その136 絶望から希望へ

April 23 [Sun], 2017, 17:58
絶望から希望へ 

ルカ24:13-35

24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

エルサレムを逃げるように離れ、エマオへの途上にあった二人の弟子は、人生の望みが砕かれ、失望と不安のなかを歩いていました。そこに復活したイエス様が来てくださいました。イエス様と再会したと気付いた彼らは、もう一度エルサレムに戻っていきました。私たちが、希望を失ったり、不安におびえたりするときに、イエス様が何をしてくださるのか思い出しましょう。

復活したイエス・キリストは・・・

1、私たちと一緒に歩いてくださる。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

彼らは一緒に歩いている方が誰であるかは知りませんでした。もちろんイエス様に一緒に歩いてくださるよう求めたわけでもありません。しかし、イエス様は一方的に、失望のどん底にいる彼らに近づいて、一緒に歩いてくださったのです。このことは一体何を意味するのでしょうか。一緒に歩くという行為は、その人の友となり、痛みや苦しみさえも共有するという神様ご自身の決意が表されています。
イエス様は今も、この世界のあらゆる道を歩き、そこにいる私たちの友となってくださり、一緒に歩いてくださるお方なのです。失望のなかにあるときにも、イエス様が一緒にいてくださることを信じましょう。

2、私たちの心を燃やされる。
24:32「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」
よみがえられたイエス様が語りかけ、教えられるのを聞いていたとき、弱虫だった、恐れていた、絶望のどん底だった自分たちの心が燃やされているのをはっきりと感じることができたのです。その後彼らはどうしたでしょうか。もう一度エルサレムに引き返したのです。
彼らは何故心を燃やされたのでしょうか。

24:27イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた。
私たちの持っている信仰は単なる感動とか、感情の上に立っているのではありません。聖書全体が、「イエスは主」、「イエスはキリスト」、「イエスは救い主」であると証言しているのです。そのことを知ったとき、人の心は燃やされ、じっとしていられなくなるのです。新しい人生の生きがいというものを見出すのです。
自分が暗闇の中で一人ぼっちでいるような気がする時、イエス様が近づいて、一緒に歩いてくださっていることを思い出しましょう。イエス様が聖書の言葉を通して、私たちの心を燃やされることを期待しましょう。日々聖書を開き、今日も新しい生きがいを与えてくださいと祈りましょう。

今週の暗証聖句
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
マタイ28:20

その135 イエスの復活

April 16 [Sun], 2017, 16:45
イエスの復活 

ルカ24:1-9
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。

キリスト教にとって、イエスの十字架と復活というのは、車の両輪のようなもので、どちらか一方だけでは成り立ちません。十字架を通ってこその復活ですし、復活があるからこその十字架であると言えます。イエス・キリストの復活にはどのような意味があるのでしょうか?

1、キリストの復活は彼が神であることを証明している。
 古今東西多くの人が、よみがえりの命を夢見ました。「死にたくない。いつまでも生きていたい。」そう願って、ありとあらゆる努力をした英雄もいました。しかし、どんなに大きな権力を持っていても、莫大な富を持っていても、人間は死の前では無力な存在にすぎません。聖書によりますと、イエス・キリストは十字架にかけられるはるか以前から、ご自身が十字架にかけられることと、そして死んだあとによみがえることを予告しておられたのです。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。

どのような偉大な宗教家も、自分の復活について預言した者はいません。そして復活した者もいません。数ある宗教の中でイエス・キリストだけが、ご自分の死と復活を予告され、その通りになったのです。これは、彼が単なる良い教えを説いた宗教家というのではなく、まさしく神の御子であり、死の力をも打ち破る、力と権威を持っておられることの証です。

2、キリストの復活は彼が今も生きて働いていることを表している。
「一度はよみがえったけど、結局はまた死んでしまった」のであれば、今の私たちとは何の関係もなくなるでしょう。しかし聖書によると、イエス・キリストはその後40日間弟子たちと過ごされ、数々のことを教え、多くの人の見ている前で天に昇られました。聖霊という助けぬしを送られ、また再びこの地上に帰って来られることを約束していかれたのです。もし昔いて、今はいない人の宗教であれば、2000年も続いて、しかも未だに世界で成長し続けるはずがありません。何故これほど科学が発達した現代でも、人々は、イエス・キリストに引き付けられるのでしょうか。
今も生きて、働いておられる神、それがイエス・キリストです。

3、キリストの復活は私たちの復活をも約束している。
ロマ4:24私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

聖書は明確に、イエス・キリストが死の力を打ち破って、よみがえったのは、ご自身だけではなく、彼を信じる者すべてが、よみがえりの命を持つためであると証言しています。キリストを信じる者は、かならず永遠の命を持つのです。もう死を恐れることはありません。キリストの復活を信じて、永遠の命を自分のものとしてください。

今週の暗証聖句
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。1コリ15:20

その134 十字架が意味するもの

April 09 [Sun], 2017, 0:49
「十字架が意味するもの」

ルカの福音書22:54-62
22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

 今日はイエス・キリストの十字架に関わった一人の人を追っていきましょう。そしてイースターに向けて心を備え、イエス様の十字架の死と復活の意義を改めて思い、感謝する時としていきたいと思います。今日取り上げる人物は、ペテロです。

十字架が意味するものは…
1、失敗、挫折、恥。
 イエス様の弟子となり、ともに過ごした3年間、輝かしい日々であったに違いありません。一介の田舎町の漁師に過ぎなかったペテロが、大衆に人気があり、多くの群集を前に教えるイエス様の弟子となったのです。彼には自尊心があったことでしょう。しかし、そんな彼の自尊心はイエス様の十字架によって、こなごなに打ち砕かれたのです。
イエス様の十字架は、ペテロにとって失敗、挫折、恥の象徴となりました。私たちにも、同じようなことが起こります。あるときは失敗し、あるときは挫折し、あるときは恥ずかしい思いをします。
しかしそのような私たちの苦しみ、悲しみ、悔しさを、全部背負ってイエス様は十字架へと進んでくださったのです。この受難の週、私たちのために苦しんでくださったイエス様の苦しみの十字架を思いましょう。

2、罪と罰。
 ペテロと目を合わせた後、イエス様は十字架刑に連れていかれたわけですが、ペテロの痛みも、その後何時間も続くことになります。「自分は何て弱虫なんだ。卑怯なんだ。卑劣なんだ。罪深いんだ。」そんなふうに、自分を責める気持ちを強く持ち続けたのではないかと思います。イエス様の十字架は、まさに、ペテロにとって、イエス様ではなく自分自身の罪の象徴、そしてイエス様にではなく自分自身に対する罰の象徴となったのです。
私たち自身の心にも、同じ性質があります。自分さえよければ。自分を護るためには他の人はどうなっても構わない。そういう人間の汚い心が、今でも「イエスを十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいるのです。私たち人間皆がイエス様を十字架に追いやったのと、聖書は教えているのです。

3.愛。
 確かにイエス様を十字架に架けて殺したのは、私たちの罪です。自分さえよければ良いという汚い心です。しかしイエス様は、そんな私たちの弱さ、汚さ、情けなさをすべてご存知なのです。そしてそれでも、この地上の世界で、愛を広めろと使命を与えられるのです。自分を裏切ると知っておられながら、なおイエスさまは、ペテロのために祈り、そればかりでなく、後で他の人を励ますようにと託されたのです。十字架が意味するところは、この十字架は私の罪のためだったという事実の上に、主はもう私を赦し、使命を託されているのだというメッセージです。愛のない世界に、神の愛を伝えるように。「自分は汚れている」と思い、苦しんでいる人に、神の赦しを伝えるように。「赦すことはできない」、と心縛られている憎しみの世界に、互いに赦し合い、愛し合うことを促すようにと、私たちの教会に使命を与えておられるのです。この受難週のはじめの朝、あなたの心に何があるのか自分を見つめてください。

今週の暗証聖句
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
Tペテロ 2:24

その133 人生の価値

April 02 [Sun], 2017, 21:11
「人生の価値」
イエスのたとえ30

マタイの福音書20:1-16
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 イエスはこの後、十字架の苦しみを受けるために、エルサレムへと向かいますが、弟子たちにこの「天の御国」のたとえを教えられました。朝早くから一日中働いた人と、夕方5時から1時間だけ働いた人の労賃が同じだったというこのたとえ話は、私たちに何を教えているのでしょうか?

1、行いではなく恵み。
 20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

神の国は私たち人間が何をしたかによるのではなく、一方的な神の恵みによって入ることができるということが教えられています。朝早くに声をかけられた人、12時と3時に呼ばれた人、そして5時に呼ばれた人、皆主人に声をかけられなければ働くことができなかった人です。誰が選ばれ、誰が与えられるかという主権はただ神様にあり、人間には何も付け加える力も権利もないのです。そして神様はどんな人にも等しく恵みを与えられます。それが神様ご自身の御心だからです。
このたとえを読むと、私たちは自分を「朝早くから働いた者」と想定し、だから「5時から働いた者が同じ賃金なんて不公平だ」と思ってしまいがちです。しかし自分こそが「5時から呼ばれて、1日分の賃金を貰った者」と考えたらどうでしょうか?「何と気前の良い主人だ」と思うことでしょう。神様は恵みによって私たちに声をかけ、ご自身の国に招いてくださいました。感謝しましょう。

2、人間をしばるもの。
 このたとえはまた、私たちが日ごろ何に縛られて生きているかを気付かせてくれます。私たちは世の価値観に縛られているのです。労働時間や成果にとらわれ、人と自分を比べることにとらわれています。神様から与えられた日々のなかで、与えられた仕事をし、与えられた食物で生きるだけで十分幸せなはずです。しかし私たちは人と自分を比べ、人よりも多くのものを持つと誇り、少ないと妬む弱さを持っています。あるいは人と同じことができないことに、劣等感を抱いてしまうかもしれません。そのような人生には心の底からわきあがる喜びがみられなくなってしまうことでしょう。聖書はその原因を罪であると教えているのです。

3.何が大切か。
 私たちにとって大切なことは、私たちを創り、愛してくださる神様の声に気付き、その方のところに帰っていくことです。神様は人生の目的を知らずにさまよっている私たちに声をかけてくださいます。そして私たちの能力、働き、容姿、所有物などには一切関係なく、人生に目的を与え、豊かな対価(永遠のいのち)を与えてくださいます。そこに人生の価値があるのです。この世の価値観に流されることなく、まっすぐに神様をみつめましょう。そして一日、一日を神様と一緒に生きていきましょう。

今週の暗証聖句
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。  マタイ 6:34