その130 赦されるとは

February 25 [Sat], 2017, 16:27
「赦されるとは」

ルカの福音書7:36-50

7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 イエスがパリサイ人シモンに食事に招かれたとき、イエスの足を涙でぬぐい、香油を塗った「罪深い」女性がいました。イエスはパリサイ人の心を見抜き、たとえを使って「赦される」とはどういうことなのかを教えられました。

1、背負いきれない苦しみがあることを知っている。
 イエスはたとえを話されます。1デナリは当時の一日分の労賃、仮に1万円としましょう。ある人は50万円、ある人は500万円借金していたが、二人ともその借金を免除されたというのです。「さてどちらが赦した金貸しをよけいに愛するだろうか」とイエスはシモンに尋ねます。「多く赦されたほうだと思います」とシモンは答えるのです。
 聖書ではよく私たちの罪のことを借金に例えられます。私たちは神様に負債があるというのです。ここでイエスが教えられたことは、この神様に対する罪という借金が、人によって大小、軽重があるということではありません。皆誰一人の例外もなく、神様に対する背負いきれない借金があり、その罪に苦しんで生きているのです。問題はこの女性のようにそれを自覚しているのか、それともこのパリサイ人のように、人と自分を比べて、「自分は大丈夫だ。あの人に比べればましだ」というふうに考えて生きているかということなのです。

2、代わりに背負ってくれる存在があることを喜ぶ。
 この「罪深い」女性は、イエス・キリストが自分の全存在を受け止め、自分の罪の重荷を代わりに背負ってくださる方だということを知ることができました。だから嬉しくて、自分ができる最高の表現として、自分の涙で足をぬらし、高価な油を塗り、髪の毛でぬぐうことによって、精一杯の感謝の喜びを示そうとしたのです。しかしパリサイ人シモンのほうは、自分が抱える重荷にはまったく気づくことなく、「もしイエスが本物の預言者であれば、自分に触っている女がどんなに罪深い者が分かるはずだ」と考えます。そのような人の心は決して軽くなることなく、赦される喜びを実感することもありません。

3.「もう背負わなくても良い」と言ってもらう。
 イエスはこの女性に「あなたの罪は赦されています」と言われ、最後には「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と宣言されました。人から非難され、批判され、人の目を恐れて生きてきた彼女は背負いきれなかった苦しみをすべておろし、完全に恐れから解放されて生きる、新しい人生をはじめることができたのです。このように罪の赦しを宣言する権威を持っておられる方は、イエス・キリストの他はおられません。
 自分にも背負いきれない苦しみがあることに気付き、イエスがそれを代わりに背負ってくださることを知り、赦しを宣言される方は幸いです。すべての人にその資格があります。問題は自分の本当の姿に気付くかどうかです。
 キリストの赦しを体験していない方がおられるなら、是非それを今日受け取りましょう。また問題、苦しみのある方は、今日も代わりに背負わってくださるイエス様のところに持っていきましょう。

今週の暗証聖句
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。                  マタイ11:28

その129 二つの道

February 18 [Sat], 2017, 21:07
二つの道 

ルカ23:32-43

23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

イエス・キリストが十字架に架けられるシーンです。十字架刑とは、当時のローマ帝国で行われていた最も残酷で厳しい処刑方法でした。実はその時、イエス・キリストの他にも2人の犯罪人が一緒に十字架に架けられていました。そのうちの一人は、死の直前にイエス様から天国への約束を受け取ったのでした。その鍵は何だったのでしょうか?

1、自分の罪を認める。
この犯罪人は自分の罪を認めていました。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言っています。このように言うことは当たり前のことでしょうか。いいえ、人間の本質がそうではないことはもう一人の姿を見ればあきらかです。もう一人の犯罪人は苦し紛れに、自分が悪いことをした報いを受けていることを認められないで、イエス様に「お前はキリストなんだろう。それなら、今すぐ俺たちを助け出せ」と言っています。
罪とは本来は、何かの行動ではなく、状態を表す言葉です。私たちを造り、愛してくださっている神様に背を向けて自分勝手に生きる状態のことを言います。「神なんていない。」「神なんかに頼らなくても生きていける」。そのような傲慢な心を、罪といいます。そしてその傲慢な心が、心のなかの思いとなり、また行動となって色々なところに出てきてしまうのです。この罪の問題を解決することなしに、人間の人生に、本当の意味での平和はやってこないのです。

2、イエスを救い主と認める。
この犯罪人はさらに続けます。「イエスさま。あなたの御位にお着きになるときには、私を思い出してください。」この言葉はイエスがただの人間ではない。これから死んでいくただの善人でもない。イエスは神の子であり、永遠の命を支配する権威を持っているということを認めたということを表しています。
この朝、神様はここにいる皆に同じ質問を投げかけておられます。「あなたはイエスを誰だと思いますか」偉い人だったかもしれないけど、自分の人生には関係ない人だと思うでしょうか。それとも、自分の人生を変える力を持っている人だ、ということを認めるでしょうか。

3、イエスに求める。
もう一度この犯罪人の言葉を見て見ましょう。「イエスさま。あなたの御位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼はきっと、私も救ってくださいなどということでさえ、はばかれたのだと思います。そんなことをお願いする価値も自分にはない。でも、せめて私を思い出してください、と謙虚な心で求めることができたのです。それはもう一人の犯罪人の「お前はキリストだろう。今自分と俺たちを救え」と言った態度とは全く違うものです。
その言葉に対してイエス・キリストは「あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいます」と宣言されたのでした。これが人生最後の大逆転となりました。犯罪人として死刑になって終るという生涯が、イエス・キリストと一緒に天国に行くことができるという永遠のスタートを切ることができたのです。
今私たちの前にも二つの道があります。狭くても永遠の命に向かう道を選び、歩みましょう。

今週の暗証聖句
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。  1ヨハネ3:16

その128 神が味方なら

February 11 [Sat], 2017, 23:53
神が味方なら 

創世記41:1-44
釈放された囚人仲間の夢を解き明かしたヨセフですが、その後2年間忘れられてしまい、牢獄で暮らすことになりました。しかしエジプト王の見た夢をきっかけに、牢から出ることができたばかりか、総理大臣の地位を与えられました。

1、神は忘れない。
 兄弟たちに売られ、ポティファルの妻に偽証され、無実の罪で牢屋に入ることになったヨセフは、さらに助けた人からも忘れられるという体験をしました。彼は牢屋のなかで、自分は誰からも忘れられた存在だと感じたかもしれません。もしかしたら神様からさえも、忘れられのかもしれないと思うこともあったでしょう。しかし神様はヨセフを決して忘れてはいなかったのです。神様はヨセフを最も効果的な、一番良いタイミングでエジプト王に出会わせ、家族を救うという道を開かせたのでした。
 私たちも困難なとき、苦しみのときに、孤独を感じ、自分が誰からも忘れられているような気がしたり、神様でさえも、遠く離れて、自分のことを見てくれていないような気がしたりすることもあるかもしれません。でも、神様は決して私たちを忘れるようなことはなさらないのです。いつも私たちから離れず、味方となってくださっています。

2、神は知恵深い。
 パロは自分の見た夢を解き明かすことのできる人を求め、国中から「すべての知恵ある者たちを呼び寄せ」ました。しかし誰一人として、それができる人はいなかったのです(8節)。人間の知恵では解決できないこと、限界があることが分かります。それに対して呼び出されたヨセフは「私ではありません。神が…知らせてくださるのです」(16節)と、自分ではなく、神様がなさると宣言しました。人間の知恵には限りがあり、本当の意味で救いとはなりませんが、神様の知恵は無限です。
箴 9:10 【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
私たちは近視眼的で、目先のことに一喜一憂し、将来を見通すことができません。しかし神様を味方とするならば、神様の知恵によって生きることができます。鍵は「私ではありません。神です」と言ったヨセフの謙遜さです。

3、神様が実現する。
 結局のところ、長く沈黙されているようにみえた神様のご計画が突如としてヨセフの人生に表され、完成されていきました。このヨセフの生涯は間違いなく、神様を信じていれば最初から最後まで何の苦しみもない人生が待っていますとは教えていません。そうではなく、神様とともに生きる人生には苦しみにさえも意味がある、一時的に不愉快な、困難な時を通らされたとしても、すべてのことが後の良いことのために準備されているということを知るのです。私たちの中にも過去に困難なところを通った方がおられると思いますし、今通らされている方もいるかもしれませんし、また将来、どんな困難が待っているかも分かりません。しかし忘れてはならないのは、神様の時がある。神様の計画がある。苦しみさえも何かの意味があるということです。このことを覚えていきましょう。

今週の暗証聖句
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
ローマ8:31

その127 完成

February 10 [Fri], 2017, 15:34
「完成」

ヨハネの黙示録 22章1−7節

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

 キリスト教の最終的な「救い」は神様が新しい天と地を再創造されるときに完成します。

1、罪・悪が清算される。
 「神が愛なら何故この世界には殺人や戦争がなくならないのか?苦しみがあるのか?」そのように考える人もいます。この世界がもし、これからも永遠にこのままであるなら、確かにその通りです。何の希望も持つことはできません。しかしそうではありません。この世界の苦しみの原因は創造主である神と離れている罪です。神はいつまでもこの問題をほうってはおかれません。いつか罪と悪を裁き、ご自身の御業を完成されます。
 いま私たちが生きている時代は、神が最終的な解決をされる直前です。神は私たちを愛するがゆえに、その日を遅らせ、一人でも多くの人がキリストによる神との関係回復を果たし、永遠のいのちを受け取るようにと待っておられるのです。

2、新しい天地が創られる。
 神は終わりの日に罪・悪をすべて裁かれますが、それで終わりではありません。その後で、神は新しい天と地を再創造されます。今の宇宙はすべて消え去り、新しい地に神と「いのちの書」に名前が記されている人が住むようになります。神の民はみな、実際に目で見え、手で触れることのできる新しい肉体が与えられます。その身体はもう二度と、病気も老いも死も体験することはありません。聖書には、そこには涙もなく、悲しみも苦しみもないと書かれています。繰り返しますが、今のこの世界は罪によってゆがめられ、あらゆるものが不完全で、悪が満ちていますが、罪のない世界には何の痛みもないのです。これが信仰者の最終的かつ究極的な希望です。
 神様は私たちがその素晴らしい世界に入るように願っておられるのです。

3、信仰が鍵。
私たちがこの新しい世界で永遠に生きる鍵は一つだけです。今というこのときに、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の霊を受け取るのです。そうすれば、今の一時的な肉体が滅びても、霊と魂は神のところに帰り、来るべき新しい世界で永遠に滅びることのない新しい身体が与えられ、神とともに生きることになります。
私たちは生きているうちに、永遠をどこで過ごすかを決めなければなりません。神は今も、この聖書を通して、語ってくださっています。「帰っておいでよ」と。神の望みと願いは、私たちを裁き、地獄に落とすことではありません。ともに一緒に生きる者になって欲しいのです。私たちが地獄行きを回避する方法は一つしかありません。このキリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架に架ってくださったこと。そして3日目によみがえってくださったことを信じる信仰だけです。「信じるだけで良い」というこの神の偉大な愛に気付いて、「帰っておいでよ」という声に応えましょう。

今週の暗証聖句
また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。 ヨハネの黙示録21:3−4