その103 神のとき

April 30 [Sat], 2016, 11:25
神のとき 

創世記33:1-4
33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、
33:2 女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。
33:3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
33:4 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。

20年ぶりの兄エソウとの再会です。あれほどヤコブが恐れていたエソウですが、実際に会ってみると、驚くほどあっけない結末となりました。エソウはヤコブを見ると、攻撃するどころか走って近寄り、首に抱きついて泣いたのです。昔の出来事などすっかり忘れているかのようでした。私たちはここに、色々な「神のとき」があることを教えられます。

1、神の護りがある。
 一見すると、ヤコブの「兄を騙して恨みを買ってしまった」という永年に渡る苦悩や恐れは、ただの取り越し苦労だったように見えます。しかし27章では確かにエソウは「父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してやろう」と言っているのです。このことが、ヤコブが故郷を離れた原因であったので、帰る際にこの兄との再会を恐れることは当然のことでした。このエソウの怒りがいつ、どのようにして溶けたのかは、分かりません。ただ、ヤコブが帰る時期としては相応しいときだったことは確かです。ここに人の心をも変えることのできる神の護りを見ることができます。
 私たちの人生においても、はっきりと神の護りを自覚できるときもあれば、もしかしたら、見えない形で、分からない形で、神様に護られた、あるいは護られている、ということがあるかもしれません。

2、神の赦しがある。
4節の言葉によって、思い出すシーンがあります。それはイエスの「放蕩息子」のたとえです。

ルカ15:20ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

この一見全く違うように見える二つの物語には、@故郷に帰る。A 相手が自分に対して怒っているのではないかと思っている。 Bところが意外にも相手は自分の帰りを喜んで迎えてくれる、などといった共通点が多くあります。このことは、創世記から始まる聖書全体に貫かれている一つのテーマと考えることができます。
 神は戻っていくなら、怒らずに、喜んで迎えてくださいます。「神のとき」に神のもとに帰り、神と和解する者となりましょう。

3、神の和解がある。
もう一つの重要なトピックは「兄弟の和解」です。思い出してください。最初の人アダムとエバによって人類に罪がもたらされた後、最初に起こった悲劇は、兄カインによる弟アベルの殺害でした。以来この創世記では度々兄弟の争いの姿が出てきます。恐れに打ち勝ち、憎しみを乗り越える唯一の方法は、和解をすることだという大きなメッセージもここに込められているのです。

ヤコブが故郷を離れたのも、故郷に戻ったのも「神のとき」でした。この「神のとき」に従うときに、私たちは神の護りを得、赦され、人生の問題に解決が与えられます。まずは神様のもとに帰ることです。そうすればそれからの人生に「神のとき」が与えられます。神様のもとに帰りましょう。

今週の暗証聖句
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。   伝道者の書3:11

その102 勝利の信仰

April 23 [Sat], 2016, 21:08
勝利の信仰 

ヨハネ16:33
16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

聖書は確かに、クリスチャン生活には勝利があるはずだと約束しています。勿論究極的にはこの勝利は死に打ち勝って、天国に行くという勝利ですが、それ以外にも、この地上での旅のなかで、私たち信仰者は、悪に打ち勝ち、この世の価値観に打ち勝ち、主にある尊い生涯、人生を送ることができるようにされているのです。しかしそのことを見逃して、生き生きとした、豊かな、祝福に満ちた信仰生活のチャンスを逃してしまっているクリスチャンが多くいます。

主に選ばれ、救われたクリスチャンとして、勇気をもって、人生に起こる色々な嵐に立ち向かい、すでにイエス様がとられている勝利を、自分のものとするために、歩き続けましょう。

1、健全な自己イメージを持つ。
 自己のイメージとは、結局のところ自分で自分のことをどう思うかということです。もし私たちが、自分のことを何の魅力もない、能力もない人間だと思えば、恐らくそのイメージに従って考えたり、行動したりするようになるでしょう。
神様は私たちに、健全で前向きな自己イメージを持って生きることを望んでおられます。何故なら神様は、私たちを負け犬ではなく、勝利者とするために選び、召してくださったからです。神に愛されている、ありのままの自分を受け入れることから始めましょう。私たちの価値は、この天と地を造られた神によって与えられているからです。誰にもそれを否定することはできません。誰にもその価値を奪うことはできません。神に愛されている自分のイメージを持ちましょう。

2、他人との比較をやめる。
多くの人の苦しみは、人と自分を比べることから起こります。しかしどうか、神様が造られた自分をまず受け入れてください。神様は、同じような人間がうじゃうじゃとどこにでもいるような世界はお造りになりませんでした。一人ひとりに、違う個性を与え、使命を与え、計画を用意しておられます。他の人がどうであれ、あなたも主に愛されている特別な存在です。誰もあなたの代わりはできませんし、あなたも誰の真似もできません。どうか主に造られたそのままのあなたを受け入れて、輝いて生きることを決意しましょう。

3、神の恵みを信じる。
神様から偉大な祝福をたっぷり受け取る自分をイメージしましょう。自分に良いことをしてくださる、良い神様を信じるのです。
心の中に夢や希望が芽生えたとき、あなたは信念を持ってそれを手に入れるために踏み出すでしょうか。それとも「自分には無理だ。力不足だ。できるわけがない」としりごみするでしょうか。
私たちの信じる神様は、常に私たちの人生に新しい、良いものをもたらそうとしておられます。しかし私たちが、それを受け取るために、勇気を出して一歩を踏み出さなければ、それは実現しないのです。
勇気を出して、悪い流れを断ち切りましょう。何もしないうちからあきらめるのではなく、神様の恵みと祝福を積極的に求める者となりましょう。

今週の暗証聖句
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5

その101 神のなさること

April 16 [Sat], 2016, 16:39
「神がなさること」

マタイの福音書13:47−50
13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 このたとえは、マタイの福音書13章に記されている、天の御国について教えている7つのたとえ話の最後のものです。漁をする人が、地引網によって多くの魚を取り、岸に引き上げた後で、良いものと悪いものを選別し、悪いものは捨ててしまいます。

 このたとえ話で使われる登場人物(物)をこのように解釈することができるでしょう。
 漁をする人 = 神様、網 = 教会、海 = 全世界、魚 = 人間

 さあこのたとえ話が教えていることを考えていきましょう。

神様は…
1、教会を宣教に用いる。
 神様は教会という網を用いて、魚、つまり人々を救い上げたいと望んでおられます。ここには「あらゆる種類の魚」と書かれています。ユダヤ人も異邦人もなく、国籍、文化、言語、年齢、性別などあらゆる違いを乗り越えて、教会は世界に出ていって福音を伝えるために存在しているのです。
 私たちの教会が多くの人を救う網として用いられるように願っていきましょう。私たちが置かれている地域を考えることは勿論ですが、海とは「全世界」のことです。常に世界的な視野で宣教を考え、自分たちにできることを喜んでする教会となりましょう。
 
2、宣教の業を終えるときがくる。
この宣教の業は永遠に続くわけではありません。いつか網がいっぱいになり、岸に引き上げられるとき、漁が終わってしまうのです。それがいつなのかは誰も分かりません。神さまがなさることです。漁がおわった後では、引き上げられる魚はありません。それと同じように、終わりの日には教会(クリスチャン)が引き上げられ、聖霊の働きも止んでしまいます。私たちの使命は、この漁が終わるまでに、一人でも多くの人にイエスさまのなされた十字架と復活の業を伝えることです。

3、最後の選別(裁き)をなさる。
 イエスさまは、網の中に入った魚が全て良いものなのではなく、岸で選別され、悪いものは捨てられると警告しています。このたとえ話は、24節以降の「毒麦」のたとえと同じテーマといえます。畑の中には悪い者が蒔いた毒麦も混じっていますが、主は収穫の時までは放って置かれ、最後に毒麦だけを集めて火で焼くと言われました。教会の中に「偽物」が入り込んでくることは避けては通れないということでしょう。「主よ」と叫ぶ者の中には偽クリスチャンがいて、最後の日には主に仕分けられ、永遠の火の中に投げ込まれてしまうのです。単なる見せかけではなく、信仰によってしっかりと神様との絆を持つことが大切であるという私たちに対する警告であると同時に、「偽キリスト」「偽預言者」「偽教師」がはびこる時代にも、しっかりと耐えるようにという励ましでもあります。
 終わりの世にあって、私たちの救い主、キリストだけを見上げて、歩んでいきましょう。

今週の暗証聖句
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
                       マタイ24:14

その100 大丈夫

April 09 [Sat], 2016, 15:07
これで納得、救いの一本道G 「大丈夫」
ローマ人への手紙8:9-11

8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 キリスト教の「救い」とは神との関係の回復です。では神との関係が回復されると、具体的に私たちはどうなるのでしょうか?一言で言うなら「大丈夫」になります。

1、生きても大丈夫。
 それまでどのような人生を歩んでいたとしても、創造主である神との関係が回復された人、つまり神の元に帰ることができた人はその後の人生が大丈夫になります。
@  神と一緒に生きるから。
救いとは心の問題ではなく、霊の問題です。私たちがキリストを
信じ、告白した瞬間、キリストの霊である聖霊が私たちのうちに内住をはじめてくださいます。そしてどんなときにも離れることなく、一緒に生きてくださるのです。

A  神の家族の一員となるから。
キリストはこの地上に教会を建ててくださいました。救われた者は皆、このキリストの体である教会のメンバーとなります。そのなかで私たちは、互いに愛し合い、祈り合い、成長していきます。

B  神が働かれるのを体験できるから。
一緒に生きてくださる神は、私たちの生活のなかで、具体的に働いてくださいます。私たちの霊を回復してくださる聖霊は、心と肉体にも影響を与えられます。

C 苦しみにも意味があることが分かるから。
神によって選ばれ、救われた人の人生は、苦しみでさえ意味あることに変えられます。クリスチャンの人生は、たとえ苦しみ、問題があったとしても、大丈夫になるのです。

2、死んでも大丈夫。
 私たちの肉体はいつかは滅びます。誰でもこの地上での生活を終えるときが来ます。しかしキリストを信じる私たちは大丈夫です。

@  神と一緒に生きるから。
私たちの霊とともにある聖霊は、肉体から離れた私たちの霊と魂を父なる神のもとへと連れていってくださいます。死は私たちにとって「終わり」ではなく、永遠への「入口」となるのです。

A  再会の希望が与えられるから。
私たちはそこでキリストと顔と顔を合わせて語り合うことができるばかりでなく、信仰を持って先に天に帰られた方々とも再会する希望を持っています。

B 永遠の肉体が与えられるから。
私たちは、来るべき新しい天と地において、今度は永遠に朽ちることのない肉体を持って復活することができます。そこには病も老いも、死もありません。キリストがすべてに勝利されたからです。

3、  信仰が鍵。
この「大丈夫」を手にするために、必要なことは一つだけです。
何かの良い行いをする必要はありません。難しい修行をする必要もありません。キリストが私たちの罪のために十字架に架ってくださったこと。そして三日目に死の力を打ち破ってよみがえられたことを信じますと告白して祈るだけで良いのです。そうすれば、この世界のどんな人も、生きている間、そして死んだ後も、永遠の大丈夫を手に入れることができるのです。

今週の暗証聖句
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。1ヨハネ 5:11-12

その99 神と取っ組み合う

April 02 [Sat], 2016, 18:41
神と取っ組み合う 

創世記32:22-32

32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

ラバンの元を離れたヤコブはいよいよ生まれ故郷へと向います。20年ぶりの故郷です。普通であれば、胸がはずむ、わくわくする旅であるはずですが、その故郷が近づけば、近づくほど、ヤコブの心は重く沈んでいきました。何故でしょうか。それは20年前に自分が騙して、祝福を横取りした兄のエサウと再会しなければならなかったからでした。
その前の夜、彼の人生にとって大きな出来事が起こります。そこである人(神の御使い)と夜明けまで格闘するのです。

1、神と向き合う祈り。
 ヤコブは人生の重大な危機である兄エサウとの再会を前に、一晩中神の御使いと格闘するという体験をします。彼はこの時、真に神に向き合い、何らかの答を明確に受け取るまでは、絶対に御使いを去らせるわけにはいかないと考えました。
私たちの人生にも、このようなことが起こります。神を信じ、神の約束を知っていても、どうしようもなく不安になり、恐れに打ち負かされそうになることがあるのです。そのような時に、どんなに人間の知恵を使って乗り切ろうとしても無駄なことです。自分を愛してくださっていると信じている神に一対一で向き合い、祈りを通して格闘するのです。その時私たちは、本当の意味で、神様を知り、神様の愛を感じることができるでしょう。ヤコブのように「私は顔と顔を合わせて神を見た」と言うことができるほど、祈って神に近づきましょう。

2、自分と向き合う祈り。
この時ヤコブが向き合ったのは、神だけでなく、自分自身でもありました。ヤコブには清算されていない罪、心から拭い去ることのできない過去があったのです。それは兄のエサウを二度までも騙したという過去です。その時はきっと「やった」と思ったことでしょう。しかしそれがヤコブの生涯に暗い影を落とし、彼の人生に苦しみをもたらしました。この時彼は、自分自身の心の中を覗き込み、自分の汚さ、愚かさ、弱さとも向き合うことになるのです。
祈りは神と向き合うだけでなく、ときには自分自身と向き合い、自らの罪深さをまざまざと見せつけられるときとなります。しかしその時にこそ、神の恵みの大きさを体験することができるのです。

3、砕かれる祈り。
25節でヤコブはもものつがいを打たれて、はずされたと書かれています。これはそれまで自分の力を頼りにしていたヤコブが、神様だけに頼らなければならなくなった瞬間でもありました。私たちも神様に砕かれ、降参するような体験が必要です。ここまでは自分の力でやろう、ここから先は神様にお願いしよう。そのような信仰生活から、全く神様に明け渡した人生、神様なしには自分は何も出来ないと自覚して生きる人生へと転換する必要があります。じっくりと神様と向き合い、自分の過去も、現在もそして未来も全て御手に委ねきってしまう。そんな祈りを是非していこうではありませんか。

今週の暗証聖句
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
ガラテヤ 2:20