ローマの靴屋さん-最終章 

2010年03月15日(月) 18時45分
ローマ滞在の最後の夜、明日はいよいよ日本へ帰ることになる。
こういう時は普段やらないことをしてしまうものだ。
妻はスエードの靴に、部屋に備品として置いてあった
靴墨を塗ってしまった。
靴の表面がテカテカに光っている。妻は頭を抱えて大騒ぎしている。

今宵はローマ滞在の最後の夜。添乗員に教えてもらった
イタリア料理店に夕食を食べにいくことになっている。
夫婦でおしゃれして行く予定なのだが、その矢先にトラブルが・・・

私は靴を持ってフロントに行き、「このホテルの近くに靴屋さんが
ありますか?」 と聞いた。幸いなことに道路をはさんだ向かい側に
あるという。急ぎ足でその靴屋さんに行った。店はガラス張りの上品な
店構えだった。にこやかに若い女店員が私を出迎えてくれた。

私か゛妻の靴を見せながら説明すると、彼女は両手を左右に振って
靴の修理はやらないと言った。でも何軒か先に靴の修理屋があるという。
私はその店に走って行った。たしかに靴の修理屋があった。
一間ほどの間口の店。ガラスごしに店主らしい男の背中が見えた。



片開きのドアを開けて、私は店に入った。店内にはジャズの曲が流れて
いた。他に客もいず、店には店主の彼1人だけだった。仕事の作業中だった
彼に 「ボン・ジョルノ」 と私は声をかけた。振り向いた彼は60才ぐらいで
端正な顔をしていた。彼の穏やかな表情と仕草が、私の緊張感をなくして
くれたので、一気に私は事情をつたない英語で説明した。

彼は私から妻の靴を受け取り、しばらく見ていたがやがて仕切りの奥の
道具室のほうに行ってブラシと小ビンを持ってきた。そしてビンの液体を布に
ふくませて靴を拭き、ブラシッシングをする。その作業を数回繰り返していた。
私はその間、ただ黙って彼の手元を見ているだけだった。
作業は時間にして15分ぐらいだったと思う。彼は少し顔をほころばせながら
私のほうに靴を差出して、靴墨を落とせるのはこのへんまでかなと言った。

私としては十分満足できるくらいきれいになっていた。
修理代はいくらかと彼に聞くと、彼は代金はいらないと言う。それでも私は
何度もお金をとってくれと言ったのだが彼はいらないと言い張るのだ。
私はとっさに、何かお礼の品を持ってこようと考え、「何時まで店はやっている
のですか?」と聞くと彼は 「妻が夕食を作って待っているのでもう店を閉めて
帰る」 という。私は本当に感謝を込めてお礼を言い、彼に握手をもとめて
彼の手を握り締めた。

ホテルに戻った私は、今までのいきさつを妻に話した。
彼女は自分の靴か゛きれいになった事を喜んだ。
それよりも靴屋さんの彼に、是非お礼をしたいと言った。
そして翌日のローマを発つ朝、私たちはホテルの近くの酒屋でワインを買い
二人で靴屋に向かった。はたして店は開いていた。靴屋の主人の彼はもう
作業台にむかって座っていた。店に入って私は 「昨日のお礼です。今晩でも
奥さんと食事の時に飲んでください」 とワインを差し出した。
彼は戸惑ったようだったが、にこやかにワインを受け取ってくれた。

旅はいろんなハプニングがおきるが、いい人との出会いが一番だと私は思った。
そういう出会いは何年たっても色あせることなく、心に残っている。
だから、又私は旅に出たくなる。








ローマの靴屋さん-9 

2010年03月12日(金) 18時01分
ローマ、2日目の観光は映画ファンの私には楽しみの日である。

映画 「ローマの休日」 でオードリー・ヘプバーンが扮するアン王女が
ジェラートを食べた有名なシーン、あの 「スペイン広場」 は観光客が
大勢集まっていた。なぜイタリアに「スペイン広場」なのか。それは、
なんてことはない、近くにスペイン大使館があったからだ。
現在は保護の為、広場での飲食は禁じられているので
ヘプバーンと同じ様な記念写真は撮れない。

グレゴリー・ペック扮する新聞記者が思わぬことから、アン王女と
ローマの街で知り合い、市内の観光めぐり。友達のカメラマンが隠しカメラで
王女のスクープを撮っていく。しかしアン王女がローマを去る記者会見の場で
カメラマンの彼はアン王女と握手をする時、そっとネガフィルムを手渡す。
なんとも素敵なエンディングだった。



「トレビの泉」 は想像していたより小さい広場にあった。
ポーリ宮殿の壁と一体になったデザインであることも想像と違っていた。
中央に水をつかさどるポセイドンが立ち、左に豊饒の女神ケレス、右に
健康の女神サルースが配置されている。
観光客は泉を囲むように建つ建物の店の前に並んで立って見物していた。
でも、ほとんどの人が順番にコインを泉に投げ入れていた。もちろん私たちも
投げ入れた。



はたして、私たち夫婦はその後、ふたたびローマに訪れることか゛できたのである。

ローマの靴屋さん-8 

2010年03月09日(火) 18時46分
ローマ市内にある世界最小の主権国家 「バチカン市国」 の
サン・ピエトロ大聖堂にも訪れた。サン・ピエトロは 「聖ペトロ」 の意味で
使徒ペトロ(ペテロ)の墓所があったところにサン・ピエトロ大聖堂建てられたという。
創建されたのは4世紀、古代ローマ皇帝コンスタンティヌス1世による。
カトリック教会の総本山である。大聖堂の前には広大なサン・ピエトロ広場がある。



ガイドと見学に向かう私たちに添乗員は、「集合時間の30分前には建物を出ること」
と注意された。広場を歩いて戻るには時間が思ったよりかかるということだ。
現在の聖堂は1626年に完成した2代目で、完成までにはミケランジェロなど巨匠が
主任建築家を引き継いできたていう。



聖堂の中は自然採光の明かりのなかに、荘厳な数多くの彫像が飾られている。
その中でも、私には入り口近くにあった、ミケランジェロの大理石の 「ピエタ」 は
今でも記憶に強く残っている。

ローマの靴屋さん-7 

2010年03月07日(日) 15時21分
旅行最後の滞在地 「ローマ」 に私たちは入った。

車窓から見えるローマの街は、大袈裟にいうと古代ローマに
タイムスリップした様な感覚になるほど歴史的な建物、彫像が
立ち並び、かなりの興奮を覚えた。



最初に見たのは 「コロッセオ」 古代ローマの円形闘技場だった。
まず、その大きさに驚いた。観客45000人を収容できたという。
天井は開放されているが日除け用にテントを張る設備もあったという。
そして闘技場では命をかけての剣闘士同士の戦いがあった。
猛獣を相手にも戦ったという。
また競技場に水を張り模擬海戦も行われたという。

当時のローマ皇帝はローマ市民の人気を得ることが大事で、
コロッセオでは毎日のように市民サービスの為の、今思うと
残酷な闘技会が行われていたのである。
映画が好きな私は、目の前に建つこのコロッセオを舞台にしたハリウッド映画を
若い頃から何本も観てきた。最近では 「グラディエイター」 がそうである。

「コロッセオ」 は半壊状態だが、古代の完全な状態に再現されることはなく、
このままの形で保存されるそうである。

ローマの靴屋さん-6 

2010年03月06日(土) 11時13分
フィレンツェ滞在の次の日の朝は、私たちは早起きして朝食も早めに済ませて
ホテルを飛び出した。添乗員もこの日は気合が入っていた。

そのわけは今日の午前中は 「ウフィツィ美術館」 の見学をするからだ。
すごい人気のある美術館だから早くから並ばないと見学できなくなる恐れが
あるというのだ。添乗員は私たちに 「走れ!」 とハッパをかける。
おかげで私たちは、かなり前の方に並ぶことか゛できた。

美術館のガイドをしてくれるのは現地に住んでいる日本人だった。
イタリアには、このような人が沢山住んでいるらしい。おそらく美術系の
学校を出た方で、イタリアに惚れ込んで住み着いてしまったのだろう。



絵画や彫刻は自分が趣味としてやっていないこともあるのだと思うが、
あまり得意な分野ではない。でも有名なものは少しは知っている。
ボッティチェッリの 「ビーナスの誕生」や「春」 は、絵そのものが大きく、
見ごたえがあり印象に強く残った。

かつてはフィレンツェ共和国の政庁舎だったヴェッキオ宮殿もゴシック様式の
重厚な建物だった。現在は市庁舎としても使用されている。
メディチ家の主はこのヴェッキオ宮殿からアルノ川にかかるヴェッキオ橋の上の
渡り廊下をを経て私邸のビッティ宮殿まで自分の姿を外界にさらすことなく
移動していたそうだ。それだけ敵も多く危険を感じていたのだろう。



私たちのホテルはヴェッキオ橋の近くだったので、橋の上にあるいろいろなお店に
歩いて遊びに行くことができた。ひとつひとつの店が間口一間あるかないかの小さな
店ばかり。ここでもプレゼント用のアクセサリー等の小物を買うことができた。

ローマの靴屋さん-5 

2010年03月02日(火) 18時38分
フィレンツェの 「フェラガモ」 の本店で私は見覚えのある女史を見た。
彼女は私に気づいていない様子だ。私自身もよく知っている人だ、ということは
判っているのだが、すぐに認識できなかった。

彼女は娘さんらしい女性とアクセサリーのショーケースを見ながら
楽しそうに話している。私はゆっくりと彼女のほうに向かって歩いた。
歩きながら必死に思い出そうとしていた。すると彼女も私の視線を
感じたのかこちらを向いた。お互いに1mほどの距離だった。

そして目と目が合った時、記憶の扉が開いた。彼女の口から出た言葉は
「えー!・・・gomarakuさん、どうしてここに!」 「西田さんこそ。いやー!
こんなところでお会いするなんて・・・」 私も驚いた。彼女は私の店の得意先で
ある、国の技術研究所の調達課長をしている。月に2〜3回は仕事で会っている人だ。
一緒にいた女性はやはり娘さんだった。 「ここで会ったことは、職場の人には内緒に
してね」 と彼女から頼まれた。今回の旅行は職場に知れるとまずいようだった。
私はもちろん快諾した。



西田女史はイタリアには以前にも、ご主人と訪れたことがあるらしいが、今回は娘を
つれての旅行にしたという。とても楽しそうに私に話してくれた。
私は二人の買い物の時間をとってはいけないと、そうそうに互いのこれからの旅行の
無事を祈って、その場を離れ妻のところへ戻った。
しかし日本からはるばるときたイタリアで、知った人と会うなんてほんとに世界は狭く
なったと思った。

妻に 「貴方の靴を買ったら」 と勧められた。そういえば、私はビジネス用の黒い靴しか
持っていなかった。一足ぐらいはいい靴を持つのもいいなと思った。
妻と二人で靴の陳列棚を見ていると、店の女性がそばに来て 「よいと思われた靴を
棚から持ってきますよ」 と言われた。私は茶系の靴を指差した。履いてみると、はたして
ちょっと大きすぎた。彼女は私の足と靴を見比べていたが、すぐにその場をはなれて
店の奥に入っていった。しばらくして彼女は靴箱を持って戻ってきた。
履いてみると私の足にピッタリだった。 「オー!ジャスト マイ サイズ!」 お調子者の私は
変な英語をしゃべっていた。傍で妻があきれたような顔をして苦笑していた。

でも高価な靴を履く機会は私には滅多にない。今、現在にいたるまでその靴を履いたのは
10数回しかなかったと思う。













ローマの靴屋さん-4 

2010年02月24日(水) 18時50分
ベネチアの滞在を終えて次に向かったのは 「フィレンツェ」。

トスカーナ州の州都であり、フィレンツェ県の県庁所在地でもある。
人口36万人の町 「フィレンツェ」 は観光名所が盛りだくさんで、
見るのがたいへんだと聞かされている。

この町の名前は、ローマ時代につけられた 「フロレンティア」(花の女神)に
由来するといわれている。14世紀頃から金融業のメディチ家が台頭して、
ロレンツォの代に建築・絵画・彫刻の大保護者となりボッティチェッリ、ダ・ヴィンチ、
ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍した。
まさに「イタリアルネサンス」の花開いたところだ。 

そういう芸術の都に私たちは朝、バスで町の中に入った。
やがてバスは中世の城のような建物の前に停車した。
添乗員がマイクでアナウンスした。 「皆さん、この建物が「フェラガモ」の
本店です」。にわかに起きる歓声・・・。芸術よりまず、ブランド品の買い物
というわけだ。



わたしたちツァー客はつぎつぎとバスを降り、足早に1階の店の中に入った。
店内のスタッフは、さすが本店だけあって美男・美女を揃えている。
最初のうちは店内も空いていたが、時間が経つにつれて他の旅行会社の
ツァーの人たちも店に入ってきた。やはり日本人、中国人のツァー客が多い。

私はそこで思わぬ人に出会うことになった。

ローマの靴屋さん-3 

2010年02月17日(水) 18時20分
ベネチア観光の午後は自由行動ということで、
私たちは午前にガイドに連れて行ってもらったコースを、
サン・マルコ広場に向かって、チェックしておいたお店に
入ってプレゼント用の小物を買ったりして歩いた。

サン・マルコ広場の回廊の店を見ながら歩いていると、
「ここでお茶にしよう」と妻が言った。
その店は、1720年創業の最も古い喫茶店 「カフェ・フローリアン」。
現在もサン・マルコ広場の同じ場所で営業している。



喫茶店のドアを開けると、男のウェイターが立っていた。
きりっとした表情で、私たちを迎えた。一瞬のうちにどういう客か
見極めてしまうような感じだ。伝統ある店のウェイターだという誇りが
感じられる。私はちょっと気おくれしそうになったが、妻は私のうしろから
嬉しそうに店の中をのぞいている。いまさら店を出るわけにはいかない。



私は、「大人・二人、よろしく」 と英単語をならべて言った。彼は両手を
「少し待ってください」という感じで広げて、いったん店の中に入っていった。
そして、しばらくしてでてくると私たちを店の窓際のテーブルにエスコートしてくれた。
私はメニューを見ながら 「どれにしようか」 と妻に言うと、 「カフェ・ラテ」 にすると
彼女は言う。この店は 「カフェ・ラテ」 の発祥の店だと説明された。
なるほど、女性はこういう情報はよく知っているもんだと感心する。

私たちは店を出た後、店の前で記念写真を撮った。もちろん 「カフェ・フローリアン」
の看板をバックにしっかりいれた。



ローマの靴屋さん-2 

2010年02月10日(水) 12時17分
午前中は現地のガイドが付いて、ベネチアの観光だ。

ガイドは日本語の上手な男性だった。イタリア人は明るくて、声も大きく
ジョークもよく出る。日本の時事にも詳しく、すぐに我々をなごませて
彼の話に引き込んでしまう。楽しい観光になりそうだ。

ホテルから徒歩で街の中を行く。道幅は狭く、人が混んでくるとすれ違うの
もやっとという感じだ。そんな道の両側には可愛い店が並んでいる。
妻と私は午後の自由時間に、のぞいてみたい店をチェックしながら歩いた。
最初の観光スポットはサン・マルコ広場だ。



サンマルコ広場はベネチアの中心的な広場とされている。
福音記者マルコに由来するサン・マルコ寺院が正面に見える。
サン・マルコ寺院の角には100mの高さの鐘楼が建っている。
ホテルで朝に聞いた時の鐘は、ここから聞こえてきたのか。

この広場は海抜0.7mに位置し、ベネチアで一番低いところにある。
アクア・アルタと呼ばれる高潮のため10月から4月にかけて
この広場は冠水するといわれている。実際私たちが行った時も
広場は冠水していた。観光客が歩く通路には40cmほどの高床が
設置されていた。
私たちはその通路を歩いてまず、ドゥカーレ宮殿に向かった。

ドゥカーレ宮殿はベネチア共和国の総督邸兼政庁だった建物。
外観はゴシック風のアーチが連続している。
この宮殿は水路を隔てて牢獄とつながっている。
裁判所のあるドゥカーレ宮殿と牢獄を結ぶ橋は 「溜息の橋」 と言われ
この橋を渡った囚人は2度と外には出られないといわれ、
橋の小窓から最後に見る美しいヴェネツィアの姿に、溜息をつくという。



ガイドの彼の話しによれば、現代ではこの橋の下で日没時に恋人同士が
ゴンドラに乗ってキスをすると永遠の愛が約束されるのだという。
このため、橋の下の水路は、ゴンドラでベネチアを観光する時の
定番のコースとなっている。この伝説をモチーフとして、
『リトル・ロマンス』(1979)というアメリカ映画も作られている。

ベネチアを舞台にした映画といえば、
キャサリーン・ヘプバーン主演の 「旅情」 を忘れてはなるまい。


ローマの靴屋さん 

2010年02月06日(土) 18時42分
ずいぶん前に夫婦で行った、冬のイタリア8日間の旅。
初めてのヨーロッパ旅行がイタリアになったのは、
歴史的に素晴らしい建築物があり、美術品の数々が見られること、
そして料理が美味しいことだった。

添乗員付きで、15名ほどのツアーだった。
皆さんも同じだと思いますが、なにか楽しいハプニングがおきることを
自分の心のどっかで期待してませんか?・・・旅の途中で。

日本からの直行便でミラノ空港に夜の7時すぎに着いた私達。
すぐに高速バスに乗り換えて、水の都「ベネチア」へ向かう。
ベネチアまで280キロ、4時間ほどかかる。
冬の夜中の高速道路は路面が凍結している箇所もあるという。

イタリア人運転手は陽気なのか、危険なことに関して鈍感なのか、
すごいスピードで走っている。90キロはでている感じだ。
しかし、時差ボケしている私自信も危険に対する認識も麻痺して
いるようで、ボーとバスの窓からなにも見えぬ暗闇を眺めていた。
途中、休憩をとりながらバスはベネチアの街の入り口 「ローマ広場」の
バスターミナルに到着した。

そこから、数台の水上タクシー(小型の舟)に乗り換えてベネチアの街に向かう。
もっと大型の水上バスがあるはずだが、夜遅いので運行していなかったらしい。
われわれをエスコートしてくれる現地のスタッフは若くてハンサムな
好青年だった。まだ10代のスリムな青年だ。
折から雨も降っていて、暗い寒い夜で、私は正直旅の疲れもあって
不機嫌になっていた。でも女性たちはなんとなくはなやいでいる・・・。
宿泊するホテルの前には船着場がある。やはり運河が主たる交通路で
あるベネチアらしい。



その日はベネチアのホテルに泊まった。
次の日の朝、鐘の音で目が覚めた。部屋の窓を開けると冷たい空気に
のって、また鐘の音が聞こえてくる。サンマルコ寺院の鐘をならしているのだろうか。
窓の下を見ると、運河があり男の人がなにやら掃除をしているのが見える。

その昔、この街からベネチア商人 「マルコ・ポーロ」 はシルクロードを東へと旅たった。
私はその東の国から今、この街 「ベネチア」 に来ている。
P R
2010年03月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:gomaraku
読者になる
Yapme!一覧
読者になる