その146 主の祈りA

August 27 [Sun], 2017, 10:30
主の祈りA
「御名があがめられますように。 御国が来ますように。」

マタイの福音書6章9−16節
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

1、私たちの人生は神の栄光を表すためにある。
「御名があがめられますように」という祈りは、「私の人生は、私が誉められたり、私が成功したり、私が野望を実現するためにあるのではありません。父なる神様。私の人生を通して、あなたの名が崇められ、あなたの栄光があらわされますように」と願うことです。私たちは、日常生活の中で、自分の都合、自分の好み、自分の計画、自分の願いを優先させてしまうものです。しかしこの祈りの言葉によって、「いやちょっと待てよ。自分は一体何のために生きているのだっけ?神様のために生きていなければ何をやってもむなしいじゃないか?自分の人生を通して、神様って素晴らしいとみんなが認めてくれなければ、どんなに苦労しても仕方がないじゃないか?」そのように思い出すことが求められているのです。

2、私たちの人生は神様と生きるためにある。
次に「御国を来らせたまえ」を見てみましょう。御国とは神様のおられるところです。神様が臨在されるところです。神様が支配されるところです。「神様がおられるところに自分もいさせてください。」これが、人間の最も切実な願いであり、祈りでなければならないとイエス・キリストは教えられたのです。「私たちをあなたの御国に入れてください」ではなく「あなたの御国をここに来させてください」と祈りなさいとイエス様は言われました。

御国が来るという表現には三つの違う段階があります。

@ 教会が増え広がる。
イエス様の働きは、はまさしく神の国を広める働きでありました。福音が語られ、信じる者が起こされ、神が礼拝されるところ、それがすでに神の国であり、まさにそれは今の教会です。パレスチナの一角で始まったこの神の国は、聖霊の力によって、今でも前進し続けているのです。

A  イエス様が再び来られる。
今は悪魔の抵抗にもかかわらず、世界中で教会が増え広がっていますが、最終的な戦いの終わりは、イエス様が再び地上に帰ってこられるときです。世の人々は世の終わりを恐れますが、私たちは恐れる必要はありません。むしろ、「主よ、早く来てください」というのが私たちの祈りです。イエス様が来られた時にこそ、地上の悪はすべて滅ぼされ、イエス様が支配される、神の国が樹立されます。「御国を来たらせたまえ」という祈りには、そのような壮大な神のご計画の成就を願う願いがあることを覚えましょう。

B  聖霊に満たされる。
神の国が来るということ、神の臨在に入っていくということは、私たちのうちにおられる聖霊が主権をとり、私たちの霊、体、心を支配するということです。「御国を来たらせ給え」という祈りは、三位一体の神の第三位格であられる聖霊に対して、「今ここに来てください。私をとらえてください。私を満たしてください。私のすべてを支配してください」と願うことです。「御国を来たらせたまえ、神の霊に満たしてください。神の霊を実感させてください。神の霊と一緒におらせてください」と願うこと。これこそが、私たちの人生の目的です。

今週の暗証聖句
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。    1コリント10:31

その145 主の祈り@

August 13 [Sun], 2017, 10:30
主の祈り@

マタイの福音書6章9−16節

6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

主の祈りは、最初のクリスチャンたちも、最初の教会で、祈っていたものです。プロテスタントに限らず、カトリックや正教会を含めて、すべてのクリスチャンに、おなじみの祈りですが、イエス様がこのように祈れと言われた以上、何の意味も力もないわけがありません。この祈りには私たちの人生そのものを変えていく大きなパワーが秘められているのです。

主の祈りの目的
1、神と人間の関係を明らかにしている。
この祈りを通して私たちは、神は神であり、人間は人間にすぎないということを告白します。この世界を造られた絶対的な神が存在し、私たちはその方を必要としているということをまず知らなくてはなりません。この主の祈りは、まずそのことを告白することではじまっているわけです。

2、人間の生きる目的を明らかにしている。
「自分は一体どうやって生きていけば良いのか。」それが多くの人の疑問であり、悩みであると思います。イエス様はこの祈りを通して明確に、「人が生きる目的はただ一つ。神様の栄光が、自分の人生の上に表されることだ」と教えておられます。私たちは、この主の祈りを通して、「大切なのは私ではなく神様、あなたです」と日々告白しているのです。

3、人間の幸福の秘訣を明らかにしている。
「どうしたら幸福を手に入れることができるか。」これも多くの人が追い求めていることだと思います。イエス様は主の祈りを通して、私たち人間がどうやったら幸福で満ち足りた人生を送ることができるか教え、それを祈りとして、神様に願うようにと導いておられます。

「天にまします我らの父よ」
この祈りの冒頭の言葉にはどんな意味が込められているのでしょうか。

1、神様は絶対的なかた。
「天におられる」という言葉を通して、私たちの信じている神は、「人間が造った神」ではなく、「人間を創られた神」だと宣言します。神のことばである聖書は、全宇宙を創造されたのは神(God)であることを明確に語っています。イエス様は、私たちが祈る対象は、そのような大きな、全能の神なのだとまず教えられたのです。私たちの祈りを聞いておられる方は、天地を創られた全能の神であることを信じましょう。

2、神様は父なるかた。
「我らの父よ」と、神様は天地万物を創造された絶対的な方であると同時に、お父さんのように、私たちを覚え、愛しておられ、何でも聞いてくださる神様なのだと、イエス・キリストは教えています。「放蕩息子」(ルカ15章)のたとえを通して、イエス様は天の神様は失われた息子の帰りを喜んで迎え入れて下さる父のような存在であると教えられました。人間というのは、いろいろな時に孤独感に襲われることがあります。しかし、自分には帰るべきところがある。恐れないで帰るのであれば、天の父は喜んで自分を迎え入れてくださると、信じることができる人生はなんと素晴らしいものでしょうか。この神様の無限の愛を信じて祈りましょう。

今週の暗証聖句
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
イザヤ 46:4

その144 賢い生き方

August 06 [Sun], 2017, 10:30
賢い生き方 
モーセの生涯@

出エジプト1:1-22
1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。
1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。
1:3 イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。
1:4 ダンとナフタリ。ガドとアシェル。
1:5 ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。
1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。
1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。
1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。
1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 エジプトに移住したヤコブが死に、そしてヨセフも亡くなることで、創世記が終わりました。その後エジプトではヨセフのことを全く知らない王が出てきて、このエジプトに住む、よそ者があまりにも多いことに恐怖を感じるようになりました。王はイスラエル人を「賢く取り扱う」ことにします。
私たちが生きていく上で、賢く生きるというのは当然の願いです。聖書は人間が賢く生きるということは結局どういうことなのか、明らかにしています。

1、王の「賢い生き方」= 人を恐れる=力を使う
 王の行動の根底にはイスラエルに対する恐れがありました。彼はイスラエル人を苦しめることにしました。彼らを苦しめれば、きっと弱くなって、数が減るだろうと考えたのです。しかし「苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がり」、今度はエジプト人全体がイスラエルを恐れるようになりました(12節)。そこで「過酷な労働を課」すことにし、彼らの生活を苦しめました(13-14節)。苦しめれば苦しめるほど、増えるイスラエルに対して、余計に苦しめようとしたわけです。しかし一向に弱まる気配がなく、とうとう最後には「男の子が生まれたらすぐに殺すように」という命令を出します。
このように王は力を行使することが、賢く生きることだと考えていました。自分の力で人を押さえつけて、怖がらせて、支配することが知恵だと考えていたのです。しかし神様の前ではそんな知恵は何の力もないことが、この後明らかになっていきます。

2、助産婦たちの「賢い生き方」=神を恐れる=信仰を使う。
 この助産婦たちは神を恐れることが賢い生き方だと知っていました。当時の人々にとっては王の命令は絶対です。生殺与奪の権威を王は持っていました。それに逆らうことは即ち自分の死を意味していました。しかし彼らは王よりももっと高いところにおられる方を知っていたのです。王の命令ではなく、神を畏れることが、彼らの行動を決定したのです。彼らは果敢に信仰の戦いをして、勝利しました。その結果どうなったでしょうか。「神は彼女たちの家を栄えさせた」(21節)とあります。
 私たちが真に恐れなければならないのは神であり、真に賢い生き方とは信仰を使うことです。

3、真の賢い生き方=神に使われる。
 この二人の信仰による行いが、イスラエル人の命を救い、2章のモーセの誕生につながります。モーセという偉大な指導者が生まれるために、二人の女性の信仰があったこと、神様がこの二人を用いられたことを聖書は明確に記録しているのです。「人を恐れる王」か「神を恐れる普通の人」の生きざまとその結果が対比されています。
 私たちの人生にも本当の「賢い生き方」が必要とされています。そのためには人を恐れるのではなく、神を恐れなければなりません。信仰によって生き、神様の計画のために使っていただくことこそが、「賢い生き方」、「祝福された人生」です。どんな人の人生にもそのような人生の可能性があります。人生の土台を神様に置きましょう。

今週の暗証聖句
【主】を恐れることは知識の初めである。  箴言1:7