その83 フルタイムクリスチャン

October 24 [Sat], 2015, 22:00
「フルタイムクリスチャン」
 マタイの福音書6章33節
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。マタイ 6:33

今多くの人が不安を抱え、自分の価値を感じられないで、苦しんで生きています。神様は聖書を通して、私たちに「心配するな!!」と教えておられます。

マタイ6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。

命は食べ物や飲み物より大切、身体は着物よりも大切です。食べ物、飲み物とは、仕事や家庭や、日常生活一般のことです。何時の間にか自分自身を忘れ、振り回されてしまいます。着物とは人から見た自分です。自分の地位や名誉を含めて人からどう思われるかという心配です。私たちはこのような心配を越えて、神さまが約束してくださっていることを思い出さなければなりません。

神の約束
1、私たちは価値がある。

6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

イエス様はここで、目を自分の状況や問題から離して、神様を見るように教えておられます。
「働かない鳥を養う神様を信頼しなさい。」主は私たちに、鳥よりももっとすぐれたものではないかと教えておられます。「着飾ることを知らない花を、美しく創造された神を見なさい。そして神がどう自分を見てくださっているかを知りなさい。」
自分を見るだけでは希望は何一つありません。神を信じない限り、希望はありません。神を信じ、神に従ったときに、人は始めて、生かされていることを体験し、想像もしなかった道が開かれるのです。

2、私たちによくしてくださる。

6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

私たちは、神様に対する正しいイメージを持たなければなりません。神様は良いお方で、私たちに良いことをしてくださる神様です。
神様は私たちに「心配しても無駄だよ。心配しても自分の寿命を一秒でも延ばすことはできないよ。何で心配するの?」と言われます。そして心配することは結局のところ信仰の問題だと教えています。

3、私たちの必要を知っておられる。

6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

「(私たちが)欲しいもの」ではなく「(私たちに)必要なもの」です。私たちの人生のすべてに心を配ってくださる神様を信頼しましょう。
日常生活のあらゆることに心を奪われ、人の目を気にして、不自由な生き方をするのをやめましょう。あれも心配、これも心配では心が窮屈になります。
神様が私たちに望んでいる生き方は、もっと自由で、喜びに溢れた人生です。あなたはすぐれていると言ってくださっているのです。よくしてあげようと約束してくださているのです。そのために目を目先の状況から離して、天の神様を見上げましょう。
天の父は、私たちの必要をすべてご存知なのです。

今週の暗証聖句
しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。
詩篇66:19

その82 一緒に喜んでください

October 17 [Sat], 2015, 11:57
「一緒に喜んでください!!」
ルカの福音書15:8−10

15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 「失われた羊」と「放蕩息子」の間に位置するこのたとえ話も、当時の社会で「罪人」と見られていた人たちと過ごしているイエスを、宗教家たちが批判したことから語られたものです。イエスにとってこの「罪人」たちは「失くした銀貨」なので、探さなければならなかったのです。

1、神の目には失われている。
この章に出てくる羊も銀貨もそして息子も問題はただ一つです。本来あるべき場所にいないということです。羊は羊飼いから離れ、銀貨は失われ、息子は父親から飛び出していきました。羊は危険にさらされ、銀貨は存在価値がなくなり、息子は食べることさえ困難になりました。このままではいけないから問題なのです。
聖書は人間が神から離れている状態を罪と呼んでいます。本来一緒にいるべき神から離れている状態、一緒にいない状態は苦しく、問題のはずなのです。しかし多くの人がそのことに気付かず、自分勝手に生き、そして心の底では苦しんでいるのです。「自分は失われている」、「本来いるべき場所にいない」、このことに気付くことが大切です。

2、神の目には価値がある。
この銀貨は1ドラクメと言って一日分の賃金に相当する額だったそうです。高価には違いありませんが、9節にあるように見つかったからと言って近所中の人に報告して回るほどの価値とは思えません。実は当時は10枚の銀貨を首飾りのようにつなげて身に着けるという習慣があったそうです。だから10枚のうち1枚足りなくても困ったのです。つまり銀貨1枚以上の価値、絶対になくてはならない価値があったのです。
神は私たち一人ひとりをそのように見ておられます。家じゅう探し回ってでも見つけるべき存在。それが私たち人間なのです。
それだけではありません。他の9枚にとってみても、10枚そろってはじめて意味があるということになります。人間同士がつながっていて、一人欠けていてもだめなのだ、全部そろうことを望んでおられるという神の視点がここにあらわれているのです。

3、神は喜ぶ。
探し回って見つかったら近所中に「一緒に喜んでください」と触れ回る。これほどの喜びが神にはあると教えられています。一人の失われていた魂が、神のところに帰ることにはそれほど大きなことなのです。私たちは神を喜ばせることができます。良い行いをするとか、特別なことをすることによってではありません。神に見つけていただくだけで良いのです。私たちを見つけるだけで、天には大きな喜びが起こるのです。キリストはこのように、人が神に見つけられて、神のもとに戻ることを「悔い改め」と呼んでいます。
私たちは神の探す声、呼ぶ声に気付いたのであれば、「はい。ここにいます。あなたのところに帰りたいです」と応えるだけで良いのです。
 キリストは私たちが帰ることができるように、十字架の御業によって神との隔てに橋をかけてくださいました。誰でも十字架を通って父なる神のもとに帰り、豊かないのちをいただくことができます。神の呼びかけに応えましょう。

今週の暗証聖句
わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
エゼキエル 18:23

その81 回復

October 09 [Fri], 2015, 22:30
これで納得、救いの一本道F 「回復」
ルカの福音書15:17-24

15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

 キリスト教の教える「救い」とは何で、そして何からの「救い」なのでしょうか?

1、苦しみではなく罪からの救い。
 仏教の教えによると人間には生・老・病・死をはじめ多くの苦しみ(思うようにならないこと)があり、そこから脱すること(解脱)が「救い」と言えるでしょう。しかしキリスト教の救いはひとつひとつの苦しみではなく、すべての苦しみの原因である罪からの救いです。勿論信仰によって病が癒されることもあるし、生きる苦しみから解放されます。しかし根本的な変化はたとえ苦しみそのものは変わらなかったとしても、苦しみの意味が変えられるというものです。何故なら罪からの救いによって苦しみは力を失うからです。
 もう一つの仏教との違いは、仏教のいう悟りとは基本的に自我の鍛錬(真理の正しい理解や洞察)によって得られるのに対して、キリスト教の救いは自分ではなく一方的な神の恵みから来るということです。神の恵みによって神に近づき、神の愛に気付き、神の憐れみにすがることによってしか、「救い」を得ることはできないのです。
 
2、救いとは神との関係の回復。
 「救われる」とは罪が赦されるだけでなく、もともと人間が持っていた神との関係(絆)が回復されるということです。単に一つひとつの罪が赦されるだけで、神との関係が変わらないのであれば意味がありません。また罪を繰り返してしまう弱さを人間は持っています。神との関係が劇的に変わるからこそ「救われた」と言えるのです。
イエスの「放蕩息子」のたとえはそのことをよく表しています。彼は「我に返」って自分がどこから来たかを思い出し、そこに帰るべきだと気付きました。自分では再び「子」の身分に戻れるとも考えていなかったのに、父は喜んで過去を不問とし、一方的に彼との関係を回復したのです。
 私たちが何をし、どのような状態であったとしても、自分が本来いるべきところから離れてしまっていることに気づき、そこに帰る決心をするならば、父なる神は喜んで迎えてくださり、子として扱ってくださいます。創造主である神との関係回復が「救い」です。

3、十字架しかない。
 私たちが神の愛に気づき、帰ることができる方法は十字架しかありません。御子キリストが私たちの罪のために十字架に架かってくださいました。神はそれほどまでに愛してくださったのです。そして三日目に死の力を破ってよみがえられました。このことをありがたいと思い、信じる決心をするのです。世界中の教会に掲げられている十字架は、世界中の人々に対する「私のところに帰ってきなさい。帰ってくるなら赦すのだよ。また私と父子の関係を持てるのだよ。もう苦しまなくても良いのだよ」という父なる神からのメッセージです。父なる神との絆を回復しましょう。

今週の暗証聖句
私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。ロマ 8:15

その80 疲れる人生と使われる人生

October 03 [Sat], 2015, 21:59
「疲れる人生と使われる人生」
2テモテ4:7-8
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

自分は生きているのか、それとも生かされているのか。この考えの違いは、人生に大きな違いをもたらします。「自分は生きているのではない。神様に生かされているのだ。」そう思って生きる人生は、楽しくて、疲れ知らずです。心の底から湧き上がる喜びがあるからです。その反対に、自分にだけ焦点をあてて、自分のために、自分の力で、自分ひとりで生きていこうとする人生は、疲れるのです。
使命という字は命を使うと書きますが、キリストを信じて、新しい命をいただいた人は、神様に命を使ってもらってこそ、本当の幸せ、生きがいを得ることができるのです。このことを覚えて、神様に使われて生きることを決心しましょう。

神に使われる人生とは…
1、使命に生きる人生。
 パウロは「走るべき道のりを走り終え」と書いています。彼は自分がどこを走っているのか知っていました。その道を、自分が選んだ道なのではなく、神様が自分に与えてくださった道だということを知っていたのです。ではどうやってこれが自分の使命だということが分かるのでしょうか。

使命というのは、幸福と同じで、探し回るものではありません。「今自分の置かれたところで、自分のやるべきことをする。」そうしている中で自覚してゆくものなのではないでしょうか。もう少し言うと、頼まれごとをするということです。不思議なことに、イエス様を信じて、自分中心の生き方から神様中心の生き方に変えようとすると、だんだん人からものを頼まれるようになります。そして愚痴や不平不満を減らして、すべてのことを感謝して生きるようになると、その頼まれ事がどんどん増えていきます。そこに使命感が生まれてくるのです。

2、神と生きる人生。
 あなたがひとたび、イエス様を信じて、心に迎え入れる決心をしたのであれば、イエス様の霊、すなわち聖霊は、あなたの体をご自身の神殿とされ、あなたと一体となって生きられるのです。あなたがどこに行こうと、キリストの霊はともにおられるのです。
そのパウロのうちにおられた同じ霊が、私たち一人ひとりのうちにもおられるということをどうか忘れないでください。

3、ゴールから目を離さない。
 永遠の報いを期待しましょう。パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」と告白しています。彼の目には天国で、イエス様にまみえ、「よくやった。良い忠実な僕だ」と言われる瞬間しか見えなかった。これ以上に欲しいもの、大切なものはないと信じていたのです。
聖書は人生をこのように見なさいと教えている。
@  人生は旅のようなもの。
A  人生は預かりもの。

私たちの生きる本当の目的は、人と比べて多くのものを持つことでも、高いところに立つことでもありません。生きている間に、どう神様に使っていただくかであります。それが本当の幸福であり、信仰の勝利です。

今週の暗証聖句
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』   マタイ 25:23