その39 約束

June 28 [Sat], 2014, 16:44
創世記21:1−5
「約束」

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

子どものなかったアブラハムに神から「あなたの子孫に…」という約束が与えられたのは彼が75歳のときでした。そしてそれから25年経ち、彼が100歳のときに約束の子が与えられました。

1、神は約束を守る。
クリスチャンたちから「信仰の父」と呼ばれるアブラハムですが、ここまでの彼の歩みを振り返ると、決して揺るぎない信仰の生涯とは言い難いものでした。跡取り欲しさに家の召使いとの間に子を作ったり、自分の命惜しさに妻を地域の王に差し出したり、様々な葛藤を覚え、失敗もしています。
にもかかわらず神は「約束されたとおり」に、妻のサラを通して子どもを与えてくださったのです。神はご自身のなされた約束を反故にすることはないのです。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」Uテモ 2:13
迷ったり、疑ったりする人間をご存じのうえで、神は約束してくださり、その約束を守ってくださいます。神は私たちの状態、状況と関わりなく、「約束を守る神」です。

2、神の約束は人に救い(大丈夫)を与えること。
この神の約束はただ単にアブラハムの血筋や財産を引き継ぐ後継者が生まれるというものではありませんでした。このアブラハムの子孫からダビデが生まれ、そしてイエス・キリストが生まれたのです。つまり息子イサクの誕生は、罪のために神から離れて生きることとなり、苦しんで生きるしかない人間をイエス・キリストを通して救うという神の人類救済計画の実現の始まりであったのです。
この私たちに「救い(大丈夫)」を与えるという約束は、今を生きる私たち一人ひとりにも与えられているものです。ではどうしたらその約束を手に入れることができるのでしょうか。

3、人は約束を信じて生きる。
ときには失敗をしたアブラハムでしたが、一方で彼が最後まで神の約束を信じぬいたのも確かなことです。パウロは新約聖書のなかで「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした(ロマ 4:19)」と証言しています。
神の約束が実現する方法やタイミングは、人の思いをはるかに超えるものです。自分が期待する時期に、自分が思ったとおりの方法で叶えられるわけではありません。すべての主権は神にあるのです。アブラハムはそれを我慢できず、疑ったり、焦ったり、自分のやり方で物事を進めようとする弱さを持っていました。しかしその弱さのなかで、いや人間的な可能性小さくなればなるほど、神だけを信じることができたのです。
私たち人間はこの神の約束を信じて生きるほかに、本当の意味での「大丈夫」を持つことはできません。自分の持っているものは有限で小さく、はかないものだからです。神は私たちに永遠を思う心を与え、神を求めるようにしてくださいました。自分で色々な神を作ることはできても、私たちに「大丈夫だよ」という約束をくださる神は一人しかおられません。この神の約束そのものであるイエス・キリストを心に迎え入れて、人生の「大丈夫」を手に入れましょう。

今週の暗証聖句
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。 イザヤ 55:11

その38 大丈夫

June 21 [Sat], 2014, 23:08
「大丈夫」

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネ 14:27

キリストは十字架に架られる前の最後の晩餐の席で、弟子たちに平安を与えると約束されました。この平安は世界のどこにもないもので、他の誰も与えることのできないものだと言うのです。
実はその平安とは私たち人間が造り主である神から離れたために失っていたものです。キリストはその罪を一身に背負われ、十字架に架られ、三日目によみがえられました。この神の愛のメッセージを素直に信じ、受け入れるだけで、私たちは聖霊をいただき、この平安を受けることができるのです。この平安という言葉を「大丈夫」と言い換えることができます。キリストは私たちに「私を信じたら大丈夫だよ」と約束してくださっています。

1、過去に対する大丈夫。
私たちは過去の色々な傷や痛み、失敗、恥を背負って生きています。過去は絶対に取り消すことも出来ないし、起こったことを変えることもできないのに、過去に縛られている人が大勢います。ある人は後悔を持ち続け、ある人は他の人に向かって憎しみを握りしめ、ある人は自分に対する怒りにまとわりつかれ、前に進むことができないでいます。キリストが与える平安は、このような過去の縛りを打ち砕きます。何故ならキリストを自分の主と信じる者はすべてが新しくされ、過去に起こったことの意味を変えてくださるからです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。Uコリ 5:17

「もうあなたの過去のことは大丈夫だから」と言ってくださるキリストを信じましょう。

2、今の大丈夫。
キリストから与えられる平安は今の私たちの心に深く根付きます。私たちはすべからく「幸福」を追求して生きています。しかし誰も「どういう状態が幸福なのか。どうやったら幸福になれるのか」を教えてくれません。だから自分でルールを作るか、あるいは他人が決めたルールに則って幸福になろうとしているのです。しかしどんなに頑張って何かを手に入れたとしても、そこには本当の幸福はありません。つまり心から「大丈夫だ」と思えないのです。人生のルールは造り主に聞く以外にありません。自分が神から離れて自分勝手に生きていることを認め、そのために十字架に架ってくださったキリストを自分の主と告白するときに、本当の幸福とは何かが分かり、すべての状況にあって「大丈夫」だと実感することができます。

3、将来の大丈夫。
いくら過去のこと、現在のことに「大丈夫」をくださったとしても、「あなたの将来のことは分からない」と言われたら本当の「大丈夫」にはなりません。しかしキリストは「世の終わりまで一緒にいる」と約束してくださいました。この先私たちの前に何が待っていたのとしても、私たちは「大丈夫」です。
そしてたとえこの地上での命が終わったとしても「大丈夫」だという確信を持てるのです。何故ならキリストがずっと一緒にいてくださり、私たちの天の御国に連れていってくださるからです。
過去、現在、そして未来の自分に「あなたは大丈夫だよ」と言ってくださるキリストを信じませんか?きっと本当の心の平安を手に入れることができます。

今週の暗証聖句
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。ヨハネ 16:33

その37 お父さんに頼まれたけど

June 14 [Sat], 2014, 11:11
「お父さんに頼まれたけど」

マタイの福音書28章28−32節
21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
21:29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。
21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。
21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

このたとえ話はバプテスマのヨハネというイエスの活動にさきがけて、神から遣わされた預言者をどのように見るかという宗教家たちとの議論からはじまったものです。
お父さんに頼まれて「はい」と言ったけど従わなかった息子と、「いや」と言ったけど従ったという二人の息子の話です。ここでは人間の人生にとって本当に価値あるものは何かという問題が教えられています。

1、価値あることは生きざま
後のイエスの言葉でも明らかなように、「行きます」といっていかなかった息子とは宗教家たちを表しています。バプテスマのヨハネが罪を悔い改めて神に立ち返れと教えたときに「自分はやっている。自分は分かっている」と実際の生き方を変えなかった人たちです。一方「嫌」と言いながら後で行った息子が当時の社会で罪人とみなされていた取税人や遊女たちです。彼らは自らが神から離れていたことを認めて、悔い改めて神に立ち返ったのです。
日頃何を言っているか、あるいは社会的立場や人からどう見られているかではなく、実際の生きざまこそに価値があるのだとイエスは教えています。言葉やみかけではなく生きざまがその人の人生の価値を示します。

2、価値あることは方向転換
このたとえ話では鍵となる言葉が2回使われます。一つは30節の
「あとから悪かったと思って」という言葉と32節の「あなたがた
は、それを見ながら、あとになって悔いることもせず」という言葉
です。
人生において価値あることは、自分の誤りに気がつき後でも良いから方向転換することです。
人生は選択です。一度しかない人生を本当に意義あるものにしたいのであれば、間違いは素直に認め、歩んでいる向きを変えるしかありません。自分に命を与え、声をかけてくださっている神から離れていることに気がついたのであれば、神のもとに帰るべきです。人は自分がどこから来て、どこに行くか分からなければ、今の人生を有意義に生きることはできないからです。神への方向転換が人生の価値を高めます。

3、価値あることは天の父との関係
この父が息子たちに望んでいたのは単なる労働ではなく、自分との真の関係です。父と息子の関係は義務や恐れではなく、信頼関係で成り立つものだからです。
神はただ私たちに規則を押し付け、それに違反したら罰を与えたいと願っているわけではありません。天の父は、私たちに自分の間違いを気づかせ、自分のもとに帰ることを望んでおられるのです。人生の方向転換をして戻ってくるならば、いつでも喜んで迎え入れてくださる神なのです。
御子キリストも一度だけ「できたら行きたくない」と言われたことがありました。十字架を前にしたゲッセマネの祈りです。しかしイエスは父なる神の心に従いました。私たちを救うためです。天の父と自分を隔てているものが分かったのならば、帰りましょう。神との個人的関係を持つことによって、私たちは本当の生きがいと喜びを手にすることができます。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。ロマ 8:15

その36 聖霊のバプテスマ

June 07 [Sat], 2014, 16:05
聖霊のバプテスマ

使徒の働き2章1−4節。
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

聖霊のバプテスマとは…

1、聖霊に満たされる最初の体験である。
聖霊のバプテスマを受けることと、聖霊に満たされるということは同じ意味です。では何が違うかと言うと、聖霊に満たされた最初の時を聖霊によるバプテスマを受けたというのです。2章の4節に「みなが聖霊に満たされて・・・」と書かれていますが、この弟子たちにとってはこれがイエス様の言われた聖霊のバプテスマを体験した時でした。しかしこの後使徒の働きを読みますと、弟子たちを表す時に何度も「聖霊に満たされて」という表現がされているのに気が付きます。聖霊に満たされることは、一度ではありません。何度でも満たされるし、何度でも、というよりいつも満たされていることを求めなければなりません。

2、救いの後の、救いとは別の体験である。
私たちは聖霊のバプテスマによって救われるのではありません。あるいは救われたことを聖霊のバプテスマを受けたと呼ぶのでもありません。もしそうであれば、イエス様は「聖霊があなたがたにのぞむとき、あなたがたは救われます」と言ったことでしょう。イエス様が言われたのは証人となる力のことでした。この時弟子たちはすでに救われていたのです。でも聖霊によってバプタイズされる必要、聖霊に満たされる必要があったのです。

3、聖霊に圧倒され、聖霊に完全に支配されることである。
バプテスマとは洗礼ということです。このギリシャ語のバプティゾーという言葉は、もともとは圧倒されるという意味です。もっと突っ込んだ言い方をするならば「死ぬ」ということをも連想させる言葉です。洗礼式は、水に浸かることによって、一度死んで、そして新しく生まれ変わるということを象徴する儀式です。それと同じように、私たちが聖霊に完全に浸りきって、死んだのと同じような状態になって、体も含めてその支配を委ねきった状態になること。このことを聖霊のバプテスマと言うのです。

4、異言によって証拠づけられる。
ルカは、聖霊に最初に満たされた人に、何か共通するしるしが現われることを教えています。それはこの2章4節にあります次の聖句です。「2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」。彼ら自身が知らない言語が、口から出てきたというのです。この聖霊が語らしめるままに口からでる言葉を異なる言葉、異言と言います。


5、奉仕の力を与えるものである。
聖霊の力とは愛する力です。聖霊に満たされる時、私たちは神様を愛する力、人を愛する力をいただくことができるのです。
@礼拝に対する熱心さ
A祈りの生活が豊かになる
B証人としての生活に力が与えられる

今週の暗証聖句
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。使徒1:5

聖霊のバプテスマはイエス様の約束です。生き生きとした信仰生活を送るために、聖霊に満たされ続けることを求めていきましょう。