その68 「ちょっと待って」と言わない

May 30 [Sat], 2015, 17:17
創世記22:1-14
「ちょっと待ってと言わない」イサクA 

22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

イサクがこの時何歳であったのかは分かりません。私達に分かることは少なくともたきぎを背負って山に登れるほどの体力があったということです。一方のアブラハムは100をとうに越えた年齢。イサクが本気で抵抗したら、高齢のアブラハムに押さえつけられるわけがありません。しかしそのような記述は一切なく、イサクはただアブラハムにされるがままに、縛られて、たきぎの上に置かれたのです。ここにイサクの従順さが表わされています。

1、イサクの信仰でもあった。
 この物語はアブラハムだけの信仰ではなく、イサクの信仰のあらわれでもありました。この物語に書かれている、イサクがアブラハムに言ったことはただ一つです。「お父さん。」「何だ。イサク。」「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえにする羊はどこにあるのですか。」「イサクよ。神様ご自身が備えてくださるのだ。」このやりとりの中で、イサクは父アブラハムの信仰と、そして自分が信じなければならないものを確信したのでしょう。つまりイサクはアブラハムの背後におられる神を信じていたのです。だからこそ、アブラハムにされるがままに、縛られ、薪の上に載せられたのです。 
 私たち信仰者の行い一つひとつに神様との個人的関係が必要です。「クリスチャンだから」「教会員だから」ではなく、「私は神様と一緒にいるから」「私は神様に従いたいから」という主体的な信仰を持っていきましょう。

2、神の計画をおしすすめる。
 神の計画は従う者の従順があって初めて実現します。神は12章でアブラハムを召し出して、彼を祝福し、彼が全世界の祝福となることを宣言されました。これは変わることのない神様の約束なのですが、同時に神はここの16節でこのように言っておられます。ここではアブラハムが従ったから、前から約束していたこの約束を改めて、約束しようと言っておられるのです。アブラハムの従順とさらに、イサクの従順が、家族の祝福と、全世界の祝福を成就させたのだと聖書は教えています。
アブラハムとイサクの素直に従う信仰が、やがて世界を変えるような大きな、神様のご計画を推し進めました。私たち一人一人の従順が、やがて、日本を変え、世界を変えるかもしれない。そんな意識を持って、日々の信仰生活を送ってまいりましょう。

3、キリストの姿を表している。
 このイサクの従順はキリストの従順を表わしています。父に黙々と従って、自らが犠牲になりかけたように、キリストも黙々と父なる神に従って、十字架につけられました。
このキリストの従う姿が私達に何をもたらしたのか説明の必要はないと思います。私たちは彼の十字架の贖いを信じるだけで、罪赦され、永遠の命を受け取ることができるのです。これは神様のご計画であり、イエス様の従順が、この神の計画を実現させたのです。私たちもこのキリストの足跡を踏みしめて、歩むように求められています。神様がこの世界を変えてくださるために、私たちがしなければならないことは、ただただ、聞き従うことです。私たちが信仰を持って、「神様ならできる。」そう信じて従うときに、神様の愛のご計画がこの世界に実現します。私達一人一人の人生の中で、このような御業を見ることができるように、日々神様に従ってまいりましょう。

今週の暗証聖句
(キリストは)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。    ピリピ2:8

その67 限界を破る

May 23 [Sat], 2015, 21:57
「限界を破る」 使徒2:1-12

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。

2千年前のこのペンテコステの日、何かが破られました。神はこの日、聖霊によって、限界の壁を破られたのです。聖霊が降ったことによって、弟子たちが持っていた、いや人間全体が持つ、様々な限界が破られました。現代を生きる私たちも、色々な限界を抱えて生きています。「ここから先はもう行けない。これ以上はもうできない」。何故なら限界を感じるからです。しかしこの日聖霊が降ったことによって、限界が吹き飛ばされました。私たちはこの朝、神様を見上げましょう。そして聖霊の力を受けましょう。神様は聖霊によって、私たちの心のなかにある色々な限界を打ち破って、ご自身のご計画を全うしようとされるのです。

1、神との交わりの限界が破られた。
 この当時の人々の宗教観、信仰観では、神は遠く離れている存在でした。彼らの心は、神という存在はただ怖いだけ、遠く離れているだけだったのです。しかしこの日彼ら弟子たちはこの聖霊の体験によって、神を知識だけではなく、体全体で知ることができました。このとき彼らは、「他国の言葉で話しだした」とありますが、まさに頭で賛美したのではなく、うちにある霊によって神を褒め称えたのです。神様との間にあった心のなかの壁が取り除かれたので、自由に、心の底から神様を感じ、崇め、褒め称えていたのです。
皆さんどうか信じてください。神様は今を生きる私たちにも、同じように触れてくださり、この体験をさせてくださるのです。人間が救われ、成長することの最大の障壁は、実は私たちのなかにある先入観なのです。この先入観を取り除いて、神様の前に出ていきましょう。

2、人間同士の心の壁が破られた。
 彼らはここで、コミュニケーションの壁が破られるのを見ました。言語の壁というものを飛び越えて、彼らは一つとなって、神を褒め称えることができたのです。しかし大切なことはそれ以上に弟子たちの心のなかにあった壁が破られたことです。「誰が一番偉いか」が最大の関心であった彼らは、互いに愛し合う神の民へと変えられました。聖霊は、私たちを一つにすることができます。皆が聖霊に満たされるならば、私たちは一つとなって神を礼拝する民となり、偉大な神の御業を体験することができるのです。

3、人間の限界の壁が破られた。
 人間の限界を定めているのは、多くの場合、自分自身です。自分の心のなかに、自分で限界を作っているのです。そしてその自分が作った限界に苦しみ、悩んでいるのです。弟子たちは聖霊によって、人間の限界が破られたのでした。もう弟子たちの心のなかには、「自分には出来ない」という限界の壁はなかったのです。
 神様は今を生きる私たちにも、同じように触れてくださり、この体験をさせてくださいます。そして同じように、私たち一人ひとりを用いて、ご自身の御業を、この地に推し進めようとなさることを望んでおらます。私たちが、求めさえすれば、神様は私たちに触れてくださり、体験させてくださり、大きな御業を、私たちの人生にあらわしてくださるのです。
今私たちは、自分の心を見てみましょう。心のなかにある、色々な壁、限界を、聖霊に取り除いていただきましょう。

今週の暗証聖句
神にとって不可能なことは一つもありません。 ルカ1:37