その141 教会の誕生日 

June 04 [Sun], 2017, 0:00
教会の誕生日 
使徒の働き 2章1−4節

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

ペンテコステは教会の誕生日です。今日は誕生日だからこそ考える様々なことを、自分自身の信仰生活とも照らし合わせながら見ていきましょう。

1、 教会のルーツを考えよう。
教会が生まれたときのことを考えましょう。彼らは小さな集団でした。社会的にも高い地位の人もいませんでした。しかし彼らには確信があったのです。何故ならイエス様の十字架と復活、そして昇天を目撃していたからです。
教会はイエス様の十字架の血潮で買い取られたものです。私たち1人ひとりの信仰も、イエス様の十字架と復活を土台としています。このとてつもなく大きな犠牲を感謝しましょう。

2、 教会の現状を考えよう。
私たちがどうしても覚えなくてはならないことは、あのペンテコステの日に聖霊が来られたということです。以来聖霊は教会にいてくださり、教会を導き、教会とともに働かれます。
もし教会に聖霊がおられないのであれば、これほど空しいことはありません。聖霊の臨在を求め、聖霊の導きに従う教会でありましょう。
私たちを見ておられ、私たちの苦しみや悲しみをご存知で、声をかけたいと願っておられるのです。手を伸ばして触れて、癒したいと願っておられるのです。聖霊が始められた教会。聖霊が臨在される教会。人格を持った神が、ここにいてくださり、触れてくださることを期待しましょう。

3、教会の使命を考えよう。
神様の造られたもので意味のない者はありません。教会が生み出され、存在するのにも、大きな意義、意味、使命があるに違いありません。
それは宣教です。証人となるための力を受けるというイエス様の約束が実現した日がペンテコステでした。この日は、教会が使命に生まれ、使命に生きることを始めた日でもあります。
教会が持っている使命を、私たちは果たしていかなくてはなりません。1人でも多くの人に、イエス様が切り開いてくださったまことのいのちへの道を伝えてまいりましょう。

4、教会の必要を考えよう。
教会の使命を果たしてゆくことは容易なことではありません。何故なら教会の働きを妨害し、破壊しようとする敵が存在するからです。クリスチャンは敵とみなされ、教会から引き離そうと狙われています。私たちは日々、祈りと御言葉と聖霊充満によって勝利する必要があります。
また聖霊は賜物を1人ひとりに与えることによって、教会を建て上げるために必要なものを備えてくださっています。自分に与えられる聖霊の賜物を求めていきましょう。そしてすでに与えられている聖霊の賜物を自覚して、賢く用いましょう。
聖霊の満たしと賜物は、救われたクリスチャンが求めるならば与えられると約束されているものです。
強い信仰、大きな信仰で、祝福された歩みをするために、是非聖霊に満たされることを求めて祈りましょう。

今週の暗証聖句
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。    
     マタイ16:18

その140 祈りと勝利 

May 28 [Sun], 2017, 0:00
祈りと勝利 

使徒の働き1:12-14

1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

私たちが聖霊に満たされると勝利者となる。

鍵は聖霊。

祈って聖霊に満たされると・・・

1、自分を変えることができる。
聖霊は私たちを変えます。弟子たちは10日間の祈りの後劇的な体験をし、完全に変えられました。臆病で、弱虫だった彼らは、聖霊に満たされた後には、エルサレム中に、いや世界中に「このイエスこそ、キリストです。この方による以外に救いはないのです」と叫ぶ勇士に変えられました。
聖霊は弟子たちの周りの世界を変えたのではなく、彼ら自身を変え、そして彼らを通して、世界を変えたのです。これが神様のやり方です。神様は私たちの周りの世界、職場や家庭や、学校を直接変えてはくださいません。神様の願いは、私たちを変えて、私たちを通して、私たちの周りの世界を変えることなのです。すべては聖霊から始まります。聖霊によって変えられることを求めていき、本当の勝利をいただきましょう。

2、生きる意味をつかむことができる。
聖書が教える勝利とは、なにも金持ちになるとか、社会的成功を収めるとか、自分の野望を達成するということではありません。人生の意味、自分だけに託された神様からの使命、自分が今生きているのではなく、生かされているのだということをしっかりと知るということです。この弟子たちは、ペンテコステの日まで、まだ自分が何をするべきなのか分かっていませんでした。自分が何のために生き、どのようにして神様の栄光を表すのか、分かっていなかったのです。彼らにできたのはただひたすら祈ることでした。そして聖霊のバプテスマを受けて、彼らははっきりと人生の意味を掴み取りました。神を崇め、賛美し、神の家族と生活し、イエス・キリストを一人でも多くの人に宣べ伝えなければならないという偉大な使命を自覚して生きるようになったのです。私たちも、この苦痛と悩みに満ちた世界にあって、本当に自分を生かしているもの、自分が生きている本当の意味と使命を、聖霊によって受け取ることを求めていきましょう。

3、愛する力を持つことができる。
弟子たちは聖霊を受けたとき、「今こそ先生を十字架につけたやつらをやっつけてやる時だ」とは全く思いませんでした。むしろ彼らは、自分の愛する師を十字架につけた人たちを愛して、天国に行けるようにと福音を伝えたのです。どんなに迫害を受けて、殺されるようなめに遭っても、愛の力で、イエス・キリストを語り、証し、救いのメッセージがここにあることを示そうとしたのです。人間の力でそれをすることはできませんが、聖霊に満たされるならば、それができると約束されたのです。私たちもその愛の力を求めましょう。
聖霊に満たされるために私たちはどうするべきか、もう申し上げるまでもありませんが、祈る以外にありません。聖書は、彼らは心を合わせて、祈りに専念していたと証言しています。私たちも聖霊を求め、聖霊に満たされる信仰者となりましょう。

今週の暗証聖句
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。              1ヨハネ4:10

その139 神の国を求める祈り 

May 21 [Sun], 2017, 0:01
神の国を求める祈り マタイ6:33

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。マタイ 6:33

神の国とは?   神の支配があるところ。
私たちがひざを屈めて祈るとき、もうそこに神の国が訪れている。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。マタイ6:6

祈りとは。。。
1、神様との関係を深める方法である。
祈りは儀式ではなく、神様への語りかけです。祈りによって、私たちは神様を知り、神様がどれほど親しい方であるのかを体験することができるのです。
大切なことは、イエス様がここで自分の部屋で祈れと言われたことです。フルタイムのクリスチャンになるために、自分の家で祈りの祭壇を築くようにしていきましょう。

2、自分を変える方法である。
変化は外から始まるのではなく、内側から起こります。神様はまず私たちの心の中に変化を生み出されます。自分が変わることによって、そこに神の国が生まれ、拡大していくのです。
祈り続けることによって、私たちは神様を自分に合わせるのではなく、自分が神様に合わせるようになります。
自己中心  ⇒ 神中心

3、自分の状況を変える方法である。
「あなたに報いてくださいます」
私たちはどんなことも期待して良いのです。大胆に求めていきましょう。そうすれば神様によって具体的な体験ができるようになります。
そして祈れば祈るほど、自分が小さくなり、神様が大きくなっていきます。
自己実現 ⇒ 神実現
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」

4、複数のクリスチャンの祈りは力強い。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。マタイ18:19-20
祈りの時間、場所を確保していきましょう。

今週の暗証聖句
『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」         ルカ17:21

その138 うるさくてしかたがないから 

May 14 [Sun], 2017, 15:19
「うるさくてしかたがないから」

ルカの福音書18:1-8
18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 イエスは「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」このたとえを使われました。あるやもめが裁判官に相手を裁いて自分を守ってくれるよう訴えます。この裁判官は決して正しい人ではなく、神を信じず、人を人とも思わぬ悪い人でしたが、この女性がひっきりなしにやってきて訴えるので、「うるさくてしかたがないから」裁判をしてあげることにしました。イエスはこの裁判官の言っていることを聞きなさいと言うのです。

1、神様は聞いてくださる。
 18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
このたとえを通して、イエスは神様というお方は「不正な裁判官のように人を人とも思わない方」と教えたかったのでしょうか?勿論そうではありません。このような悪い人格の裁判官でさえ、しつこく訴えれば聴こうと思うのだから、ましてや天の父なる神様が、あなたがたの祈りを聞かないわけがないでしょう。だから神様を信頼して祈りなさいと教えられたのです。私たちは、つい神様以外のものを信じ、頼ってしまいます。しかし本当に私たちを護ってくださる方は神様だけなのです。私たちの信じる神様は良いお方で、良いことをしてくださる神さまです。この神様を信頼して祈りましょう。

2、とにかく祈ろう。
 18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
 このたとえは明らかに、私たちに単に「祈る」ことだけではなく、「祈り続ける」ことを教えています。目に見える状況がどうであったとしても、あきらめないで祈り続ける態度を、神様は望んでおられるのです。「もしよろしければ聞いてください」という遠慮がちな態度ではなく、この困ったやもめのように「何としてでも聞いて欲しい。叶えて欲しい」という必死な態度を継続することが大切だということでしょう。「どうせ無理だろう」とあきらめたり、ためらって何もしない信仰ではなく、勇気を出して信仰を行使する生き方を目指しましょう。そこに私たちの人生が動き出す鍵があります。

3.主はそれを信仰と呼ばれる。
 18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
 この最後にイエスがポツリと言われた言葉に注目しましょう。主は世の終わりの時代に、このやもめのように、熱心に祈り、訴え続けようとする信仰者が地上にどれだけいるだろうかと心配されています。今は不安の時代。心配の時代です。私たちの祈りを止め、失望し、落ち込ませるような出来事が絶えない時代です。しかし私たちは勇気を持ちましょう。失望しないで、祈り続けましょう。私たちのために正しい裁きをしてくださる方は、神様しかおられません。この神様に私たちの信仰を表しましょう。

今週の暗証聖句
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整
え身を慎みなさい。        1ペテロ4:7

その137 やりがい、生きがい、良い人生 

May 07 [Sun], 2017, 18:11
「やりがい、生きがい、良い人生」

 創世記45:1-15
45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。
45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。
45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。
45:9 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。
45:10 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。
45:11 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう』と。
45:12 さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。
45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」
45:14 それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。
45:15 彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。
最愛の弟ベニヤミンを含めて、兄弟たちとの2回目の再会となったヨセフは、とうとう自分の正体を兄弟たちに明かします。そして「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません」と言いました。

1、自分の人生を神の計画に合わせる。
 ヨセフは自分の人生を神様の計画に重ね合わせて見ることができました。「俺はお前たちのせいで偉い目に遭ったぞ。これからお前らを苦しめてやる。覚悟しろ。」とは言わず「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」と言いました。「遣わされた」という言葉には、ただ単に来させられたという意味以上に、何か使命を持って来ることになったという意味が込められています。そうです。ヨセフは兄弟たちに売られ、エジプトに来させられたのではない、何か大きな計画の中で、自分が生かせられていた使命があったのだと自覚していたのです。
聖書はクリスチャンの幸いとは、何の苦しみも痛みもないことなのではなく、自分の人生が神様の計画に基づいていることを知ることだと教えています。それがたとえ一時的な痛みや苦しみであったとしても、神様はそれを計画されて、何か目的を持って、導こうとされているのだと悟ることが、クリスチャンの本当の幸いだと教えているのです。

2、神を愛する。
 聖書には、神様を愛する人の上には人生で起るすべてのことが益に変えられると約束されています。神様を愛さない人は、神様のご計画に召されていないし、その苦しみには何の意味もないわけです。しかし神の計画に従って生きる人は良い人生を送れます。こう考えてみると、ヨセフという人は神様を愛していた人だったことが分かります。彼は困難の中で、少しづつ学んで、一国のトップに立つほどになりました。私たちももし、苦しみをただの苦しみとして通り過ぎるだけなら、それ自体に意味はありませんが、これはきっと何か意味があるはずだと、信じることができるのです。鍵は私たちがどれだけ神様を愛しているかにかかっています。愚痴や不平不満を言うのではなく、主を愛して、目に見えない幸いを待ち望む、そんなクリスチャンになっていこうではありませんか。

3、聖霊に満たされる。
 エジプトの王はヨセフについて「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか(創41:38)」と言いました。ヨセフは常に神とともに生き、神の霊に満たされていたのです。私たちも、聖霊の恵みと導きに与ることができます。一度しかない人生を、やりがい、生きがい、良い人生にすることができます。日々御言葉に親しみ、祈り、聖霊に満たされ、聖霊に導かれる歩みをしていきましょう。

今週の暗証聖句
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28

その136 絶望から希望へ 

April 23 [Sun], 2017, 17:58
絶望から希望へ 

ルカ24:13-35

24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

エルサレムを逃げるように離れ、エマオへの途上にあった二人の弟子は、人生の望みが砕かれ、失望と不安のなかを歩いていました。そこに復活したイエス様が来てくださいました。イエス様と再会したと気付いた彼らは、もう一度エルサレムに戻っていきました。私たちが、希望を失ったり、不安におびえたりするときに、イエス様が何をしてくださるのか思い出しましょう。

復活したイエス・キリストは・・・

1、私たちと一緒に歩いてくださる。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

彼らは一緒に歩いている方が誰であるかは知りませんでした。もちろんイエス様に一緒に歩いてくださるよう求めたわけでもありません。しかし、イエス様は一方的に、失望のどん底にいる彼らに近づいて、一緒に歩いてくださったのです。このことは一体何を意味するのでしょうか。一緒に歩くという行為は、その人の友となり、痛みや苦しみさえも共有するという神様ご自身の決意が表されています。
イエス様は今も、この世界のあらゆる道を歩き、そこにいる私たちの友となってくださり、一緒に歩いてくださるお方なのです。失望のなかにあるときにも、イエス様が一緒にいてくださることを信じましょう。

2、私たちの心を燃やされる。
24:32「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」
よみがえられたイエス様が語りかけ、教えられるのを聞いていたとき、弱虫だった、恐れていた、絶望のどん底だった自分たちの心が燃やされているのをはっきりと感じることができたのです。その後彼らはどうしたでしょうか。もう一度エルサレムに引き返したのです。
彼らは何故心を燃やされたのでしょうか。

24:27イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた。
私たちの持っている信仰は単なる感動とか、感情の上に立っているのではありません。聖書全体が、「イエスは主」、「イエスはキリスト」、「イエスは救い主」であると証言しているのです。そのことを知ったとき、人の心は燃やされ、じっとしていられなくなるのです。新しい人生の生きがいというものを見出すのです。
自分が暗闇の中で一人ぼっちでいるような気がする時、イエス様が近づいて、一緒に歩いてくださっていることを思い出しましょう。イエス様が聖書の言葉を通して、私たちの心を燃やされることを期待しましょう。日々聖書を開き、今日も新しい生きがいを与えてくださいと祈りましょう。

今週の暗証聖句
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
マタイ28:20

その135 イエスの復活 

April 16 [Sun], 2017, 16:45
イエスの復活 

ルカ24:1-9
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。

キリスト教にとって、イエスの十字架と復活というのは、車の両輪のようなもので、どちらか一方だけでは成り立ちません。十字架を通ってこその復活ですし、復活があるからこその十字架であると言えます。イエス・キリストの復活にはどのような意味があるのでしょうか?

1、キリストの復活は彼が神であることを証明している。
 古今東西多くの人が、よみがえりの命を夢見ました。「死にたくない。いつまでも生きていたい。」そう願って、ありとあらゆる努力をした英雄もいました。しかし、どんなに大きな権力を持っていても、莫大な富を持っていても、人間は死の前では無力な存在にすぎません。聖書によりますと、イエス・キリストは十字架にかけられるはるか以前から、ご自身が十字架にかけられることと、そして死んだあとによみがえることを予告しておられたのです。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。

どのような偉大な宗教家も、自分の復活について預言した者はいません。そして復活した者もいません。数ある宗教の中でイエス・キリストだけが、ご自分の死と復活を予告され、その通りになったのです。これは、彼が単なる良い教えを説いた宗教家というのではなく、まさしく神の御子であり、死の力をも打ち破る、力と権威を持っておられることの証です。

2、キリストの復活は彼が今も生きて働いていることを表している。
「一度はよみがえったけど、結局はまた死んでしまった」のであれば、今の私たちとは何の関係もなくなるでしょう。しかし聖書によると、イエス・キリストはその後40日間弟子たちと過ごされ、数々のことを教え、多くの人の見ている前で天に昇られました。聖霊という助けぬしを送られ、また再びこの地上に帰って来られることを約束していかれたのです。もし昔いて、今はいない人の宗教であれば、2000年も続いて、しかも未だに世界で成長し続けるはずがありません。何故これほど科学が発達した現代でも、人々は、イエス・キリストに引き付けられるのでしょうか。
今も生きて、働いておられる神、それがイエス・キリストです。

3、キリストの復活は私たちの復活をも約束している。
ロマ4:24私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

聖書は明確に、イエス・キリストが死の力を打ち破って、よみがえったのは、ご自身だけではなく、彼を信じる者すべてが、よみがえりの命を持つためであると証言しています。キリストを信じる者は、かならず永遠の命を持つのです。もう死を恐れることはありません。キリストの復活を信じて、永遠の命を自分のものとしてください。

今週の暗証聖句
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。1コリ15:20

その134 十字架が意味するもの 

April 09 [Sun], 2017, 0:49
「十字架が意味するもの」

ルカの福音書22:54-62
22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

 今日はイエス・キリストの十字架に関わった一人の人を追っていきましょう。そしてイースターに向けて心を備え、イエス様の十字架の死と復活の意義を改めて思い、感謝する時としていきたいと思います。今日取り上げる人物は、ペテロです。

十字架が意味するものは…
1、失敗、挫折、恥。
 イエス様の弟子となり、ともに過ごした3年間、輝かしい日々であったに違いありません。一介の田舎町の漁師に過ぎなかったペテロが、大衆に人気があり、多くの群集を前に教えるイエス様の弟子となったのです。彼には自尊心があったことでしょう。しかし、そんな彼の自尊心はイエス様の十字架によって、こなごなに打ち砕かれたのです。
イエス様の十字架は、ペテロにとって失敗、挫折、恥の象徴となりました。私たちにも、同じようなことが起こります。あるときは失敗し、あるときは挫折し、あるときは恥ずかしい思いをします。
しかしそのような私たちの苦しみ、悲しみ、悔しさを、全部背負ってイエス様は十字架へと進んでくださったのです。この受難の週、私たちのために苦しんでくださったイエス様の苦しみの十字架を思いましょう。

2、罪と罰。
 ペテロと目を合わせた後、イエス様は十字架刑に連れていかれたわけですが、ペテロの痛みも、その後何時間も続くことになります。「自分は何て弱虫なんだ。卑怯なんだ。卑劣なんだ。罪深いんだ。」そんなふうに、自分を責める気持ちを強く持ち続けたのではないかと思います。イエス様の十字架は、まさに、ペテロにとって、イエス様ではなく自分自身の罪の象徴、そしてイエス様にではなく自分自身に対する罰の象徴となったのです。
私たち自身の心にも、同じ性質があります。自分さえよければ。自分を護るためには他の人はどうなっても構わない。そういう人間の汚い心が、今でも「イエスを十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいるのです。私たち人間皆がイエス様を十字架に追いやったのと、聖書は教えているのです。

3.愛。
 確かにイエス様を十字架に架けて殺したのは、私たちの罪です。自分さえよければ良いという汚い心です。しかしイエス様は、そんな私たちの弱さ、汚さ、情けなさをすべてご存知なのです。そしてそれでも、この地上の世界で、愛を広めろと使命を与えられるのです。自分を裏切ると知っておられながら、なおイエスさまは、ペテロのために祈り、そればかりでなく、後で他の人を励ますようにと託されたのです。十字架が意味するところは、この十字架は私の罪のためだったという事実の上に、主はもう私を赦し、使命を託されているのだというメッセージです。愛のない世界に、神の愛を伝えるように。「自分は汚れている」と思い、苦しんでいる人に、神の赦しを伝えるように。「赦すことはできない」、と心縛られている憎しみの世界に、互いに赦し合い、愛し合うことを促すようにと、私たちの教会に使命を与えておられるのです。この受難週のはじめの朝、あなたの心に何があるのか自分を見つめてください。

今週の暗証聖句
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
Tペテロ 2:24

その133 人生の価値 

April 02 [Sun], 2017, 21:11
「人生の価値」
イエスのたとえ30

マタイの福音書20:1-16
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 イエスはこの後、十字架の苦しみを受けるために、エルサレムへと向かいますが、弟子たちにこの「天の御国」のたとえを教えられました。朝早くから一日中働いた人と、夕方5時から1時間だけ働いた人の労賃が同じだったというこのたとえ話は、私たちに何を教えているのでしょうか?

1、行いではなく恵み。
 20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

神の国は私たち人間が何をしたかによるのではなく、一方的な神の恵みによって入ることができるということが教えられています。朝早くに声をかけられた人、12時と3時に呼ばれた人、そして5時に呼ばれた人、皆主人に声をかけられなければ働くことができなかった人です。誰が選ばれ、誰が与えられるかという主権はただ神様にあり、人間には何も付け加える力も権利もないのです。そして神様はどんな人にも等しく恵みを与えられます。それが神様ご自身の御心だからです。
このたとえを読むと、私たちは自分を「朝早くから働いた者」と想定し、だから「5時から働いた者が同じ賃金なんて不公平だ」と思ってしまいがちです。しかし自分こそが「5時から呼ばれて、1日分の賃金を貰った者」と考えたらどうでしょうか?「何と気前の良い主人だ」と思うことでしょう。神様は恵みによって私たちに声をかけ、ご自身の国に招いてくださいました。感謝しましょう。

2、人間をしばるもの。
 このたとえはまた、私たちが日ごろ何に縛られて生きているかを気付かせてくれます。私たちは世の価値観に縛られているのです。労働時間や成果にとらわれ、人と自分を比べることにとらわれています。神様から与えられた日々のなかで、与えられた仕事をし、与えられた食物で生きるだけで十分幸せなはずです。しかし私たちは人と自分を比べ、人よりも多くのものを持つと誇り、少ないと妬む弱さを持っています。あるいは人と同じことができないことに、劣等感を抱いてしまうかもしれません。そのような人生には心の底からわきあがる喜びがみられなくなってしまうことでしょう。聖書はその原因を罪であると教えているのです。

3.何が大切か。
 私たちにとって大切なことは、私たちを創り、愛してくださる神様の声に気付き、その方のところに帰っていくことです。神様は人生の目的を知らずにさまよっている私たちに声をかけてくださいます。そして私たちの能力、働き、容姿、所有物などには一切関係なく、人生に目的を与え、豊かな対価(永遠のいのち)を与えてくださいます。そこに人生の価値があるのです。この世の価値観に流されることなく、まっすぐに神様をみつめましょう。そして一日、一日を神様と一緒に生きていきましょう。

今週の暗証聖句
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。  マタイ 6:34

その132 神の答 

March 25 [Sat], 2017, 20:37
神の答
ヨセフの生涯D
創世記42
42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」
42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」
42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。
42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。
42:5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。
42:6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。
42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」
42:8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。
42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」
42:10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。
42:11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」
42:12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」
42:13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」
42:14 ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。
42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。

ヨセフの夢の解き明かしどおりに、世界中にききんが起こり、人々がエジプトまで食料を求めてやってくることになりました。そこに13年以上前に、ヨセフを奴隷として売った兄弟たちがあらわれたのです。ヨセフはすぐに気づきますが、兄弟たちは目の前のエジプトの総理大臣が弟のヨセフだなどとはまったく気づきません。ヨセフはわざと兄弟たちをスパイと疑い、シメオン一人をエジプトに残して、ヨセフの実の弟であるベニヤミンを連れてくるように命じ、退去させます。

1、人の思いにまさる神の計画。
 兄弟たちに売られ、ポティファルの妻に偽証され、無実の罪で牢屋に入ることになったヨセフは、解放されてエジプトの総理大臣にまで上り詰めた後も、どうして自分にこのようなことが起こったのか、完全には理解できなかったことでしょう。「主よ、どうしてこのようなことになったのですか?」と、神に尋ねる祈りもしたでしょうが、その答はすぐには与えられなかったのです。しかし兄弟たちが目の前に現れたこのときはじめて「ああ自分の苦しみは家族を救うためだったのか」と理解することができたのではないでしょうか?
 私たちの人生にも「主よ、どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?」と神様に聞きたくなるようなことが起こります。またその時にいくら祈っても、すぐには神様から答が返ってこないということもあります。しかしこのヨセフのように、何年も後になって驚くような神様の計画が明らかになることがあるのです。私たちの思いをはるかにこえたところで、私たちの人生を良い方向に導いてくださる神さまを信じていきましょう。

2、恨みを捨て、心をまっすぐに生きる。
 ヨセフは自分をひどい目に遭わせた兄弟たちが目の前にあらわれたときに、「今こそ復讐のチャンスが来た」とは思いませんでした。彼の心には恨みはまったくなく、むしろ家族を救うためにはどのような形が良いかを冷静に考えていました。まっすぐな心で現状を見ることができたのです。考えてみればヨセフも当初は、見た夢をすぐに「ねえねえ聞いてよ。」とあたかも自慢するように話していた自制心のない人でした。おそらく彼の身に起った様々な苦難が彼の人格を磨き、自制心を鍛えていったのでしょう。私たちも心の中の苦い思いを捨てて、神様の御心を行うまっすぐな心を求めていきましょう。

3、神様としっかりと結びつく。
 長く沈黙されているようにみえた神様のご計画が突如としてヨセフの人生に表され、完成されていきました。それまでの悪い状況のなかで、また良い状況にあっても、ヨセフをまっすぐに立たせ続けたのは、神様との不断の交わりです。日頃から神様と密接につながっていることが、人生の苦難を乗り越え、成功をおさめる鍵です。この1週間も神様としっかりと結びついていきましょう。

今週の暗証聖句
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55:9