中世の鹽竈神社

February 09 [Sat], 2013, 14:51
中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈[10]は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。 また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる[11]。加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されている[12]ことからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。
文治6年(1190年)伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。
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