪人の姿であるのです。
これが正しい道を踏み外してしまった違反者の現実なのです。ですから、違反や罪というのは私たちがその人生の歩みにおいてゴールを間違えて、正しいゴールに到着できないということを意味するわけです。

罪の原因は、神から離れていることです。神から離れているがゆえに神からの祝福を受けることができずに呪いのもと死んでいる状態なのです。
良いことを行うために神の作品として造られた私たちがそれを行うことができない、それが罪の中に死んでいるという状態です。はっきりと私たちはそれを死んでいる状態である、ということを知らなければならないのです。


2. 「悪魔に従う歩み」

さて、今までは罪と罪過のなかに死んでいる状態のことを話してきましたが次は。“罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいる状態”のことを話していきたいと思います。

「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」これは悪魔のことを指す言葉です。
イエス・キリストのいない人生、それはつまり悪魔に支配された人生であるのです。
はっきと言うならば、人間の命は神のものであるか悪魔に従っているものであるのかのどちらかだということです。悪魔は神の反逆者です。ですから神の反逆者に従っている命もまた、神の反逆者として不従順な者たちとしてここでは語られています。イエス・キリストのいない人生は悪魔に従う人生であると聖書は語る…。
間はありません。神に従うか、悪魔に引きずられるかのどちらかしかないのです。悪魔に従っていないが神にも従っていないということは有り得ません。もし、神に従っていないのなら、それはすでに悪魔に引きずられている状態であるのです。

悪魔に従う人生、それは悪魔が支配しているこの世のやり方に従った人生です。
日本人はなるべく他の人と違わないようにと意識します。このような意識はあるときには悪魔の思い通りにさせてしまう危険な意識として、私たちの歩みを襲ってくるということがあります。

「他の人と違わないほうがいいよ」「空気読みなよ」という声にある時には、悪魔の声が隠れているということを覚えながら、みことばに立つということを学ばなければなりません。
あるいは今の時代は、それとは逆に「誰かが思っていることは絶対に否定できないよね」という生き方があります。この人はこう思っている、この人は仏教を信じている、この人はイスラム教を信じている、この人はキリスト教の神、「ま、それでいいんじゃないの」「それでこの人が幸せなら」と言う。何が“真理”かなんて関係ない。それでその人を否定しないでいるのが世界平和であるかのような考え。
世界平和という言葉の中に私たちが、“真理を真理として主張する”ということが許されない世界ということがそこにあるなんてことが言われています。
悪魔の支配しているこの世がここにはあるのです。その人々にならうほど恐ろしいことはありません。私たちはそのところで確かに、「なんでもいいよね」ということでもなく「空気読もうぜ」とうことでもなく、みことばに立ち続けることを求められています。


3.「生まれながら御怒りを受けるべき子」

自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子であるということです。神から離れた人間は霊的な死のなかにあり、悪魔の支配下にあり、それだけでなく肉とその思いに支配されていると言うのです。これというのは単純に情欲を指す言葉ではありません。私たちが人間的に考えて神様の絶対的な真理に背いて歩んでいる姿のことです。
パウロがキリスト者を迫害していた時がありました。その時の思いもそれは肉の欲と記されるものです。
神様のためといっても神様の真理に立たない行動は肉の思いであるのです。私たちはきちんと見極めなくてはならないのです。
「なんでもOK」になってしまう世の中で神の言葉に立ち続けるということを覚えていかなければならないのです。

聖なる神はどういう方かというと、“裁かれる神”です。罪を決していい加減にはされない神です。だからここで人間の神の前に歩まない現実をはっきりストレートに語るのです。
「これをオブラートに包んでおいたら、あなたたちがあとで大変な目にあう。だからこれははっきりと言わなければならない。あなたたちにこの現実をはっきりと伝えます。」とここで語っているのです。
“聖なる神は裁かれる神”、罪をいい加減にはされません。神様は罪人たちを放っておくことはしませんでした。憐れみの心を持ってイエス・キリストをこの地上に送って十字架においてその罪から聖められる道を示したのです。それは神様が愛のない方ではなくて、罪人を憎んでいるのでもなくて、罪を憎んでいるということを明らかにしたのです。
アダムの時代以降、すべての人は生まれながらにして罪人なのです。聖書の中に「義人はいない。ひとりもいない。」と書かれているとおりです。

パウロは一節、二節では「あなたがたは」と語ります。「あなたがたは罪の中に死んでいましたよね」「あなたがたは罪の中にあってサタンに支配されていましたよね」と。でも三節になると「私たちもみな」というふうにして、「自分たちもそうである」という事実をはっきりさせます。この罪の現実、神の祝福から切り離されていた状態というのは誰かではなくて私たちすべての現実であるのです。神から離れた人生がどれほど悲しく、虚しく、その時しか考えない生き方であって、惨めな結末を迎える人生であることを語っているのです。

決してそんなことないとは絶対に言えない。私たちの歩みを思い起こし、私たちは今このみことばを読む中で神様の前にへりくだりたいと思います。そして人の前にもへりくだりたいと思います。人と自分を比べて優越感に浸ることなどできないのです。なぜなら私たちは神様の前に出たらひざまずくことしかできない存在にすぎないからです。

私たちは真っ直ぐにみことばを受け取らなければなりません。真っ直ぐにみことばを受け取るときに神様は聖なる方でその聖なる方の前に自分が立たされたら、神様は白、自分は黒とはっきりと間に線が引かれるような、コントラストがあまりにもきつすぎる、そういう状況に立たされるのです。その時私たちは顔を下に向けて「神様私を憐れんでください」としか言えないのです。その罪の現実が私たちの前にはあるのです。

でも。
そんなところから私たちを引き上げてくださったのがイエス様であって、私たちを救いに入れてくださったのが十字架であるということを何度も何度も思い起こしたいと思います。

恵みを知るときには、罪を知ることが必要です。恵みを知るときは私たちの悪をしっかりと心に留めることが大切なのです。

神を求めない歩みとは、喜びと希望ではなく滅びに進む道であります。しかし、それにも関わらず多くの人がその惨めさを知らずに、危機を感じずに歩んでいます。それは心の目が曇り霊的に死の状態であるからです。だからこそ、このところには私たちを造りキリスト・イエスにあって新しく生まれ変わらせてくださる神を信じる、という他にないのです。

私たちの信仰をもう一度確認したいと思います。本当に福音を信じることというのは、しっかりと闇を見つめることができるということです。
「闇は光に打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」という後には、人はその光を受け入れなかったと続きます。それというのは、闇の私たちが光に照らされると困ってしまうからです。闇が照らされると困るものを私たちは抱えているのです。そうして人は、闇のなかにうずくまるという選択をしていきます。でも、その時にもう一度考えたいと思います。闇のなかにうずくまったとしても闇は闇でしかありません。その時に私たちはイエス様のほうを向いて、そのイエス様のところに飛び込む時に眩しくて、自分の闇は照らされなくてはならけれども、でもそこに十字架の血潮があるならば私たちは聖められるのです。

本当に福音を信じて生きる歩みというのは、滅びと歩みを知る歩みであることをしっかりと覚えたいと思います。

ある本に大きなテーマとされていたのは、「人は神様の愛や喜びは受け入れるが、地獄を信じていない」。本当に神様が伝えている福音の全体を求めずに自分の好き勝手なものだけを求めている。でもそうであってはいけません。
本当の救いというのは“闇から光へと移された私たちである”、“滅びからいのちへと移された私たちの歩みである”ということであるならば、その闇は確かにそうだったということを告白しなければなりません。
そして、その闇のなかにある人々に対して「そこにいてはいけない」と声を挙げなければならないのです。
そうすることができるには、私たちがしっかりと罪と向き合いイエス様と向き合うことが必要です。

みなさんはどうですか?
神様の前にどのように生きているでしょうか。

この福音をしっかりと胸に刻んで歩んでいきましょう。
祈ります。
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★プログラム★
どんな時も
愛を持って生きていこう
自己紹介
暗唱聖句 エペソ2:8-9
命の水
主の足元に
メッセージ
あなたの御名を
分かち合い

高校生15人〜20人!!←忘れたww

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今週も高校生が集まり、御言葉に触れる時が与えれ感謝でした。
さらに高校生が町田に集まりますように。

さて来週は!!
なんど!!じゃーじゃん!!!
「Q&A」!!!

皆さんの日頃の疑問なんでもここにぶつけてください!
友達関係、聖書、教会、恋愛etc...

みんなの疑問を、
スタッフの大輝くん、OBのふみかくん、
そしてなぜか私もとい←
がお答えします!!

お待ちしています!!

それでは〜。もとい。

愛と憐れみと義との良い行い 

January 13 [Mon], 2014, 19:55
2014年1月9日(木) hi-b.a.町田 3学期 第1回

明けましておめでとうございます。
新しい一年をスタートできることに感謝したいと思います。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙 2章10節)

町田集会では今年一年、このエペソ2章10節を集会の“年間指標聖句”として掲げていきたいと思います。
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+メッセージ   鈴木大輝
エペソ人への手紙 2章 1節〜10節

さて、今日はこのところから、学んでいきたいと思います。


私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(10節)

一つ目のポイントは、私たちは神の作品であるということです。神様はこのところで、私たちを大切な作品であると語ってくださっています。
作品というのは作者の思い、意図、メッセージが込められているものです。その作品を見れば作者が見えてくる。そういうものでもあります。

神様はご自身の愛と思いを吹き込んで私たちを造ったのです。

創世記のはじめには、神の形に人を造ったと書いてありますけれども、
神の形というのは、私たちがいろいろなことを考えて、いろいろな人と愛の関係を築いていくように私たちが造られたということです。
神様が造る作品は素晴らしいものです。この世界を支配し、何も間違えることのない完璧なものを造るその方が私たちのことを造った。そして、それは良い作品だと言ってくださっている。

みなさんの中に、「自分は価値がない」「自分はつまらないもの」だと思っていることはないでしょうか。「自分は大したことできない」「自分なんてどうせ…」。そんな風に言ったりすることはないでしょうか。

でもこのところ見ると、神様は決してそんな風に思っておられないのです。もちろん神様は私たちが弱かったり、罪から抜け出せずにいることもご存知です。
しかしそうであったとしても、「あなたはわたしの作品だ」と語っているのです。

もし、偶然に私たちがこの世に生まれてきたとすれば、価値は獲得するものです。「自分はこう生きたら他の人に意味があるのかな」といって一生懸命に生きなければならない。自分自身でどうにか自分には価値があると主張しながら生きていかなければならないのです。
でも、この世界を造られて、私たちに最善をなしてくださる神様が、私たちを造ってくださったというのです。であるならば、私たちの存在そのものが素晴らしいものであるのです。

偶然ではないからです。神様が計画をもって造られたからです。必要だと思って、私たちを選んで、今いる場所へと置いてくださっているわけです。


愛をなによりも大切にする神様が、関係を築く存在として私たちを造られました。
「あなたと良い関係を築いていきたい」と言ってくださっています。これは意味あることです。
神様は三位一体と呼ばれる方です。父・子・聖霊なる神様。それは、父・子・聖霊の間に完全な交わりがあり、その交わりに招き入れるために私たちを造ったということが言えます。神様の交わり。本当に素晴らしいその神様の交わりのなかに私たちを招き入れようとしてくださっています。

「自分なんて…」と言っている姿がもしあるとすれば、その姿を神様はどう見ておられるでしょうか。
自分で自分を捉えることをせずに、私たちは自分の評価を他人に明け渡すことをせずに、神様の価値観で自分のことを捉えていきましょう。

評価、価値、なにかの判断というのは、なにによって計られるのでしょうか。
この世は「自分で判断しろ」と言います。もちろん、自分で物事を聞き、何が正しいのかを考えていくことは大事です。
でも、自分さえも間違っているということを気付く私たちは何を大事にするかといったら、すべてのことを造り、すべての絶対的基準であって間違えることのない神様の思い、それによって私たちは自分自身を知っていかなければならないのです。

自分で自分を捉えていくことをせずに、その評価を他人に明け渡す事をせずに、神様の価値観で生きていく必要があります。

そして、ここには「キリスト・イエスにあって(10節)」とも記されています。
キリスト・イエスあって造られた…。
救いのことを神学的な言葉で再創造と呼ばれます。それというのは神様によって造られたが、罪犯してしまった。堕落して罪のなかを歩いていた私たちがイエス・キリストの十字架によって、罪をその十字架の血潮によって洗い聖められて、神様の前にもう一度回復させられて、喜びをもって生きる存在として歩むことができるようになった、そのことを再創造と言います。私たちにイエス・キリストによって新しく生まれ変わった歩みが与えられています。

これは素敵なことです。私たちの歩みはくだらないことじゃなくて、神の作品であって良い行いをするための歩みなのです。


「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2章8節-9節)

エペソ人への手紙の2章1節から10節までは私たちがどう救われたのかを記してある箇所です。以前は“空中の権威を持つ支配者”、サタンの支配のなかにいた私たちがイエス・キリストによって救い出され、新しい歩みに移されて良い行いに生きる歩みを与えられていることが語られます。

自分がなにをしたというわけでもなく、その歩みが与えられたのです。それがどれほど感謝なことなのでしょうか。それほどのものが今、与えられたのです。


私たちは、神の作品として良い行いをするために召されています。

神の作品として造られたのには意味があります。聖書にはこうあります。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43章7節)
「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Tコリント10章31節)

神様はなんでこの世界を造り、人間をここに置いたのでしょうか。それは私たち人間が神様の素晴らしさを現す存在だからです。神様を喜び、神様が与えてくださった一つひとつのことを感謝して歩む歩みへと私たちは導かれています。

作品は、作者の意向を反映するものです。
神様は正しいものは正しいとして、間違っているものは間違っているとして取り扱われる方です。だからこそ、私たちは神様の前に聖くされる歩みが求められています。
また神様は愛であられる方です。だからこそ、神様の愛を求めつつ、その愛に生きる存在として、歩むことが求められています。
そして神様は、憐れみ深い方です。だからこそ、私たちは他人の歩みを受け入れて、なにかの失敗を赦して、成長の過程を忍耐をもって待ちながら歩むということが求められているのです。

クリスチャンの生き方はいろいろな言葉で表現されます。すべてを簡単にまとめると、愛と義と憐れみの歩みと言うことができるのかもしれません。

愛とはそこに、義と憐れみが含まれているものとして捉える必要があると思いますが、私たちが誰かを愛する時に「あなたは素晴らしい」「あなたはそのままでいいよ」という言葉を並べるだけでいいのかというと、実はそうでないことがあります。

本当に取り戻さなくてはならないことがあるという時に、私たちは声をかける必要があるのです。私たちは、人を傷つけ、自分を傷つけ、破滅的な生き方をしている人がいるのならば、「あなたは救われなければならない」とどうにかして伝える必要があります。
伝えていくとき、まず正しさ(義)が必要です。間違った生き方をしてる、してしまうと本物の正しさを伝えることが求められます。
でも、正しさ(義)だけでは不十分です。では何が足りないか。イエス・キリストが十字架、憐れみです。イエス様は憐れみの心をもって私たちを招いてくださいました。義と愛を成り立たせるために憐れみの心をもって十字架にかかり身代わりとなってくださいました。

義と愛と憐れみ、そのような生き方をイエス様は歩んでくださって、また信じる私たちをその歩みへと招いてくだっているのが神様であるわけです。ただ生きるのではなく、良い行いに生きるようにとして神様は私たちを招いてくださったのです。
しかしこれというのは、私たちにとっては恐れを感じさせるものであるのかもしれません。良い行いをするために造られたといっても、そうやっていく自身がなく不安になるなんてことはあると思います。
でも神様はそう造ったのです。神様にはそれができるのです。
神様はあなたにそのことをしてほしい。そのことをあなたにしてもらうことによってわたしの栄光を現すと言ってくださっています。

だから、恐れを持つかもしれませんが、それを受け止めていきたいです。
なんとなく過ごすのではなくて、神様が私たちを呼ばれる声(召し)に応答しながら生きていきたいと願います。

私たちは神様の手足となって、神様の素晴らしい計画のお手伝いをする働きを委ねられています。
「生きていいよ」「なんでもしていいよ」という何も必要とされない歩みではなくて、「あなたが必要だ!」「あなたをこの為に用いたい!」と私たちを必要としてくださる神様がおられます。

天にある愛と喜び憐れみに満ちた世界がこの地に広がっていくことが神様のみこころです。それが神の国と呼ばれるものです。
そして、私たちはその神の国を毎日の歩みの中で、求め生きる中でこの地に反映させていくわけです。私たちのなにかの励ましとか、人の目には見えない配慮とか、そのような一つひとつがこの地に神の国をもたらしていく、なくてはならないピースとなるのです。

神の国が私たちの“良い行い”によって築かれていきます。その歩みが私たちには与えられています。


「その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2章10節)
神様は私たちに良い行いをも備えてくださっています。神様は私たちにできないことを求められる方ではありません。もちろん私たちが「それ自分にできるのかな?」と疑問に思うことはあるでしょう。でも主にあってできることだけを私たちは求められます。
であるならば、神様が備えてくださる良い行いになら私たちはチャレンジしていきたいと願います。

神様にとって私たちはつまらないものではありません。私たちがその恵みに応えて自らの歩みを差し出すことを神様は待っておられます。

神様の教会として、愛と義と憐れみの良い行いにこの一年励みたいと思います。

愛といって、人のことを「OKOK、そのままでいいよ」と適当に言うのではなく、
義といって、ただ正しいことを人の前に突きつけるだけでなくて、
憐れみといって、ただ許す歩みではなくて、

愛、義、憐れみ。この三つが揃って歩むことのできる歩み。それが本当に健全な歩みだと思います。そういう生き方に励みたいと思います。
そしてそれというのは、神様から与えられたものを用いるということです。神様から私たちは賜物を与えられています。私たち一人ひとりには、神様にその人にしかできないもの備えられているのです。だったらそれを活かして生きたいと願います。
用いて神様を誇りたいと思います。神様を賛美して、その素晴らしい歩みに入ることを己の喜びとして生きていきたいです。

神様の前にどう生きるでしょうか。
造られたものとして、神様のことばを聞き、主の歩みにならうものとして生きたいと思います。
人に対してどうするか。備えられた良い行いに励み神様のことを証していく。
神様の家族との交わりに対してどうするか。そのところには恵みと喜びによって動かされる、そういう共同体を築いていきたいと思います。

このhi-b.a.があるのも、あるいは一人ひとりに教会が備えられているのも、それはただ「神の言葉に従えよ」「従わないとどうなるかわかってるのか」というものではなくて、そこに恵みと喜びによって生きる生き方があるからです。それを神様が与えてくださっているのです。
であるならば、その場所で冷たい交わりではなく、温かい交わりを築き上げてあげていきたいと思います。築き上げていくのはその場にいる一人ひとりです。
初めてhi-b.a.にきた人に自分から声をかけ仲良くなって行くこと、それは神様のみこころを反映させていく一つのことだと思います。そして、まだできなかったとしても、祈り始めることができたのだとしたら、そこに神様のみこころが現れていくのです。



私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙 2章10節)

神様によって造られたその作品として生き方を大切にしていきたいと思います。その良い行いをするために造られた私たちは良い行いに励んでいきたいと思います。そしてその良い行いを神様ご自身が備えてくださっていることを感謝して受け止めて喜んでそれに取り組んでいくものとなっていきたいと願います。

祈ります。
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☆プログラム☆
smile
いのちの光
恵みagain
自己紹介
年間指標聖句分かち合い
きぼう
主の愛注ぐ
メッセージ
栄光から栄光へと

高校生19人!!(男子9人女子10人)OB3人+DS
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あけおめ〜ことよろ〜。ヽ(・∀・)ノ←
はい。2014年もこんな緩い感じで共に集会作っていきたいと思います←

さて、2014年の一発目の集会守られて感謝でした!
集会では一人ひとりが年間指標聖句を決めました!
一人ひとりが決めた御言葉とともに歩むことができますように!

初めて来てくれた人が2人!!
これからも来てくださーい!!

それと!三学期はあっという間に終わっちゃいます!
特に三年生のみなさん卒業ですね、、、
この時間を大切にしていきたいですね!!
三年生の歩みが守られますように!!

それでは〜。もとい。

愛と喜びに満ち溢れる「神の国」 〜二学期ラスト〜 

December 02 [Mon], 2013, 16:27
2013年11月21日(木) hi-b.a.町田 2学期 第12回
=二学期ラストの集会=

+メッセージ   鈴木大輝
マタイの福音書 6章 19〜34節
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マタイ6章33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」というこの箇所は、あまりにも有名な箇所だと思います。聖書で私たちが第一に求めるべきものとして語られているのがこの箇所の「神の国とその義」なのです。

それでは「神の国」とは一体なんなのでしょうか。
神の国、それは神様が支配される領域のことを指します。神様の愛や喜びが溢れているところ、それが神の国と言われるところです。
イエス様はある時「神の国は、あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と言われました。主の祈りでは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイ6:10)」というふうにして祈るわけです。
私達が神様に従っていくときに、そして神様を賛美するときに、天にあるものがこの地に入ってきて、そこに神様の愛と喜びが満ち溢れていく、それが神の国なのです。私達を通して、神様の愛と喜びが溢れていくと、そこが神様の支配する領域になるというのです。

私達が求めるのはお金ではありません。有名になることでも、人から賞賛されることでもないのです。大きな権力を手にして支配していくことでもありません。
私達は神の国を求めていくことが必要なのです。

東日本大震災後に大きく取り上げられたのは「絆」でした。人と人との繋がりのなかにある温かさを大切にして向き合っていくことが、大切だという声が日本のあちらこちらで聞かれました。しかし一方で「絆」という言葉の行き先が、どこにあるのかを私達キリスト者は注意して考えなければならないことも思わされます。
戦後日本は民主主義国家で、主権を国民にと訴えてきました。ところが今、国家のために国民が働くように国の動きが変わろうとしていることについて、私達キリスト者はしっかりと向き合っていかなければなりません。「絆」という、自分だけではなく人と人との関わりを表す一つの共同体。しかしそれがどのような共同体で、どこに向かっている共同体であるのかということを、私達はしっかりと向き合って、注意していくことを求められています。私達が信じているものが失われてでも国のためにという声が挙がってしまっては困ります。

この世界が神様に愛されているものとして、取り扱われていて、そこにいる一人ひとりが神様の愛を受けながら支え合う存在として歩んでいけるようにと、祈っていく必要があります。
私達はそれぞれ違った個性を持っています。ですからそれぞれ違う個性を尊重し受け入れながら、一人ひとりが喜びのなかを生きていけるような世界が必要だと思います。またその世界を、この地にもたらしていく存在として、神様は私達を用いようとされています。神の国をこの地にもたらしくのが私達キリスト者の役目なのです。

私達は今、何を目指しているでしょうか。どこに向かっているでしょうか。

日本はここ100年のなかで様々なところを通ってきたと思わされます。戦前、戦後、90年代にはバブルなどもありました。また、今は大震災。このように様々な経験をした日本はいつもその度に「これでは幸せになることができない」「もっと違う何かが足りない」とそれまでとは違う何かを大切にしようとしていくわけです。
でも、「ではどうしたら幸せになれるのだろうか」「何によって満たされるのだろうか」と悩み、迷走して歩んでいるのが今の日本の現状なのではないかと思います。


「19自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。20自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」

聖書は語ります。もし私達が自分の宝をこの地上に蓄えて、それを大切にして生きていこうとするならば、それはやがて傷物になり、盗人が穴をあけて盗んでいってしまうと。

聖書は単に宝を蓄えるのをやめろと言うだけではないのです。聖書が語ること、それは。
「21あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」ということです。
私達の心を支配しているものは一体何でしょうか。

人々は移りゆく時代のなかで、移りゆく価値観に影響されながら迷っていくものです。
「今はこっちに進む。今度はあっちへ進む。今はこれが必要。今度はあれが大切。」
でもそうしたなかで、何かが足りないような気がしてならなくなるのです。それは、”これがなければいけない”というものが足りていないからです。そしてそれこそが”福音”なのです。

何を求めているのか。何を目指しているのか。皆さんにも問いかけたいと思います。
「あなたの生き方は何を求め、何を目指していますか?」「その進路で得たいと思っているものはなんですか?」「その人間関係の行く先はどういうものですか?」
私達キリスト者はこう質問されたときに、いつでも答えられように準備をしていきたいと思うのです。キリスト者が求めているもの、それは“神の国”なのです。神様の支配なのです。それがこの地になくてはならないし、それが私達に必要なものなのです。

神の国は神様の愛と喜びに満たされた、神様が支配されておられる領域です。
正しい者が報われて、間違った者が罰せられる。しかし、神の憐れみと慈しみによって、罪人が赦されるという道が用意されているところでもあります。

聖書はだからこそ、自分の宝を何にするのか、どこに蓄えるのかを注意して、間違えてはならないと教えます。

どうでしょうか。皆さんの宝は何でしょうか。
それは皆さんの一生、いや永遠を満足させる価値のあるものでしょうか。



私達は神様以外を宝としながら、神の国を求めることはできません。神様以外を宝として、神の国にあるものを手に入れることはできません。
何を求めているのか、それは私達の目が健全に働いているのかどうかを意味します。

「22からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、23もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

聖書は明確にストレートに語ります。二つはとれないと。仕えることができるのは一方だけです。神様と他のなにか、本来比べるべきではないものを比べてしまうとき、私達が何よりも大切にすべきものの価値を、すでに疎かにしていることにほかなりません。
どっちにすべきかではなく、何に関しても神様を求めていくことがなければなりません。

神様を求める者に与えられて、神様を求める者によってもたらされ、神様を求める者によって広げられていく、その神様の支配する領域がこの世界にはあります。その霊的な領域を私達は獲得していくことができます。


私達は人生の中で神の国をどう捉えていくでしょうか。
もし宝であるならば、どんなことがあろうとも守っていかなければならないのです。戦いです。その宝を狙い、盗んでいこうとする者があるならば、その者と戦って追い払う必要があります。
私達はまず自分の宝が何であるか、またその宝はどのようなものかを見定めて、その宝を守ろうとして生きなければなりません。

しかし私達の内には、「神の国を大切にしていきたいけど、でもこっちの問題はどうするの?」と心配になる、そういう思いが私達の心に顔を出してくるものです。そしてそれに対して聖書はなんと語るか。

「25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。たのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」

「神様の国を求めたらこっちが…」と不安になってしまうことに対して聖書は「心配するな」とはっきりと語ります。それはなぜか。
神様を求めていくならば、神様が私達に必要なものを絶対に備えてくださるからです。
「空の鳥を見れば、彼らは必要なときに必要なものを食べているだろう。それは天の父が彼らを養ってくださっているからだ。でもあなた方はなお鳥よりももっと優れた者たちではないか」


「29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

神様は私達の必要が何かを知っているのです。だから自分で必要なものを獲得しようとしていくのではなくて、神様から受け取っていくことを聖書は教えてくれます。
本当に必要なものは親が与えてくれるものです。同じように天のお父さんが必要なものを与えてくださるのです。何もかも道を閉ざしてすべて与えない方ではありません。必要なものを与えてくださるのです。
そのように神様を信頼して、神様を求めて生きるようにと教えています。

「33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

私達は“今を生きる必要”があります。
だからこそ、神の国とその義とを求めながら、神様の愛と喜びが満ち溢れている領域を求めて、まず自分の心に神の国が占めていくように、聖霊によって私達がイエス様によって満たされていくように祈っていきたいと思います。

さらにこのhi-b.a.がそのようになるように、私達一人ひとりが行くことを許されている教会が神の国の支配によって歩んでいくことができるように。
またある時には、神の国が現れるところにサタンの攻撃があります。教会、hi-b.a.、また私達クリスチャン一人ひとりにその攻撃があります。それを私達は神様に祈る中で、賛美を捧げる中で、そのサタンに打ち勝っていきたいと思います。

そして、まだ愛と喜びの神の国を知らない人達に、神の国を届けられるように。
「あなたがたのただ中にある」と言われる神の国を求めながら、隣にいる人に届けていく責任が私達にはあるのです。

私達はこの素晴らしい神の国を求める生き方が与えられています。
神の国、神様の愛と喜び満たされた神様の支配される領域。正しい者が報われ、間違った者が罰せられるという真実なところ。しかし、神の憐れみと慈しみによって罪人が赦されるという道が用意されている。
それを私達が受け取ることができるのは不思議なことです。本来、私達は受け取れるはずがないからです。愛と喜び、正義と平安、それは完璧な者にしか与えられないはずです。
でも、イエス・キリストが十字架にかかってくださったことによって、もう一度私達が天の御国に招かれることができる。

この恵みを覚えて、日々感謝して、歩んでいきましょう。祈ります。
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☆プログラム☆
♪どんな時も♪
♪満たしてくださる方♪
♪勝利の声♪
分かち合い
暗証聖句 ヨハネ15:16
♪満たしてくださる方♪
メッセージ
♪栄光から栄光へと♪

高校生16人(男8人女8人) OBOG4人
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二学期最後の集会でした!
すごくあっという間でしたね。(毎回思いますが←)
伝道集会をやったり、ローソンの唐揚げくんみたいになったり←
個人的にはすごく濃い内容の二学期でした。

みなさん、本当にお疲れ様です!お互いに拍手を送りたいですね。
サポートしてくださった、OGOG+だいきくんに感謝!
そして何よりも、
いつも見守って御手を差し伸べてくださった神様に心から感謝します!
それと、集会になかなか集うことのできない方々を覚えて祈ります。

二学期は終わりました!
でも三学期(1月9日木曜日から)、
またユアチャーチで会えることが楽しみです!!

その前に、hiba冬キャンプがあります!
12月26日〜12月28日
行ける人は行ったほうがいいと思います!
きっと素敵な時間になると思いますよ☆

三学期も主にあって町田らしい集会にしていきましょう。
神様に、
そして神様が一人ひとりを用いられる、
その御技に期待します:)

それでは〜。もとい。



イエスが愛したように 

November 28 [Thu], 2013, 1:53
2013年11月21日(木) hi-b.a.町田 2学期 第11回
+メッセージ   鈴木大輝
ルカの福音書 10章25−37節
25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」26イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
-------------------------------------------------
私達は人を見るときどんなところに基準を置いているでしょうか。また私達が人をまた自分の価値を判断するときになにを用いているのかということを考えていきたいと思います。

聖書が語る価値基準を理解するために、この世の価値基準は一体何か。私達が生きている社会で大切にされているものを今回二つ紹介します。
一つ目のこの世の価値基準は“なにかをもっていること”です。それは見た目、容姿も含むことです。「みにくいアヒルの子」の物語を知っていますか。みにくいアヒルの子は変わった姿をしていて周りからいじめを受けます。でも成長していくと実は美しい白鳥だったというところで物語が終わるわけです。みにくいアヒルの子がみにくいまま成長したとは告げませんでした。「シンデレラ」の物語も、王子様を惹きつけたのはシンデレラの美しさでした。実はこのようにして私達は幼い頃に聞く絵本が語る容姿が優れている、何かをもっているが素晴らしい、価値があるということを教えられて育ってきました。さらにそれによって人生が良い方向へと導かれるのだということを幾度も幾度も聞かされるわけです。

そして、人間の第二の価値基準、それは“能力”です。なにができるのか。
人間は能力に目を向けます。歌が上手い、足が速い、勉強ができる、そんななにかが出来る人はみんなから尊敬されていきます。

このように日頃、私達が教え込まれている価値は、その人はなにができるのか、その人はなにか素晴らしいものを持っているからという、その人の容姿や能力によって人を判断していくのではないでしょうか。

人が人を愛する時も同じことを言えるのだと思います。
自分に利益をもたらしくれる人を愛する。何かをしてくれるから愛する。要するに自分にとって都合のいい人を愛する、自己中心の愛、条件付きの愛というものを私達は持っています。

では、27節にある“愛せよ”とはどういうことを指しているでしょうか。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」
というこの“愛”は一体どういうことなのでしょうか。

今まで話してきた愛を考えるときここをどう理解するべきだろうか。神様を愛し、人を愛すのは自分のためなのでしょうか。自分に利益をもたらしてくれるから神様を愛するのでしょうか。
そうではない、ということがこの「良きサマリヤ人」の例え話に示されているのです。
このところには神様の一方的な愛、私達が獲得していくものではなく、無条件に差し伸べられる愛というのが記されています。


ある人がエルサレムからエリコに向かう途中、盗賊に襲われ半殺しにされてしまった。恐らく彼は自分で歩いたり、助けを求めることなどできなかったでしょう。彼は誰かが助けてくれるのを待つしかない、そんな状況におかれたのだと思います。

そしてそんな彼の元に幸い二人の人が通りかかったそうです。一人目は祭司でした。祭司というのはユダヤ教の聖職者です。二人目はレビ人でした。これもユダヤ教の宗教上の役割を担っていた人だったのですが、なんと二人共彼を見ると通り過ぎてしまったのだそうです。一体何故通り過ぎてしまったのか今も研究がなされ様々な意見がありますが、ひとつはユダヤの宗教上の規定のなかに死んだ人に触れると七日の間汚れるという規定があったそうです。彼らには倒れている男が死んでいるか、生きているかわからなかったのだと思います。そこで彼らはもし男が死んでいて触れたら汚れて名誉ある神殿勤めができなくなることを恐れたのだと思います。そして彼らは危険を冒すことを避けたのです。
この祭司とレビ人は勤めというものを愛よりも優先させるタイプの人間だったのです。

どちらにしても彼らは自分を優先にしたのです。
「ここで関わったところで自分には利益はないのだから関わらないでおこう。ここで男が死んでも自分は悪くない。悪いのは男を襲った盗賊だ」
とういう風に勝手に決め付けて逃げてしまったのです。

ひどいと思いますか。でも自分の利益を優先して人が困っていても無視してしまうことというのは私達にも問われてくる問題なのではないでしょうか。それというのは人間の愛を持ち続ける中でぶつかる壁だと思います。どうでしょうか。自分を守ろうとしてその人との関係を隔てる、そういう線を引いているということがないでしょうか。

最後に男のそばを通ったのはサマリヤ人でした。
「33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、」

サマリヤ人という名前はこの時代、異端者、違反者というものを指して使われる言葉でした。このサマリヤ人も正統的なユダヤ人からすれば軽蔑される存在であったのだと思います。ユダヤ人が軽蔑の目で見てくるので、サマリヤ人もユダヤ人に対してあまり仲は良くありませんでした。しかし盗賊に襲われた男を助けたのは祭司のユダヤ人でもなくレビ人でもなく周りから軽蔑されるようなサマリヤ人だったのです。

3節の短い箇所のなかに多くのサマリヤ人の犠牲的な愛が示されてあるのです。
まず男を見てどう思ったか。かわいそうに思ったのです。これがサマリヤ人の動機です。まさに自分自身が半殺しにあった男の立場だったらということを考えたのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と記していることの実践。
その後、自分が持っているもので応急手当をし、自分の家畜に乗せて宿屋まで連れていった。自分の家畜に乗せるということ、それは自分自身が歩いて宿屋まで移動するということを意味します。宿代を払って足りなかったらまた帰りに払う、そこまでした。
サマリヤ人は中途半端な関わり方をしませんでした。さっきの祭司やレビ人とは正反対でした。最後の最後まで面倒をみたわけです。

イエス様はこの例え話を「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということを説明するために話されたのです。この「愛せよ」という「愛」は私達のよくする条件付きの愛で愛することではなくて、一方的な愛を注ぐことです。神様が私達を愛してくださっている愛で他の人を愛していく、その人に関わっていくということを教えています。容姿が、能力があるから愛するのではなくて、その人の“存在”を愛し喜び向き合うというその愛。
この例え話でそのことを伝えようとイエス様はしていました。そしてその愛をあなたもするようにと告げています。

イエス様はこのところで何を私達に伝えたかったのでしょうか。あの人は隣人であの人はそうではありませんということではありませんでした。
積極的にその人の隣人になっていく、ということがここでは語られています。

人を私達はあの人と自分は違うと言って隔てるような線を引いているということがもしかたらあるかもしれません。しかしそうではなくて、人を隔てるのではなくて、その人との関係を繋げるような線を引いていくようにとイエス様は語っています。
「あの人は自分と同じものを必要としているんだ。あの人は愛を必要としている。助けを求めているんだ」
そんな風にしながら、その人との繋がりというものを求めながら共通点を探して向き合っていく、そういう愛を神様は私達に求めておられます。

私達というは、神様から存在をもって愛されている者たちです。だからこそ他の人に対しても神様が愛している愛されるべき存在なのだと向き合っていく、そのことを覚えて進んでいきたいと思います。

なぜこのことができるか。そしてそんな風にして私達が歩んでいくことができるのか。
もし「あなたはサマリヤ人になれるか」と聞かれたらきっと「なれない」としか答えることができないのかもしれません。人と自分を隔てる線を引いて、自分には理由があると言って逃げるのではなくて、主の前に、その人と自分を繋げていく線を引いて、向き合って歩んでいく者でありたいと思います。

なぜなら、このサマリヤ人のようにイエス様が私達にしてくださったからです。
イエス・キリストという方はユダヤ人から線を引かれて弾かれた存在であったわけです。しかし、イエス様が私達に共通点を見つけてくださって愛されるべき存在だといって愛し命までも捨ててくださった。そういう方であったことを覚えて、私達もその愛を見つめながら、神様に愛された者として、人を愛するものとして生きていけたらと思います。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』

この神様の命令に、神の憐れみのゆえに、恵みのゆえに生きる存在でありたいと願います。
-------------------------------------------------
☆プログラム☆
♪一緒に♪
♪変えられたソング♪
暗唱聖句 第二テモテ2:22
分かち合い
♪求めて♪
メッセージ
♪イエスが愛したように♪

高校生12人 OBOG三人
-------------------------------------------------
「イエスが愛したように、私達も愛し合う」
このブログをまとめる作業をしているときも
何度も僕のこころに響いてくるものがありました。
イエスのその大きな愛を受けたものとして、歩んでいきたいです。

さて、町田集会もつぎで二学期ラスト!!
早いものですね。

多くの人が来ることを願いつつ
また事情があって来れない人、一人ひとりを祈りつつ
なによりも集会が祝福されることを祈ります!

それでは。二学期ラストの集会で会いましょう!:)
もとい

触れてくださるイエス様 〜伝道集会「お菓子パーティー」〜 

November 17 [Sun], 2013, 19:50
2013年11月14日(木) hi-b.a.町田 2学期 第10回
伝道集会「お菓子パーティー」
+メッセージ   鈴木大輝
ルカの福音書 5章12−13節
12さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
13イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、ツァラアトが消えた。
-------------------------------------------------
私たちクリスチャンは、イエス・キリストという方がこの世で唯一罪を犯さなかった方であり、また神であることを信じています。
イエス様がいろいろな街々をまわって、人々が傷ついていたり、あるいは悪いものに惑わされているので、そのところで奇蹟をおこしたり、癒したり、お話をしたと聖書に書かれてあります。またそんなイエス様のところには何千人という群衆が押し寄せていたそうです。これらのことからこの時代、イエス様は名の知れた有名人であったことがわかります。

今回の聖書箇所に出てくる「ツァラアト」。これは当時、最も恐れられていた病気の一つでありました。一度、犯されるとじりじりと体をむしばんでいく不治の病と言われていた皮膚病です。そしてこのツァラアトが恐れられていた所以は、ただ病の苦痛を受けるだけではなく、ツァラアトに犯された人は社会的に過酷な状況に置かれることを意味していたからでした。まだ医学が発達していないこの時代、強い感染力があると信じられ(実際は非常に低い)、このツァラアトに対する扱いはなにかというと、“強制隔離”でした。
当時、ユダヤの地方では一つひとつの街が敵に簡単に攻め込まれないように、高い城壁で囲まれていました。人々はそのなかに生活していたわけですが、ツァラアトに犯された人は城壁で囲まれた街で生活してはいけないというルールがありました。その城壁の外に締め出される形での、生活をツァラアトに犯された人々は余儀なくされてしまったのです。しかし城壁の外は、決して人の住むような環境ではありませんでした。そんな環境で住むことを強制されたツァラアトに犯された人を人々は“生ける屍”とさえも呼んだそうです。

ツァラアトに関する基礎知識を頭にいれた上で今回の聖書箇所を読むと、このシーンが不思議なシュチュエーションだということが、お分かりいただけるでしょうか。
12節「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。」
このツァラアトに犯された男にとって城壁の中に入ることは難しいものでした。しかし、いた。本来、町にいてはならない存在、いるはずのない存在がどういうわけか町に侵入してきたことになります。

旧約聖書のなかに、ツァラアトに犯された人たちに対していくつかの取り決めがされています。当時は医者ではなく祭司と呼ばれる人が、ツァラアトがあるかないかをチェックしていたそうです。何か、体に異常が起きたら祭司のところへ行ってその患部を見てもらい、患部を見た祭司がツァラアトかどうかを判断していました。そして、もし祭司がツァラアトであると思ったら宣言するそうです。「汚れている」と。そう宣言されてしまった人は定められた取り決めに従って生きていかなければなりませんでした。具体的にどのような取り決めがあったのかというと、

「45患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。46その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」(レビ記13章45、46節)

ツァラアトに認定された人はこの取り決めに従って歩んでいかなければならないのです。自分が今まで着てきた衣服を引き裂いて、髪の毛を乱して、「汚れている」と叫ぶ。不思議な取り決めだと思います。しかし、その時代強い感染力があると考えられていたツァラアト。それに犯されている人には触れてもいけないし、近づいてもいけない。ですから周りから見るからに“それ”だと分かる格好をしなければならないのでした。格好だけでは不十分なので叫ぶのです。「汚れている」と。そしてこの時も、叫ぶ時に出る唾で感染させてはいけないので口ひげを覆うのです。そしてひとりで城壁の外に住む。
ひどいと思いますか。しかしこの時代、感染力があると考えられていた病に犯された人々に対して“隔離”ということは世界中で行われてきたのです。

私達はどうでしょうか。
病気のある人の前から逃げ出さなかったとしても、日常的に近くにいる人に対して目を逸らしたりして“疎外感”を感じさせてしまっていることはないでしょうか。逆にその“疎外感”を自分自身が感じることもあるかもしれません。愛されていない、信用されていないと感じる。実際に裏切られたりした経験があったりだとか。そのような経験、私達のなかにないでしょうか。
しかし、今回の聖書箇所に出てくるツァラアトの男はそんな状況の時にどうしたかということに目を留めていきたいと思います。そして、聖書を読むときはそこに出てくる登場人物の心に自分の心を合わせてみてください。そうすることによってその人が置かれた状況、心境などをよりリアルに現実的に、そして本来聖書が私達に語りかけようとしているメッセージが見えてきます。
この男、ツァラアトと宣告されてからどのくらい経ったのか。彼には家族があったかもしれません。恐らく仕事をしていたでしょう。そして友達もいたことでしょう。でも、祭司から言われた「汚れている」という一言で彼の人生を大きく変わったのです。今まであった、愛する家族、友達、仕事、全部失うのです。自分が望みもしなかった病に犯され、人から拒絶されるという耐え難い明日を宣告されるのです。その人は自分の人生と向き合わなければならない。「人生変わってしまった。今まで通り生きることができない。」と。そうして住まいを城壁の外へ移すのです。何年過ぎたか。城壁の外での暮らしにも慣れてきたのかもしれない。でもなにか足りない。それというのは“人の温もり”です。人から拒絶された痛みは決して消えることはないのです。これらがその時の彼の状況ではないかと思います。

私達人間は弱いのではないでしょうか。決して一人では生きていけないというところが私達のなかにあるのではないでしょうか。どんなに大きな富、権力を手に入れたとしても、私達は愛を受けることなしに喜んで生きていくことはできないのではないでしょうか。
だからこそ、愛がほしい、人との温もりがほしいという思いがツァラアトに犯された男を行動へと突き動かすのです。だからこの日男は、“いてはいけない町”に入ってきたのです。なぜか。それはイエス・キリストに会うためです。恐らく彼はイエス様の奇跡の噂を聞いていたことでしょう。彼はそのイエス・キリストにすがりつく思いで町に入ってきたのだと思います。しかし、町にいた人はこの男の登場にどのような反応をしたでしょうか。もちろん驚いたでしょう。そして男の前から逃げ出したり、罵声を浴びせたのかもかもしれません。男はそんな人々の反応に心を痛めたことでしょう。それでも男は一直線に進んだのです。イエス・キリストに会うために。
そして、どうにかイエス様のもとへやってきた男は一つのお願いをしました。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエス様だったらそう思うだけで自分をよくしてくださることを信じてこう言ったのだと思います。男は自分がおかれた苦しい状況に嘆くだけではなく、解決を求めたのです。そして解決ができるお方のところまで苦しく険しい道のりを歩いてやってきたのです。自分の状況を受け入れて、「自分は汚れているからきよめてください」と純粋にお願いしたのでした。

私達はどうでしょうか。自分の問題を取り上げられる時どう反応するでしょうか。自分に問題なんかないと言うでしょうか。また認めないなんてことはないでしょうか。それともその問題を自分の力だけで解決をしようとして勝手に行き詰っている、なんてことはないでしょうか。しかし、本当の解決は自分の力だけに頼るのではなく、その問題を解決できるお方の前に持っていくことだと思います。

「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
自分の弱さ、問題、すべてをさらけ出したこの男にイエス様はどう反応したでしょうか。
「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに、ツァラアトが消えた。」
自分をさらけ出した男に対して、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われイエス様は男を癒されました。すごいと思います。
しかしこの箇所のなかに感動するもうひとつのメッセージがありました。それというのは男でさえもショッキングなことだったと思います。それはなにかというと、13節の前半に書いてあるこの言葉。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、」。

繰り返しますが、ツァラアトの男が言った言葉、願いは、イエス様にきよくなれと“思って”いただくことでした。男にとって「きよくなれ」と思って、あるいは言っていただけるだけで大満足だったわけです。ところが男の願いに対してイエス様の応答は違いました。
ただ思うだけでもなく、言うだけでもなく、彼に触れられました。しかも、イエス様は男の病気が治ってから触れられたわけではありませんでした。誰もが近づかなかった、誰もが触れなかった汚れた男の体にイエス様は触ったのです。
男はその時、純粋に嬉しかったのではないかと思います。ツァラアトだと宣告されたあの日から誰一人、男に触る者なんていなかったのです。悲しみの思いでいっぱいの男の思いを知って触れてくださるのがイエス様なのです。
イエス様に全てをさらけ出して求めることを男はしました。イエス様はその時私達の想像をはるかに超えた方法で必要を満たしてくださいます。

この話を聞いて皆さんはどう思うでしょうか。「自分は大丈夫。問題はない。」と言うことができるでしょうか。そのことを一つ問いかけたいと思います
私達は自分の心を知られたくない、知られたら嫌われてしまうのではないかと思うことがあるのかもしれません。そんな思いを隠して取り繕うと頑張るのです。でもそれは虚しいものです。イエス様はそんな私達の心に手を差し伸べてくださって汚れを背負ってくださる方です。

イエス様は私達の罪のために十字架にかかってくださいました。私達の醜い罪に手を差し伸べて背負ってくださったのです。イエス様の御手というのは人の一番汚れた部分に手を差し伸べて触れてくださって、それをきよくしてくださるのです。

問題を解決するのは難しいことです。まず、自分の問題を認めて向き合わなければならないからです。そして自分で頑張ろうとするのではなく、自分をさらけ出し「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と問題を解決できるただ唯一の方の前に出なくてはならないからです。でもそうすることによって神様は私達の想像をはるかに超えた方法で解決の道へと導いてくださいます。そのことを信じて自分と向き合っていく者となっていきたいと願います。
-------------------------------------------------
伝道集会「お菓子パーティー」
☆プログラム☆
ゲーム
自己紹介
いのちの光

届けたい
メッセージ
永遠にあなたと
お菓子パーティー


高校生26人!!男子13人!!女子13人!!OBOG3人!!
新人4人!!!
-------------------------------------------------
お祈りありがとうございました。
お菓子パーティー終わりました!
素晴らしい時を過ごすことができました!
感謝です〜!!(・∀・)

なんと、新しく4人もの人が来てくれました!!
他に久々に来てくれた人、レギュラーメンバー、OBOG、+大輝くんで
総勢30名もの人数でお菓子囲んで楽しくわいわいがやがややりました。笑
(ちなみに僕は30人来ると予想してましたよ。ぴったし。どやぁ←)

準備や集会中、奉仕をしてくれた方々。ありがとうございました!
すんごい集会を神様がプレゼントしてくれました:)
ハレルヤ!感謝します!

新しく来てくれた人、久々に来てくれた人が
続けて町田に足を運んでくれるといいですね。
お祈りします:]

それでは!  もとい



主の招き 

November 11 [Mon], 2013, 13:27
2013年10月31日(木) hi-b.a.町田 2学期 第8回
+メッセージ   鈴木大輝スタッフ
ルカの福音書 5章1‐11節
群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
-------------------------------------------------
聖書を読むとき大切なことが一つあります。それはその場所に登場した人物と自分をリンクさせながら読むことです。もし、自分だったらと考えながら読んで見てください。そうすることによって今自分に何が語られているのか、また時に自分の罪が指摘されることもあるのかもしれません。でもそうしていくなかで、神様にどのような態度をとっていけばいいのかが教えられることができるのです。

今回の聖書箇所は、漁師であったペテロがイエス様に呼ばれて弟子となるシーンを描いています。イエス様は集まった群集達への話を終えられると、突然ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と命じられました。すごく唐突でペテロもびっくりしたのではないでしょうか。しかもそう言われたペテロ達はすでに夜通し漁に出て働いたのにも関わらずなにもとれなかったと語ります。状況的にペテロ達にとって迷惑な話であったと言えるでしょう。
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」
ペテロのこの反応はごく自然な反応でしょう。ところがペテロはこう続けました。
「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

私達は人間的に考えて無茶だなと思うことを言われたときどう反応するでしょうか。ペテロがしたように、「イエス様が言われるのだったら」とおことば通りにイエス様に従うことはできるでしょうか。ペテロが言った「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」というこの言葉はペテロの人生を変えた言葉でした。もしペテロが漁師としての経験をもとにイエス様の言葉を聞くことをしなかったのならこの後のペテロはいなかったのかもしれません。
ペテロがイエス様の言葉に従った結果、どうなったでしょうか。なんと夜通し働いても何一つとれなかったはずなのに、船が沈みそうになるほどに魚がとれたのです。これは神の力です。私達はイエス様の言葉を信じるだけでなく、それを実行していくときに神の御技を見ることができるのです。私達は深みに漕ぎ出すことなしに、網を投げることなしに、魚がとれないなとつぶやいていることはないでしょうか。

神の力を見たペテロのうちに恐れが生まれこう言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」。しかし、イエス様はそんなペテロに「こわがらなくてもよい」と言われ「離れてください」と言ったペテロに歩み寄ってくださったのです。これが神の愛です。

罪に気づき、恐れを抱く私達に「こわがらなくてもよい」と言われ私達に歩み寄り、また新しい道へと招いてくださる方がイエス様です。
ペテロはこの日イエス様との出会いによって生き方が変わります。自分のために魚をとる漁師から、イエス様によって人を生かす生き方、人を導く人生、そこに仕えて喜びをもたらしていく人生、そこに彼は導かれました。
「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」
ペテロは今まで大切にしていた全てのものを捨てました。それは本当に大切なものに気づいたからです。それだけあればいいものに気づいたからです。そのために喜んで犠牲を払えるもの。それがイエス・キリストという方なのです。
私達を恐れから解き放ち、自分では想像もつかない大きな御技を体験させ、人を生かす働きに用いてくださる、それはすべて主の招きから始まります。
この時群衆に話すためにペテロに声をかけられたのも主の招きです。深みに漕ぎ出して、網をおろしなさいと命じられたのも主の招きです。「離れてください」と言ったペテロに「こわがらなくてもよい」と声をかけられた。これも主の招きです。

神様は、私達を招く神なのです。私達を大いなる人生へと招き、さらに人を生かす人生、人をとる人生へと招く。私達はこの招きにどう応答していくでしょうか。

主に用いられたいと願い奉仕をしていくこと。確かにそれは招きに応答した良い結果だと思います。しかし、私達は漁をしたからといってかならずしも魚がとれるわけではないことがあります。ではそのときに何をしなければならないのでしょうか。
一つ大切なことがあります。それは自分の網を洗っておくことだと思います。ペテロはもう一度漁に出ることができるように、その時使った道具である網をもう一度洗いました。それはどういうことかというと、私達が神様と向きあうその心を思い返して、それに取り組むことだと思います。
私達は神様を知らない人たちに神様を信じさせることはできません。しかし、聖霊が働いてその人が神様を信じるその時まで、深みに漕ぎ出して網を投げ続けることはしていくことはできます。それは私達が大切にしていきたいことです。

私達を立ち上がらせて人間をとるために今招いてくださっている方がいます。それが私達の神様です。その神様の招きに応答してもう一度立ち上がっていきたいと願います。
-------------------------------------------------
☆プログラム☆
命の泉
自己紹介
伝道集会反省会&準備会
ゲーム
暗唱聖句 ピリピ1章29節
イエス様ふれてください
メッセージ
あなたの御名を

高校生13人obog2人!
-------------------------------------------------
はい!更新がものすごーーーく遅くなってしまってごめんなさい!
10月31日の集会は新しい人が来てくれて感謝でした!
引き続き来てくれると嬉しいです!!

それでは!  もとい
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