ニセモノのヒーローに憧れて。。

September 28 [Wed], 2011, 3:18
前々回の日記で「人類全体に興味がない」と書いたんだけどちょっと違うな。人間ていうものはどんな風にできてて、その心はどういうことを考えてるのかってことはすごく興味ある。ぼくがあまり興味を持てないのは個人に対してなんじゃないかな。その人がまさにその人であるということを軽く見ているのかもしれない。なんでなんやろね。ちょっと苦しいね。ちょっと考えたいことがある。ぼくはなんでぼくに直接関係ない誰かのことを想像して、あれこれ悲観的になることをやめられないんだろう。だいたいこんな内容のコピペがあった。ブッダが乗った客船が沈没しそうになったとする。お年寄り、子ども、病人、いろんな人がいるなかで誰を先に助けるかブッダは答える。「一番近い人から先に助ける」と。実際それが最適解なのかも。例えばまさか日本にいるぼくが世界のどこかで今にも死にそうな人を助けられるわけがない。ぼくにできることといえば、身近な人の話を聞くことぐらいだ。ほんとに。マザーテレサが言ったとされるこんな言葉もある。マザーテレサの言葉。「自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である」「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ」。「日本人は他国のことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」年月来日時に黒柳徹子に放った言葉この理論はいろんな点で優れてる。どこで知ったか忘れたけど、日本のだかだかのとある残念な活動のエピソードがある。日本がほんとにサバンナみたいな何にもないところにある施設を贈った。たしか学校みたいなもんじゃなかったかなしかし、冷暖房やパソコンやなんかの電気設備を備えたその施設はかの地では電力の供給や維持費をまかなうことができずほとんど使用されることもなく廃墟になったという話だ。遠くなればなるほど共有している価値観や習慣やインフラに隔たりが出てくる。自動販売機がなんの疑いもなく置かれている日本と、そんなもの置けばまっさきに破壊されるだけの国が、自動販売機の是非にいて語りあった所で意見が合うわけがない。要するに離れていれば離れているほど、好意がその人にとって「ありがた迷惑」になる可能性が高くなる。で、それは何も日本と日本以外の国だけのあいだの問題ではなくて。友だちとただの知り合いのあいだの問題でもあって、関東と関西のあいだの問題でもあって、10代と20代のあいだの問題でもあって、同業者と他業者のあいだの問題でもある。よそもんが手を貸そうとしてもうまくいかんのだ。それは逆に言うと、困っている人の身近にいる人のほうが、的確に問題を判断して、他者では踏み出しにくいデリケートなところまで干渉できて、困っている人に対して、より満足度の高い解決策を提示できる可能性が高いとも言えると思う。ぼくらが何か困ったことがあったときに、なるべく自分と心的にも物理的にも距離が近い人を頼るのは、そういう理屈を無意識的に知っているからなんじゃないかな。近い人は助けられて、遠い人は助けられないという経験は身の程を知ることにもなる。自分の能力の限界が見えるので、背伸びすることもなくなりそうだ。ぼくたちはメキシコのギャングにむごい殺され方をした人たちを思い悲しむことはできるけど、別にその問題に対して「なにもしてあげられない」と自分で自分を責める必要はないのだ。そんなことはメキシコ政府に対して数億円の寄付ができる孫正義とかでもなきゃ、あるいは国境なき医師団に入るとかじゃないと直接助けにはなれないのかも。だから、ネット上で見ず知らずの誰かが泣いていたとしても、やっぱり自分が「何かできる」と思うのは単に思い込みかもしれない。頼られたときは自分のできる範囲で助けたらいいんじゃないかなあ。だから頼られるということはそれだけで財産なんだと思う。逆に、頼ることができる人もそれだけで美しいんだと思う。さて、ここからはぼくのダークサイド。ぼく自身に関する主観的なお話ぼくは上記のような理屈をなんとなく理解した上で、背伸びをすることがやめられない。ぼくにとって背伸びをすることは、自分のアイデンティティを守ることに相当する。ぼくは自ら偽善者になることをやめられない。ニセモのヒーローに憧れることをやめられない。で、そのことにあまり問題意識を持っていない。理屈と実践はまた別だ。ぼくは身近な人を優先的に背伸びせずに助けようとするよりは、誰にでもおせっかいを焼くことを選んでいる。その理由はまあありがちに過去の傷にあるんだけど、要するに、過去の自分は他人のことなんか何も考えてなくて、ひたすら自分本位に生きてたんだけど、ある時期からそういう過去の自分がすごく嫌いになった。(これ何回も書いてるな)人に対して想像力のない人よりはある人のほうがよっぽどマシであると思った。それがたとえおせっかいだとか杞憂だとしてもだ。車の教習所で習ったことと同じだ。「だろう」運転より「かもしれない運転」を心がけなさいということ。ぼくはいろんな人が心配だ。たぶん大丈夫だろうとはなかなか思えなくなった。考えることをやめたら、ぼくはまたあの大嫌いなあの頃の自分に戻ってしまうかもしれない。それがとても恐ろしい。だからぼくは別に優しいと言われたくて心配をしているのではない。自分がそうしたいのだ。心配するのがたまらなく好きなのである。いや、そうすることを避けられないのだ。実際ぼくのやってることは優しさとはまるで逆だ。ぼくのやってることはヒーローになりたいがために、無理やり弱い人を自分で作り出してるようなもんだ。狂ってる。しかし、そのことが悪いとはどうしても思えない。理屈では冒頭に述べた考え方のほうが望ましい気はする。だからといってぼくのやり方が淘汰されるべきだとも思えない。下のマンガを見てほしい。見れない場合はこっちのアドレスを開いてください。なんちゅー皮肉で悲しいマンガ。いやでもある意味真実ではある。ぼくらには本当に困ってる人の声はいでも届かないし見えにくい。さっき、「助けを求められたら助けてあげればいい」的なことを言ったけど、しばしば本当に危機的な状況にいる人は助けを求めない。ぼくは気丈な「フリをして」ほんとはもう心がボロボロになっている人の可能性をいでも考えている。それはぼくが偉いからじゃない、優しいからじゃない。ぼくはそうしないと自分が嫌いになる。自分を支えていられない。ごめんなさい。どうにか冒頭の理論を地で行く人と話し合いができたらなと思う。お互いがお互いを理解し合えたらなと思う。ぼくには誰も傷ける気はなくて、(たぶん大抵の人はそうだ)でも好意がありがた迷惑になる可能性が多いにある。傷ける気はないという思いは免罪符にならない。それはわかる。ぼくはどうしたらいいのか教えてほしい。誰も傷けたくないから。おせっかいをやめろというなら、その方法と妥当性をぜひとも模索していきたい。ぼくらはもっとお互いに関心を持っていいと思う。壱花花Fine サクラ
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