野球もどうでもよくなんかない 

October 21 [Thu], 2004, 22:34
今年度のプロ野球の騒動はなかなか珍しいものだった。IT企業だから云々言う輩は時代錯誤。しかしそういう先入観のない現代人に限って「野球なんかどうでもいい」という人もいた。

「○○なんかどうでもいい」という言われ方をされると、何だか自分が「どうでもいいことにムキになっている暇人」と言われている気がしたし、「やっぱりどうでもいいことにムキになっていてはいけないから、どうでもいいと思うことにしてみようか」とまで思ったりもしていた。

今、野球中継が終わり、中日が星を五分に戻した。ファンは熱い。案外オレ流ドラゴンズもうまくいっている。西武もいいファイトを続けているし、連日素晴らしい試合が見られる。

やっぱり、これはどうでもよくなんかないことだ。社会性を持って熱狂できるもの、それはスポーツ観戦だ。年の差も仕事も超えて、ここにはひとつの受け皿の中で多くの人と感情面まで含めた共有体験がある。やっぱり、プロ野球だ。ここでどうでもいいと言い放ってしまうのは、社会的な娯楽と自分を隔離することと同義だ。野球は野球だけで成り立たない。興味がないのはいい。でもどうでもよくはない。ほとんどのものが、どうでもよくなんかないのだ。

みんなどうしてる?衣替え 

October 16 [Sat], 2004, 6:59
衣替えの季節が、ついに、とうとう、やってきた。毎回季節の変わり目に驚くのが街で見かける人々の衣替えの素早さで、こっちがまだ準備が整わず半袖でブルブルしながら歩いていると突如ニット帽を被った奴がふらりと現れたりする。ついこないだも、やっと長袖のシャツを着だしたところなのに、もうコートの奴が居た。こればっかりは自分は世間から出遅れてるなぁと感じる。

今しがた、どうも引き出しがパンパンでモノが入らないと思ったら、季節的にもう役に立たない奴らに占拠されているのに気付いて、おもむろに整理を始めた。もう来季まで着なそうなものを選びながら整理したが、こんなふうに衣替えらしい衣替えをしたのは初めてのような気がする。今までどうしていたのかと訊かれると答えに窮する。ADHDだからか、何となくそこらにあるものを着て過ごしてきたわけで、ともすると家族や同棲相手の世話になっていたのかも知れない。気付かずにすまぬ。俺様が初めて洋服をハンガーに掛けることができたのは今から2,3年ほど前のことだが、その時と同じように、今回こうして服の整理をしているとしみじみ思った。「あぁ、みんなはこうやって暮らしてるのか」と。

それにしても難しい。モノを捨てるのが下手なのを筆頭に、俺様は何にでも未練がましいきらいがある。しかし基準はわかった。夏物のアウターや厚手の物は仕舞った。Tシャツやキャミなど重ねたり下着にしたりできそうなものは残した。邪魔にもならないし、実際役に立ってくれると思う。思うだけで、実際はそうでもないんだが。

ホースの水 

October 07 [Thu], 2004, 1:33
アナログ、それは手が届くものだと思った。
数日前、夜中に自転車を走らせていたら、道路工事現場の脇にホースがひかれていて、自転車のタイヤがホースをふんだ。その瞬間、「今、ホースの先端にいる私の知らない誰かは、水がブシュっと圧力がかかるのを感じ取ったかな」と思った。思いながら、勿論立ち止まったわけでもなく、自転車をグングン走らせていったが、あの瞬間のことがとても気になっている。ホースの水の出方で遠方での誰かのアクションを推測できるわけで、今更至極当然のことながら、何て素敵なんだろうと思った。

ホースを踏んだら水がブシュっとなるのは、わかる。仕組みがよく分かり、けれどちょっと曖昧で、その曖昧な部分を楽観的に信じることがすごく素敵だと思う。デジタルにはそれがない。仕組みはよくわからないけど、確実だと思いこむしかない。手紙を例に挙げるとわかりやすい。ポストに投函したものは、多分郵便屋さんが配達してくれる。eメールは、よくわかんないけど絶対に今すぐ届く。結果を予測する感覚が、このふたつでは違っている。

勿論どっちがいい悪いを言いたいわけではない。ただ、自分が育った時代はまさにアナログ世界にデジタルが生活に登場した歴史でもあるわけで、子供の頃になかったデジものばかりに囲まれて暮らしている今、ふっと当時の感覚が湧き戻る瞬間が、ことのほか印象深くなったりする。生活がこれだけ変わった中で、もうこの感覚は最後なのかな、とか思うこともある。

ブシュっとなって工事の人は迷惑だったかも知れないが、あのたった0.1秒くらいの「ブシュッとしたかも」という思いは、今も引きずるくらい甘酸っぱさに満ちていた。

フラーは今更、遅くない 

October 07 [Thu], 2004, 1:17
何でもかんでも早ければ早いほうがいいと思っている俺様だが。

後藤繁雄氏は最近スーパースクールの中で、バックミンスターフラーのことを話す。
もとい。フラーの研究者との出会いについて語っていると言った方が正確だろう。
しかも後藤さんはバックミンスターフラー、と略さずに言う。なかなか珍しい。
今度某イベントの中でもフラーの話をする予定らしいし、後藤さんとしてはフラーは今現在、キてるキャラクターのひとつであるようだ。

俺様は今キてるキャラクターとは思っていない。でっかい展覧会が終わった後だし、何となく建築系の流れとしては今更フラーはちょっと、ほとぼりが冷めた後のような印象を受けている。普遍的にフラーの存在意義が輝くことは間違いないが、キてるかどうかというレベルでは、キていない。タイミングが悪い。

でも後藤さんはそんなことを知ってか知らずか、今フラーなのだと語る。
なんだか、それでいいのだ!と思った。

今キてるかどうか、世間でブームが過ぎた後かどうかなんてことは、本当は2の次であるべきだ。キてるかどうかを語るとき、たとえそれがバッドタイミングでのプレスだとしても、新しい視点と信念のある根拠で打ち出していけば、価値は再び三度、認識されるに違いない。させるように提案していく技術も大事。

もちろんタイミングがかなり重要な要素を占めれば占めるほど、解っていながらプッシュしていくのは難しいかも知れないけれど、それでもタイミングだけで物事はかり過ぎちゃいけない。

これでいいのだ!
自分がはっきりこう言える発言や提案は、結局は自分自身を貫いていくかどうかだ。

佐藤雅彦 

September 04 [Sat], 2004, 21:16
MASAHIKO SATO

最近佐藤雅彦に夢中である。今更佐藤雅彦とは、時流に今一歩乗り遅れていると百も承知だが、それでも好き。小林秀雄を好きになったときと同じ感覚がある。論と論のすきまに、きれいにできた水たまりみたいに優しさや繊細さが通っている気がする。そんな心を持ちながらも、長い間なおざりになってきた様々な「モヤモヤとした問題」のモヤを取り払い、落ち着いて整理し、すっきりさせる力があると思う。すっきりさせないまま、エイヤッと力任せに社会を動かしてしまうひともいる。けれど佐藤雅彦は理詰めで淡々と、しかし意外と叙情的に、社会というものをよりよい方向に向かわせようと考えているように読み取れる。じわじわじっくり、確信犯的に。

社会が変わるとき、リアルタイムで変わったと感じることより、いくらか時間が経過した後に「見える」そして「気付く」ことの方がはるかに多い。けれど、良い方向に変えようとするひとを応援する意味でも「見える」前から始まっている変化に敏感でいたい。多分私たちが結果だと思っているうちの半分以上はプロセスではないかと思う。そしてプロセスが発生している時点で、変化という名の川は流れ始めている。

佐藤雅彦が具体的に「社会を変えた人」だと客観的に説明するには、まだ多くの人々を納得させるような結果(と呼ばれる事件ないし時間の経過)が見つからないかも知れない。けれど佐藤雅彦の視点はいつでも「変化的」だ。疑ってみるだけでなく、気付いてみる。発見してみる。そこから、ちょっぴりでも確実に、今までと違う世界が開けてくる。一番身近な、自分自身という「社会」の最小単位が変わる。そんなスイッチのありかを教えてくれている気がする。

俺様にとって佐藤雅彦は既に、社会を変えてみせたひとりだ。

「今日の演技は、僕が一番良かった。」 

August 24 [Tue], 2004, 5:25
アテネオリンピック・男子体操個人種目・平行棒。
「今日の演技は僕が一番良かった。」
日本の中野選手は自分の演技について、こう語った。私も観ていて、同じように思った。未だかつて誰も出来なかったムーンサルトによる着地に挑戦し、若干乱れたものの大きな崩れはなく、決めてきた。なのに、結果は5位。悔しい。採点基準はこの新技よりも、全体的に正確さを求め着地も無難にコナすことが求められた結果だ。

しかし、勝てなかったことよりも、自分にとって納得のいく演技をしたかどうか、その意志を試合後のインタビュー上でも、これっぽっちも変える気配のない中野選手の言葉には、感動した。満足な順位を得られずして、こんなことをはっきりと言い放ってしまう、その姿勢。みんな勝ちたいし、勝つために大胆な技を出さずに無難さを追求する選手だって少なくない。大技も出せて着地も決まる、どっちも揃えるバランスは得てして消極的にも映る。そんな中で、彼の言葉には挑戦者として一貫する意志の潔さがある。

狡猾さで勝負が決まることは、体操だけではない。身の回りを見渡すと、ほとんどが己の意志よりバランス、絶対性より相対性をすくい上げることばかりではないか。そんな現代の仕組みに、ほとんどの人間が迷っている。中野選手の言葉は負け惜しみでも憎まれ口でもなく、こんな現代の中でひとつのことを見据えて、迷わずに精進したからこそ発せられたものだと思う。今、目の前に形成された「無形のものさし」に対して、純粋に疑問を投げかけるその意志には、考えさせられるものがあった。

「どうしたら勝てるのか、これでますますわからなくなった…オリンピックってお祭りなんだなーと思った」
中野選手は、大技に対して臆するようになってしまうだろうか。個人的には、これに懲りず是非また世界を驚かす大胆な演技に挑戦してもらいたい。意地になって、突っ張って欲しい。そのころには、バランスや平坦さが勝つような世の中とは、少し違っているかもしれないから。それに彼ならきっと、そんなことを凌駕するものを貫いていけると信じている。

さようなら、らもさん 

July 27 [Tue], 2004, 21:08
中島らもさんが亡くなった。仰天した。
大麻で捕まったり階段から落ちたり、最近やけについてないなあと思っていたら、ついてない勢いのまま天に昇っていってしまった。らもさんは嫌な酔っぱらいじじいになって、やがてワケのわからないことを喋って周囲を困らせる仙人になるもんだと、俺様は信じていた。中学時代にハマった後、ここんとこ全然読んでいなかった。何となく「らもさん」の存在が心の中に出来ただけで、満足だった。一生一度も読まないのだけは勿体ないと思ったから、知り合った人にはとにかく「この人のは面白いよ」と勧めまくっていた。

中学校の頃、勢い余って青山こどもの城までリリパットアーミーを観に行った。最後に配ってくれるチクワがちゃんと冷えているのが印象的だった。微笑家族のテっちゃんにも随分笑わせてもらった。あの頃一番心に残った作家の一人だった。言葉の使い方が独特で、とても詩的なのに、読み手がアタマだけでなくココロというか、深い部分で納得できるようなテキストだった。好きな作品は「獏の食べ残し」「恋は底ぢから」そして明るい人生相談シリーズ。この辺好きな人とは、何かクセのある部分で分かり合えそうな気がする。

酒飲みになりたくて、鍛え上げてなったらしいけれど、俺様はまだまだ鍛錬が足りず下戸のままである。快楽にも鍛錬が必要なのだ。らもさんは仙人になるまで待ちきれず、快楽と妄想の世界へウッカリ羽を伸ばしてしまったに違いない。さようなら、らもさん。あなたの感覚に出会えてよかった。これまで、ありがとう。

はるちゃんへ 

July 27 [Tue], 2004, 0:28
はるちゃん、おちかれー。勝手ながらこう呼ぶことにしました。
スクールもいよいよ後期だね。
人とのつきあいがジワジワ長くなっていくのがありがたいこの頃です。

ところで、俺様ははるちゃんが物知りなことがすごい気になります。
大人になれば自然と物知りになるもんだと、物知りの父親を見てそう思いながら呑気に育ってしまったもので、俺様はあまり物知りにはなりませんでした。素質もアレですが、勉強しなさいとか言われながら育ったのがいけないのかも知れません。
いや、ヒトのせいにしちゃいけませんね。興味がないわけでは決してないのだけれど、いつからか超快楽主義者、いや快楽原理主義者になってしまいました。単なる怠け者か。はるちゃんはいつからそんなに、マセているというか、物知りなんだろう?
あと、文章がきれいだとも思いました。結構言葉選ぶ方でしょ。わかるぞ。

それに禅寺で坐ってみたり、肉体的な体験にも積極的みたいだからますます不思議。好奇心?何かきっかけがあったのかな。どんな育てられ方をされたんだろう・・しかも法律なんてすごく現実的な世界で生きているのに、どこかいい意味で浮世離れしているようにも見えるわけで。
逆にはるちゃんの俗っぽいチャラチャラしたところが知りたいです。パチンコとかやんないの?因みに俺様はパチンコは店員生活の方が長いです。麻雀は打つのも好きです。ロン。花札も好きで、どちらも牌や札がキレイなところに惹かれています。今必死で覚えているのが囲碁と五目並べです。

【ABC】青山ブックセンター閉店【アオブック】 

July 17 [Sat], 2004, 14:33
青山ブックセンターが破産により閉鎖された。
ある意味、衝撃を受けた顧客人数は一番多い書店だと思う。有名大型書店が破産したらそれはそれで驚くけれど、似たような大型書店は他にもある。青山ブックセンターだからこそ行く用がある、というごく個人的な嗜好から選ばれる書店は希だったはずだ。俺様もそのひとりで、建築系を冷やかしながら料理やビジネスや哲学や、気が向いたジャンルのコーナーに流れるように歩けるABCが、気分屋の自分にはとても気持ちよかった。他の大型書店とは決定的に違って、ABCは(俺様が知る限り)ワンフロア構成だったので、別階だったら行かないような疎遠なジャンルにも、するする歩いて一巡できてしまう。その中で自分にとっては意外な本に引き込まれたり、新鮮な出会いが生まれたりした。よく使っていたのは新宿ルミネ2店で、改札に直行する前の選択肢でもあり都合の良い待ち合わせ場所でもあった。代わりの効くものが激しく新陳代謝を繰り返す社会、それに慣れてしまった個人。所謂「都会」で生活する中で、ABCという書店が提供した影響は一書店という枠を超えて、大きい。

俺様のように流し読みする客が多かったことが破産の原因だとは思えない。ABCでリサーチしてから帰宅してamazonで通販する向きもあっただろうが、少なくとも俺様は気に入った本に出会えたらその場で買うし、多くの立ち読み客は手に取って購入すべきかどうか吟味していたわけで、決して全員が図書館として扱っていたわけではないと思う。また購入意欲がなく立ち読みしていた者も、思いがけず良書と出会ってレジに並んだり、なんてこともあったはずだ。

個人的には、客側が察し得るような問題ではなかったんだと思う。もっとひとけのない本屋なんていくらでもある。逆に言えばABCと同じスタイルの書店がないわけで、いくら繁盛しているように見えても、ABCでしかあり得ないような深刻な状況があったのかも知れない。青山店は閑散としていたけれど、何とかなってんだろう位しか思えなかった。

ジャパネットたかた社長の復活 

June 29 [Tue], 2004, 9:32
 ジャパネットたかたTVCMに、タカタ社長が戻ってきた!いつから復帰したのか知らんが、久しぶりにじっくり眺めてみるとちょっと痩せた気がする。しかし肌つやもしっかりメイクしてあるし、飄々とした喋りも健在。流石、プロなのである。どういう生い立ちなんだろう。帝王学タイプなんだろうか。このひとは、この仕事が好きなんだ多分。それが伝わってくるのが、タカタCMの一番の醍醐味じゃないかと思う。

 さっきから扇風機とかエアコンとか、夏向け商材連発で宣伝中なのだが、ふと気づくことがあった。東芝の扇風機の宣伝の中でタカタ社長、

(語気を一段と強めて)
「高さが、何と!95センチ!」・・・えっ!?何が「何と!」なの!?
「しかも!4枚の羽根を使っておりますから!」・・・標準タイプじゃん。

 ・・・狂ったか?こんなレベルにまで落ち込んでしまったのか、社長の口上は。寂しい、実に寂しい。全盛期のタカタ社長は、こんな間の抜けたこと言わなかった。

 これはパソコンで例えるならば「何と!キーボードが標準配列!」とか「しかも!モデム内蔵!!」とか言っているのと同じである。ここで社長が投げるセリフは、扇風機の高さや羽根の数ではなく、主観性だ。「どうですこの白い色!インテリアの邪魔にならない!ネ〜さすが東芝ですよね〜」なのだ。

 タカタ口上の特徴の一つは、こうした標準的スペックは冷静に伝え、むしろ商品の既成イメージを思い切って逸脱し、「主観から主観に訴える」手法を使うことだった。

 これはタカタの様式美だった。商品の客観的特徴ばかりを羅列するのは、いくらオーバーに話したところで、ただの説明であり、失笑を買う主観性があってこそ、ここまで社会性を持った「社長のキャラクター化」、つまりはタカタ社長という人物が愛され、認知されてきたのではないだろうか。

 しかもそれらは、ショップチャンネルなどの下世話なオバハン売り子などには到底真似など出来ない、まさにタカタの専売特許だったのだ。
2004年10月
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