その60 神の国に入れる人

January 23 [Fri], 2015, 22:58
「神の国に入る人」 ルカ18:15-27

18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
18:26 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

神の国に入る人は?

1、自分を低くする人。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」ルカ18:16-17
子どものように神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。イエス様が子どもをどのようにご覧になっておられたか一つのヒントがマタイの18章に書かれています。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。マタイ18:4
「自分はできる。自分はやっている。」ではなく、「自分はできない。小さい。」ということを素直に認めることができる子どものような人こそが神の国にふさわしいのです。
一方この金持ちの役人はイエス様に全財産を売り払えと言われたとき、悲しんで帰ることしかできませんでした。彼には「イエス様それはできません。でも哀れんで助けてください」という心がなかったのです。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」ルカ18:27
自分にはできない。でも神様にはできる。このように高ぶりを捨てて、自分を低くすることこそ、神の国に入る条件です。

2、完全に神を信頼する人。
子どもというものは、親に完全に依存し、頼りきります。本来神と私たちの関係はこのようなものです。日頃の心配事を委ねて、神様に頼りきるときに、私たちの心配はなくなります。
ダビデは子どもが母親の前にいるように、神の前にいると告白することができました。その時に心に平安がやってくるのです。
子どものような心で、神様を信頼していきましょう。

3、心砕かれ、悔い改める人。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
マタイ18:4
自分の胸を打ち叩いて祈った収税人のように、心砕かれて、へりくだり、悔い改める人こそが、神の国にふさわしい人です。
「自分はあれもやっている。これもできる」ではなく、自分の罪・汚れを認め、「主よ。哀れんで助けてください」と心の底から叫ぶ人こそが、神の国を受取ることができるのです。
リバイバルも、悔い改めの祈りからはじまります。「人にはできないことが、神にはできる」という告白は、心砕かれた、悔い改めの祈りから生まれるのです。
砕かれた心で、神の国を求めていきましょう。

今週の暗証聖句
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」ルカ18:27

その59 原罪

January 17 [Sat], 2015, 22:03
これで納得!!!救いの一本道C 「原罪」

創世記 3章1−13節
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
 
キリスト教ではよく「人間は皆罪人」などと言われますが、多くの人が「自分は一度も法律違反はしていない。まあどちらかと言えば善良な市民だ。どうして自分も罪人などと言うのか。」そう考えると思います。罪とは何でしょうか?

1、 神から離れている状態が罪(原罪)。
キリスト教の教える罪の大元は行為ではなく、状態です。本来神によって創られ、愛され、神とともに生きるために存在している人間が神から離れている状態を罪(あるいは原罪)と呼んでいるのです。
神は「その木の実をとって食べたら死ぬ」と警告されました。この「死ぬ」という意味は単なる肉体の死だけではなく、神との永遠の命の交わりが断ち切られるということをあらわします。神と人との間に大きな溝ができ、人間は神を直接知ることができず、霊による交流ができなくなってしまいました。

2、 罪がすべての苦しみの原因。
この神から離れた状態から、私たち人間の苦しみや不幸の原因が表れます。

@  互いに裁きあうようになる。
神様が食べてはならないと言われたのは「善悪の知識の木の実」でした。善いことと悪いことが分かることは良いことではないか。そう思いますよね。でもそれは自分を基準として、善悪を判断する。つまり自分中心で周りの人を裁くようになる。自分は善で他人を悪とする。これが人間の根本的な苦しみ、不幸に繋がるのではないかと言うことなのです。考えてみれば、私たちの人間関係の悩みはすべてここから来るのではないでしょうか。

A 恥の意識を持つようになる。
3:7 ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
木の実を食べた2人はどうなったでしょうか。目が開かれて自分たちが裸であることに気がついた。これも一見悪いことのようにも思えません。でも裸であることに気がついたというのは、自分にないものに気づき、自分自身に対して満足できなくなったことを意味します。自分は何てダメな人間だろうというコンプレックスに苦しめられるようになったことを表しているのではないでしょうか。そして自分を取り繕って、人の目をごまかして、生きていかなければならなくなったということです。

B 恐れを持つようになる。
3:10 彼らは恐れて、隠れた。
いつもなら喜んで神様の前に出るところを、神様が怖い。自分の本当の姿を見られたくないと思うようになりました。これも多くの人の苦しみの根本にあるのではないでしょうか。

C 自分を正当化する。
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
「自分のせいじゃない。あいつが悪いんです。」特に12節の男の言葉は、女のせいにすると同時に「神様あなたにも責任があるのではないですか」、と言っているようですね。素直に自分が悪かったと認めたくない。自分を正当化して、何とか他人のせいにしたい。これも人間の苦しみの原因ではないでしょうか。

3、神は人を捜している。
私たちは心の底に、あの2人と同じような問題があるために、苦しみ、傷つき、恐れ、孤独に苦しんでいます。その状態を罪と呼んでいます。しかし神様は私たちを捜してくださっているのです。この神の呼ぶ声に応えることが信仰です。今神の呼びかけを感じるならば、素直に応答しましょう。

今週の暗証聖句
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」   創世記3:9

その58 神の喜びとなる

January 10 [Sat], 2015, 18:13
「神の喜びとなる」
詩篇117:1-2
117:1 すべての国々よ。【主】をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。
117:2 その恵みは私たちに大きく、【主】のまことはとこしえに。ハレルヤ。

117篇は詩篇のなかで最も短い詩ですが、やがて神への賛美が、世界中でなされ、すべての国の人々が神を褒めたたえるとされています。神は特定の国の人ではなく、世界のすべての人々を愛し、命を与えられました。この神の喜びとなることが私たちの使命です。

1、アブラハムの救いはすべての人のためだった。
神は罪にまみれ、混乱した人間の世界から、アブラハムという一人の人物を選び出されました。彼を祖先とするイスラエルの民を通して、聖書が与えられ、キリストが生まれました。
しかしそれは決してイスラエルの民だけを救うということではなかったのです。彼のように、神を信じる者は、どんな国の人であっても、神の民となるためだったのです。

2、聖霊の働きはすべての人のためだった。
キリストが天に帰られた後、聖霊が降りました。この聖霊に満たされた人たちはあらゆる壁を打ち破り、福音を伝え、ユダヤ人以外の異邦人たちも信じるようになりました。
これは人の考え出したことではなく、神の計画です。神は聖霊を通して、すべての国の人をご自身のもとに帰るようにされたのです。

3、ペンテコステ運動はすべての人の救いのためだった。
20世紀初頭にはじまったペンテコステ運動は、そのはじめから多くの国の人たちを引き付けました。彼らが世界に出てゆく前に、聖霊があらゆる国の人たちを集めたのです。そしてそこで聖霊に満たされた人たちが世界に出て行き、今では数億人の人がこの信仰に立っています。

@ 聖霊は私たちを一つにする。
キリストの弟子たちも、アズサのリバイバルに集まった人たちも、皆聖霊によって一つとされました。心にあった隔ての壁を破ったのは、人の力ではなく聖霊の力です。

A  聖霊は人々を引き付ける。
聖霊に満たされた人たちの集団に、人々が引き付けられました。人は神のもとで心をひとつにしているところにいたいと思うものです。

B  聖霊は人々を送り出す。
聖霊に満たされた人たちは、この恵みを自分たちだけのものにしたいとは思わないで、外に出てゆきキリストを伝え始めました。

私たちが今年神様から受けている大いなるチャレンジは、この教会がこの詩篇117篇1節の御言葉通りの教会となることです。世界のあらゆる国の人たちに福音を伝えましょう。そしてすべての国々の、すべての民が、同じ神を礼拝するようになるために、全力を尽くしましょう。
そのために、まずこの教会に多くの国の人たちが集められますように、そして一つの心で神を褒めたたえる礼拝者となることを求めましょう。聖霊に満たされ一つとなり、失われた魂に福音を届けるために、あらゆることをしていきましょう。

今週の暗証聖句
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。        ローマ 4:18

その57 置いてゆくもの、持って帰るもの

January 03 [Sat], 2015, 18:02
マタイ11:28-30
「置いてゆくもの、持って帰るもの」

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

2015年が始まりました。今年もこの教会に来る方々が、日々の生活で抱えている「何か」をこの教会に持ってきて置いて帰り、そして別の「何か」を持って帰ることができるようにと願います。

1、イエス様のところに持ってくるもの。
イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と言われました。私たちは日々の生活のなかで、いつの間にか目的を見失い、疲れてしまいます。そのようなときに行くべきところがある信仰者は幸いです。

A. 罪悪感・後悔
私たちは日々罪を犯し、後悔したり、恥ずかしさを覚えたりしながら生きている存在です。ずっと昔にしてしまった失敗を未だに思い出して心を痛めているという人もいるかもしれません。私は過去に起こったことはもう変えることはできませんが、それを主のもとに持っていくことによって、過去に起こったことの意味を変えていただくことができます。
B. 怒り・恨み
多くの人は怒りや恨みを心のなかに抱えています。どんなにそれが当然であったとしても、人を赦せない気持ちは結局のところ自分の心を縛り付けるだけです。主はその苦々しい思いを主のところに持って行き、置いてゆくようにと言ってくださっています。
C.  不安・心配
将来のこと、健康のこと、経済のこと、家族のことなど、人は探そうと思えば色々な心配ごとを見つけることができます。心配しても何も解決しないことに心の労力が奪われてはいないでしょうか。イエス様はその重荷をここに持って来て置いてゆくようにと励ましておられるのです。

2、イエス様のところから持って帰るもの。
主イエスのところには私たちが必要なものがすべてあります。主は手ぶらで私たちを帰らせることはしません。必ず私たちを良いもので満ち溢れさせて、一週間の戦いに送りだしてくださいます。
A. 赦し・きよめ
主は十字架の上で、私たちの罪を帳消しにし、汚れた心を綺麗にしてくださるために血を流してくださいました。この素晴らしい恵みを毎週毎日受け取りましょう。悔い改めることがあるなら、それを隠さないで、主の前に告白して祈りましょう。どんな悪も汚れも、主は受け入れて、きよめてくださいます。
B. 解放・希望
過去ばかり振り返り、人を赦せない気持ちで心が縛られていた私たちは、主によって解放されました。そして将来の希望と喜びを手に入れました。日曜日の礼拝はこの私たちの手のなかにあるものを見直す時間です。
C. 平安・目的
主は私たちが毎日を不安に生きることを望んではおられません。救われるということは「生きても大丈夫。死んでも大丈夫」になることです。2015年も主のもとで軌道修正しながら素晴らしい人生を歩みましょう。

3、鍵はキリストとの関係。
私たちは人生の支配者であられる、キリストとの絆を持たなければ、人生に何の意味も持てないし、目的も分かりません。日々の生活のなかで、特にこの日曜日の礼拝を通して、イエス様との絆をしっかりとつないでいきましょう。

今週の暗証聖句
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。    ピリピ3:14