その113 過去からの解放

July 23 [Sat], 2016, 23:37
過去からの解放

ヨハネ4:1−26
4:1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、
4:2 ──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

人間を縛り付けるものの一つは過去です。すべからく人間というものは、過去を背負って生きているものです。良い思い出もあれば、悪い思い出もあるでしょうが、この過去によって、思いも行動も縛り付けられている人が多いのです。
このサマリヤの女性もそんな一人でした。彼女の人生全体に過去が重くのしかかり、将来に対する希望も見出せなくなっていたのです。

1、問題は私たち自身の飢え渇きにある。
 イエス様はこの女性の根本的な問題は、喉が渇くことではなく、心の飢え渇きだということを見抜いていました。彼女は心の底から愛を求めていました。誰か自分を愛してくれる人、自分を無条件で受け入れてくれる人、自分のすべてを理解してくれる人を求めていたのです。
私たちの身の回りでも、心が飢え渇き、本当の命、本当の安らぎを求めて、多くの人がさまよっています。しかし神によって造られた人間は、その神のもとに帰る以外に、本当の命の水を手に入れることはできないのだと聖書は教えているのです。これが聖書を教える罪です。罪とは人間のすべての苦しみの原因です。

2、イエス・キリストは人間の飢え渇きを癒すことができる。
 イエス様はこのサマリヤの女に「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われました。これは人間本来が求めている、永遠の命への飢え渇き、自分が何者で、どこから来てどこに行くのかという存在そのものへの答が、イエス様ご自身にあるのですよということなのです。
イエス・キリストは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。ヨハネ7:37-8」
イエス様はあのサマリヤの女に声をかけられたように、今日ここにいる私たち一人ひとりにも、「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」と呼んでくださっています。世の何ものも与えることのできない、平安、喜び、いのち、生き甲斐、力、解放を、私があなたに与えますと言ってくださっているのです。

3、私たちは過去から解放される。
このやりとりをイエス様と交わした女はすぐにそれまで思っても見なかった行動に出ます。今まで人と顔を合わせないように避けて生活してきた彼女が、町へ行って人々にイエス様のことを知らせるのです。そしてその彼女の証言によって、多くの人がまたイエス様を信じたと書かれています。過去の鎖を断ち切られた女性が、また多くの人を解放する働きに用いられたのです。
私たちを新しくする神、私たちに尽きることのない命の水を与えてくださる神、私たちを縛り付ける鎖を解き放ち、自由にする神、それが救い主イエス・キリストです。

今週の暗証聖句
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリ5:17

その112 選びの謎

July 16 [Sat], 2016, 10:22
選びの謎 

創世記48:1-21

48:1 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。
48:2 ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。
48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、
48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』
48:5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。
48:6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。
48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」
48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」
48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう」と言った。
48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。
48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」
48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。
48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。
48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。
48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。
48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」
48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」
48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」
48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。
48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。

高齢となり病を患う父ヤコブを見舞うため、ヨセフは2人の息子を連れて訪ねます。そこでヤコブは、子どもたちのために祝福の祈りを捧げます。彼の生涯の終わりをみながら、信仰者の歩みを学んでまいりましょう。

1、なぜ選ばれたのか分からない。
 ヨセフはヤコブが祈りやすいように、長子のマナセを彼の右手側に立たせ、次男のエフライムを左手側に立たせました。右手のほうに力があり、マナセに右の手を置いて祈って欲しいと考えたからです。しかしヤコブはわざわざ手を交差させて、右手をエフライムの上に、左手をマナセの上に置いて祈りました。これは決して彼の好みとか希望ではなく、霊によって悟らされたことなのでしょうが、私たちには不思議に思えます。考えてみれば、ヤコブ自身が何故神に祝福される者として選ばれたのか、人間の基準で考えても分かりません。それはただ「神の選び」であったとしか言いようのないものなのです。
 私たちも同じです。自分の資質や行いをもって、「だから神様は私を救ってくださったのですよね」と言えるものは全くありません。「選びの謎」としか言いようのないものなのです。だからこそ私たちは謙遜になることができ、感謝することができるのです。

2、結果をいつ見られるのか分からない。
 神様から「あなたの子孫は地のちりのように多くなり…祝福される(創28:14)」と約束されたヤコブですが、この死の間際の時点で彼の一族は70人ほどでした。イスラエルが国として存在するようになるのは、これから何百年も後のことです。つまりヤコブが存命中には神様の約束すべてが実現することを見ることができなかったわけです。
 私たち人間が地上で生きる時間は短く、神様の約束やご計画がなされることを、すべて見極めることはできないでしょう。しかし信仰とは「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。私たちの信仰には忍耐して希望を失わないという姿勢が求められるのです。

3、羊飼いなる神に従うしかない。
ヤコブはここで「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」と告白しています。紆余曲折の人生を振り返りながら、「自分の人生を導いてくださったのは神様だ」と宣言ことができたのです。
 私たちの人生には、分からない事、見ることができないものがたくさんあります。焦ったり、不安になったりすることもあるでしょう。しかしその中で、選んで声をかけてくださった神を信じて、毎日その声を聴いて、一歩一歩したがってゆく、ということが必要となります。それが最も安全で確実な人生なのです。生涯の最後まで、良き羊飼いである主を信じて、従ってまいりましょう。

今週の暗証聖句
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネ10:11

その111 死後の報い

July 09 [Sat], 2016, 11:56
「死後の報い」 イエスのたとえ25
ルカの福音書16:19-31

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 誰にとっても「死」は怖いもの、不吉なものでしょう。しかし誰1人として避けることのできないものでもあります。古いラテン語の格言に、“メメント・モリ(memento mori.)”というものがあります。これは「死を忘れるな」「死を想え」という意味の言葉です。「死」に真剣に向き合ってこそ、今の「生」を良いものにすることができるのではないでしょうか。

1、死後の世界はある。
キリストはこのたとえ話によって、死後の世界は明確に存在することを教えています。つまり肉体は滅びても、私たちの意識はある場所で継続されるようです。それも2つの世界があるようで、1つは安らぎの場所、もう1つは熱く、苦しい場所だと表現されています。勿論キリストが来世に触れた言葉は至るところにあり、彼が人々に地上の命だけではなく、死後の命のことを教えようとされたことは明白です。

2、どこに行くかは生きているうちに決まる。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

死後の2つの場所を行き来することはできないと教えられています。つまりどちらに行くかはこの地上での生涯のうちに決定されるということです。
このたとえのクライマックスはその後の金持ちとアブラハムの会話です。ラザロを今生きている兄弟のところに送り、
自分と同じ場所に来ないようにして欲しいというのです。アブラハムの答は16:31 『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」でした。

3、キリストに希望がある。
しかし結果的に死からよみがえってメッセージを語った方がおられました。それがキリストです。キリストの復活こそが私たちに希望を与えます。

@ 罪に打ち勝つ希望。
聖書は明確に死とは罪に対する罰であると教えています。しかしキリストが私たちの身代わりとなって十字架で罰を受けてくださったゆえに、神は信じる私たちを受け入れてくださるのです。もう罪に苦しめられることはありません。

A 再会の希望。
私たちは先に肉体を離れて神のもとに帰られた先人たちと再会することができるという希望が与えられました。地上での別れは寂しく、辛いものですが、信仰を持って生きた人と必ず天の御国で再び会うことができるのです。

B 報いの希望。
私たちは人生をときに不公平に感じることがあります。しかし神はすべてを見ておられ、すべてに公平な方です。地上で労苦して信仰を護る者には、必ず大きな報いがあると聖書を通して約束されているのです。
混沌とした世界、行き止まりしかないように見える人生に希望があるのです。この希望を抱いて、力強く生きていきましょう。

今週の暗証聖句
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。   マタイ16:26

その110 あなたも招かれています

July 02 [Sat], 2016, 21:22
あなたも呼ばれています

コリント人への手紙第一12:12-27
 
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 教会とはギリシャ語で「召された者の集まり」という意味です。神様から声をかけられ、招かれない限り教会に来ることはできないのです。神様は何のために私たちを呼んでくださっているのでしょうか。

1、キリストのからだの一部となるように
 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1:23

聖書は教会のことを「キリストのからだ」と呼んでいます。キリストを信じるということは、キリストのからだである教会に所属し、その一部となるということです。私たちはこの世界に生きながらも、目に見えない霊的世界に所属するものとなりました。それは天に帰られているキリストの働きを聖霊とともに継続するためです。キリストを信じる者は、この地上でどんな苦しみにあおうとも、神の護りのなかで歩むことができ、最後に勝利者となるのです。あなたも呼ばれています。神の招きの声に応えましょう。

2、信じる者がひとつとなるように。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。 

教会には色々な人が招かれています。年齢、性別、職業、国籍や言語でさえも違う場合があります。しかし私たちは皆、キリストによって一つとされているのです。世界は今色々な意味で分裂の危機を迎えています。人間の本来の姿は、孤独で、自己中心で、互いに理解し合えない悩みと怒りで満ちているのです。しかし神様は、この世界に教会を建てることによって、人間の力では絶対にできないことをしてくださるのです。それが私たちが信仰と聖霊によって、色々な違いを乗り越えて一つとなることです。教会の一員になることによって人は、所属している安心感、受け入れられている充足感、何かができるという喜びを持つことができるのです。このキリストのからだに、あなたも招かれています。

3、互いにいたわりあうために。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

 人間は罪のために大切なものが見えなくなり、強いこと、たくさん持つこと、高いところに立つことが良いことであり、弱いこと、持てないこと、低いところにいることが悪いことのように考え、そこに争いや憎しみ合いや苦しみが生まれます。しかし教会はそうではありません。皆でいたわりあい、お互いに弱さをカバーしあうために存在しています。そして一人が苦しめば皆で苦しみ、一人が喜べば、皆で喜ぶと教えられています。これはキリストが最後の晩餐の席で弟子たちに命じられたことです。神様は今も十字架を通して、世界のすべての人をこの教会に招いておられます。この神の招く声を聴いたのなら、神の愛の共同体にお入りください。

今週の暗証聖句
「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ13:35