遠州幽玄橋紀行 磐城セメント浜松工場専用貨物線 井伊谷川鉄橋
December 12 [Mon], 2011, 22:33
私の探索人生にとって、偉大なる先輩方に近付く為に、どうしても越えなければならない一線があった。
そ ★ れ ★ は、
廃橋を渡る!!
皆様にとっては、「何を今更」とお思いかも知れないが、実際廃橋は渡ったことがあっても、骨組みだけになってしまった橋を私は渡った経験が無い。
ここは一人前になる通過儀式として、早目に体験しておいて損は無いだろう。
と言う訳で、井の国へジャンプ。
今レポートでは、かつて引佐の産業に多大なる功績を残したセメント工場引込線の、廃ガーダー橋を案内したい


磐城セメント浜松工場は、昭和28年7月13日、ここ井伊谷で操業を開始した。
セメント生産能力は月22,000d。
佐久間ダム建設の為に使用されたコンクリートの殆ども、ここで製造されたものらしい。
創業時の固定資産税、法人税、地方税、更に県からの工場誘致条例の補助金までを合わせると、当時の引佐町の税収の約60%を占めていたそうだ。
その一方、24時間フル稼働をした工場の騒音・粉塵が付近の住宅・農地に降り注ぎ、公害問題を起こしている。
昭和38年、住友セメントと名称変更。
そして昭和59年9月に工場が閉鎖されるまで、地域にとって大きな恩恵をもたらした。

以上、磐城セメント浜松工場の歴史を簡単に並べてみた。
そんな歴史を刻んだ磐城セメント浜松工場であるが、
天竜浜名湖鉄道(当時二俣線)の金指駅から、工場までの1.3キロに及ぶ引込線が敷かれていた

現在では軌道跡の多くが道路へと代わってしまったが、途中、この橋桁とトンネル1つが当時の面影を偲ばせている。
今レポート、説明はここまで。
後はただ、つべこべ言わずミッション(=橋を渡れ!)クリアーを目的としたレポートと化す。
廃ものねだりでは珍しい肉体系レポートだ。


ちなみに、まにゃは出番無し。
車でお留守番アルヨ。



周囲を田んぼに囲まれた一角に、この橋は残存する。
聞く話では、国道257号線を走る車からも橋の姿を眺められるらしいが、私は確認していない。
ただ、いざ橋の袂まで近寄ってしまえば、前後に伸びる意味深な砂利道と相俟って、事前情報が無くともここに鉄道が通っていたと薄々悟ることが出来るかも知れない。
それじゃあ、
記念すべき第一歩を刻みにフェンスの向こうへ



しっかりしてらぁ 

私も多くの人が持つ印象と同じものを感じていた。
最近見慣れた林鉄の橋と比較すれば一目瞭然。
コンクリートを積載した列車が行き来したはずである。
それに耐えうる構造となっていて然るべきだろう。


構造は、正式には下路式のプレートガーダー橋と言うのだろうか。
砂利道との高低差を考えれば、かつて橋の前後、築堤となって線路が続いていたと考える。

漢(おとこ)になってやる

超へっぴり腰で前進。
遠州地方、冬の風物詩、からっ風が身体を揺らしに掛かる。
・・・心臓が浮く。
・・・足がすくむ。
2〜3歩で悟る。
「俺向いてないな」
と。

もちろん、端の鉄板を欄干代わりにして(笑)
どんなに錆び付いていても気にしない。
命には換えられず
ただ私が足を乗せる鉄骨と絶妙な距離があって、腕を伸ばせば身体の重心が自然と足下の鉄骨からはみ出してしまう。
川面まで数メートル。
落ちても死ぬとは思わなかったけど、落ちればもう廃橋に足は向かわないと感付いていた。
運が良いことに、両端の鉄板が風除けの壁となって、一時ヒヤリとした風が止んだ。



ゆっくりと。



確実に。

残すところは、あとちょっと。
人と違うことをすれば、もしかしたら新発見あるかなと思ってたけど、
「そんな甘くねぇよ」と罵倒されているようだ。
結局、何も無いし、くまなく探す余裕も無い。
それでも、無駄足に肩を落とすことよりも、自分のしたいと思ったことを完遂したことに、少なからず充実感が漂っていた。

「もう相方はいらないかな。
一人で探索した方が自由が利くし。」

「ハクション
」

で、渡破(とうは)
ふくろはぎ〜足の裏にかけて、筋肉がパンパン。
どうやら気付かないうちに、相当力んでいたみたい。
こちらの岸にも立入禁止用のフェンスが進路を遮っていたけれど、
その先、軌道跡は工場団地へと直線を引いている。
あの工場団地こそが、かつてのセメント工場跡地である。
伝え忘れていたが、橋の通行は往復
を予定。
だって、他の橋へ遠回りするのが面倒だし、、、
帰ろうとした私が最後に見つけたものは、ささやかながら他サイト様ではあまり扱っていないものだった。

拡大

あれは、敷かれていた線路を再利用したものだろうか。

側面に銘板があった。
内容は、
活荷重KS−15支間26,5M右55°
松尾橋梁株式会社大阪工場製作
昭和28年
26,5メートルは橋桁の延長だろうか。
渡り終えるまで5分も掛かってしまったが(笑)、確かにその位の長さだったと思う。
そして昭和28年。
当然の如く、工場の開業年。
50余年の遠い昔。
今尚、どっしりと川に架かる姿に、「良い仕事してますよ、松尾橋梁さん」と呟きたくなった。
詳しくは無いが、橋桁の耐用年数が尽きる時間は、まだまだ先のことのように思う。
多分私の一生が終わる頃にも、赤茶げた身体をこの場所に晒しているのだろう。
私は再び鉄骨を辿って対岸に戻った。
少し梁渡りにも慣れたかな〜★

ま い う 〜
留守番のご褒美。
いなさ乳業のソフトクリーム
は美味しいっす。
チャンチャン
・・・おしまい。

以下は、サービス動画
そ ★ れ ★ は、
廃橋を渡る!!
皆様にとっては、「何を今更」とお思いかも知れないが、実際廃橋は渡ったことがあっても、骨組みだけになってしまった橋を私は渡った経験が無い。
ここは一人前になる通過儀式として、早目に体験しておいて損は無いだろう。
と言う訳で、井の国へジャンプ。
今レポートでは、かつて引佐の産業に多大なる功績を残したセメント工場引込線の、廃ガーダー橋を案内したい



磐城セメント浜松工場は、昭和28年7月13日、ここ井伊谷で操業を開始した。
セメント生産能力は月22,000d。
佐久間ダム建設の為に使用されたコンクリートの殆ども、ここで製造されたものらしい。
創業時の固定資産税、法人税、地方税、更に県からの工場誘致条例の補助金までを合わせると、当時の引佐町の税収の約60%を占めていたそうだ。
その一方、24時間フル稼働をした工場の騒音・粉塵が付近の住宅・農地に降り注ぎ、公害問題を起こしている。
昭和38年、住友セメントと名称変更。
そして昭和59年9月に工場が閉鎖されるまで、地域にとって大きな恩恵をもたらした。

以上、磐城セメント浜松工場の歴史を簡単に並べてみた。
そんな歴史を刻んだ磐城セメント浜松工場であるが、
天竜浜名湖鉄道(当時二俣線)の金指駅から、工場までの1.3キロに及ぶ引込線が敷かれていた


現在では軌道跡の多くが道路へと代わってしまったが、途中、この橋桁とトンネル1つが当時の面影を偲ばせている。
今レポート、説明はここまで。
後はただ、つべこべ言わずミッション(=橋を渡れ!)クリアーを目的としたレポートと化す。
廃ものねだりでは珍しい肉体系レポートだ。


ちなみに、まにゃは出番無し。
車でお留守番アルヨ。



周囲を田んぼに囲まれた一角に、この橋は残存する。
聞く話では、国道257号線を走る車からも橋の姿を眺められるらしいが、私は確認していない。
ただ、いざ橋の袂まで近寄ってしまえば、前後に伸びる意味深な砂利道と相俟って、事前情報が無くともここに鉄道が通っていたと薄々悟ることが出来るかも知れない。
それじゃあ、
記念すべき第一歩を刻みにフェンスの向こうへ




しっかりしてらぁ 

私も多くの人が持つ印象と同じものを感じていた。
最近見慣れた林鉄の橋と比較すれば一目瞭然。
コンクリートを積載した列車が行き来したはずである。
それに耐えうる構造となっていて然るべきだろう。


構造は、正式には下路式のプレートガーダー橋と言うのだろうか。
砂利道との高低差を考えれば、かつて橋の前後、築堤となって線路が続いていたと考える。

漢(おとこ)になってやる


超へっぴり腰で前進。
遠州地方、冬の風物詩、からっ風が身体を揺らしに掛かる。
・・・心臓が浮く。
・・・足がすくむ。
2〜3歩で悟る。
「俺向いてないな」
と。

もちろん、端の鉄板を欄干代わりにして(笑)
どんなに錆び付いていても気にしない。
命には換えられず

ただ私が足を乗せる鉄骨と絶妙な距離があって、腕を伸ばせば身体の重心が自然と足下の鉄骨からはみ出してしまう。
川面まで数メートル。
落ちても死ぬとは思わなかったけど、落ちればもう廃橋に足は向かわないと感付いていた。
運が良いことに、両端の鉄板が風除けの壁となって、一時ヒヤリとした風が止んだ。



ゆっくりと。



確実に。

残すところは、あとちょっと。
人と違うことをすれば、もしかしたら新発見あるかなと思ってたけど、
「そんな甘くねぇよ」と罵倒されているようだ。
結局、何も無いし、くまなく探す余裕も無い。
それでも、無駄足に肩を落とすことよりも、自分のしたいと思ったことを完遂したことに、少なからず充実感が漂っていた。

「もう相方はいらないかな。一人で探索した方が自由が利くし。」

「ハクション
」
で、渡破(とうは)

ふくろはぎ〜足の裏にかけて、筋肉がパンパン。
どうやら気付かないうちに、相当力んでいたみたい。
こちらの岸にも立入禁止用のフェンスが進路を遮っていたけれど、
その先、軌道跡は工場団地へと直線を引いている。
あの工場団地こそが、かつてのセメント工場跡地である。
伝え忘れていたが、橋の通行は往復

を予定。だって、他の橋へ遠回りするのが面倒だし、、、
帰ろうとした私が最後に見つけたものは、ささやかながら他サイト様ではあまり扱っていないものだった。

拡大


あれは、敷かれていた線路を再利用したものだろうか。

側面に銘板があった。
内容は、
活荷重KS−15支間26,5M右55°
松尾橋梁株式会社大阪工場製作
昭和28年
26,5メートルは橋桁の延長だろうか。
渡り終えるまで5分も掛かってしまったが(笑)、確かにその位の長さだったと思う。
そして昭和28年。
当然の如く、工場の開業年。
50余年の遠い昔。
今尚、どっしりと川に架かる姿に、「良い仕事してますよ、松尾橋梁さん」と呟きたくなった。
詳しくは無いが、橋桁の耐用年数が尽きる時間は、まだまだ先のことのように思う。
多分私の一生が終わる頃にも、赤茶げた身体をこの場所に晒しているのだろう。
私は再び鉄骨を辿って対岸に戻った。
少し梁渡りにも慣れたかな〜★

ま い う 〜
留守番のご褒美。
いなさ乳業のソフトクリーム
は美味しいっす。チャンチャン

・・・おしまい。

以下は、サービス動画

- 旧引佐町 |
- URL |
- Comment [2] |














、昨今訪問した際にはキレイに刈り取られていた






























までも・・・




























ワ 



































