その52 宝さがし

November 29 [Sat], 2014, 15:30
イエスのたとえO
     「宝さがし」 マタイ13:45-46

13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

このたとえ話はマタイの福音書13章に記されている「天の御国」についての7つのたとえ話のうちの1つです。キリストは天の御国は商人がさがして見つけた、高価な真珠のようなものだと教えています。商人は自分の全財産を売り払ってその真珠を手に入れます。さてここで語られる商人、そして真珠とは何を指しているのでしょうか。

1、商人はキリストです。
 このたとえを題材によく語られることは、商人とは私たち人間のことで、人生の宝である天国(あるいは救い主キリスト)を積極的に探し求めましょうというメッセージだと思います。しかしどうもイエス・キリストご自身を商人ととらえたほうが、しっくりいきそうです。
 羊飼いのたとえでもあるように、探し回っておられるのは主のほうです。世界のあちらこちらへと歩き回り、真珠のような宝石を探されるのです。その姿はエデンの園で「あなたは、どこにいるのか?」と言われた父なる神、そして神であられるのに、人の姿をとり地上に来られた御子キリストをあらわしています。神はじっと待たれる神であると同時に、積極的に歩きまわり、声をかけられる神でもあられるのです。この神のさがし、呼ぶ声に応えることが信仰です。
 
2、真珠とは私たちのことです。
 とすると真珠は何を指すかは言うまでもありません。私たち人間のことです。「宝さがし」とはイエスさまによる宝さがしであり、宝とは私たちのことなのです。
真珠はダイヤやルビーなどの鉱石の宝石とは違います。貝のなかで生成される命の産物です。貝殻の成分を作る外套膜(がいとうまく)という器官が偶然貝のなかに入り込むことによって真珠が形成されます。ですから天然の真珠は非常に価値が高いのです。
 私たちも罪を背負い、思うように生きることができず、人を傷つけ、傷つけられ、苦しみのなかを歩みますが、キリストを信じて告白するときに聖霊という神の霊がはいってくださいます。誰も価値を認めないとしても、神の目には高価で尊い存在なのです。自分がそのように神に見られていることを感謝しましょう。

3、私たちは神のものです。
 この商人は喜んで持ち物全部を売り払い、見つけた真珠を手に入れました。その真珠にはそれほどの価値があったからです。
 まさにキリストは十字架の死を通して、文字通りすべてを捨てて、自分の命までも投げ出して、私たちを買い取ってくださったのです。これを恵みといいます。永遠の命はどんなにお金を積んでも手に入れることはできません。地上での安心も、死後の世界の安心も、本当の神に見出されるまでは持つことはできないのです。キリストの十字架の血潮だけがそのことをできるのです。私たちは力も知恵もなく、何もできない者ですが、神は私たちのなかに、それほどの価値を認めてくださり、そこまでしてくださったのです。
 私たちができることは、この神の呼ぶ声に応答し、神のものとなることです。途方もなく大きな、キリストの犠牲を思い、そのためにこのクリスマスに人となってきてくださった愛の大きさを覚えましょう。

今週の暗証聖句
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
ヨハネ15:16

その51 絆

November 22 [Sat], 2014, 17:02
これで納得!!!救いの一本道B
「絆」 ヨハネ14:16-18

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

キリスト教の神概念の特徴は「三位一体」にあります。神は一つの実体でありながら「父なる神」と「子なる神イエス・キリスト」そして「聖霊(御霊・神の霊)」の3つの位格を持つ存在とされていることです。今日はこの第3位格である聖霊についてみて行きましょう。

1、聖霊は神の計画をすすめる。
聖書をみますと、聖霊は神の計画をすすめる存在であることが分かります。神の霊によってすべてのものが始まっているのです。まず天地創造の場面に神の霊が関わっています。人間の創造にも霊の働きがありました。それだけではありません。御子キリストの誕生には聖霊の働きがありました。成人したキリストが公の働きを開始された際に、聖霊が彼の上にくだったと書かれています。そしてキリストの復活と昇天後の教会の誕生にも神の霊が弟子たちにくだったのです。
このように神の計画が始められ、それが完成されるのはすべて神の霊である聖霊の働きによるのです。

2、聖霊は神から遣わされる。
 もう一つ聖書を読んで分かることは、神はご自身が選ばれた人に聖霊を送り、助け、ご自身の計画を進められるということです。エフタ、サムソン、ダビデなど、神に選ばれた人の上に聖霊が降り、その人を動かし、神の業が行われ、神の言葉が語られました。聖霊なしに人は神の働きをすることはできないのです。しかしイエス・キリストがお生まれになる以前は、特定の時代の特定の人にしか聖霊は与えられませんでした。
 主イエスは最後の晩餐の席で、ご自分が世を去った後には、助けぬしである聖霊が遣わされると約束されました。この方は「真理の御霊」であり、私たちにイエス・キリストが主、救い主であることを悟らせてくださり、どんなときにも離れることはないというのです。
 聖霊なくして私たちは主を信じることもできませんし、神のみ心をなすことはできません。

3、聖霊は神と人をつなぐ絆。
 「三位一体」という言葉は神ご自身の交わりの豊かさと互いの関わりの大切さを表しています。子なる神イエス・キリストは父なる神との交わりを絶やすことがありませんでした。その絆となっていたのが聖霊です。そして聖霊は私たち人間と神との絆でもあります。私たちのうちに内住してくださる聖霊は、私たちが祈ることを助け、いつもそばにいてくださり、たとえ私たちの肉体が滅びたとしても、私たちの霊と魂を神のところへと連れて行ってくださいます。そしてやがてくる新しい時代には、朽ちることのない、新しい永遠の肉体が与えられるのです。
 聖霊を認め、聖霊に頼り、聖霊に委ねるときに、私たちの人生は導かれ、一人ひとりに与えられた神の計画を全うすることができます。聖霊を受け入れましょう。

今週の暗証聖句
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。            ヨハネ14:16

その50 有終の美

November 01 [Sat], 2014, 21:42
 「有終の美」 創世記25:1-10

25:1 アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。
25:2 彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。
25:3 ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。
25:4 ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。
25:5 アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。
25:6 しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。
25:7 以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。
25:8 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。
25:9 彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。
25:10 この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。

前章はイサクの結婚の物語でしたが、アブラハムはなおもケトラというもうひとりの妻(そばめ)を持ち、6人の子供が与えられたと書かれています。そしてついに175歳の長寿を全うして天に召されました。イサクとイシュマエルが埋葬し、遺体はサラと同じ墓に葬られました。聖書は、アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うしたと語っています。

1、神はアブラハムを見捨てなかった。
12章でアブラムが神に声をかけられたのは彼が75歳のときだったと書かれています。つまり彼はちょうど100年間神を信じ、歩んだのです。そしてとうとうその人生を終えるときがきました。彼の生涯を振り返るときに、まず教えられるのは、神は何があろうが決してアブラハムを見捨てなかったということです。
新約聖書では「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですが、その生涯を振り返ったときに、彼の歩みは決して万全ではなかったことが分かります。ある時は妥協をし、ある時は疑い、ある時は恐れて自己保身に走っています。このようなことを神の目から見るならば不信仰であり、裏切りと言ってもよいものでしょう。しかし神は決して彼から離れることはなかったのです。そしてその生涯の終わりまで彼を祝福し続けました。
彼の生涯は私たちに希望を与えます。私たちが何が出来るからではなく、神が愛と恵みに満ちた方であるゆえに、私たちは赦され、祝福に満ちた生涯を送ることができます。

2アブラハムは「祝福」となった。
 アブラハムはただ神に祝福されただけでなく、最後まで自分自身が他の人にとっての「祝福」となることを願いました。6節を見ますと彼は自分のそばめの子らに十分な贈り物を与えて、イサクから遠ざけたと書かれています。勿論これは将来自分が死んだ後で家族の間にトラブルが起こらないようにしたことだと思います。このように彼の心にはいつも他の人に対する配慮があったのです。思えば彼の生涯には甥を助けるために自らの危険をかえりみずに助けに行ったり、見ず知らずの旅人をもてなしたり、悪に満ちたソドムに神の裁きがくだらないように必死にとりなしたこともありました。
 クリスチャンは自分さえよければそれでいいという存在ではありません。他の人に対して祝福となることがクリスチャンの存在意義です。そしてそれは決してただ漠然と生きていたらできることではなくて、他の人の必要や、状況をしっかり考えて、時には積極的に行動する中で自分が回りの人たちに対する祝福となるのだということです。祝福となることを願っていきましょう。

3、アブラハムは神の約束を握りしめた。
 彼の100年間の歩みを支えたものは、お金や社会的立場ではなく神から受けた言葉でした。色々な障害や不安のなかで、彼は神の言葉を握りしめ、その信仰を神は「義しい」と認められたのでした。
 私たち信仰者の歩みを支えるものも、この神の言葉でなければなりません。神の約束は決して私たちを裏切りません。何故なら私たちがどのような者であっても、神はご自身の約束を破るような方ではないからです。「信じる」という行為は「信じ抜く」という人生を貫く生き様です。アブラハムに倣い、信仰によって生涯を全うする者となりましょう。

今週の暗証聖句
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。      イザヤ 55:11