その64 キリストの苦しみ

March 27 [Fri], 2015, 22:56
キリストの苦しみ ヨハネ19:17-37

19:17 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
19:18 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
19:20 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。
19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。

キリスト教会では次の日曜日から土曜日までを受難週と呼び、特に金曜日を受難日と言います。木曜夜の最後の晩餐の後、イエス様は金曜日の夜明け前に捕らえられ、スピード裁判であっと言う間に判決を受け、鞭でさんざん打たれた後、朝の9時に十字架につけられました。そして午後3時まで十字架の上で苦しまれ、息を引き取られるのです。
このキリストの苦しみの意味を考えていきましょう。

キリストの苦しみは...
1、聖書の約束の実現であった。
イエスとは何者なのかということが多くの人の間で議論されています。ある人は偉大な教師。ある人は愛の教えを説いた宗教家と考えているかもしれません。しかしどちらにせよ、偶然生まれて可哀想な死に方をしただけの人と考えるのは間違いです。
ヨハネは明確に、イエスの苦しみ一つひとつが、実は(旧約)聖書に予め予告されていたことだと書いています。
では一体何のためでしょうか?そのことも聖書にはっきりと書かれています。それは私たち人間一人ひとりの罪のためだったと。神さまは人を愛し、何とか救い出そうと、御子イエス・キリストを地上に人として生まれさせてくださり、定められたときに、十字架で苦しませ、死なせることによって、罪ののろいを断ち切られたのです。
キリストの苦しみは私たちのためだったことを信じましょう。

2、人間の救いの完成であった。
v30 完成した。

私たちが罪赦され、救われるために付け足すものはありません。この十字架の苦しみと死によって、神の救いは完成したのです。
この時神殿の幕が上から真っ二つに裂けたと他の福音書には書かれています。神と人とを隔てる壁は取り除かれ、信仰によって神の御前に出ることができるようになったのです。
この歴史的真理と事実を信じるだけで良いのです。感謝しましょう。

3、目撃者から伝えられている。
v35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。

この目撃者の証言が、2000年間絶えることなくバトンタッチされて、現在に至ります。途中で誰かが作った話ではありません。キリストの苦しみの直接の目撃者からはじまっているのです。
聖書は常に私たち一人ひとりに「あなたは信じるのか?それとも信じないのか?」と問うています。
心からこの恵みのメッセージを受け取り、神様に感謝する者となりましょう。

今週の暗証聖句
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。    1コリント1:18

その63 十字架の目撃者

March 21 [Sat], 2015, 22:39
「十字架の目撃者」 マルコ15:20-22

15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
15:22 そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。

クレネ人シモン
イエス様の十字架を途中から代わりに担いで歩いた人
そしてその後家族ともども信者になったと思われる。彼の姿が私たちに教えていることは何か?

1、キリストとの出会いには様々な形がある。
 シモンは突然イエスの十字架を担いで歩くよう強制されました。まさに振ってわいたような災難だと思ったことでしょう。しかしそのことがキリストとの出会い、教会との出会いとなったのでした。  人間がイエス・キリストと出会う形、それは決して一つではなく、様々であり、その一つ一つが、すべて神様の素晴らしいご配慮によるのです。皆さん一人一人の、このイエス・キリストとの出会いの形は、それぞれ違ったものであるに違いありません。しかし、その形がどうであれ、それは間違いなく神様が深いご配慮のもとに介入された、人生で最大、最高の出会いであったことを知って下さい。神様の赦しなしには、人は誰もイエス・キリストと出会うことはできません。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選・・・んだのです。ヨハネ15:16
これが私たちの喜びの源です。私たちは皆違うけれど、皆神様に知られ、覚えられ、導かれて、キリストと出会い、今はこうして主に人生を明け渡し、主を礼拝する者へと変えられています。この恵みを今日も、そして今週も感謝して、過ごしていきましょう。

2、十字架の意味を知ることがキリストを知ること
シモンはこの時までイエス様のことを何も知りませんでした。自分に降りかかった災難の元凶としか見えなかったことでしょう。しかし彼はきっとイエス様の十字架の姿を見て、何かを知ったのです。シモンは、ただ、十字架につけられ、何時間も苦しみ続ける姿を見ただけです。しかし、十字架につけられたイエス様の姿が、すべてを語っていたのです。十字架の意味が分かった時に、彼はまことの救い主、キリストを知ることができたのでした。
私たちも、もしこの主キリスト・イエスに出会ったというのであれば、彼の十字架の意味を知らなければなりません。イエスのことなら知っているという人はこの世界に多くいると思いますが、イエスの十字架の意味を悟らない限り、本当に知っているとは言えないのです。この朝私たちは、もう一度この悲惨な十字架、苦しみの十字架が、私たちにとってどのような意味を持つのか、噛みしめましょう。

3、十字架を負って歩く幸い
キリストが何者なのか知ったシモンにとって、十字架はもはや呪いの象徴ではありませんでした。十字架は栄光のシンボルとなったのです。苦しみを幸いに変える力が、信仰にはあります。その力の源は十字架です。私たちがこの十字架を厭わずに、背負って、キリストの後に従ってゆくならば、それは勝利の人生になるのです。
これからの生涯、自分も自分なりに、自分の十字架を負って、主に従っていこう、苦しみの先にある、勝利と喜びに満ちた生涯を目指していこう、とこの朝も決断して祈ってまいりましょう。

今週の暗証聖句
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。マタイ16:24

その62 光として生きる

March 07 [Sat], 2015, 10:55
 「光として生きる」 マタイ5:14-16

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

この言葉はイエス様の山の上の説教(5−7章)の始めのほうで語られる言葉です。「世界の光になれ」という命令でも勧めでもありません。「あなたがたは(既に)世界の光です」という宣言です。この言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

1、自分をどう見るか?
 この山の上の説教は「心の貧しい者は幸いです(3節)」と言う言葉から始まります。イエスは続いて「悲しむ者は幸いです」と語ります。弟子たちも一緒にいた群衆も驚いたに違いありません。「貧しい者が(ルカの福音書の同じ部分には「心の」がありません)どうして幸せなんだ(あるいは祝福されているのだ)?悲しんでいる人が幸せなはずないではないか」と。
 イエスはここで、神に愛され、創造された人間が神から見てどれほど価値がある存在か、まず自分を見る目を変えるように迫られます。近視眼的で、悲観的で、否定的な心を変えなければ、神にどれほど愛され、祝福されているかを知ることができないのです。
 私たちがイエス・キリストを信じるときに、聖霊によって神との関係が回復され、それによって、本当の自分を取り戻すことができます。

2、光が主役ではない
 「世界の光」というと、世界中の注目を浴びる人気者になるような印象がありますが、もちろんそのように自分が主役になったり、人から誉められるようになったりするという意味ではありません。続く「山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます」というイエスの言葉がそれを教えています。光は部屋のなか全体を照らし出すことに使命があるのです。太陽の光がなければ私たちは生きていけませんが、太陽をまともに見続ける人はいないでしょう。光の働きはその光によって、見えなかった何かが見えるようになることです。「心の貧しい」「悲しんで」「柔和で」「義に飢え渇いて」(…)いる神と絆を持つ人たちは、その生きざまを通して、周りの人々が「本当に大切なもの」に気付くようにするのです。

3、神の栄光を表す
 そして光の究極的な目的は「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」という言葉に表されます。神につながる者は神とともに歩み、神の栄光をあらわすために生きていきます。「自己中心→神中心」、「自己実現→神実現」、「自己満足→神満足」の生き方です。神から始まり、神に帰るのがこのように出発点と到着点が正しくなると、人間の人生は変えられ、正しい方向に向かって進むことができます。「良い行い」は自分の努力で何かをするということではなく、神さまとのつながりをしっかりと保つということです。
 何気ない日常生活のなかで、周りの人たちに神さまがおられること、信じる者を生かしてくださること、恵みを与えてくださることを表していきましょう。特別なことは必要ありません。神に生かされていることを日々感謝し、聖霊に満たされ、神とともにこの一週間も力強く歩んでいきましょう。
 

今週の暗証聖句
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。       1コリント10:31

その61 いのちを与える神

March 04 [Wed], 2015, 16:42
いのちを与える神  イサク@

創世記21:1-6

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」

アブラハムの生涯を最後まで見ましたが、今回からイサクに焦点をあててもう一度この21章をみてみましょう。父アブラハム、そして息子ヤコブの人生と比べると、イサクの生涯はあまり大きな出来事も少なく、穏やかなものに見えます。しかしよく見ると、イサクの生き様もまた、私たちクリスチャンに如何に生きるべきかを教えるものです。

1、イサクは神の真実証言した。
1節 主は、約束されたとおり…

子を産めるはずもない年齢となったアブラハムとサラの間に生まれたイサクは、その存在(生まれたということを含めた人生)そのものが神を証言するものとなりました。イサクは、神は約束を守られる方であり、御心に適う者を選び、ときには試練を通してその信仰を鍛えつつ、信じる者を助け、必ず祝福を与えてくださる神だということをその生涯を通して宣言したのです。
このイサクの姿は私たち信仰者の姿でもあります。私たちは神の恵みによって選ばれ、信仰(神との個人的つながりを持つこと)によって救われ(大丈夫とされ)ています。私たちの存在そのものが神がおられること、神が働いていること、神が信じる者を祝福してくださるお方であることを宣言するのです。

2、イサクは喜びとなった。
6節 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」

イサクのヘブル語の意味は「彼は笑う」です。17章で神ご自身が指定されました。そして18章でサラが「イサクが生まれる」という約束を笑ったことが、この言葉の伏線となっています。サラはもしかしたらイサクの名を呼ぶたびに過去の自分の不信仰を恥じたかもしれませんが、「神は私を笑われた」というのは決して否定的な意味だけではないでしょう。彼女はイサクの誕生を通して、神は信仰者の不安、恐れ、嘆きというものを喜びに変えてくださるということを体験したのです。

私たちも同じ体験をすることができます。人生は平坦ではなく、神を信じていたとしても、試練が訪れ、不安や恐れを感じることがあるでしょう。神の言葉を握りしめながらも、その実現をなかなか目にすることのできない焦りを感じることもあるでしょう。しかし神は私たちの涙を必ず喜びに変えてくださり、嘆きを笑いに変えてくださるのです。

3、イサクは神のいのちを持っていた。
イサクは神から与えられた命を持って生きた人です。それは単にこの21章で誕生したということだけでなく、次の22章を通して見ることができる象徴としての「復活のいのち」です。イサクの生涯そのものが、神のいのちを持つ者がどのような生き方をするかを表しています。

私たちも今、キリストを通して神との関係を結び直し、聖霊によって神のいのちをいただいている者たちです。人からどのように見られたとしても、神のいのちをうちに持っているのです。

ではこの与えられたいのちをどのように使うでしょうか。それが私たち1人一人に託されている使命です。

今週の暗証聖句
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」ヨハネ11:25-6