正子内親王 

2006年03月10日(金) 17時38分
淳和天皇皇后・正子内親王

嵯峨天皇の皇女で、母は皇后・橘嘉智子。同母兄弟に仁明天皇がいる。叔父にあたる淳和天皇に嫁ぐ。

824年頃、15歳で淳和天皇に入内。
825年、入内した翌年に恒貞親王(仁明天皇皇太子)を生みます。
827年、皇后に冊立。
その後、恒統親王・基貞親王を生みます。
833年、24歳のときに夫・淳和天皇が退位し、それにともなり恒貞親王が立太子。
そして正子内親王は皇太后となります。
840年、夫・淳和上皇が60歳で崩御し、正子内親王は出家します。
842年、父・嵯峨天皇が没します。
一月後に東宮坊の舎人らの陰謀事件に連座したとして、所生の恒貞皇太子が廃されました。(承和の変)
850年、母・皇后嘉智子が没し、両親を共に失ったことになります。
854年、太皇太后となります。
文徳天皇の即位の際に、正子内親王を太皇太后に上げようとしたが固辞して受けなかったといわれますが、実際のところは太皇太后の尊称が与えられたようで太皇太后と称されています。
860年、淳和院に大斎会を設け、菩薩戒を受けます。
879年、70歳で崩御します。
遺令により嵯峨山中に薄葬されました。


藤原 芳子 

2006年03月10日(金) 17時28分
村上天皇女御・藤原 芳子

左大臣・藤原師尹の娘で、母は右大臣・藤原定方の九女。同母兄に藤原済時がいる。父の従弟にあたる村上天皇に嫁ぐ。

955年頃、村上天皇に入内、宣耀殿に局を賜る。
入内は父・師尹の左衛門督就任後といわれています。
芳子と天皇は一回りほど年が違っていたようです。
956年、「宣耀殿女御矍麦合」を催します。
そして同年、昌平親王を生みます。
958年、女御宣下を受けます。
容姿麗しく、名門子女のたしなみを教え込まれていた芳子は、才女多き村上帝の後宮でも、とりわけ寵愛が深く、その寵愛ぶりには中宮・安子も嫉妬しました。
959年、正五位下に叙され、962年には従四位下に叙されます。
964年、村上天皇の中宮・安子が崩御します。
天皇は亡き中宮を思ってか、寵愛が衰えたと伝えられます。
そしてその翌年、永平親王を生みます。
967年、夫・村上天皇が崩御。
その二月後に後を追うように卒去します。

藤原 超子 

2006年03月09日(木) 19時09分
冷泉天皇女御・藤原 超子

藤原兼家の一の姫で、母は藤原中正の娘・時姫。同母兄弟には、関白道隆・関白道兼・摂政道長・皇太后詮子がいる。従兄にあたる冷泉天皇に嫁ぐ。

968年、10月に冷泉天皇のもとに入内し、そして12月に女御宣下を受け、従四位下に叙されます。
公卿の娘ではなく女御となったのは超子が初めてだったといわれます。
まだ父・兼家は蔵人頭であって公卿ではありませんでした。
969年、夫・冷泉天皇が退位し、円融天皇が即位します。
譲位の後、光子内親王・居貞親王(のちの三条天皇)・為尊親王・敦道親王を生みます。
982年、庚申の夜に頓死します。
庚申待ちの明け方に眠るようにして急死しましたので、以後兼家一門では庚申の催しを行わなかったといわれます。
1011年、三条天皇の即位にともない、皇太后を追贈されました。

尊子内親王 

2006年03月08日(水) 19時04分
円融天皇女御・尊子内親王

冷泉天皇の第二皇女で、母は関白・藤原伊尹の娘で贈皇太后・藤原懐子。同母弟には花山天皇、異母弟には三条天皇がいる。叔父である円融天皇に嫁ぐ。

967年、2歳のときに父・冷泉天皇が即位し、内親王宣下を受けます。
968年、宣下を受けた翌年に斎院に卜定され、同年12月に初斎院(左近衛府)に入ります。
969年、4歳のとしに父・冷泉天皇が退位し、後に夫となる円融天皇が即位します。
円融天皇の即位後も引き続き在任したようです。
970年、5歳となった年の4月に紫野の斎院に入ります。
975年、斎院の任について7年の月日が経った後に、母・懐子が死去し、斎院を退下します。
978年、四品に叙されます。
980年、15歳で22歳の円融天皇に入内。
麗景殿に参候し、のちに承香殿に移り、承香殿女御と呼ばれます。
しかし、入内後に大内裏の諸殿舎ことごとく焼亡し、火の宮とも称されました。
981年、入内した翌年に二品に叙されます。ときに尊子内親王は16歳です。
982年、17歳になった年に叔父・藤原光昭が没します。
そしてその数日後に隠密に自ら髪を切り、落飾します。
その2年後の984年、夫・円融天皇が退位。弟の花山天皇が即位します。
同じ年に若くして出家した尊子内親王に源為憲より「三宝絵(三宝絵詞)」が撰進されます。
その翌年の985年、4月に受戒し、そして5月に薨去します。
ときに尊子内親王は20歳。
若くして亡くなりました。

藤原 寛子 

2006年03月08日(水) 19時00分
後冷泉天皇皇后宮・藤原 寛子

父は関白・藤原頼通で、母は源(藤原とも)祗子。同母弟には関白・藤原師実がおり、従兄にあたる後冷泉天皇に嫁ぐ。

1050年、15歳で26歳の後冷泉天皇に入内し、女御宣下を受けます。
1051年、入内した翌年に皇后に冊立されます。
その入内は父・頼通の権勢をともない華やかなもので、有力貴族の姫君たちも女房にと望んだようです。
素直で華やかな后の宮廷は賑やかな雰囲気に包まれていたと、女房として仕えた下野の歌集『四条宮下野集』から伺うことができます。
1053年、母・源祗子が没します。
1056年には皇后宮寛子春秋歌合を催し、1066年には歌合を催しました。
1068年、33歳のときに夫・後冷泉天皇が崩御します。
明るい気質で後冷泉帝からも愛されましたが、皇子女をもうけることはありませんでした。
そしてその年の12月に出家します。
1069年、34才で皇太后となります。
1074年、父・頼通が亡くなり、大きな後見を失います。
そしてその4ヶ月後には太皇太后になります。
1089年、54歳の年に庚申太皇太后宮寛子扇歌合を催します。
1127年、宇治の別邸にて崩御します。
92歳という長寿をまっとうし、宇治木幡の宇治陵に葬られました。

禎子内親王 

2006年03月07日(火) 19時28分
後朱雀天皇后宮・禎子内親王

三条天皇の第三皇女で、母は摂政太政大臣・藤原道長の娘、中宮妍子。従兄にあたる後朱雀天皇に嫁ぐ。

1013年、三条天皇の皇女として誕生します。
誕生の際は、皇子を望んでいた外祖父・藤原道長が不快感を露わにしました。
百日儀を終えた10月に内親王宣下を受けます。
11月には家司・侍所・職事等が補されました。
1015年、3歳の時に袴着を行い、12月には准三后となり、時の権力者の孫女として厚い庇護を受けます。
1016年、父・三条天皇が退位します。
そしてその翌年の1017年、父・三条天皇が崩御します。
まだ禎子内親王が5歳のときです。
1022年、母・中宮妍子と共に新造された枇杷第(陽明門院)に移り、此処を御所としました。
1023年、11歳の時に土御門殿において裳着が挙行されます。
裳腰の紐を結う役は伯母である太皇太后彰子が務めました。
道長の後見のもとに行われた華やかな式で、その日一品に叙されます。
1027年、東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入内しました。
局は有力な妃たちの住まう弘徽殿です。
この入内は外祖父・道長の決定によるものです。
道長にしてみれば、先に入内させた娘・嬉子が薨去してしまいとても狼狽したのでしょう。
半年後の9月に母・中宮妍子が亡くなり、12月には外祖父・道長も没します。
このことにより相次いで後見を失いましたが、この時期には他の妃の入内もなく、良子内親王・娟子内親王・尊仁親王(後三条天皇)を産みます。
1036年、夫・敦良親王が後朱雀天皇として即位します。
禎子内親王は24歳、入内してから9年でした。
1037年、中宮冊立し、その1月後には前年入内した"女原"子の立后により皇后宮となります。
この"女原"子の入内の頃より里邸に篭り、天皇が参内を勧めても拒み続けたようです。
1045年、夫・後朱雀天皇が退位、崩御します。
そして後冷泉天皇の即位にともなり、所生の尊仁親王が立太子。
その約半年後に出家します。
1051年には皇太后となります。
1068年、太皇太后となり、後三条天皇が践祚。
翌年の1069年、57才で女院号を賜り、陽明門院と号しました。
1094年、82歳で鴨院において疱瘡のため崩御します。
この時代にはとても長生きだったようですね。

十市皇女 

2006年03月04日(土) 18時41分
弘文天皇(大友皇子)皇后・十市皇女

天武天皇の皇女で、母は後に天智天皇に仕えることとなった額田王。従兄妹にあたる弘文天皇に嫁ぐ。

668年、15才頃に天智天皇の息子である大友皇子(のちの弘文天皇)に嫁ぎます。
十市皇女は小さい頃から異母弟の高市皇子の事が好きだったといわれていますから、当然のごとく政略結婚でしょう。
結婚後は大友皇子とは仲が良くなく、密かに高市皇子と逢っていたといわれます。
669年、嫁いでから一年後に葛野王が産まれます。
671年1月、夫・大友皇子が太政大臣になります。
叔父であり義父にもあたる天智天皇と父の大海人皇子(のちの天武天皇)はこのところ仲が良くなく、天智天皇は息子の大友皇子を皇太子にしたかったようなので、大海人皇子とは微妙な関係になったと思います。
十市皇女にしてみれば父と夫ですから苦しんだようにおもわれます。
同年12月、天智天皇が近江宮で崩御します。
そして672年6月、壬申の乱が勃発。
その間に夫・大友皇子は弘文天皇に即位し、十市皇女は皇后となったといわれます。
672年7月、夫の軍が瀬田川の対陣で大敗をきします。
その数日後に夫が自害。
その後は十市皇女は父の大海人軍に保護されます。
十市皇女は天武天皇の元へ戻ったあと、高市皇子と密通をかさねたといわれます。
678年、天皇の勅命により斎王として斎宮に赴くことになります。
なぜかは、高市皇子との仲が露見しかけていたからともいわれます。
そして自邸を出ることになった4月7日、急病により薨去しています。
一説では自殺したとも・・・・
高市皇子は十市皇女に挽歌を3種贈っており、交情が深かったと思われます。




 
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