その164 川を渡れ!! 

April 22 [Sun], 2018, 10:30
川を渡れ! 

ヨシュア 3章1−17節
3:1 ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。
3:2 三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、
3:3 民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
3:4 あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、【主】が、あなたがたのうちで不思議を行なれるから。」
3:6 ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
3:7 【主】はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。
3:8 あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
3:9 ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、【主】のことばを聞きなさい。」
3:10 ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。
3:11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。
3:12 今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。
3:13 全地の主である【主】の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。


このヨルダン川を渡るという行為は、私たち信仰者に何かを教えています。新しいことを始めること、未知の世界へ足を踏み入れること、障害物をものともしないで、信仰によって立ち向かっていくことなどが、このヨルダン川を渡るという行為を表しています。信仰を持ってこの地上を生きるうえで、いつまでも同じ荒野をぐるぐると回っているだけではいけません。挑戦して、乗り越えて、新しい領域に進んでいかなければならないときがあるのです。

川を渡るために…
1、 きよめを求める。
3:5 「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」
神様の素晴らしい御業を体験するにあたって、ヨシュアが、イスラエルの民に最初に命じたことは、身を清めなさいということでした。彼らは神様を信じていました。しかし彼らが神様の約束された地に入るためにはまだ必要なものがありました。それが清められるということでした。
聖書は明確に、私たちすでに救われた信者にも、さらにきよくなるように。神様を悲しませる罪から離れるように。自分をきよめなさいと何度も勧めています。
今朝、主の前で、きよめを求めましょう。

2、 みことばを聴く。
3:9 「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」
神様は一見ユニークな方法で、イスラエルにヨルダン川を越えさせようとしています。先頭に祭司たちを立たせて、契約の箱を先頭にして、民たちはその後ろをついてくるようにというのです。これからイスラエルは神さまの言葉の後を行く。神様がくださった教え、戒めから逸れないように進むということではないでしょうか。
今の私たちにとっても、神の言葉であるこの聖書は変わることのない権威と価値のあるものです。神様はこの聖書の言葉を通して語られ、戒められ、教えられ、私たちがそれを尊重し、心から従いたい、守り行ないたいと願うならば、必ず護りと祝福を持って、私たちに臨んでくださるお方です。
御言葉を通して、今が川を渡るときだ、という確信をいただきましょう。

3、行動を起こす。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、
彼らは水が止まるのを待って、確認してから渡り始めたのではありません。祭司たちが箱をかついで、水のなかに足を踏み入れたその時に、奇跡が起こったのです。これが信仰であり、川を渡るということだと聖書は教えているのです。
神様は、私たちに本当に信仰があるか、私たちがまず行動を起こして、この足が水に入るのを見ておられます。それを見てから、ご自身の御業、ご自身の栄光をあらわされるのです。
このお方を信頼して、信仰の第一歩を踏み出す、信仰生活の勝利を勝ち取っていこうではありませんか。

今週の暗証聖句
聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。 ヘブル12:14

その163 選び取る 

April 08 [Sun], 2018, 10:30
選び取る

申命記30:19-20
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
30:20 あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

この聖書の言葉は、モーセが40年の荒野の旅を終えるにあたって、約束の地カナンに入っていこうとするイスラエルの民たちに、いわば遺言のように語っている箇所です。ここでモーセが「選びなさい」と言っていることに注目してください。彼は決して「あなたがたはこれから自動的に導かれて、自動的に祝福されて、自動的に幸せになるのだ」とは言っていないのです。大切なポイントは、チョイス、選択です。選びとる主体は、神の側にあるのではない、私たち人間の側にあるのだというのです。
人間の問題の根底には、「自分の力では何も変えることができない」というあきらめがあります。「自分はこんなふうになることを決して自分で選んだわけではないし、そしてこれからも自分がなりたいようになることを選ぶことはできない」という不満、失望があるのです。
しかし今朝私たちは、自分自身の選択によってみずからの歩みを決定することができることを覚えましょう。遺伝子や育った環境で人生が決まってしまうのではないのです。もちろんある程度の影響を受けることはあるかもしれません。しかし、それで100%人生を支配されるのではありません。私たちは、たとえどんな状況に置かれていようが、私たち自身の選択によって、神を選び、いのちを選び、祝福を選び、自分の人生を高め、良い方向へ軌道を修正することができるのです。

1、いのちを選ぶ=キリストの十字架を信じる。
最初の人アダムが食べてはならないと言われた木の実を食べることを選択したことによって、人間は神から離れて生きなければならなくなりました。人間はこの地上で有限の存在として、いつかは死ぬ存在として定められてしまいました。心の中に神を持たずに、死んでいく存在だということ。これが人間の苦しみの根源です。私たちがゴールとして死しか選べないのであれば、私たちの人生は絶望であり、何をやっても同じことです。
しかし神は私たちにいのちという選択肢をも用意されています。ご自身の御子イエス・キリストをあの十字架の上で苦しませ、死なせ、葬らせ、そしてよみがえらせることによって、このことを信じるすべての人にもう一度新しいいのちを与えようとされているのです。

祝福を選ぶために...
2、神を第一とする。
私たちは日常生活の中で、神を第一とするか、それとも第二第三とするか、常に選択を迫られていることを忘れてはなりません。

3、求める。
神の愛と祝福には限界はありません。「今日は一つ祝福をいただいたからこれ以上望んだらずうずうしい。明日にしておこう。」などと考える必要はありません。子どものように、ありのままの姿で神に大胆に祈り求めましょう。

今週の暗証聖句
だから、 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、 それに加えて、 これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33

その162 十字架に向かうイエス 

March 25 [Sun], 2018, 10:30
十字架に向かうイエス

マタイ26:1-16

26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。
26:6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

今週はイエス・キリストが十字架に架かられる受難週です。私たちの信仰の中心は、あくまでもこのイエス・キリストの十字架です。来週の復活祭に向けてイエス・キリストの十字架の跡を追っていきましょう。

1、十字架を予告するイエス。
聖書は、イエス様はただ偶然に、あるいは不幸にして十字架に架けられたのではなく、ご自身が明確に、十字架につけられることを知っておられ、弟子たちに予告しておられたと教えています。このような方は他にはおられません。
このことが意味することは、イエスというお方が何か重要な目的、そして強力な意思を持って、その死、十字架へと一直線に歩まれたということです。
イエス様が何故十字架で死ななければならないのか。そのことを明確に表わしている鍵となる言葉が2節の「過越の祭り」という言葉です。イエス様は、ご自身がこの過越しの羊としてほふられ、十字架のうえで流される血潮によって、信じる者すべてを罪の奴隷、死の奴隷状態から解放しようとされたのです。

2、十字架に向かうイエス様に対する人間の行動
 @祭司長・長老たちの姿
イエス・キリストを拒絶する人間の姿。
彼らはイエス様を神の子、救い主として認めることはできませんでした。反って民衆に人気のあるイエス様を見て妬み、このままでは宗教的指導者としての自分たちの地位があやうくなると思ったのです。邪魔者は殺してしまえ。これが彼らの下した結論でした。
私達すべての人間の心に、イエス様を拒絶する心があるのです。
 
A香油を塗った女性
イエス様の御心を悟り、精一杯の捧げものをする人間の姿。
この女性はイエス様が十字架を予告する言葉を聞いたに違いありません。そしてストレートにそのことを受けとめることができたのです。これからイエス様がなさろうとしていることは、決して武力で人々を支配しようとすることではなくて、過越しの日に、ほふられてゆく小羊として、その血潮によって人々を罪の支配から解放しようとすることなのだということを悟ることができたのです。そしてそのことに対して自分ができる精一杯のこと。それが高価な香油をイエス様に捧げるということでした。
 
Bユダの姿
十字架の意味を悟らない人間の姿
弟子たちにはイエス様の十字架の予告を受け入れることはできませんでした。もしそんなことになるのなら、イエスはもう利用価値のない男だ。売ってしまえ。ユダはこのように考えたのかもしれません。イエス様と46時中一緒にいながら、イエス様が十字架に付けられるという意味を理解することができなかったのです。
あなたは今十字架をどのように理解しているでしょうか。十字架に向うイエスに今何をするでしょうか。祭司長たちのように拒絶しますか。この女性のように何かを捧げますか。ユダのように見放しますか。

今週の暗証聖句
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の
十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと
思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを
見出すのです。         マタイ16:24−25

その161 愛の共同体 

February 25 [Sun], 2018, 10:30
「愛の共同体」

ヨハネの福音書13:34-35
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

イエス様は十字架につけられる前の、いわゆる最後の晩餐の席で弟子たちに「新しい戒め」として互いに愛し合うように命令されました。どうしてイエス様は繰り返し弟子たちに、愛し合うように求め、そして17章で、「彼らを一つにしてください」と祈られたのでしょうか。

1、一人では生きていけないから。
天地創造の際、神様は最初の男性アダムを見て言われました。「人が1人でいるのはよくない」(創2:18)。そして助け手としてエバを与えられました。この時から人は、1人では生きていくことができない存在なのです。そして私たちクリスチャンに、兄弟姉妹と呼びあうことのできる神の家族を与えてくださったのです。
この地でめぐみ教会が建てあげられていること。それは一人では守りきることが困難な信仰を、互いに励まし合い、祈りあうことのできる愛の共同体を建てあげるということです。信仰者が週に一度でも共に集まり、主を礼拝する。そこにクリスチャンならではの互いに受け入れあい、愛しあうという掟が存在するということを忘れてはなりません。互いに愛し合う愛の共同体となりましょう。この地に、愛の共同体である教会を建てあげあいましょう。

2、聖霊を招くから。
 イエス様はこのヨハネ13章から16章の告別説教の中で、もう一つ大切なことを教えられました。それは聖霊というもう一人の助け主が来られるということです。イエス様は弟子たちが自分の力で何かできるとは考えておられませんでした。聖霊によらなければ、何もできないと知っておられたのです。そして、この聖霊というお方が、どのような条件のときに、彼らを訪れるかを教えられたのです。聖霊という神は、人間が互いの弱さを認めつつも、互いに愛し合う、一つとなるところに好んで訪れてくださり、私たちを変え、私たちに力を与え、喜びを与え、導かれるのだと教えられています。
イエス様が建ててくださる教会には互いに愛し合い、心を合わせて祈るクリスチャンたちが必要です。そこに聖霊が来てくださるのです。愛の共同体は、聖霊に満たされる教会です。聖霊に訪れていただくために、互いに愛し合う、愛の共同体を目ざしてまいりましょう。

3、最大の伝道だから。
「世の人たちは、どうやってあなたたちをクリスチャンと認めるのか。どうやってあなたたちがキリストの教会だと認めるのか。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが、ああこの人たちは本当にキリストの弟子だ、クリスチャンだ、教会だと認めるのですよ」と、イエス様は教えられたのです。愛し合い、一つになっていることこそが、最大の伝道です。 
 神様は必ずこの日本の教会をも顧みて、「こういうことはかつて見たことがない」と言われるような偉大なリバイバルを与えてくださると、私は信じます。
そのために、このイエス様の戒めを守りましょう。聖霊に好まれ、最大、最強の伝道ができるような、そんな教会を目指して、突き進んでまいりましょう。

今週の暗証聖句
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。         1ヨハネ4:12

その160 壁を破る教会 

February 18 [Sun], 2018, 21:23
 「壁を破る教会」

エペソ人への手紙6:10-20
6:10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
6:20私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 教会の本当の敵=悪魔。

パウロはこの手紙の中で一貫してはっきりと目に見えない、霊的な存在、私たちを惑わして、悪い方向に導こうとする悪しき存在について教えています。そしてこの敵に警戒するように呼びかけています。この敵の究極的な破壊のターゲットは教会です。私たちはスクラムを組んで、本当の敵が誰なのかをしっかりと見極めなければなりません。パウロはここで2回も神の武具を身に着けなさい。敵の攻撃に備えなさいと教えています。

神の武具リスト
@  真理の帯。
 イエス様は「わたしが道であり、真理であり、命である。」と言われました。イエス様があの十字架の上でなされた救いの御業が私たち人間のためであったことを、私たちは知っています。
A  正義の胸あて。
心臓、つまり心を守るところです。
B 平和の福音の靴。
この教会は、この福音を伝えるために働かなければなりません。
C 信仰の大盾。
火矢とは私たちの心の内を攻撃する疑いや、恐れといったものです。そのような攻撃に対して、信仰をしっかりと持って、あなたの心を防御しなさいと聖書は教えているのです。
D 救いのかぶと。
クリスチャンは自分が確実に救われているという、確信と確証を持たなければいけません。
E  御言葉の剣。
私たちは、日々聖書の言葉を心に蓄えて、とっさの時に剣を抜けるように備えていきましょう。

本当の敵悪魔に対抗し、神の武具を身につけ、悪魔に造られた様々な壁を打ち破るために私たちがしなければならないこと、それは祈りです。パウロは祈りこそが、教会を一つにし、教会に力を与え、教会に壁を打ち破る勝利を与えるのだと知っていたのです。

1、どんなことでも、そしてどんな時にも、私たちは祈るべき。
祈りの内容に関して、神様は制限されているわけではありません。どんなことでもお願いしてよいのです。そしてどんな時でも祈ってよいのです。
2、自分のためだけでなく他のひとたちのためにも祈る。
 すべての聖徒のために、すべての教会員のために、すべてのクリスチャンのために、すべての教会のために、私たちは祈らなければならないのです。
3、牧師やリーダーたちのためにも祈る。
伝道者パウロが「私のために祈ってください。祈ってください。」と2回もお願いしています。彼は釈放されるように祈ってくださいと言ったのではありません。神の言葉を大胆に語ることができるように祈ってくださいとお願いしたのです。
 
今週の暗証聖句
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
使徒4:31

その159 私の教会 

February 11 [Sun], 2018, 10:30
「私の教会」

マタイの福音書16:13-19
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 「あなたたちは私を誰だと思っているのか」と尋ねるイエス様に対して、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」とペテロは告白しました。そのペテロに対して、「あなたはペテロ(岩)だ。私はこの岩の上に私の教会を建てます」とイエスは宣言されました。

1、教会はキリストのもの。
 イエス様は言われました。「私は…私の教会を建てます」。イエス様は「私が天に帰ったあと、自然に教会というものができるだろう」とは言われなかったし、「あなたたちの集まりが、教会と呼ばれるようになるだろう」とも言われませんでした。明確な意思を持って、「この私が、私の教会を建てるのである」と初めてここで宣言されたのです。ですからすべての権威はキリストにあるということができます。その後イエス様は「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ハデスとは死者が行くところであり、門とはその死の力の象徴です。「死の力をも打ち破る権威と力を、私が建てる教会は持っているのだ」と宣言されたのです。
「私が建てる」と言われる以上、すべての責任はイエス様が持ってくださいます。人間が建てるものなら、限界があるでしょう。人間の知恵や力にも限りがあり、失敗や罪を犯すことも、ときにはあるでしょう。しかし最終的に教会は、イエス・キリストが責任を取ってくださるところなのです。死の力をも打ち破るご自身の権威と力を行使してくださるところなのです。
私たちは何よりも、このイエス・キリストの権威に進んで従う群れとなりましょう。イエス様の霊が自由に働かれる教会。イエス様の御心通りに、歩んでいく教会。人間的な思いを一切排除して、ただただイエス様を愛し、イエス様に従う教会となってまいりましょう。

2、教会は私たちのもの。
 イエス様はご自身をキリストと告白したペテロに対して、私はこのペテロの上に教会を建てると言われました。私たちは、ペテロ個人の上にということではなく、キリストを告白する信仰告白の上に教会が建てられると考えています。大切なことは、キリストを主であると告白する信仰です。この信仰なくしては、イエス様は教会を建てられることはないのです。
 キリストの教会にとって、私たち一人ひとりは欠かすことのできない要素です。教会というところは、単に、出席をするとか、献金するとか、日曜日の午前中を一緒に過ごすということ以上に、一人ひとりに、その人にしかできない役割が与えられているのだということをみることができるのです。誰一人いてもいなくても良いという人はいないし、皆が同じことをするのではありません。
 40周年を迎えるこの年、リバイバルに備える教会の第一歩を踏み出しましょう。「収穫は多い、しかし働き人が少ない」と主は言われました。収穫の時が迫っています。長い間祈ってきた、家族、友人、地域の人たちが教会に押し寄せるようになります。人生が変えられます。本当の命を見出します。喜びが溢れます。そのような教会になります。信仰を持って、ご一緒にキリストの体である教会を建て上げてまいりましょう。

今週の暗証聖句
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。               
1コリント12:27

その158 いつまでも残るもの イエスのたとえ33 

February 04 [Sun], 2018, 10:30
「いつまでも残るもの」
イエスのたとえ33

マタイの福音書24:32-35

24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 エルサレム神殿の崩壊を予告されたイエスに、弟子たちはそれが「いつ起こるのか」と質問をしました。

1、世界は完成される。
 キリスト教の歴史観は、「神が始められたものは、神が必ず完成される」ということです。確かにこの世界には様々な問題があります。不完全なことがたくさんあります。「神様がいるならどうしてこのような苦しみだらけ、矛盾だらけの世界になったのだ」と言う人もいます。その原因は罪です。創造主である神さまから離れてしまっていることが、神様と人間の関係だけでなく、全ての被造物に致命的な影響を与えているのです。しかしこの状態が永遠に続くわけではありません。世界を造られたイエスさまが、再びこの地に戻られることによって、必ず不完全なこの世界を完成してくださるのです。イエス様の十字架と復活を信じ、神さまとの関係が回復されている人にとって、その時は喜びの時です。あらゆる苦しみから解放される時です。私たちクリスチャンはこの完成の日を待ち望んでいるのです。

2、その日が近いことを覚えなければならない。
 イエスさまがここで警告されていることは、私たちはその日が近いことを悟り、備えていなければならないということです。イエス様がお戻りになる時が、具体的に何年何月何日かということは誰も分かりません。しかし私たちが目で見えること、感じることを通して、その日が近いことを知ることができるはずだと、イエス様は言われるのです。他にも多くの「たとえ」を使って、信仰者たちに目を覚まして祈っているようにと、イエス様はくり返し教えておられます。
 私たちは毎日の生活の中で、主なるイエスとしっかりと繋がっている必要があります。心をそらさずに、いつもまっすぐにイエス様と向き合いましょう。

3.永遠に残るものを信じよう。
24:35この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
 この言葉は私たち人間が最終的に頼りにするべき人生の土台、どのように生きるべきかを選び取る基準は、聖書だけだと教えています。私たちは目に見えるものに心を奪われ、惑わされ、進む道を間違えやすいものです。しかしキリストの言葉にこそ、絶対にブレることのない人生の勝利の鍵と力があるのです。これからも聖書の御言葉をしっかりと握りしめて行きましょう。
 そしてこの譬えが私たちに促していることは、決して「信じる者だけが助かれば良い」ということではないことを覚えましょう。終わりの日までに残されたときに、一人でも多くの人がイエス様と出会い、創造主なる神様との関係を回復するように、私たちは福音を宣べ伝える使命が与えられているのです。
世界が完成されるときを待ち望みながら、「その時までに為すべきことをさせてください」と、聖霊の力を求めていきましょう。主が来られる日を恐れるのではなく、喜んで迎えられる人が一人でも多くおこされるように、この「良き知らせ」を伝えましょう。

今週の暗証聖句
24:14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

その157 信仰の実、妥協の実 

January 21 [Sun], 2018, 10:30
信仰の実、妥協の実 

創世記21:1-19

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
21:15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、
21:16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。


1、具体的なもの(こと)を信じる。
信仰はただ私たちを救う力があるだけではなく、この地上で私たちが神の栄光を表すために行使する偉大な力があります。それはいうなれば創造の信仰です。無から有を生み出す信仰です。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。ヘブル11:6

この信仰とは、ただ天国に行けるという信仰ではなく、私の神は偉大な神だという信仰です。人間にはできないことも神にはできるという信仰です。同じ信仰を持つのならば、大きな信仰、神に喜ばれる信仰を持とうではありませんか。アブラハムは75歳のときに、子どもができるという具体的なことを信じました。そしてその実が結ばれました。私たちも具体的なことを信じて、それが実現することを見ていきましょう。

2、忍耐を持つ。
アブラハムは75歳で約束を受けて、その信仰が実を結んだのは100歳の時でした。実に25年間約束を待ち続けたのです。状況は少しずつよくなっていたのでしょうか。その反対です。もっと早く息子が生まれていれば、何の問題もなかったようなことが次々と起こりました。そのような中で、彼はじっと忍耐し、待ち続けたのです。
聖書にはそのほかにも、忍耐を強いられた多くの信仰者が登場します。中には自分が生きているときには成就しないで、死んだあとに、実現したというものもあります。彼らは忍耐を持って、地上の生涯を生き続けたのです。
私たちも、具体的なことを信じ始めたら、それを持ち続ける忍耐が必要です。私たちの考えるベストのタイミングと、神様のタイミングは違うものです。そして神様のタイミングのほうが、正しく、適切なのです。

3、実を結ぶ一連の行程は、自分の成長の過程であることを覚える。
信仰の実は、ある日何もないところから生み出されるのではなく、自分自身の成長に従って結ばれていくのです。生えたばかりの細い枝は、大きな実を実らせることはできません。枝が実の重さに耐えられないからです。同じように、大きな信仰の実を結びたいのであれば、枝である私たち自身が、太い枝にならなければならないのです。
私はぶどうの木。あなたがたは枝です。わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。ヨハネ15:5
私たちは日々を大切に過ごさなければなりません。日曜の朝だけではなく、毎日の生活の中にイエス様を迎え入れて、日々成長していくことができるように望んでいきましょう。

信仰の妥協は災いを招く

あなたにとってのイサクとは何でしょうか。イシュマエルとは何でしょうか。信仰を選び取ったときに素晴らしい祝福があることを信じてこれからも信仰生活を続けていきましょう。

今週の暗証聖句
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。ヘブル11:6

その156 召された者への約束 モーセB 

January 14 [Sun], 2018, 16:42
召された者への約束 

出エジプト4:1-17


4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『【主】はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」
4:2 【主】は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4:4 【主】はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
4:6 【主】はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。
4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。
4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」
4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。
4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
4:17 あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

 モーセは神様の「エジプトへ行ってイスラエルを救え」という命令を恐れて断りました。「彼らは私の言うことを信じないでしょう」。神様はモーセの手のなかにある杖をへびに変えたり、手を病気にしたりすることで、モーセを遣わすのは神様ご自身であることを約束されました。しかしモーセは自信を持てず「私は口が重いのです」と言ってその任務を果たす能力がないと訴えます。神様は「あなたの兄アロンがあなたの代わりに話す」と励まされました。

1、ともににいてくださることを証明される神。
神様は決して、言葉だけで行って来いと命じられる神なのではなく、一緒にいて下さることを明らかにしてくださる方です。それを聖書はしるしと呼んでいます。神様が生きておられること、神様が一緒にいて働いてくださることを、しるしを持って証明してくださる。これが、神様がモーセを遣わされたという確かな証拠でした。神様は私たちの人生の中でも確かなしるしを持って働いてくださるのです。私たちは人生の節目節目で、神様が自分の人生に介入してくださっていることを体験し、「ああ確かに神様は自分をここに導いておられたんだな。ああ確かに神様はこのような私を覚えて、愛して、守ってくださっているのだな」、と確信することができるのです。「あなたの手にあるものは何ですか?他の人から見れば何の変哲もないものかもしれない。価値のないものかもしれない。でも私はそれを通して、私があなたと一緒にいることを現すことができるのですよ」と語りかけてくださっているのです。人よりも多くを持っている必要はありません。人よりも価値のあるものを持っている必要もありません。神様は皆さんの持っているものを通して、ご自身の御業を現すことのできるお方です。この神様だけを見上げて、歩んでいきましょう。

2、必要なものを与えてくださる神。
 モーセはなかなか承知しませんでした。「他の人を遣わしてください。」神様はそれでもあきらめずに、「アロンというモーセの兄を遣わすから、彼に代わりに語ってもらいなさい」と言われたのです。神様が人を選ぶ基準というのは、人間のように容姿や、能力ではないのです。そして例え能力が劣っている部分があったとしても、神様は必要なものはすべて与えてくださるのです。 
私たちも、人の目から見るならば、欠けたところだらけの弱い人間かもしれません。とても神様のお役に立つような能力はないように見えるかもしれません。しかし、神様の目から見るならば、能力だとか、年齢などは関係ないことがこの聖書を見れば分かります。大切なのは神様から召されているかどうかです。もし足りないものがあるのなら、神様が与えてくださいます。お金が足りないならお金を与えてくださいます。能力がないのなら、その能力を神様が与えてくださいます。一人では何もできないなら、神様がふさわしい助け手を与えてくださるのです。神様が望んでおられることは、私たちが恐れないで、逃げないで、「神様、ここにおります。あなたが望まれるのでしたら、どうか私を用いてください。どうか私を遣わしてください。」という素直に反応することのできる信仰なのです。神様が私たちに必要なものをすべて与えられると信じて、ますます熱心に、神様の業に励んでいきましょう。

今週の暗証聖句
【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 U歴代 16:9

その155 責任をとってくださる神 

January 07 [Sun], 2018, 16:45
責任をとってくださる神

主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。 
申命記2章7節                   

今年一年、教会で掲げられる標語です。私たちは4月に創立(再開拓)40周年を迎えます。ここまで導かれた歩みを振り返り感謝しつつ、神様がこれからどのように導いてくださるか期待してまいりましょう。
 40年におよぶ荒野での生活が間もなく終わり、民たちは新しい指導者ヨシュアの下で、ヨルダン川を渡り、約束の地に入ろうとしています。モーセはそれまでの40年間を振り返り、神様が責任を持って護ってくださったことを思い出すように命じています。

1、あわれみ深いから。
 エジプトから救い出されたイスラエルの民たちでしたが、決して良い人々ではありませんでした。何度も神様に逆らい、悲しませ、怒らせたのです。そもそも40年も荒野で生活しなければならなかったことこそがその証拠です。しかし神様は、彼らを決して見捨てることはしませんでした。約束の地に連れてゆくというご自身の約束を最後まで果たし、民たちの生活のすべての必要を満たしてくださったのでした。それはすべて神様があわれみ深い神だからです。
 私たちの信仰生活の歩みも、決してすべてに渡って非の打ちどころがないということはないでしょう。時には失敗し、神様を悲しませてしまうかもしれません。しかし神様は憐れみに富んだお方なのです。この一年も、この憐れみ深い、恵みに満ちた神様を信じていきましょう。

2、頼っているから。
 荒野で何度も神様を悲しませた民たちでしたが、同時に彼らにとって、神様以外に頼ることができない状況であったことも事実です。彼らは毎日の生活を天から降るマナに頼り、昼は雲の柱、夜は火の柱によって護られ、導かれていたのです。神様は、ご自身を頼り従う者たちを絶対に見捨てることはなさらず、責任をとってくださるのです。
 私たちも、神様を信頼し、神様に頼るならば、決してダメになることはありません。神様はご自身を頼る者を失望させることはなさいません。この一年も神様を信頼していきましょう。

3、使命があるから。
 神様はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを護られましたが、それは決してイスラエルだけを幸せにするためではありません。イスラエルを通して全人類にご自身との回復(救い)をもたらそうとされたのです。イスラエルには使命があったのです。使命があったからこそ、ときには厳しく戒める必要がありました。
 私たちも、救われているのは自分たちだけが天国に入り込むためではありません。多くの人に福音を伝えるという使命があります。私たちはこの40年間、この使命に立ってきたからこそ、神様はこの教会を護り、何一つ欠けたものはなかったと言える状況にしてくださいました。これからもこの使命に生きる教会、そして信仰者として歩みましょう。

今週の暗証聖句
全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。マルコ16:15