「生活保護」に蔓延する不平等原理 前の文章の続き 

2006年06月25日(日) 10時16分
本来生活保護法とは、性善説の法である。私が思うに、世の中にある法律のほとんどが「人間は罪を犯すもの」という性悪説に基づいて作られているような気がするのだが、生活保護法についてはその反対のような気がする。
そして、それを逆手に取る保護費の不正受給も後を絶たないのが事実である。しかし、生活保護者が不正受給をしても全額返還義務は課されるものの、保護自体を廃止するまでには至らないのも法律の問題点である。
厚生労働省も100万人超の生活保護者にともなう保護費の増大を抑制したい気持ちはわかるけれど、不正を働いているものに厳罰を課さずして、本来受給できる人間の審査を厳しくするというのは、まさに本末転倒であるといわざるを得ない。だが、本当の問題は不正受給そのものではなく、不正受給によって給付されるべき人たちの分母が少なくなってしまう方が問題である。つまり、法の下の平等に反する締め付けである。
本来入るべき分母の数には、先ほどの私の知り合いのケースも含まれるし、ホームレスや外国人も当然含まれる。
今の法制度は、分母と分子がほぼ同数にしているような気がするが、本来は分母を限りなく多く設定し、厳然とした審査の下、分子を選り分けていかなければならないはずである。そうでなければ、法の下の平等をうたった憲法、とりわけ憲法25条生存権に合致しないのではないか?

私が個人的に知っている生活保護者の中には、大した病気でもなく病院に行き、入院する際には差額ベットを要求し、タクシーを頻繁に使ったり、しょっちゅう旅行に出かけるという人がいる。
本当に保護が必要な人間の裏で、十分に自立できるにもかかわらず、アンフェアに生活保護を受けている人間もいることも事実である。

これからは高齢化が進み、なおかつ年金に依存する生活は厳しくなっている。それに伴い、今後は更なる生活保護者の増加が予想される。いまこそ、生活保護に対する新たな枠組みを再構築しなければ、将来必ず大きな問題になってくるのは明白です。正直者が馬鹿を見る社会にならない為にも、その辺をちゃんと考えていかなければと思います。

「生活保護」に蔓延する不平等原理 〜いったい、誰の為の制度なのか?〜 

2006年06月25日(日) 9時52分
人間が生きていく為にお金は必要である。
だけど、何らかの事情を抱え、生活が立ち行かなくなった人も多い。その理由が、昨今の不況であったり、なんらかの病気を抱え働くことが出来なくなったり、理由は様々である。

日本という国は、諸外国に比べそんなに冷たい国ではない。国民皆保険という名のもと、多くの人間が安価な価格で医療を受けられることが出来るし、国民年金というしくみは、老後の生活をある程度保証してくれる。
日本国憲法第25条に生存権という項目がある。
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
この理念に基づき制定されたのが、生活保護というシステムである。

以前私は、ある知り合いから生活保護受給の相談を受けたことがある。その人は母子家庭で母も精神的に病気を抱えており、実質その人が一人で家族を養っている。しかも、援助をしてくれる親戚もいない。生活費だけならまだしも、母親の高額な入院費や他の兄弟の学費に加えて家賃や食費などの生活費もかかる。給料も20代の一般的な額であることを考えれば、貧窮極まりないことは明らかである。
一般的に考えれば、母親が生活保護受給対象と考えても何らおかしくない。しかし、その知り合い曰く、以前受給申請をしに市役所に行ったら担当者に断られたのだそうだ。

理由は色々言われたそうで、まず、援助してもらえる人間が本当にいないのかということ。ちなみに、この「援助してもらえる人間」の基準というのは、担当者によれば、自身の親戚・兄弟のみならず、その人が既婚者で離婚をしていれば、前夫などにも援助可否の働き掛けをする必要があるそうなのだそうだ。要は恥も外聞もなく、取れるところから取れないのか、ということ。でも、その基準はあまりにも非常識な気がしてならない。
2点目には親と同居していることが不採用の理由である。確かに、生活保護受給の基準というのは、同じ世帯に経済能力のある人間がいないことが条件のようで(正確に言うと、経済能力のある人間がいれば保護を受けられにくいという理由からだろう)、その基準を満たさない世帯には「世帯分離」という方法で、経済能力の無い単身世帯という形式にする。

現代下宿事情 〜キーワードは「同棲」から「共生」へ〜 

2006年06月04日(日) 12時07分
♪あなたはもう忘れたかしら〜、赤い手ぬぐいマフラーにして〜、二人でいった横丁の風呂屋〜、一緒に出ようねって言ったのに〜♪

これは、70年代フォークソングを代表する、かぐや姫「神田川」のフレーズの一節である。この歌には様々な人間模様が描かれている。この歌を作詞した、当時早稲田大学の学生だった作詞家の喜多条忠氏の体験を織り交ぜつつ、かぐや姫のリーダーであった南こうせつが作曲をしたものである。

当時の学生は学生闘争という時代の波にさらされ、東大安田講堂占拠事件を転機としてその終焉を迎える。私はまだ生まれていなかったし、当時の学生だった人たちの思いというのはわからないが、その一端を「神田川」のような歌で疑似体験する事は出来る。
リアルタイムな経験が無い私は、あくまで想像の範疇でしか70年代というのを語れないが、色々な文献や資料を見る度に、学生がこれほど社会に対して理想を掲げ真っ正面から向き合った時代はない様に思える。ノンポリであることがマイノリティであったのかもしれないし、今の若者に見られるポリティカルな無関心は、当時の若者からすれば頭をかしげてしまうことかもしれない。
しかしながら、社会変革という大理想に燃えたものの、大人社会という現実の壁に弾かれ、挫折を余儀なくされた経緯もあった。また、この波は日本赤軍事件に見られるような社会問題も生み出した後、バブル景気の流れに乗り完全に消滅していったようにも思える。

流行歌についても、かぐや姫の「神田川」やバンバンの「いちご白書をもう一度」、そして岡林信康などが歌ったような世界観に見られる、いわば「社会に正面から向き合っている私という人間像」というのが印象的である。当時の歌は、今の流行歌と違って歌詞そのものに強烈なメッセージ性を持っていたような気がする。

個性を育てて何が悪い? <教育論シリーズ第3回(最終回)> 

2006年05月29日(月) 15時54分
私は色々な人からよく言われる。「変わってる人だね」と。しかし、別にあえて他人に目を引くような行動をしているわけではないし、人から見て「変わってる」と思われる行動が自分のありのままの姿である。よく言えば、自分の感性を信じて行動しているという事である。
だが、今の社会では「他人と違う事」をすることに恐れを為したり、多数派に納まっていようとする人が結構いる。それ自体は悪い事ではないが、もし、各々が自己の人間性を埋没させてまで多数派に納まっていようとしているならば、いささかもったいないなと思うのも事実である。

余談を一つ。皆さんは、ちょっと疑問に思われるかもしれないが、私は大相撲の人気力士の高見盛の気持ちが良く分かる。高見盛の土俵入りから仕切り、しぐさや言葉使い、いろんな側面から見ても特徴が満載の人物である。仕切りの時に見せる「ロボコップ」のような角ばった動きは、今や相撲ファンでなくとも知るところである。メディアでは彼の事をパフォーマンス力士と呼んでいたが、私が思うに、彼はパフォーマンスではないと思う。人目を気にせず、目の前の取り組みに集中して気合いを入れている姿がパフォーマンスと受け取られているのだろう。高見盛のしている仕切りがもしパフォーマンスなら、高見盛といえど、きっと恥ずかしくてとうていできるものではない。彼は、自分が思う感性のままに動いているのである。あれは立派な個性である。

でも、そういう個性が強いキャラクターというのは、得てして子供の時はバカされる事が多い。高見盛も子供時代はバカにされたらしいし、自分もかなりバカにされた。小学校や中学校でよくいじめられたりバカにされる差異というのは、
「太っている(痩せすぎている)・背が小さい(背が大きすぎる)・体育ができない・目や耳(身体的機能)が劣っている・髪の毛が薄い・性格が暗い・親がいない・転校生・障害を持っている」というのが代表的なものである。ちなみに、私が知る限りでは、勉強ができない子供というのは比較的いじめの対象ではなかった気がする。

ゆとり教育が作り出す日本の格差社会 <教育論シリーズ第2回> 

2006年05月25日(木) 11時11分
今回の話はゆとり教育について話します。今日はちょっと難しい問題です。

現代の社会に蔓延する少年犯罪や若者における幾多の問題行動は、教師の責任というのももちろんあるが、それに加えて生徒自身の問題である事は当然である。
社会の流れで、大人がモラルを逸脱する行動が目に見えてきていて、それを見ている子供も同じようにモラルの低下が激しい社会になってきている。

理由はいくつかあるけれど、よく言われているのが、戦後の知識偏重主義・学力優先社会の反省に基づき、これからは心の教育であるという観点からも「ゆとり教育」というのが叫ばれている。しかし、このゆとり教育というのはすべて手放しで喜べる物ではない。この方策の中には、いくつかの複合的な要素が含まれている気がしてならない。

私が思うに、この「ゆとり教育」は結論から言うと愚民化教育への第一歩だと思う。
私はゆとり教育というシステムが作られた時、まず思ったのは「これって、官僚さんたちが、いかにもつくりそうな内容だな」とおもったことがある。親とのコミュニケーションを尊重しようと週休2日にしたり、詰め込み型の知識ではいけないという思いからも、数学の頁の削減、科学などの科目の削減をする。数学で言えば、円周率が3.14ではなく3にする。今まで小学校で教えていた内容を中学校に持ち越して教えることも新しい教育基本法のもとで施行されている。

国際競争力が激しい昨今、子供の学力に見る国際競争力も低下の一途を辿っている。識字率が100%に近い先進国の日本で、数学的な論理思考は先進国中、最下位から数えた方が早い。また、国語力も低下を辿る。自分の気持ちを論理的に話す能力、これは生きる上で必須のアイテムである。
そもそも、子供が勉強に打ち込むことはすばらしいことであり、大切なこと。なにか、まじめな事が敬遠されて楽しい事・楽な事がもてはやされる風潮は、まさしく現代の日本の大衆文化と似ている。若者が政治に関与する事や、思想哲学を議論する事、社会に対して問題意識を投げかける運動をする事、全てがダサいことと認識されてもおかしくない現状になった。


金八先生を増やしたい 〜私の思う教師像〜 <教育論シリーズ第1回> 

2006年05月22日(月) 13時17分
今日は教育の話をします。しかも、3回シリーズで(笑)。
教育といっても議論する範囲が限りなく広いと思いますが、今日はその中でも、教師の資質について話していきたいと思います。
まず最初に断っておきますが、私は日教組シンパでもなんでもありません。教育問題における特定の組織をバックに発言しているわけではないので、その辺よろしくお願いします(笑)。

人間が人間足らしめる一番大事な事は教育である。様々な哲学者・教育者の人たちも、教育の必要性については痛いほど実感し、実践してきた。
私も、高校時代は教育者になりたいと思った事があり、大学に入ってからも教職課程を受講し真剣に教員になろうと思った事がある(現在はもっと他にやりたい事がありやめてしまったのだが)。
私の友人たちも教師の道へ多くが進んでいった。企業のみならず、団塊の世代の大量退職は教員の世界にも共通する事である。現在は、昔ほど教員採用試験が狭き門でなくなったらしいが、それに伴う教員のレベルが全体的に低下している。

自分が小さかった頃は、教師といえば「何でも知っていると思っていた」し、無条件に「すごい人」という畏敬の念を持っていた。だがしかし、最近は教師による猥褻な行為や、ロリコンだから教師になったんじゃないの?と思われても仕方が無い事件も多発している。このような状況で生徒に向かって人生を語ろうなんて、片腹痛い事この上ない。

昔は「デモシカ教師」と言って「教師にでも…」とか「教師にしか…」という教師の社会的地位が低いような表現をされていた事もあるが、教師こそ「李下に冠を正さず」というのを忠実に実践していかなければならない責任の重い職業なのである。
前述の猥褻教師や、対人関係恐怖症の教師とか、そういった適性の無い人間まで教師になっているのが多い気もする。時代の流れで、より公務員志向になっている現代ではあるけれど、教師と言う職業を公務員の一部と言うくくりで認識してもらっては困るのである。

「日本流」献血事業の未来 〜そうだ、献血に行こう!〜 

2006年05月18日(木) 14時41分
突然ですが,皆さんは献血に行ったことがありますか?

ご存知ない方に軽く説明を。献血とは日本赤十字社が行っている輸血用血液の安定確保のための血液事業である。対象年齢は16歳〜69歳までの健康な男女である。過去に,輸血暦のある方や妊婦の人、その他にも多少制限される人もいるが、普通に生活を営んでいる人間であればそう規制されることはない。献血量は200ml・400ml・成分献血の3種類であり,成分献血は2週間後、400mlは12〜16週後から再びできる。
これは聞いた話だが,よくAB型の人間の血液が不足してるという話を聞くが、実際は反対に需要のあるA型のほうが不足しているそうなのだ。また、A型やB型の人たちは絶対数が多いと思っているせいか,AB型より意識のある人が若干少ない傾向にあるそうなのだ。また、献血はRH−の人間も受け入れているが,RH−は専門の血液バンクもあるということも聞いたことがあるし、一番必要なのはRH+のA型の血液かもしれない。

私は、20歳から年に2回くらいのペースで献血をしている。子供のとき入院をしたこともあり,針を刺されることに関しては恐怖感はまったくない。ただ、献血用の針は採血用の針より多少太いのが気になるが・・。
私が献血をするきっかけは、知り合いが急性骨髄性白血病を発病して現在も闘病中であり,私のポリシーとして「世間に流通する血液量というのは需要と供給のバランスが保たれている」というのがあって、献血すれば輸血する者もいるし,この均衡は保たれているんじゃないかという思いから,健康な人間が社会にお返しするのだ,という気持ちで行っている。確かに,献血をすることは無償だが,輸血をするのは有償である。それも薬価的にもかなり値が張る医療費がかかる。しかし、日本人の良き精神風土である義理人情として、一つのボランティアだと思って参加したほうが賢明なのかもしれない。

悪徳週刊誌と呼ばれて 

2006年05月14日(日) 10時13分
世間では、今日もどこかで様々な事件が起こっている。事件やスキャンダルのあるたびに、日々マスコミは不夜城になる。
事件やスキャンダルなどが起これば、まずテレビや新聞をみるだろう。その後、過激な見出しに代表されるような週刊誌で、補足の知識を得ようとする人も少なくない。
しかし、この週刊誌というものが社会に与える影響というのは非常に大きいのである。そして、一般市民がこの週刊誌について初めに触れる機会は、電車の中吊り広告や新聞におけるセンセーショナルな見出しである

事件の数と同数の勢いで、この週刊誌の非常識な報道というのが近年問題になってきている。いわゆる、報道被害といわれる多数の事案である(報道被害はテレビや新聞でもないこともないが、ここでは週刊誌に比重を置いて言いたい)。
星の数ほど週刊誌の非常識な報道被害というのはあるし個人差もあるので、ここでは思い付く一般的なものを挙げる。
まず、週刊誌やマスコミの報道被害で誰しも思い付くのが、1995年長野県松本市でおきた松本サリン事件の被害者河野義行さんかもしれない。私は当時高校生でリアルタイムでテレビや新聞を見ていたが、事件当時は、どうみても犯人は河野さんだというスタンスでしか報道をしていなかったように見える。奥さんがサリン事件の被害者であったにもかかわらず……。そして、この事件の犯人が河野さんでないと判明してからは、週刊誌をはじめとするマスコミはダンマリを決め込んだ。卑怯である。
そして、神戸の連続児童殺傷事件の加害者、通称酒鬼薔薇聖斗の実名や写真付きの記事を載せた事件もその例である。少年法にからみ、少年の犯罪者の人権擁護が過剰であるというスタンスから、週刊誌は盛んに暴露合戦をしていた。佐賀市のバスジャック少年や長崎市の幼児投げ落とし事件の加害者少年や、現在では静岡の女子高生タリウム殺害未遂事件の加害者然り、枚挙に暇が無い。


ジェネリック医薬品は本当に安いの? 

2006年05月02日(火) 0時18分
すいませんねー。バタバタしておりまして、更新ができませんでした。それに加えて、ノートパソコンを落としてしまい、壊れてしまってへこんでおりました。色々ブログ用にとっておいた資料とかも消えてしまいました。はぁ。ま、がんばります(笑)

今日は、お薬の話でもしようかな。

最近テレビを見ると、高橋英樹が「お薬お安くなりますよ〜」的なコマーシャルをやっていた。では、何で安くなるのか?

世間ではまだ広く認知されていないが、最近知られるようになってきた「ジェネリック医薬品」というのが安い理由である。ジェネリック医薬品、日本語で言うと「後発医薬品」という意味である。製造方法や成分などについて特許の切れた医薬品を、他社が模倣して製造する医薬品を俗に言っている。
基本的に、薬の成分自体の値段というのは大したことがない。しかしながら、何故薬価が以上に高い薬があるのかといえば、特許などによるブランド料みたいなものと、開発するにあたってかかった必要経費を転嫁しているのである。
現行の新薬を特許期間中に他社が製造するとなれば、先方企業に特許料を支払って製造しなければならないが、一定期間過ぎれば、その薬の「製造権」はどの企業にもあるのである。開発企業によって薬品の安全性は証明されており、その後も実際に薬を使用した患者さんがいるのだから、新たに開発する費用は要らない。

これに近い話で、よくダイソーなどの100円ショップに売っているCDというのがいい例かもしれない。ダイソーに売っているのは、クラシックとか浪曲とか民謡とか、けっこう売れ筋じゃなさそうなものが多く売っている。
これにも理由があって、音楽というものにも当然著作権が発生するから、その著作権が切れたものを売っている。JASRAC(日本音楽著作権協会)によれば、その楽曲の著作者の死後50年以上を経ているものに関しては自由に楽曲を使ってもいいが、それ以前の場合は著作権に引っかかるというものである(外国の楽曲に関しては、60年以上というのが一般的)。なるほど、浪曲も民謡も大丈夫そうだね。クラシックも大丈夫そうだ。ま、こんな話である。

時代は再び田中角栄チルドレンなのか? 

2006年04月24日(月) 6時58分
テレビを見て驚いた。千葉7区補選。接戦ではあったけれど、民主党候補が当選している。確かに当選している。
元々、自民党現職議員の不祥事による補欠選挙ではあったものの、対立候補の民主党サイドも偽装メール問題における一連の不祥事で、置かれた立場というのは五分五分だったようにも見える。

今回の選挙の争点は色々あった気がする。もちろん、格差社会というのも大事な争点だが、その他にも、構造改革VS政権交代の戦いであり、小泉純一郎VS小沢一郎の戦いであり、自民党候補VS民主党候補の戦いであった。また、この選挙結果は「影の実力者小沢一郎」というネームバリューが不動のものになるということである。力があるかないかということではなく「力があるんじゃないか?」という国民のイメージが実際に形となりつつあるということである。

この選挙を通し、私は小沢一郎氏の影響力と共に「時代は繰り返す」ことの前触れなのかもしれないという思いにもかられた。
時代は小泉チルドレン一色に染まっていたが、何を隠そう民主党代表の小沢氏は、あの田中角栄チルドレンなのである。自民党田中派として小沢氏は重要な役割を果たし、強大な影響力をもっていて、過去には第一次海部内閣で最年少自民党幹事長に就任した経緯もある。

私が思うに、小泉チルドレンの行動パターンは「個性的なキャラクターとある種のパフォーマンス」が際立って見えるのに対し、小沢一郎氏に代表される田中角栄チルドレンは「地方出身の利益誘導政治の典型」であり、泥臭いたたき上げで「コンピュータつきブルドーザー」と言われた田中氏を彷彿とする。小沢氏も岩手県出身だ。
小沢氏が民主党代表就任時、自民党の支持組織の代表や公明党の支持母体創価学会の会長を訪問した際は、いろいろ憶測も流れたが、今になってみると小沢氏は与党と連携するという気持ちはないように思えるし、むしろ今回の選挙をにらんで、自民・公明支持者の一部に様々な憶測を抱かせ、自民・公明票を取り込もうという意図も若干あったのではと思うようになった
プロフィール
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お名前 はなちゃん
自己紹介 多趣味で好奇心旺盛な27歳。はなちゃんです。もっと有名になってたくさんアクセスしてもらえるようになりたいですね
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質問 今年のパリーグ、優勝チーム予想!
当然ロッテ2連覇!
やっぱりソフトバンク
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まさか・・・楽天?

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