告知。

June 28 [Mon], 2010, 15:11
突然ですが、Amebloに引越しをしました。
最近、更新してなかったので、これからはこまめにしていこうと思います。
もしよろしければ、今後ともお付き合い下さい。
どうぞよろしくお願いします。

http://ameblo.jp/hanataro0304/

チャイナの人々。

December 20 [Sat], 2008, 18:38
2007/09/02 Xi ning→Beijing by sleeper trains

 路上で皮付きの桃を丸ごと噛りついたり、落花生の殻をバス車内に直に捨てたり、衛生検査で確実に引っ掛かりそうな屋台で食事したり。 あるいは、清潔とは言えない列車の床に寝転んで眠ったり、突然の故障で立ち往生したバスの発車を気長に待ったり、(*)三日三晩顔を洗わず風呂にも入らなかったり、ありとあらゆる物事を彼らと同じようにしてやってみた。日本に居たら到底考えられない常識の数々ばかりだが、そこは一つ足を延ばして彼らの色に染まってみるのも悪くは無かった。彼らの中には僕を確かに惹き付けるものがあって、だからそうしてみることはとても居心地の良いものだったのだ。
 彼らは自分に正直だった。つまり、どんな時でもどんな場所であっても周囲を気にせず、彼らは自分のしたいこと、すべきことをしているように見えた。だから、日本から来た僕からしてみたら、上で記した物事はある日は常軌を逸していたし、とても驚くべき事だったし、それなのに何故か羨ましくあった。日本では、数多くの視線があちこちを交錯しているものだから、服装に気を遣ったり、身だしなみに目を留めたり、もしくはその対象は言葉や所作へと移りもする。そうした環境に身を置けば、自らを洗練し、向上することができて、海外からみた日本の立ち位置はそういうものなのだと思ったりする。しかしながら、時として、日本のある種の包囲網のような視線によって萎縮を起こせば、ありのままの自分をさらけ出せないのもまた事実だった。それは確かにコミュニケーションにも歴然の違いとして表れている気がした。
 彼らは実に感情豊かに自己表現をするのだが、幼い子供であっても、幾ら歳を重ねて大人になってもそれは共通している事のように僕の目には映った。そして、接している相手が誰であったところで、特に構わないように見えた。大人と子供、男性や女性、あるいは年上か年下か、知人か初対面か、といったような表面に貼られた間柄とか肩書きはあまり意味をもたないようで、自分をさらけ出して相手と向き合い、接しようとする意思を感じた。そのやり取りは人が人をそっくりそのまま受け入れているようだった。全力で引っぱたくまでの親の厳しいしつけは、あわやこちらが止めにかかる程のものだが、意外にも子供たちはそれに歯向うことなく全力で受け止めていたりする。まるで古い旧友のように親しく喋ったり、大真面目に本音を語り始めたりしていた彼らが、実は名も素性も知らない他人やはたまた店員と客の関係だと知らされた事もあった。人々はよく意見をぶつけ、つい声を荒げて怒ったり、やもすれば高らかに笑い、肩を叩き合っている。そうしたやり取りが、根本的な部分としてしっかり根付いているのだから、家族、友達、ひいては国全体としてのまとまりもとても強いものの気がして、彼らの人間性というものに僕は幾らか嫉妬を覚えるほどだった。
 僕は、そんな彼らのやり取りを見ているのが大好きで、いつも口元ははにかんでいた。同じアジアにいながら、欧州と比べれば朝刊を取りに行くほどの近所でありながら、何故か遠い国の人々のような気がしたのだ。

*チベット自治区の人々によっては、貴重な水資源をそうして節約している。

こんなものをいつか書いてみたい。つづき

December 04 [Thu], 2008, 2:03
 僕は外界との接触をほとんど絶った空間に居た。郵便や勧誘でも何かの度に人と顔を合わせるのが億劫であったから、鍵を掛け、カーテンも閉め、常に孤独な空間を作っていた。遅い朝を迎えて、のたのたと一切れのパンを済ませると、大抵それから二度目の睡眠に入った。眠る事に飽きがさして目を覚ますのはいつも3時を回ったぐらいだった。ゴミ箱にはカップ麺の容器が何層にもなってその頭を覗かせているのに、昼食時にはまた同じものに手を伸ばして啄(つい)ばむ。食べ終えたところで、パソコンを立ち上げ、チェックの必要の無いメールボックスを覗いたり、無意識的に2チャンネルに入ってコメントを残したりする。物事の一つ一つに意志は無く、時間をただひたすら流す事を繰り返すのだ。むしろ、流すという能動的な言葉よりは、時間という名のいかだにただ身を預けて流されているという受動の意味合いの方がいいのかもしれない。
 いよいよネットサーフィンにも飽きて、読みたい本も聴きたい音楽も特に無ければ、大抵それからふらっと街へ繰り出し、人ごみの中へ自分を埋めた。ある時は、気付けば僕は席に座ってスロットルを握り、何度も回っては落ちていく玉をぼんやり眺めていた。別に玉の行く先に意味はないのだ。結果など求めていない。ただ、もてあました時間をどうにかしてやり過ごしたかった。そして、世間から逸脱できる何らかの機会を探していたのだ。平日の午後のこの場所は僕と同じようなある種の引き戻せない領域に踏み込むか、踏み込んだ人間が沢山いて、その事実が僕は一人じゃないという認識を生み随分落ち着かせてくれる。人々の多くは目の前のスクリーンに静かに感情的になり、他とは交わらない独立した空間を保っている。他と交わるのは大当たりになった時の箱を受け渡しする瞬間であり、唯一の相手もホールスタッフに極めて限定されている。他の誰とも交わらない空間こそが、あるいは何ら社会的な責任を追われない場所こそが、随分気を楽にできるところであり、今の僕が求めている居場所なのだ。
 店を出れば、世間は無常にも何ら変わりなく動いていた。あまりに対照的なすっきりとした青空が広がり、さんさんと照り付ける太陽とが僕を迎えた。そこから時間をかけて堤防へ足を向ければ、見慣れた光景が幾つも転がっていて、それを眺めては吹き抜ける風を受けて、傍で咲く花たちと一緒に揺れていた。そのような精神状態にあっては、様々な色が付いている筈の景色はひどくくすんで見えて、それは見方によってはモノクロのようにも取れた。どこからか、鳥のさえずりに混じって子供達の声がする。音の発信地に目を向けると彼らは野球をしていた。今日は休日なんだと、今になって気付く。世界は昨日と変わらない今日を刻み、今日と変わらない明日を迎えるだろう。しかし、そんな簡単な波に何故か僕は乗れないでいる。僕はどこか別の場所にいる。ここではないどこか、もっと遠い場所に。

こんなものをいつか書いてみたい。

December 02 [Tue], 2008, 0:02
 僕が三番目の憂鬱を抱え出したのは、二十五歳の頃だった。ある日、それは突然、僕の身の上に降ってきて、目が隠れるほどぶかっとした帽子のようにすっぽり覆い被さってしまった。何も手がつかないぐらい、考えが及ばないぐらいに、漠然とした無気力な状態へとどんどん引き込まれていったのだった。ただ、それは不思議だった。これと言って、日常に不満不平がある訳でもなく、どこを見渡したところで悲嘆するべき一件も見当たらなかったからだ。十分なお金や時間は手元にあったし、それによって十分な食事と睡眠と交際等をまかなう事はできたからだ。もし、それぞれを計数化することができて、幸福度を表すパラメーターのようなものがあったとしたら、恐らく平均以上の値をつけていたとさえ思う。
 海岸線を糸で縫うように走る車の窓から海を見た時だった。どんよりとした曇り空は、今にも垂れ下がってしまいそうで、海とぶつかるのをどうにか持ち堪えているようだった。手前では揺れるのが分かる波の動きも、沖へ進むとはっきりしなかった。はっきりしないのは天気の所為(せい)だと思っていた。あの灰色の質量の塊が、海を曖昧なものしている、そう思っていた。しかし実際のところ、そうして捉える根本的な原因は僕の意識にあり、もしかしたらこれからの人生を展望できなかったり、希望が持てなかったりしたのかもしれない。
 これまでに抱えた大きな憂鬱は、少なからず原因がはっきりしていた。中等部からエスカレーター式に入学できる筈の大学受験に失敗したとか、順風満帆だと思っていた恋人にある日、理由もなく別れを告げられたとか、憂鬱の発端となるものが必ず存在していた。だから、今回のように何の前触れも無く、しかし確かに侵食するように僕を闇へ誘うのは、ある程度妙な事だった。また、僕は何度も抜け出したいと思ったのだが、そもそも原因が分からないものだから、どこを叩けばいいのか検討もつかなかった。しかしながら、どうせ、何事も無かったかのように、それこそ物音の一つも立てずに消えていくのだろうと踏んでいたし、また一方で、憂鬱から抜け出せずに永遠に幽閉されることになるかもという考えも片隅になくはなかった。まるで、見えないモノを相手に戦っているのか、あるいは全くの一人相撲かもしれなかった。今になっても、身に置かれた状況を思い出そうとしたところでソースはまるではっきりしない。ただ分かる事はそれが三番目の憂鬱であり、今まで僕が経験してきた最後の憂鬱だった。
 これは、僕がある一人の女性に出会い、大きく影響を受け、渦中から確かに前へ足を進めていくことを描いたものだ。

Peru の旅。vol2

November 05 [Wed], 2008, 18:38
2005/07/04 Taquile island in Titicaca lake


 果たして海にも見える世界最高所の湖に囲まれたこの島には、スーパーマーケットもコンクリートの道路も夜道を照らす外灯さえも無い、ただただとんでもない大自然が待っていた。視界に映るのは、家畜と畑と、それらで自給自足の生活を営んでいる民家がまばらにぽつぽつと点在する田園風景だった。ここでは、観光客相手のプチステイが島民の唯一の収入源であり、今晩、僕らはそのうちの一軒でお世話になる。
 ハエとモルモットが同居する二畳も無い小さな台所は、うなぎの寝床のように奥に細長く、まな板、釜戸といったものが順々に並んでいる。シンクはなく、水道の蛇口もなく、汲み置きの水で野菜や食器を洗浄する。床は地続きの土で、壁は泥を固めたレンガ、そして黒いインクがぶちまけられたかのようにそれらは真っ黒のすすでびっしりと覆われていた。ここの低い天井からぶら下がる電球も黒色に模様替えされていて、そこから淡く籠(こ)もれ出る光はとても綺麗だった。
 お婆さんとした方が適当だろうか、今晩の世話をしてくれるお母さんは僕らのための夕食を準備してくれている。この島の住民が皆そうであるかは分からないが、しかし少なくとも彼女はこの仕事に飽き飽きしているかのようにどこか消極的に見え、食事の準備にしてみてもそこに感情は無く、ただそれだけの事としている気がして僕はならなかった。言葉の通じない相手とは分かり合えないと決め込んでいるのか、何かしら手伝おうとする僕にはただ指をふっとさしたり、言葉少なに単語一つで済ませるのだった。無愛想で、不器用で、もしかすると初対面の人間との接触に慣れていないのかと思ってみても、娘と会話している表情も大して変わらない。
 すると、こんな事があった。ジャガイモの皮を剥いているシーン。僕は余りの切れの悪い包丁とそれに伴う仕事の進まなさにどうにもならないもどかしさを感じていた。そして、割り増しの力を入れた途端に包丁はさくっと親指の皮膚まで到達してしまった。彼女は、表情こそ一つ変えなかったものの、しかし機敏な動作で颯爽と部屋を抜け、バンドエイドを母屋から取って帰ってきた。そして、巻いてくれた。
 翌日、僕らがこの家と島を出る時間になって、娘は笑顔で手を振り見送ってくれたが、その奥に見える彼女は一歩も動くことなく、最後までその表情も崩すことは無かった。それでも昨日のあの出来事を思い返す度に、かすかに垣間見えた彼女の優しさに僕はぽっと灯がともるような温かさを覚えるのだった。それはTVで刷り込まれたアットホームな滞在とは全く程遠いものだったけど、この島に吹き渡る風のような安らぎを何故か僕は心一杯に感じていた。


日本は落ち着くという話。

October 14 [Tue], 2008, 1:20



 日本はとても落ち着く。最早、日本を食事からファッション、伝統や国民性にまで事細かに細分化して、丁寧にゆっくりと咀嚼し、反芻している。今回で7回目となる個人旅行を終えた余韻としては、およそ初めての感覚であり、併せてこのようにして人は年を取っていくんだなと密かに認識していたりする。それも、1日、1年と日々の喜びと悲しみをつらつらと書き留めるように噛み締めながらにではなく、張り詰めた冷気の塊が一度北風をふっと吹かせば冬になってしまうように訪れは突然で一瞬である。

 今回、主に足を運んだインドネシアは、時間の流れ方が1分を1時間にも長く伸ばしたようにとても緩やかでいて、人々と動物の声しか届かない優しい空気が隙間無く拡散されていた。そして、その生活は確かに安らぎ、心が洗われるようだった。一方で、1ヶ月振りに降り立った日本もまた別の意味で落ち着けるものがあった。真っ先に受けた印象としては、広告に満ち満ちていて、溢れているということであり、それを成田からの帰途にあるJR車内で感じた。吊広告が車内奥までずっと続いていて、ちょっとした気晴らしになる程の量であり、僕は随分目を走らせたものだった。1DAY Acuvueがあり、Aflacがあり、週刊文春があった。株券の電子化を知らせるものがあり、明治大学付属中野中の入試問題もあり、毎日ナビの就活セミナ-もあって、もう季節が巡り巡ってきたのかと耽けた。この国は、モノも、情報もとても豊かなんだと感じた。そして、それらに資金を投資できる位に人々には余裕があり、それを受けて企業もまた生産や発信を繰り返し、お金が実に上手く循環しているのだと感じた。つまりは、この国は欲しいもの、したいこと、およそ最低限の欲望は、しかるべき場所、しかるべき時間に行けば解決してくれる所だったのだ。そして、どんなにささいで低俗な欲望に対しても、第一級の信頼と精密さでもって必ず叶えてくれる美点をこの国は持っていた。

 山手線は、決められた時刻に秒単位でジャストインタイムで電車を滑らせてくれる。オーダーしたものは、自分の欲求が的確に具現化されたものが、洗練されたウェイターによってサーブされる。店に掲げられた看板は、どれもスタイリッシュで、斬新で、文字位置、大きさなど寸部の狂いも無い。どんなに神経質になって注視しても、糊がはみ出している事は無く、赤いペンキが飛び散っている様子も見られない。それらは単に、寛大か几帳面かの国民性の違いと言ってしまえばそれまでかもしれない。しかしながら、信頼と精密さの下に成り立つ安心感がどこまでも行き届いている日本というのは、本当の意味で、少なくとも自分の中では安らぎ落ち着くものになっていることを、驚きながらに今実感しているのである。

 と言う訳で、日本にどっぷり浸かる一環で、本日、手始めに自由が丘へ行った。3連休の最終日とはいえ、ゴミゴミとして、飛び交う情報量も極端であろう渋谷は、まだまだ帰国ばかりの人間には刺激が強すぎるし、毒素が多すぎるという友人の配慮であり、僕の同意だった。気の置けない友人らと、リザーブしておいたカフェのカウチに腰を落ち着け、1ヶ月のブランクにグラスを鳴らした。他愛も無い話を延々と続け、何があったとか、フェスはどうだったとか、またパーティ開きたいとか、じゃあハロウィンやっちゃうかなどと盛り上がった。まだ本調子が出ない僕のままならない日本語は、小気味良い滑舌な彼らのそれとは明らかな違いはあったものの、帰るべき場所がこの国であり、この国の言語を話せることを嬉しく思った。僕は日本の色を徐々に取り戻しつつあった。明日には、研究室内の雑誌会が回ってくる。翌週からは中間報告が始まる。来月には簿記検定を受けなければならないし、社員研修ではプレゼンの担当が決まっている。いいことじゃないか、本来の生活を呼び起こし取り戻すには十分すぎる位の予定とスパンだ。およそ1ヶ月が経とうという頃には、僕は何の違和感もなく、すっかりこの地に馴染んでいることと思いたい。

Peru の旅。

October 06 [Mon], 2008, 21:13
2005/06/30 Cuzco→Aguas Calientes (Machu Picchu)

濃密な霧にすっぽり包まれたままで、街がまだ寝静まっている頃に宿を出る。人影は見えず、物音一つもせず、あれ程賑やかだと記憶していた場所とは全くの別世界に居る気がした。それにしても、Peruの気候は赤道近くであるはずなのに随分と寒く、その答えを用意しようともてんで見つからない。ついさっきまでCanadaで過ごしていた軟弱な僕らは簡単に打ちのめされ、コンディションはどこまでも酷いものとなっていた。喉は痛いし、鼻水出るわで、どうにもならない震えに体は警鐘を鳴らし続けている。とぼとぼと駅に向かう。列車の発車時刻は6:40。それまで、バナナと蜜柑と軽いスナックを朝食代わりに腹を持たせ、ついでに骨の芯まで突き刺さる寒さを忘れようとした。すると、5分、10分と刻まれる時間が次々に人々を呼んでいった。そして、早朝の冷え切った中、静かに立ち込めていた駅は人々の白い吐息と笑い声でたちまち賑やかになった。


                                                      麓の町 Aguas Calientes

2005/07/06 Puno, Peru→Lapaz, Bolivia

相変わらずのバスの説明のつかない縦揺れには十分に慣れたのか、あるいは諦めたか、未だ舗装されていない砂利道を走り続ける車内で僕は眠っていた。夢の中で聞いていたカタカタという音が次第に大きさを増し、夢と現実の境目を曖昧にすると僕はゆっくりと目を開けた。目の前のドリンクポケットに差し込まれたペットボトルが音を出して踊っていた。

ラマダンについて。

October 05 [Sun], 2008, 0:42
 一日5回と定められた礼拝の度に、いつも街中にはコーランが響き渡っていた。僕は、いつの間にかそれを子守唄か何かのようにとても居心地の良いものとして聞いていた。今も向こうでは、夕方になればコーランが街中に響き渡っているんだろう。そして、人々が心を静かにして祈りを捧げている光景がありありと目に浮かぶ。


 9月から始めた1ヶ月のこの旅は、実はそっくりそのままイスラム暦のラマダン(断食月)に当たるという事をインドネシアに着いて、1日、2日後に知った。これを幸運と思うかどうかは人それぞれだろうが、その事実を伝えられた時、僕はかなりついているんじゃないかと強く思った。1ヶ月という長い期間ではあるが、(*イスラム暦で)年に一度しかないこのイベントを最初から最後まで見ることが出来るなんてのはそうよくある話ではない。仕切りに喜び、跳ね上がり、どこまでも草原を駆けて行った、というのは大袈裟だが、ささやかなガッツポーズを腰の位置で作り、イエスと胸の奥で叫んだ。そして、徐々に昇り気味のテンションに併せるように、そのまま調子に乗って1ヶ月断食をやってやろうかと不意に脳裏をよぎったが、流石にそれは無茶だと思い踏みとどまった。
 ある種の試練にも似たこの戒律は、空に日が昇っている午前6時頃から始まり午後7時まで続き、その間は一切の飲食と喫煙が禁止される。しかしながら、その時間と厳しさは場所によって本当に多種多様であり、他国から異なる人種が大勢集まる都市部では公衆の目に留まらない路地で、トイレで、あるいは暗闇で好き勝手にやっている若者もいて、一方で、イスラム信仰が根強く浸透している地方では異教徒や外国人旅行者も一緒になって、殆ど断食と変わりない生活を強いられる。というのも、インドネシアはイスラム教を国の宗教として掲げていて、当然の事ながら国民の大多数、およそ90%近い人間が信者となっている。すると、どういうことが生じてくるかと言うと、飲食の需要が極端に少ない日中にはあらゆる飲食店が軒並みシャッターを下ろし、地方では閉鎖的で危険な匂いを漂わせる程ひっそりと静まり返っている光景を目にすることが出来る。だから、間接的に断食はどうにも避けられないのだ。
 この際、折角だから僕も断食を試みてみたが、二度やってどちらとも失敗した。一度目は、戒律がno foodの他にも、no drink、no smokeを含んでいる事情を知らなくて、一日中、水や飲料水を浴びるように飲みまくっていたために、あるいは頂いた煙草を有り難くすぱすぱしていたために全く問題外の戦力外通告を受けた。そして、no drinkというルールを知って挑んだ二度目も、この酷暑の中で水分補給が出来ないのは致命的なのか、午後五時に水を口につけて敢え無く戦艦は失意の中に撃沈した。
 僕は彼らに聞いてみた。喫煙はまだしも、一切の飲食が禁止されて辛くはないのか、と。すると、「いつものことだからね」、と誰もが口を揃えて笑った。ラマダンにおける断食というのは、我々、イスラム教徒ではない人間には分かり易く戒律と宛がっているが、彼らにとってのそれは単なる生活の一部となっているのかもしれない。強い、と思った。世界が真夏の太陽を浴びた大地のように干上がっても、あるいは人類が地球を見放して、微かな期待を寄せて月へ向かったとしても、何事もなく生きていられるのは彼らだろうと僕は思った。この大量消費、大飽食時代の中にあっては珍しい程、彼らは飲食の有難みを知っている。だからこそ、知らずにラマダンへと迷い込んだ僕のような腹を空かせた旅行者に、自分はさておき無償の食事を作ってくれるのだ。そして、1ヶ月の断食がようやく解かれようとする時、彼らは大輪の花が咲いたような嬉しさをたちまち顔に浮かべれば、歓喜に沸いて盛大な宴をあげては朝まで夜通し唄うのだ。


*1年365日の太陽暦とは異なり、イスラム暦(太陰暦)は通常の1年よりも約11日短い。従って、世界標準であるところの9月が必ずしもラマダン(断食月)とは限らない。

イスラム圏での煙草とか、酒とか、そういうこと。

September 27 [Sat], 2008, 13:46
僕はあまり煙草を吸わない。考えてみたところ、月の初めに買ったたった1箱のDUNHILLが翌月になっても4、5本は残っていて、だったらどうして吸うのかと人々はよく聞いてくる。その時、僕はよく分からないとやり過ごすのだが、恐らく煙草をコミュニケーションツールの一つとして考えているのだと思う。僕は、少なからず煙草が吸える事を良く思っている。健康とか、金銭とか、色々な視点から見て煙草に対する考え方はそれぞれだろうが(つまり、吸わないとしても吸う人の気持ちを察する人はいるだろうし、たとえ吸うとあっても止めたほうが良いと露呈する人もいるということ)、やはりどのように考えを巡らしても僕の中では吸えるに越したことは無いという結論に行き着く。

それは旅に出た時に、ごく控え目に言って、良かったと思える。イスラム圏での旅中は本当にあちこちで声を掛けられるのだが、人に勧められれば有難く頂き、それじゃ日本のものはいかがという感じで会話は始まっていく。酒という手段も無くはないが、それは幾らか最低限の時間と情報を共有した人間に限られるものだし、初対面の人間とはやはり煙草の方が自然であり、とても便利なのだ。とりわけ、コーランに記されるように酒を自由に飲む事が出来ないイスラム圏では尚更であり、またアルコールの値段も日本と同等かそれ以上に膨れ上がってしまうとあっては、煙草は重宝する。

相手は現地の人々であることが多いのだが、同じような外国人旅行者でも、日本人にもやはり当てはまる。その度にローカルなネタを入手できたり、あるいはガイドブックよりも具体的なルート詳細を知れたりする。煙草によって生まれた一つのきっかけがかけがえのない出会いをもたらしてくれたりもする。そうした出会いを僕は、少なからず経験してきた。煙草はどうにも止められない。それは、依存的にではなく、概念的にであり、そこに秘められた素晴らしい機会に期待を込めてという意味でである。彼女に今後一切吸わないでくれると言われれば、常夏のスコールのようにぱたりと終えることが出来るし、非喫煙者との集まりでは背景の色とそっくり同化するカメレオンのように振舞えることと思う。つまりは、どちらでもいけてしまうという中立的な立場にいる事が大切なのだと考えている。

そうもあっては、酒についてはやめれるという気がまるでしない。中国では昼間からと言っていいほど一日中、水よりも安い格安ビール(しかし、本当に水で希釈したんじゃないという気がしてならないそんな味)を片手に、アルコールライフを送っていた僕だから、さすがに赤道直下の酷暑とイスラム圏の戒律というダブルパンチは堪えるし、精神ももはや異常を来たしカラータイマーは鳴り続けている。だから、帰りのユナイテッド航空便の機内ではパラダイス的飲酒計画を目論み中である。もしかしたら、この旅で一番の楽しみにしていたんじゃないかという気がして、僕は心配でならない。

Medan にて。

September 25 [Thu], 2008, 23:03
2008/09/17


 朝、起きたら、風邪がひどくなっていた。喉が痛い。昨日から鼻と喉に風邪の諸症状が出ているのにも関わらず、ビールを調子に乗って飲み、煙草も1日の許容本数(僕が自分自身で決めている本数)以上を吸い、挙句の果てに深夜の3時過ぎまで夜更かしをしていたからだ。しかし、僕は昨夜の事に何一つ後悔はしていない。


 昨夜、インターネットカフェに行った。そこでは、とても気さくで人懐っこい女性Dianが働いていた。彼女はオーナーだった。僕が彼女に、「君のPCに日本語キーボードは入っている」、と聞いた。すると、彼女は言った。「ここは日本じゃないわ。あなたはインドネシアにいるのよ。それなら、私たちと同じアルファベットを使うべきじゃない」 それもそうだ、と僕は思って、笑いながらExactly、と言った。しかし、以前に日本語がインストールされたことがあるならば、もしかしたらHDの隅の方で手付かずのまま残されているかもしれない、という少しの望みも捨て切れなかった。
「ねぇ、僕は一人旅をしていると定期的に寂しくなるんだ。だから、その寂しさを埋めるためにも、僕はどうしても日本語を使いたいんだよ。駄目なら駄目でいいから、一度チェックさせてくれないかな」
「(僕が手に持っていたLonely Planetを指差して) そのガイドブックみたいね。いいわ、気の済むまでやりなさいよ」
Dianは、全く仕方ないわねと言う感じで笑っていた。
 それで、僕はMy Computerから入ってControl Panelへと移り、Lungageを一通り調べたが、あいにく日本語は見当たらなかった。僕はDianに有難うと言った。すると、彼女は、「ねぇ、そこに座りなさいよ。少しお話しましょう」、と言った。僕は、インターネットに当てていた1時間が今や空白のものとなっていたので快く良いよと受けた。軽く自己紹介をする。中学校でよくやったようなものだ。日本のどこ出身なのかとか、東京では何をしているのかとか、何をすることが好きで、嫌いな物は何かとかそういう事だ。その後、話題はラマダンに続き、酒の好みへと変わり、だからビールを飲むことになった。ビールは向かい側のカウンター1つしかない小さな商店で瓶を3本買った。彼女が全て支払ってくれた。それから、彼女は友人であるSusanを呼んた。およそ2本半を僕が頂き、後の残りを彼女らが飲んでいた。
 二人ともとても面白かった。実に友好的でユーモアに溢れていて、僕が一目見た時から好印象を持つのも無理はなかった。それで、色々な話を僕らは交わしたが、酒と煙草を取り入れてしまった僕にあっては、当時の記憶は水に濡れてインクが滲んでしまった様なもので、正確に解析するには少々時間がかかる。それでもゆっくり記憶を辿ってみようと思う。それは、こういうものだ。

 彼女は、さんご礁に囲まれた輝くばかりのマリンブルーの海と細かい結晶のような白い砂がずっと敷き詰められたビーチが広がる島々を幾度も訪ねていた。バリ島やスラウェシ島といったものだ。勝手な見解ではあるが、そのような島々をとくと見てきた人が美しさの程度が落ちる島々も訪れることがあるのかと思ってみるのだが、実際、彼女は2日後にSusanとその他3人でSabang島へ行く予定をしていた。そこで、僕は尋ねてみた。
「どうして、そこへ行くんだろう。君には少し物足りない気もするけど」
「ねぇ、あの場所はとても多くの観光客を引き付けているのよ。それが何故か知りたいとは思わない。たとえ程度が落ちるとしてもよ、それはそれで、やっぱりバリ島は一番綺麗だったわと言えるじゃない。だから、自分の足で見て確かめる必要があるのよ」
良い言葉だ、と僕は思った。

 次は、こういうものだった。彼女は日本の機械製品をとても好んで使っていて、車にしてもTVにしても出来る限り日本製だった。何も日本の製品しか無いという訳じゃない。車ならTATAがあるし、TVならSAMSUNGがあるし、携帯であればNOKIAがあるだろう。わざわざ値の張るものを買う理由は何なのだろう。そこで、やはり僕は気になって尋ねてみた。
「そこまでして、日本製に拘るのはどうしてだろう。それなりに性能も良くて、値打ちな物を買えばきっと、もっと色々な物が買えるよ」
Just durability "耐久性"。彼女は言った。「いくらその時は安い物を買って得をした気分になっても、後々故障でもしてしまったら、結局同じだもの。それなら、少々高くても信頼のおける日本ブランドを買うわ。だって、10年近く経った物が今も使えているのよ。あなたはそんな国に生まれてきたことを誇りに思いなさい」
なるほど、10年は確かにすごい、と僕は誇りに思った。そして、今日までの日本を築き上げた先人たちに敬意を込めた合掌を作り、感謝した。


 他に話したことと言えば、恐らくここに留めて置くほどのものでもなく、敢えて挙げるとすれば、Susanの直前の彼氏はオーストラリア出身の外国人旅行者だったということだ。その話が持ち上がると、彼女は少し照れていた。Dianは言った。「こう見えて彼女はしっかりツーリストを見ているわよ。もちろん、あなたも」 そして、冗談交じりに付け足した。「ねぇ、一度彼女と結婚してみたら、一夜だけだけど。お金払うのは忘れないでね」 僕たちは笑った。そして、「しまったな、今彼女がいるんだよ」、という僕の冗談に3人はまた笑った。
 そういう訳で、3時まで過ごした。ここまで書いて、昨夜の事に何一つ後悔していないというのはいささか強がりだと思った。それから、僕は日本から持参してきた漢方薬をお湯に溶かしてさっと飲み、同じゲストハウスの滞在者Luwandaからトローチを貰って丁寧に舐めた。そして、Banda Ache行きの7時のバスまでもう少し体を寝かせた。
P R
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