その79 お父さんが騙された

September 12 [Sat], 2015, 10:38
「お父さんが騙された」  イサクの生涯C

創世記27:31-38 
27:31 彼もまた、おいしい料理をこしらえて、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さんは起きて、子どもの獲物を召し上がることができます。あなたご自身が私を祝福してくださるために。」
27:32 すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」
27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」
27:34 エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」
27:35 父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」
27:36 エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のために祝福を残してはおかれなかったのですか。」
27:37 イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」
27:38 エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。

イサクは年をとり、目が不自由になりました。彼は最後に長男エサウを祝福することとし、彼の好物である肉料理を持ってくるように頼みました。しかしこのことを知った妻リベカは自分の愛する弟のヤコブに祝福を受けさせようとします。イサクはまんまと騙されてしまい、ヤコブに祝福を授けるのです。

1、言葉には力がある。
 現代人の私たちには、イサクやエサウの狼狽と落胆ぶりは不思議に見えます。「ヤコブの祝福は取り消すと言って、同じようにエサウにも祝福を祈ってあげたらいいじゃないか。」と思えます。しかし彼らは一度口から出た言葉(特に神の名によって語った言葉)は取り消すことはできず、また必ずその言葉通りに実現すると考えていたのです。口から出す言葉には力があるからです。多くの人が、口から出す言葉の威力を過小評価していますが、言葉には無限の力が備わっているのです。
聖書はそのことを繰り返し教えています。この世界に何もなかった時に、神様は「光よ、あれ」と言葉を発せられました。すると光が出来たと創世記の最初に記されています。天地創造の始まりです。その後神様はご自身の言葉によって、世界を一つ一つ完成されました。すべてのものが、神様の言葉によって生み出されたのです。そしてその言葉の力が、人間にも備わっているのです。この言葉を人を祝福するために使うのか、それとも呪うために使うのか、私たちはよく考える必要があります。
 
2、神の選びは確かである。
 ここでもう一つ分かることは、神の選びの確かさです。実は弟のヤコブが兄のエサウの上に立つということは彼らの生まれる前からの神の定めだったのです(創25:23)。一見人間同士の悲しい騙し合いのように見えるこのお話しも、神の目から見るならば、ご自身の計画が進んでいることを確認することができるのです。
神は私たちをも同じように選んでくださり、罪を赦し、子どもとしての特権を与えてくださいました。私たち自身には選ばれる理由などないにもかかわらずです。

3、神に感謝し、従おう。
 妻と息子に騙されてしまったように見えるイサクですが、彼の生涯もまた、父アブラハムと同じように、罪や失敗を重ねながらも、神の計画が実現するために用いられた人生でした。神から受けた約束のすべてを見ることはできませんでしたが、そのことを信じて従い通したのです。
 私たちもこの地上での人生を決して順調ではなく、迷ったり、躓いたりしながら歩いていきます。その歩みを確かなものとするのは、「神はこんな罪人の私を選び、呼んでくださった」という信仰だけです。選んだ以上神はあなたの人生にも計画を持っておられ、ご自身の栄光を表したいと望んでおられます。神に従い、この人生を使ってくださることを願っていきましょう。

今週の暗証聖句
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。イザヤ 55:11

その78 足あとを残す旅

September 05 [Sat], 2015, 22:25
「足あとを残す旅」
ピリピ人への手紙 1章20−21節

1:20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。 1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。

パウロは獄中のなかでさえ、自分の命の長さよりも、キリストの栄光が現れることを望みました。「自分が歩んだその人生の足あとが、キリストを表すものであって欲しい。あああの人はキリストと一緒に生きてきた」と、誰もが認めるような足跡を残したいと願ったのです。私たちも良いクリスチャンとしての足あとを残しましょう。私たちの後に続く人たちが、しっかりと私たちの足あとを見て、迷うことなく、歩むことができるように、進んでいこうではありませんか。

1、 イエスと歩く。
私たちの足あとには、誰と歩いたかが表されます。どのような服装だったのか。またどのような歩き方だったのかは、足あとには関係がありません。それと同じように、私たちの家に聖書が置いてあるだとか。日曜日に教会に行っているとか、勿論それも大切なことですが、それだけでは、イエス様と生きていることにはならないのです。むしろ日曜日だけではなく、毎日の生活が大切なのではないでしょうか。
私たちがわざわざ出かけていかなくても、何か特別なことをしなくても、イエス様はいつも私たちのそばにいて下さっているのです。そばにいるだけではありません。私たちの苦しみ、悲しみをすべてご存知で、私にゆだねなさい。そのあなたの重荷を全部代わりに背負ってあげようと言ってくださっているのです。

2、 今日を大切にする。
私たちクリスチャンにとって大切なことは、何を手に入れたか、何を達成したかではなく、どのように生きたのかということです。それはある日ある時のことではなく、今日という日を大切に生きるということです。毎日毎日、良い足あとをしっかりと残していくということです。足あとを残すという作業は毎日の積み重ねです。ですから今日という日を大切に生きましょう。

3、振り返って恵みを数える。
実は足あとというのは、人のためだけにあるのではなく、自分自身のためにもあります。私たちはときには自分の人生を振り返って、これでよかったのか、このまま進んでいいのか、軌道修正をすることができるのです。それが人生の足あとを見ることです。「あの日あの時、神様は私にこんなことをしてくださった。こんな恵みをくださった。こんな助けを用意してくださった。感謝だなあ。ありがたいなあ。」それを一つ一つ積み重ねることが、自分の人生をまっすぐに神様の方向に向けることになるのです。
互いに励ましあい、クリスチャンとして良い証をしていきましょう。そして良い足あとを残していきましょう。
一度しかない人生のなかで、キリストに出会い、何のために生きるか、自分の使命を発見する。どちらに進んだら良いのか教えてもらう。それがどんなに素晴らしい人生であるのか表現しきれません。
恐れないで、心配しないで、この地上での歩みを全うしていきましょう。

今週の暗証聖句
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 マタイ6:34