暗闇坂幻覚三昧1 

October 19 [Sun], 2008, 13:42
               夢

 帰りつかない夢ばかりみている。
 わたしは見知らぬ駅に立っていた。もうすぐ列車が入ってくるというのに、なかなか切符が買えないでいる。券売機が故障しているのだ。何度いれても硬貨がもどってきてしまう。日常にも、たまにあることだが、心がせいてくる。別の切符売場でようやく切符を買って、いざ改札をぬけると、自分の乗る列車のホームはずいぶん遠くにあるではないか。階段を上がり下がりしても、なかなか出られない。線路をまたぐ跨線橋はゆるいスロープになっていて、それ自体が迷路のように入り組んでいた。
 やっとホームに立つ。重い音をたてて入ってきた列車は、欧州の鉄道のように大きな客車だった。長距離の旅客ばかりが乗っているよう。それでも、わたしは漠然と自分が埼玉の大宮か浦和のあたりにいて、自分の実家のある川越に帰ろうとしているのだと思っている。
 発車のベルがなり、わたしはあわてて乗り込んだ。ところが、その車内は贅沢なソファーがしつらえられた、オリエント急行の一等車のラウンジのようになっている。ソファーは濃い赤のビロード地だった。空いていていくらも席はあいていたが、とてもこんな車両には座れないと思い、後方の車両のほうへ渡っていくと、こんどは修学旅行生の一団らしい制服をきた少年たちが、ぎっちりと座っていて、なかなか一般の客がいる車両がない。
 窓の外に眼をやると、右手に海岸が見える。埼玉は海がない県だから、そんなわけはない。しかも右手に海が見えるとなれば、列車は海沿いに北上していることになる。列車がちがうのだ。再び、あわててデッキに出で、次の停車駅で飛び降りた。人のすくない鄙びた駅で、なんだか東海道本線の真鶴あたりを思わせる。いよいよどこに来てしまったかわからないが、とにかく反対方面から来た列車で、もとの駅にもどらねばならないと思う。
  ところが、もどるはずの列車は、線路づたいに五十メートルは歩かねばならぬ別のホームに入線してくるではないか。わたは線路を走り、おおあわてでその列車に飛び乗るが、それは乗ってきたとは似ても似つかない軽便鉄道だった。そのうえ軌道が大きくカーブしながら、とんでもない方角に走りはじめていく。わたしは半ば放心して、次々ととまる小さな駅に降りる気にもなれないでいた。どうやら、山に向かっているような気配だった。白いペンキ塗りの駅名標示にあらわれる駅名に覚えのあるものはひとつもない。だが、なんとなく、秩父あたりに自分はいるような気がしている。子どものときに遠足かなにかて来たことがあるような景色にも見える。
 そのうち、驚いたことに、列車はわたしのいくべき駅の隣の駅にちゃんと停車していた。そこが終点だという。現実ならば川越の駅につながっているはずなのだが、しかたなくわたしは駅を出て、駅前の広場にたった。駅前のたたずまいは、昭和三十年代の頃の風景だ。軒の低い商店がずらりと立ち並び、
ボンネットバスも走っている。まるでタイムスリップしてきたような気持で、どうやったら、実家のある川越駅にいけるかうろうろしていた。バスの路線はどれも見知らぬ町へむかうものばかりなので、いっそ歩こうかと思う。しかし、歩くにしても道がまったくわからない。古びたパチンコ屋が、不景気な音楽を流していたり、店の奥がやけに深い菓子屋が、平たいガラスケースにさまざまな菓子を陳列して売っているのが見える。この景色は子どもの頃、母に連れられて見たような気がする。町に人の姿はない。
 その頃になると、わたしもだいぶ落ち着いてきて、これが夢だと気づき始める。それでようやく、心を落ち着けて、その見知らぬ町のなかを歩き出していく気になっていた。見るものがみな珍しく、日頃よその町を徘徊するみたいに、のんびりと歩き出していくのだ。けれども、こちらがこれは夢だとさとった刹那から、夢はまるで秘密を知られた女のように、そそくさと立ち去っていくのだった。

暗闇坂幻覚三昧2 

October 19 [Sun], 2008, 14:01
                   象


 その夜、改札を出て、腕時計をふとみると、思いがけなく遅い時間になっていた。十時をすこしまわっている。勤め先の大学を出たのが六時くらいだった。それから、本屋などすこしより道をしたけれど、家まではほぼ一時間で帰って来れたはずであった。どこで時間をくったものか。いつもの癖で、宵の口の見知らぬ界隈を流してあるいたにしても、そんなに遅くなるはずもない。飲食店にも寄った記憶はなかった。まるまる二時間ほどの記憶がなくなっていた。誰かにそれだけの時間をかすめとられたような気もせぬではなかった。早稲田とか目黒、あるいは飯田橋あたりの名画座で洋画の一本も観てくればこんな時間にはなるが、市ヶ谷から神楽坂をのぼってすぐに地下鉄に乗ったはずだった。神楽坂の書店と、陶器屋を一軒ひやかしただけのつもりであった。どうにも、腑におちぬ話だった。
 東京のはずれ、丘陵地帯に掘られた人造湖をかこむ山林の後背地に住まいはある。三十年ほどまえならばよほどの素封家が郊外に隠居するような土地柄だ。門から奥までがおそろしく深くて、屋敷内のようすがまるで知れない邸宅もいくらかは残っている。今は森に囲まれて静かさがとりえだけの隠れ家ともなろうか。そんな辺鄙な土地に越してはや十年が過ぎている。歩いていると、東京と埼玉の地番をいきつもどりつするようなあたりである。近くに大きな遊園地があり、その遊園地を発する小さなローカル線の中途にたったひとつある駅で下りることになる。その支線とて、十時の半ばで終電となり、遅くなれば、暗い湖畔の道をぐるりとまわってしばらく歩かねばならない。
家への道は、小暗いだらだら坂をまず下っていく。片側が雑木林、左手はフェンスのはりめぐらされたゴルフ場だ。その坂下までおりてから、今度はおなじほどの上り坂になり、いいかげん息がきれるところで左の小路におれると我が家となる。下りの道は街灯もろくになくて、薄気味悪いほどである。
 坂の下というか、すり鉢の底のようなあたりまでくると、ようやく家の灯が見えはじめる。
「この坂下のあたりは昔は沼の底だったのですよ。ここら一帯は湖から流れだす水がたまった沼地でね。大きな池といってもいいのですが、魚なども釣りましたよ」と、古くから住む老人の言だった。「それが、埋め立てられて、ほら、この橋からさきの宅地になったのは最近のことですよ。埋め立てが終わってもしばらくは家も立たず、ススキの原でしたね」
 そんな昔に、訪れてみたかった気もする。
 沼の底。
 もとは、魚たちのねぐらに、今は人が次々に小奇麗な家を建てている。
 しかし、その空想もそこまでだった。
 坂の中途まで下りてくると、前方の右の林がひどく揺さぶられて、なにか奥から出てくる気配がした。こんな夜に、林にわけいった人でもいるのか、あるいは獣か。狸の類ならときおり道を横切っていくのに出会ったが、今夜はもっと大きな、いや、木の騒ぎ方で、よほど大きなものが道に出てくるようすだった。
道の際に生えている数本の細い竹が横倒しになった。
林を騒がせて出てきたのは、一頭の象であった。象。まぎれもなく一頭の象が道を横切っていく。
わたしは驚くよりも、ほう、と感心したような気分でその象の横腹をみつめていた。象はゴルフ場の開け放しのままの門のなかへ、ゆっくりと入っていく。もちろん、こんな時刻である。ゴルフ場は無人で、クラブハウスも灯は消えている。
象の姿が見えなくなると、わたしはまた坂を下りはじめた。象の入っていったほうをすかしてみたが、もうなにも見えなかった。
果して自分は《象》を見たのだろうか。なにかの幻覚であったのか。あるいは、今夜、二時間ぶんの記憶がなくなっていることと関係があるのかもしれなかった。
夜の坂道で目の前を象が横切ったという事実よりも、それを見た自分のほうを疑ってみるべきではないのか。これは夢なのか。
わたしはしばらく立ち止まって、象がどこからやってきたのか考えていた。家に帰って家人に話したところで、ふざけているか、酔っているか、とうていとりあってはもらえまい。正気を疑われる出来事ではある。
そのうち、坂の下のほうから、犬を散歩させている顔見知りの老人が上がってきた。痩せて醜い駄犬だが、毎晩十時すぎになると、この界隈を散歩させている。
わたしがよほど困ったような顔をしているのに気づいたのか、老人は「今晩は」の挨拶よりもさきに、開いているゴルフ場の門をみやって、呆れたような声をあげた。「まったく、夜中にあんなものに歩きまわられちゃ迷惑ですよな。こないだも、うちの庭木をあらかた食い散らして、垣根を潰していきやがったんだから」
老人は象のことをいっているらしかった。このあたりでは、よく知られていることのような口ぶりだった。
「山の中にいるだけならいいが、人のうちの庭まで入ってこられちゃあね」
わたしは、《象》という言葉をいうのを躊躇った。
「林のなかにいるんですか」
「林のなかときまっていますよ。誰かが飼ってるなら自治会で問題にしてやるところだ」
「野生ですか」
「野生?」と、老人は口をぽかんとあけた。「わからんですな」
そう言い捨て、老人は犬をひっぱるようにして、坂をのぼって行ってしまった。

暗闇坂幻覚三昧3 

October 19 [Sun], 2008, 14:15
               蛇
                                      
 坂道をくだっていくと、人丈ほどの石垣がある。石垣の上はゴルフ場のフェンスがはりめぐらされている。道をはさんだ対岸は雑木林。秋には椎の大木が団栗を雨のようにふらせ、歩いていると、コツンと背後で落下し実がはねたりする。
 坂おおりきった、斜面の底のあたりまでくると、石垣はちょうどわたしの顔の高さほどに低くなっていた。
 ある朝、その石垣のうえに一匹の緑色の蛇が鎌首をもたげて佇んでいるのに行きあった。人の小指ほどの胴回りしかなく、長さも肘ほどもあったろうか。卵から這いだしたばかりとはいえないにしても、いわば少年のような若い蛇であった。
 わたしは立ちどまって、その少年蛇の横顔をみつめた。青大将かヤマカガシか、蛇の種はわからない。蝮のでる山林もちかいが、そのような凶悪な眷属にもみえなかった。
 緑色の鱗は透きとおるようで、おなじ色の瞳は瑠璃の玉のように輝いている。その瞳がじっと道のむこうがわの林をみつめていた。
「なにをみつめているのですか」と、わたし。
 蛇はこたえない。
「道のむこうへ渡りたいのですか」と、わたし。「わたしには、わけもない距離でも、きみには遠いのですかね」
蛇はみじろぎもしない。
「あの林の奥にだれがいるのですか。それとも、そこにあなたの未来があるのですか」
 いつであったか、書き下ろしたままに机のなかにしまいこんでいた物語が思い出された。そう、兄妹として生まれた二匹の蛇が、深い森のなかで再開する。二匹は妹背であるとは知らずに恋仲になるのだが、その森は主のような大蛇が支配していて、若い雌蛇はさらわれてしまう。兄の蛇は妹をおって、邪悪な蛇の眷属が蟠踞する藪の穴に入っていく。しかし、いまは大蛇の妻となった妹は、兄の命を案じて、どうかこの森から逃げてくれと懇願する。もはやこの身は、梶原の命(大蛇の名)にとらわれ、あなたと添うこともかなわものになった。それでも、これから生まれる子どもたちは、あなたの子とおもって産もうと思う。この先、緑の小蛇にどこかで出会うことがあったら、あなたのお子と思って情けをかけてやってください、と。兄蛇は、鱗から血のような汗をにじませて、藪のなかからのがれでるのだった。
「あの、もし」と、わたしの背後で声がした。
振り返ると、いつ来たのか、隣家の若奥さんが犬を連れて立っていた。
「なにか変なものでもおりまして?」
 と、石垣のほうをのぞきこんでいる。
 いや、ちょっと小さな蛇がといおうとして、石垣のほうにむきなおると、緑の小蛇はどうしたものか姿を消してしまっていた。
「いえ、蜥蜴がはしりこんだような気がしたので」と、誤魔化すようにこたえると、挨拶をして歩きだした。
  それ以来、その石垣のまえを通るたびに、緑の小蛇のことを思い出すのだが、もう二度とその姿を見ることはない。

暗闇坂幻覚三昧4 

October 20 [Mon], 2008, 2:53
                          虫
                                       
 夜の十一時をまわっていた。                         
 「脅かしてしまいましたかね」
深夜の坂道でふいに右手の藪のなかからのそりと出てきた男は、わたしと顔をあわせると、悪びれもせずにうすく笑ってみせた。
 ただでさえ寂しい場所だ。わたしの家はこの坂を下りきってから、さらにまた今度はしばらく登ったところの崖上にある。そんな郊外の丘陵地に家を選んだのは、もとよりその閑静のためではあったが、夜道で人と出会うのはあまり気持ちのいいものではない。
「いや、野犬かなにかじゃないかと思っただけです」
「この辺にはもう野犬なんぞ一匹もいませんよ」
さも自信ありげな言いようだった。青黒く日焼けし、骨ばった顔つきだ。
「昔、野犬駆除の仕事もしていたのでね」
そういうわけか。
「この上のほうのかたですか」
と、きくまでもないことを訊ねてよこした。こちらは、ただ頷いただけ。
黙りこむと、雑木林のなかの秋の虫の音が、ひときわ大きく耳についた。蟋蟀か、それに小さく鈴虫のような軽い響きがまじっていた。
男は、いましがた自分が出てきた藪のほうをすこしふりむいた。
「すっかり秋らしくなりましたね」
と、わたしの言いたくもない愛想をいってやった。もうそろそろ、こんな不意の出会いに決着をつけて、帰りたかったのだ。
「聞こえますでしょ」と、男。
「虫の音ですか」
「はい、虫の音です」
「夕べあたりはまだ夏の残りのように蒸してましたね。虫の声もしませんでした」
「いつも遅いのですか、お帰りは」
ここ二三日は、友人につきあわされて勤めの帰りに呑んできたものだから、終電まぎわが続いていただけのとことだった。
「昨夜は鳴いてなかったはずですよ」
と、男はまた確信ありげにそういった。そういう性質の男なのかもしれない。
「いや、いまさっきから鳴きだしたのです」
男は、ふんと鼻から息をはきだすと、腰にさげた手拭いで首のあたりをぬぐっている。「わたしが仕掛けててきたからでしてね」と、また妙なことを言う。
「虫を放したのですか」
さきまわりして、そう推理してやったが、相手はじろりと睨むようにこちを見た。すこし険のあるまなざしだ。
「虫? 虫なんぞこの山一帯には一匹もおりはしませんよ」
さきほどの野犬とおなじ調子になった。
「藪の奥でなにをなさってたのですか」
こちらも自然に詰問調になっている。
男はすこし躊躇っているようすだったが、こんな晩にこんな場所ではちあわせしてしまったのだから、それを言わずに別れるわけにもいくまい。
「虫はいないのです」と、今度はひどく落ちついた口調で話しだした。「ここだけの話ですが、この山一帯は消毒されて、害虫といわず虫の類はほどんど駆除されていますよ」
保健所の人間のような物言いだった。
「強い殺虫剤が撒かれてます。衛生のためといっていますが、しばらくしたら伐採され、造成されて宅地になるようです。そのまえに、害虫駆除がされたのですな」
そんな話は聞いたこともなかった。自治会の月報にも、宅地開発の話は載っていなかった。害虫駆除は人間にも影響がでるはずだから、地元に知らされぬことはなかろう。
「まるでの枯葉剤散布のようだと思っていませんか」
男はまたうすく笑った。
「悪い冗談ですね」
「まったくだ」と、悪びれもしない。
それで、この男は夜の山林でなにをしていのか。
「《箱》ですよ。《箱》をいくつか仕掛けてきたのです」
「箱?」
「そうです、虫の鳴き声をだす小さな黒い《箱》です」
「なんでですか」
「怪しまれないためですよ。秋になっても虫の音ひとつ聞こえてこない沈黙の林だったら、地元の人たちが疑うでしょう」
「もしかしたら、この夏の蝉の鳴き声もですか」
「そのとおりです。蝉の《箱》木の高いところに設置しなくてはならないので骨が折れました」
「夜中に木に登ったのですか」
「いや、初夏の頃、昼間にに梯子をかついて奥に入りました。誰も怪しみはしませんよ」
「それで、今夜、《箱》をとりかえたのですか」
「そうなりますね」
男は話の要点を終えて、安堵したのかシャツの胸ポケットから煙草をとりだして銜えた。両切りのピースだった。
「最近はこういう仕事もするようになりました。昔は野犬狩り、鼠駆除、白蟻退治。なんでもうけおってやりましたよ」
「この山の消毒も?」
「いや、もう駆除はしていません。ずっとまえに薬物の中毒になりましてね。その後遺症がつづいてます。今は後始末だけです」
煙草のけむりがこちらに流れてきた。
「どうです?」
と、煙草の箱をこちらにさしだした
だまって一本ぬいて、銜えると、ライターの火をこちらにむけた。
「よくできた《箱》です。誰が作ったのか、一定の暗さになると音をだしはじめ、何かがちかづいて地面が振動するとしばらく止まってしまいます」
「虫みたいですね」
「まあ、虫のかわりですからね」
わたしは一服してから、あらためて男の身なりをしげしげと観察した。灰色の作業服のほかはこれといって持ち物もない。どこからやってきたのか、乗ってきた車もなさそうだった。
「わたしたちは、騙されているということですね」
「騙しているのですかね、やはり」
わたしは、すこし不快になってきた。
「でも、やはり秋には虫の音を聞きたいでしょう。林の奥にふみこんでくるのでなければ、虫の音が《箱》から出ていたってかまいはしないでしょうが」
「死んだ人間から電話がかかってくるような気分ですよ」
精一杯の皮肉が伝わったろうか。男の表情は動かない。ゆっくり最後の一服を吸い終えると、煙草を捨てて揉み消した。
ふと思い出したように林のほうをまた見返っている。
「なにか忘れものでもしましたか」と、聞いてやる。
「ええ、大事なものをね」
そういうなり、男は挨拶もせずに、また藪のなかに入っていってしまった。落ち葉をふみしめていく足音や、枯れ枝のわれる音が聞こえ、遠ざかっていった。
わたしは、煙草を揉み消し、ようやく家にむかって歩きはじめた。林の奥からは秋の虫の声が、遠く近く聞こえてくる。
家の門の近くで、ちょうど犬の散歩からもどってきた隣家の主人と顔をあわせた。顔は影になって見えなかった。
「ずいぶん秋らしくなりましたね」と、挨拶する。
「はい、虫も鳴くようになりました」
隣家の主人は、それだけ言うと、犬をひいて自宅の門内に消えていった。

暗闇坂幻覚三昧5 

October 21 [Tue], 2008, 13:58
                    鴉
                                       
坂の途中で、わたしを追い越していった女が、《沼の底》の橋のてまえで立ちどまっていた。わたしの家よりもさらに上の林の奥に住んでいるのは知っている。ときどき会釈はするくらいで、親しく話をしたことはない。
 同じ最終電車で帰ってきて、急ぐような足どりで追い越していったばかり。坂下で目眩でもおこしたのか。いや、橋の下の流れをのぞきこんでいる。
 さすがに橋のあたりには街灯がともっていて、流れの多寡も見おろせるくらいの明かりはあった。
「なにかいるのですか」
 と、やむなく声をかけた。
「はい」と、こちらに振りかえる。橋の下を指でさしてみせた。
 なにか黒いものが川の泥のなかに突き刺さっている。真っ黒で大きな鳥の翼が斜めにつきでていた。
「鴉ですね」と、わたし。
「はい、昼間、でかけにも見たのですけれど、夜までそのままなものですから」
「死んで墜落したのですかね。よほど高くから落ちたのでしょうか」
「流されてしまったかと思ってのぞいたら、まだあんなふうに翼が」
 片翼だけが、泥のなかから突きだとしているようすは、なんだか邪悪な眷属が末路を曝しているような陰惨な感じがした。ふたりとも気味が悪いとは言わなかった。そうではなく、悪党の横死にたちあった気分だった。それで、わたしはそれをそのまま言ってしまった。
 女は、思いがけなかったのか、クスリと笑って、「さあ参りましょう」とまた歩きだした。しばらくは、ふたりとも急勾配の坂をたどらねばならない。
「終電にまにあいましたね」
 と、いわでもの事柄で間をつなぐ。黙っているのも変な道連れだ。
「はい。久しぶりにお友だちに会って長居をしました」
「すこし冷えますね」
 十月の終わり、朝晩はセーターの一枚もほしい頃だ。
「お通夜でしたの」
 と、女は聞きもしない言葉をついだ。それではじめて、女の黒衣に気がついたのは迂闊なことだった。年の頃は三十を半ばすぎたくらいだろうか。名前までは知らないが、すこし上の屋敷の女という見当だけがついていた。
「ご親戚ですか」とは余計な詮索だった。
「いえ、別れた夫です」
 なんの感情もまじらない返事だった。
「それは、どうも」と、言ってから、あとの「ご愁傷さま」は口ごもった。
「あらすみません。いいのです。彼の奥さんをなぐさめにいってきただけですから」 そういってから、すこし寒そうにして、息をついてみせた。
「あそこにいた鴉みたいな男でしたから」
 眼の笑っていない笑顔をこちらにむけた。
 それから、ふたりとも無言で坂をのぼりつづけるばかりだった。すぐさきに街灯が一つ立っていて、そこから左手に曲がるとわたしの住処への細い道だ。この気まずさも、あのかどまでと、すこしほっとしていたときだった。わたしの右側を歩いていた女が、ふいにわたしの腕にをとって、ぐいとひいた。
「え?」と、わたし。かどを曲がらせぬ気らしい。
 女は、すこし悪戯っぽく、しかし、有無をいわせないような調子で、わたしの顔をのぞきこんだ。
「すこしおつきあい願いますよ。これから、もうひとつの《通夜》になります」
「元のご主人のですか?」
 女は、ふんというようにかぶりを振った。
「あの鴉のですよ」
 と、わたしをさらに暗い坂のうえにひきたてていく。
「あなたにもお心あたりがおありですよね」と、言って。
 風が出て、わたしたちの頭上に覆いかぶさっている樹木の枝が騒ぎだした。あるいは、見えない黒い鳥たちが、通夜の客として集まってきているのだろうか。女は黙ってわたしの腕をとったまま、暗い門をぬけ、奥の知れない邸宅のなかへふみこんでいった。

暗闇坂幻覚三昧6 

October 21 [Tue], 2008, 14:03
            姥
                                      
 誘われてはいった屋敷内で眼にしたのは、意外な景色だった。
 おそらく、広壮な邸宅があるのだろうと思っていたのだが、小さな和風家屋が数軒、長屋のようにならんでいる。小さな横町のような風情だった。いわば敷地内にもうひとつの町ができているような具合だった。その小さな家の背後に、黒々とした、これはまさしく邸宅という言葉にふさわしい家屋の影が浮かんでいる。その広壮な屋敷に灯火はともっておらず、手前の小住宅の玄関口にぼおっと丸い電灯が光っているばかりだった。おそらくは、邸宅の使用人たちの住居なのだろう。そして、邸宅の主が不在になってからも、小さな家の住人たちが、いつ帰るかも知れない主人をまって暮らしているのかもしれない。と、ここまではわたしの空想である。
「こちらですの」と、女はそんな小住宅のひとつの玄関でたちどまった。玄関の庇の下に灯っている電灯の曇りガラスに《秋草》とい苗字がついていた。
 引き戸のあがり口に塩が盛られた小皿が置いてあった。女は膝をおって屈みこむと、ひとつまみ清めの塩をふった。それから、こちらを見返って、
「わたくしだけですわね」と、すこし笑った。
 鍵はかかっておらず、ガラガラと引き戸をひいて、なかに入っていく。
「お母さん、ただいま戻りました」と、声をかけている。「さ、こちらへ、おあがりください。むさくるしい所ですけれど、母とつましく住んでおりますの」
 鴉の通夜に呼びこまれたのであれば、否やもなにもなかろう。わたしはさそわれるままに、あがり框に靴を脱いだ。女は、足ばやに奥に消えた。奥で客の来訪をつげているのが聞こえた。
 玄関の間につったっているわたしを、奥から呼ばわる声がした。さきほどの女ではなく、母親らしい老女の声だった。
「どうぞ、こちらへ。居間のほうに用意をいたします」
 中ほどにガラスをはめこんだ古風な障子の奥に、老婆がすわっていた。手を畳について深々と挨拶をしている。
「奇特なことで、よういらっしゃいました」
 みれば、見覚えのある老女である。いつも坂の途中で箒を動かしている老女である。いきあえば、会釈もする間柄だ。ときには。「いってらっしゃいませ」と、丁寧にお辞儀もする。
「**様の旦那様でございましょう?」
 と、わたしの名前も知っている。なに、自治会の地図にはすべて姓が書きこまれているのだから、家のありかで名前の見当もつくしくみだ。それにしても、秋草などという名前は見たことがなかった。邸宅の敷地はただ広い枠のなかに《楠見》とだけ記されていた。
「娘が勝手を申し上げ、こんな夜更けに足をお運び願って恐れ入ります」
 老婆は口上のようなことを言いはじめた。座りかけたわたしも、かしこまって、正座をして手をつく。
「わたくしどもの家には、《二度通夜》という仕来りがございまして、先様の通夜から戻ると、自宅でも小さな通夜振る舞いをして故人を忍ぶのでございますよ」
「いまどき、殊勝な心掛けですね」と、つい口をすべらす。「通夜など形ばかり焼香してすませる義理通夜の人も多いのに」
「恐れ入ります」と、老女は品のいい面に皺をよせて微笑んだ。それから、笑ったことに気がついたのか、きまり悪そうにつづけた。
「不祝儀の晩でも、人は笑ったりするもので、どうにも信心がたりません」
 わたしを誘った女は台所にたっているらしく、なかなか出てこなかった。なにか通夜振る舞いの料理でもしつらえているのか、俎をうつ包丁の音がしている。酒がでるはずだ。
「このお屋敷うちに入ったのは初めてです」
 と、わたしは、この小住宅の素姓が知りたかった。
「裏のお屋敷で働いていたのですか?」
 老女はうなづいてみせた。
「もう、しばらくまえから無人になってしまいましたよ」
「楠見様でしたよね?」
 老女はかぶりをふった。
「楠見は管理人の名前でございます。主は《梶原》でした。もとは諏訪のあたりの出でございました。往時は、たいへんな素封家で、このあたり一帯の土地といい山といいみな梶原家のものでしたが」
「引っ越されたのですか」
 老女は、しずかに首をふった。
「落ちぶれ果てたのです。滅ぶとなれば一瀉千里、坂道をころがるように財産を失って、残ったのがこのあたりの山林とお屋敷で」
「もう住まわれてはいないようですね」
「はい、二十年も前に当主が没して、相続者は家に入らず、管理だけを楠見にまかせておりました」
 その楠見某はどうしたのかとたずねてみたかったが、老女相手に不躾ではないかとうるさく聞くのを控えた。
 それにしても、老女とのやりとりが長い。女はなかなか台所から出てこなかった。そのうち、どうしたのか、厨のほうが静かになり、ことりともしなくなっていた。
 しばらく沈黙のあとで、老女が顔をあげて、まっすぐにわたしの眼をみつめた。
「わたくしのほうも、お聞きしてよろしいでしょうか」
「はい」と、わたし。
「あなたの名前のなかに木文字がついていたでしょうか」
 奇妙な質問であった。
「ええ、まちがいなく樹木がはいっていますね」
「やはり・・・」と、老女は合点がいったようにうなづいている。「娘があなたをおよびしたわけがわかりました」
 なにを合点したのか、かいもくわからなかった。ただ、自分の名前をはっきりと口にだすのは憚られた。名前を知られたら、なにかの呪縛にからめとられそうな、いやな気がしてきていたのだ。秋草といい、梶原といい、楠見といい、樹木の姓がならんだあとだ。
「もうじきです」と、老女がふいにつぶやいた。
「もうじき、通夜の仕度がととのいますから」
通夜という。夜を通して死者を悼み、守る仕儀ならば、これから長い夜になりそうなけはいだった。そして、その長い夜は、わたしの記憶の淵に沈んでいたものたちを、ふいと浮かびあがらせる夜にもなるような予感がするのだった。女はまだもどってこない。

暗闇坂幻覚三昧7 

October 21 [Tue], 2008, 16:45
         鴉 la pasato (過去)
                                       
漆黒の扉が、薄暮の街に浮かび上がっていた。いましがた点灯したばかりらしい小さなライトに、黄金色の金属でできた屋号が輝いている。Rabeとはドイツ語で「大鴉」のことである。E.A.ポーのThe Raven にちなんだバアの屋号だろうが、ドイツ語であるのが珍しかった。御茶の水駅から水道橋駅へ、線路沿いにゆっくり歩いていたわたしは、その屋号にひかれてふと足をとめた。
 夕方までの講義が終わり、これから夜間部の授業のある水道橋の大学へむかう途上だった。
 おや、こんなところにバアがあったか、と思う。
 だが、それだけで、また歩きだした。冷やかしている時間もないわけだ。ポーをヨーロッパに紹介したのはボードレールだったな、と独り言をいいながら坂を下っていった。ライトに浮かび上がった漆黒の扉ばかりが心に残った。
 そんなことがあってから、一冬がすぎ、また春になったある晩のことだ。
 わたしは、また水道橋へのゆるやかな坂を歩いていた。
 その晩は、昔なじみの男と御茶の水のニコライ堂ちかくの飲み屋で呑んだあとであった。八時に別れたのは、殊勝な心掛けで、なに友人が翌日旅にでるのではやく切り上げただけのことである。
 坂の途中に、あのDer Rabe金文字が輝いていた。水道橋界隈では、怪しげなバアでもあるまい。会員制ならば、断られるまでのこと。すこしだけ腰をおろして、ウィスキーをなめて帰るのも悪くはあるまいと、ためらわずに漆黒の扉を押した。
 すべては、この一瞬からはじまったのか、それとも、昨年の秋にこの扉に気がついたときにすでに始まっていたのか。因縁というものは奇妙なものだった。
 がらんとしたカウンターのなかに女が一人だけ立っていた。彼女がバアテンダーなのか、マスターなのか、バアのママというには素人くさい風情の女だった。これも漆黒の喪服のようないでたちだった。
「よろしいですか?」
 と、客としてはへりくだったような丁寧な物言いで腰をおろす。女は、こっくりして、ゆっくりとこちらに近づいてきた。冷たいおしぼりを開いてよこす。
「メニューはおつくりしていないのですが」
 いいかげん高いバアでの常套句だった。なに、アイリッシュウィスキーを一杯だけやるのに、財布をはたくはずもなかろうと、
「ウィスキーはなにがあります?」と、なれた物言いで返す。
「こちらにならんでいるだけですの」
 ひとわたり見渡したが、知っている銘柄はバーボンの類ばかりだった。バーボンの気分ではない。アイルランドの酒が飲みたい夜だ。別れた友人が旅立っていく国に敬意を表したい意味もある。
「ブッシュ・ミルズかなんかありますかね」
 相手は一瞬、なにかとまどったようだった。
「クーリーならありますけど。お店にだしてないものですけど」
「アイリッシュならなんでもいいです」
「はい、人からいただいもので封はきってなくて飾ってあるだけでしたの」
「それでは悪いですね」
「いえ、いつかは口をあけるのですから。どんなふうにしてお飲みになりますか。一杯目はストレートでなさいます?」
 黙ってうなづく。女は奥の棚から黄色いラベルの小ぶりな壜をさがしだしてきた。 タンブラーに一杯。チェイサー・グラスといっしょにそっと差しだしてくれた。
 明日にはダブリンに飛ぶ友人が、別れたばかりのわたしが東京の片隅でアイリッシュのめずらしいシングルモルトで彼の旅の無事を祈願しているのを知ったらどんな顔をするだろう。君は地球を半周する必要などない男だね、と皮肉な笑みを浮かべるかもしれない。
 酒をだしてしまうと、女はカンターの奥のほうにすわって、相手をするでもなく静かになった。通りのむこうからときどき電車の通過する音が響いてくる。
 酒はやわらかく、なめらかであったが、アイリッシュにめずらしく仄かに土の香りが残っていた。しかし、それも厭味なほどではない。
 煙草に火をつけた。
 煙がカウンターの奥のほうに流れていった。女がつとたって、こちらにやってきた。タンブラーが空になっていたのだ。
「次はロックにします?」と、いきとどいた応対をする。
「ええ、おなじもので」
「どうですか、このお酒。わたしは飲んだことないのですが。スコッチもアイリッシュもなじみがなくて」
「癖がありますからね。人によっては匂いがなじめないというし」
 女はふくみ笑いをしてかぶりをふった。
「あんまり好きじゃないひとがよく飲んでたからなんです」
 坊主憎けりゃ、てやつですかと言おうとしたが軽口はやめにした。なにかわけがありさうな物言いなのだ。
「最後にもらったお酒がそれなんです」と、聞きもしないことを言う。「ウエールズやスコットランドを歩き回って、ダブリンに二年ほどいたんですって」
 昔の男なのかもしれない。どうせ酒場での話だ。あれこれ聞きたがるたちでもないので、黙っていた。
 女はそれだけいってさがり、奥で氷を砕いている。
 客はわたしきりで、あとが続かない。居心地は悪くないのだが、必要以上に話をひろげるのは考えものだなと思う。たまたま乗ったタクシーの運転手と話しこんで、相手の重い生活の話を聞かされるのとおなじことだ。先日は、十九歳の息子がオートバイ事故で亡くなったという白タクの運転手の話を聞かされて滅入ったものだ。
 酒が来た。
 氷がはいると、さきほどの土の香もうすまって、あっけないくらい個性がかくれてしまった。
「お気に入りまして?」と、聞いてくる。正直にこたえるほかはない。
「なんだかつかみどころがないですね。なにを考えているかわからない男みたいです」 女はその批評が気に入ったみたいだった。おそらく、この酒を持ってきた男と重なったのだろう。
「お酒を変えますか?」
「いえ、いいです」と、相手の眼を見た。否といったのは、もうこの店でこのクーリーの壜を飲む者もあるまいと思ったからだ。
「この酒とつきあいますよ」
「では、全部飲んでしまってくださいね」
 と、女はこのときばかりは、ゆずれないといった調子で念をおした。
「ええ、今度来たときもこれをいただきますよ」
 わたしは、そういって立ち上がった。勘定は? と、いうと、女はかぶりをふって、金をとろうとしなかった。売り物のお酒ではないというのである。そんなわけにもいかないと、相場よりすこし多めの金をカウンターに置いて、すっと外に出た。
 それから、何度も漆黒の扉の前を通ったが、灯はついておらず、店は閉まったままだった。寄りたくとも、そうでなくとも、やっていない店の扉を押すわけもない。
 そのまま、季節が梅雨になっていった。
 傘をさして、夕暮れの坂道をくだっていくと、ゆくてにぼんやりとDer Rabeの灯がともっていた。ぼんやりと見えたのは霧が出ていたためであった。
 わたしは、その夜、二度目の扉を開いたわけであった。

暗闇坂幻覚三昧8 

October 21 [Tue], 2008, 16:48
         雨  la passato
                                      
「ずっとお休みでしたね」
 と、カウンターにすわるなり、そういった。
 女は一瞬なんのことかわからぬ様子だった。すぐにわかったらしく、微笑んだ。
「お店をあけるのは木曜と金曜だけですから」
 商売気のない話である。道楽のようにもみえなかったが。
「今度から水曜日もときどきあけるようにしたのです」
 わたしは週に一度、水曜日にしかこの坂を通らないのだから、いつ通っても閉まっていたわけだ。たまさか水曜に開いていたときに訪のうたたわけだ。
「金曜に来るお客が癖のあるひとばかりだものだから、その日はもうやめとこうかと思っているんです」
 ずいぶん気儘な商売である。
「外、まだ降っていますの?」と、話題をかえた。
「霧雨ですね」と、わたし。
「よくふるわ」と、すこしなれたような口ぶりになっている。見覚えのあるボトルをだしてきて、わたしの前にコトリと置いた。
「さあ、お約束ですよね。全部あけていただくまでお帰ししませんよ」
 と、冗談とも本気ともつかない眼差しだ。
 グラスに氷をひとかけだけ入れてもらって、自分で酒を注ぎこむ。奥のカウンターにもう一人すわっているので、女に話しかけることもしない。むこうも無口な客のようで、しずかにバーボンを舐めている。雨宿りに入りこんで、降りこめられたのでもあるのだろうか。小一時間して、その客が立っていったとき、開いた扉から激しい雨音がとびこんできた。客は、傘を借りて足ばやに出ていった。
 わたしは、三杯目のウイスキーをグラスに注いだ。もう氷なんぞどうでもいいという酔い心地だった。女は、すっと水のグラスをすべらせてよこした。
 わたしはうなづいて礼をするだけ。
 友人が旅立ってから三ヵ月になる。一度だけダブリンから絵葉書が来た。『ユリシーズ』のような日を送っていると洒落て書いてきた。翌日から北のほうにいってみるとも書かれていた。それだけで消息はない。わたしは、写真と地図だけで知っているダブリンの町を想像しながら、酒を飲んでいる。そもそも、彼はなんのためにアイルランドを放浪しているのだろうか。急に大学を辞めて、諸国を放浪しはじめた。アイルランドの前は、カトマンズに一と月滞在している。地の果てのような場所に憧れる年齢でもなかろうに。酔いがまわってくると、隣に彼がすわっていて、ダブリンの不味い飯のことを語っているような気分になってきた。いや、わたしが、ダブリンに訪ねていって、薄暗いパブにうずくまっている彼をみつけて声をかけたといってもいい。「おまえは、いったいなにをしている」と、わたしは呟いた。
 カウンターのむこうから、予期せぬ声がした。
「待っているだけですわ」
 わたしは、顔をあげた。
 他人の独り言をひろいあげて、女は微笑んでいる。
「どうかゆっくりお飲みになってくださいね。ほら、もう半分になってしまってますわ」
 わたしの前のボトルを眼でしめした。なるほど、いつになくピッチがはやい。品のない飲み方をしていたものだ。しかも手酌。これでは、愛人の酒場に来ているジゴロかヒモの風情だろう。
「なにかお食べになったほうが」
 返事をまたず、クラッカーに柔らかなヤギのチーズをそえた小皿をすべらせてよこした。
「ラ・フォイユ・デュ・リムザン」と、明晰な発音でそういった。「フランスのものですけど」
 ポーターのような、ビールを練りこんだ味わいは今の気分ではなかったので、かえってありがたいくらいだ。
「大陸のもののほうが好きなんです、わたしは」と、珍しく説明をはじめた。「男の方はすぐ島のほうに渡りたがるようですけど」
 チーズのことか、地勢的なことかわからなかった。その両方かもわからない。
「海峡を越えたがるのはゲルマン気質ですかね」と、わたしも馬鹿なことをいったものだ。お里が知れるというもの。
 女は黙って、雨音に耳を澄ますようにしていた。さきほど客が出ていった頃から、ひどい降りになっている。梅雨の終わりちかくはこんな雨になる。
 もう客は来そうもなかった。それで、わたしは最初から気になっていたことをきいてみることにした。
「週に二日しか開けてないのはどうしてなんです?」と。
 女はわたしをじっとみつめた。
「ほかの曜日はべつのところで働いてますの。昼間、九段下の会社に勤めてますわ。木曜と金曜だけ、夜にこのお店を開けるです。もとは別れた夫がオーナーでした」
 立ち入ったことをきいてしまったわけだ。いったん話しだすと、女の身の上話はとまらぬものと覚悟せねばならなかったが、オーナーといっても店に立っていたわけではなく所有者だったというところまでで話が終わった。気儘な商売ができるのも、家賃を払わなくてよいからだとも。
「わたしなんか、愛想はないし、こんな商売はむいていないのですけど。むいていないから、面白いってこともあるでしょう?」
 しばらく二人とも黙りこんだ。次になにを言うべきか見当がつかなかった。質問ばかりするのは失礼というものである。
「それで、あなたはいったいなにをしているのです」
 ふいに、女が先ほどのわたしの独り言をむしかえして投げてよこした。
 外では雨音がまた強くなっていた。電車の音もかき消されているのか、それとも終電をすぎたのか、まったく聞こえなくなっていた。
 酔いのせいか、この店の外がわで世界が消滅しているような気分になってきた。

暗闇坂幻覚三昧9 

October 22 [Wed], 2008, 0:07
         蛇 die Schlange
                                       
雨がやまなかった。すべては雨のせいにできそうな夜だった。
 酔いのまわってきたわたしに、女は独白のような昔語りをはじめていた。さして親しくもない人に、過去を語らせてしまうことが少なくない。わたしにそんなところがあるのかもしれない。さしずめ懺悔僧ということか。たずねもしない過去を女は語りはじめていた。
 それは、きいたこともない男と女の確執の話だった。のぞみもしない結婚が最初にあった。若かった、と女はいった。決められたものにしたがっただけだったとも。少女の頃から、学校を選ぶのも、学校を出てからの勤めさきを世話も、すべて親が決めていたのだという。二十歳を過ぎるまで、自分の意志をとおすことができる、あるいは、それが普通だと思いもしなかった。迂闊なことであった、と。親が決めたことに従って、つらいこともなかったせいのようだった。
 夫は、と女はいった。男のもつ身勝手と、卑怯さをすべて露にして、女としての彼女を顧みない男であっという。いってみれば、婢( はしため )。妻という装置が必要なので誂えただけという機能主義。あげくには、乱暴狼藉。話を割り引いても、いたたまれない話であった。しまいには、長い不在。三文作家のメロドラマにありそうな、とても同時代に進行していた現実とは思えない話であった。嫌であれば拒否する。抗議してしりぞける。袖を別つ。それがあたりまえと思うが、そうでもないらしかった。
「三十歳を過ぎるまで、わたしも独り立ちできていなかったのです」と、女は寂しそうにそういった。「ある日、決心するまで、わたしはなにも考えていなかったような気がします。子どもを一人産みました。子どもができれば、彼も変わるし、わたしも愛着がうまれるとも思っていましたのに。結局、心はすこしも動きませんでした」
「なにを決心したのですか」と、すこし意地悪にたずねてみる。
「なにもかも捨てて、逃げ出そうと思ったのです」
 わたしは、また自分の書いた蛇女房の物語を憶いだしていた。暴虐な山の主である大蛇にからめとられた雌蛇の悲しみの奇譚だ。
 女はじっとわたしをみつめている。わたしが、別のことに気をとられているのに気づいたのか。それともなにか、さらに深刻な段に話が進むのであるか。
「男のかたにはわからないのかもしれませんね」と、すこしなげやりな物言いになった。
「男なんて、たいがいは身勝手なものですよ」
 と、わたしも自虐的になる。あるいは露悪的か。誘惑術の初歩でもあるのが情けなかった。そういうつもりではなかったが。
「あなたはちがうようだわ」と、女。「執着もなさそうですし、邪心もないみたい」 邪心という言葉を《蛇身》と重ねて聞いた。《蛇身》ならありそうだ。
 それで、つい自分が書いた《妹背蛇》の悲恋の物語を女にしてやることになった。こんな物語を書いている酔狂な男とだけ言いたかったのだが。
「逃げ出すには相手の力が大きすぎたのですね」女はそんな解釈をしてみせた。それとも自分の身の上のことでもあったろうか。「でも、恋仲の兄蛇が浮かばれませんね」と、吐息をつく。
 わたしは作者であるから、そのあたりはわかっていたつもりだった。
「兄蛇のことはいいのです。兄は妹の心を知りましたから」
「お話の世界ならそれも美しいですが、蛇の生殺しという言葉もありますでしょ」
 女の眼が光ったような気がした。
「生殺しは嫌なものですよ」

暗闇坂幻覚三昧10 

October 22 [Wed], 2008, 0:09
    糸 der Faden


たとえば、夜の道をたどっているとき、ふいに一筋の蜘蛛の糸が顔にからまってきて、不快な気分になることがある。
 まさか道いっぱいに巣をかけようはずもないから、糸を風に運ばせて移動したあとであったのだろう。顔にかかった蜘蛛の糸は、ふりはらってもしばらくはまだ、まとわりついているような不安な残滓を残すものだ。
 深夜、いつもの暗闇坂をくだっていると、右手の藪のなかから、糸のあるじの声がするような気がした。
「あなたは、いくたびわたしの糸を切れば気がおすみなのでしょうか」
「あなたの糸であるとは知りませんでした。わたしでなくとも、顔にふりかかれば払いのけたはずです」
「もはや人などとおりませぬ。とおらぬと思えばこその糸でしたのに」
「いいがかりでしょう」
「朝露がおりる頃までには、あの糸をつたって逢いにくる者がいたはずですのに」
「一夜の糸とでも」
「そうです。命をけずって張った糸です」
「異類をあやめる罠ではないのですか」
「さような季節は終わっております。もはやなにも食しません」
 夜道に張られた一筋の糸をたどって、雄蜘蛛が夜這いしてくるとでもいうのだろうか。恨み言は、しんねりと続いている。
 藪を遠ざかれば、しだいに聞こえなくなるが、相手が蜘蛛だけにわたしは捨ておけぬ気分が残るのだった。
 きまって悪夢から身をふりほどくようにして目覚める朝のことだ。眼をあけて、寝床の白い壁に眼をやると、必ず透明な大きな蜘蛛が逃げていくのが見える。手のひらほどもありそうな大蜘蛛で、わたしはそいつがわたしに悪夢をみさせていたと確信するのだ。あいつは、わたしの胸のあたりから這いだしていったにちがいない。透明な大蜘蛛は、壁から天井のほうまでのぼっていくと、ふいに消滅してしまう。眼を凝らすが、もはやどこにもいない。角膜になにか疵がついているための錯覚かとも思ったが、ふだん目覚めるときには見えはしないのだ。重苦しい、なにかに責めたてられるような夢から目覚めたときだけにその大蜘蛛は現れるのだった。あるときは、人食いのような灰色の髪をふりみだした山姥に襲われた夢を見た。周囲にあまた人がいるなかで、山姥にひるんでいないわたしに眼をつけて、憎らしげに襲いかかってくる。衣服に手をかけられそうになれば、さすがに身をひるがえすわけだが、そのとたんに眼が覚めた。
 また、あるときは、こんどは自分が怒りにまかせて、刀剣かなにかで切りつけている、自制を失った夢だ。人ではなく、人でなしの物の怪でも切って捨てようという勢いだ。むしろ、おのれの憤激や怒りのほうが空恐ろしい。いわば修羅の場に身を投じたという思い。覚醒していれば、およそ考えられもせぬ激昂ぶり。憤怒。日頃おのれを抑圧しているのでもあるのだろうか。なにかをなしているのが恐ろしいのではなく、自分の感情の高ぶりにぞっとする。たまらず、夢をふりほどいて眼をさますのだった。
 いる! そんなとき、透明な大蜘蛛がすばらしい速さで、天井ののほうに逃れていくのが見えるのだ。そいつが悪夢の主なのだ。
 藪のなかで巣をかけて、じっと動かない大きな女郎蜘蛛。その暗澹たる孤独を感じぬわけでもなかった。おまえの領分を侵すつもりはない。闇夜に絲をかけていたのはおまえの勝手。わたしこそ、無数の見えない絲にからみつかれて、とらわれた蛾のように身悶えする夜があることを呪うべきなのだ。
P R
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プロフィール
  • ニックネーム:hal2005 天沼春樹 作家・ドイツ文学者 16歳当時の写真です
  • 趣味:
    ・アート-路上観察
    ・写真-廃墟裏庭場末鑑賞
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