レゲエの神様 

September 09 [Tue], 2014, 19:10
1945年、ジャマイカの北の海岸に位置するセント・アン教区、ナイン・マイルズで、白人のイギリス海軍大尉の父とジャマイカ人の母との間に生まれる。当時、61歳であった父と18歳の母は、ボブの誕生後に別れ、ボブは母親とナイン・マイルズで幼少期を過ごした。

10歳のときに父が死去。父からの経済的な援助がなくなり、一家は職を求めてキングストン郊外のスラムに移り住む。周囲の黒人とは異なる容姿から「ドイツ人」というアダ名がつき、それを嫌って靴墨で顔を塗ることもあった。ボブは、この地でバニー・ウェイラーと音楽活動を開始し、音楽に専念するため14歳で学校を中退する。

17歳でオーディションに合格し、ソロ・ミュージシャンとしてデビュー。18歳からトレンチタウンに在住し、少年時代からの親友らと「ウェイラーズ」というグループ名で活動を始める。また、後に「レゲエの父」と呼ばれたジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ運動の教えを受ける。

ラスタファリ運動は、ジャマイカの労働者階級や農民を中心にして発生した宗教的思想運動であり、聖書を聖典とするも特定の教祖はいない。アフリカ回帰主義を奨励し、その指向は、生活様式全般、例えば、菜食主義やドレッドロックス、ガンジャを聖なるものとしている。

1974年、30歳のときに、エリック・クラプトンがカバーしたボブの曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を獲得。ボブ・マーリーの名は一気に世界に広まる。同年、アルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。英国や米国のロック雑誌でも絶賛される。翌年にシングル発表した「ノー・ウーマン・ノー・クライ」も世界的大ヒットを記録。ボブは、第三世界を代表するスーパースターを呼ばれるようになる。

1976年、ジャマイカの政治的緊張が頂点に達する。ボブは、平和を取り戻すきっかけを作ろうと無料の「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を計画。それにより二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃されて重傷を負う。負傷したまま5日の無料コンサートに出演し、翌朝バハマへ亡命した。

1978年にジャマイカに舞い戻り、「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演。コンサートを見に来ていた二大政党の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。音楽が世界を動かした瞬間であった。

1980年、脳腫瘍が発見される。様々な療法を試すも回復せず、1981年、母のいるマイアミの病院で36歳の生涯を閉じた。遺体は母国ジャマイカに戻され、国葬が行われた。



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