痛がりの強がり

May 24 [Sun], 2015, 23:21
外に出ると必ず嫌なことがある。
都会の騒音は人の声で出来ていて、それは意味を持っている。
その意味には重さがあって、後頭部に重くのしかかる。
座り込んでしまいたくなっても、大きな街の中でただ座ることができる場所もそうないから途方にくれる。
都会の光はいつまでも眩しいし、においは絶え間なく変化する。
電車の中では肩が触れ合うほどに知らない人と近づかなきゃいけない時があるし、嫌な話題で笑いあう人も見なければいけない。

それでも私が外に出るのは、多分面白いからだと思う。
肉体的にしろ精神的にしろ、痛みは常に美しいものを生み出していく。
悲しみを含んだラブレターの方が、すべてがうまくいっている人が片手間に書いたものより美しい。
私が痛がりで悲しがりじゃなかったら何かを創ろうとはきっと思わないし、後から見返しても苦しいときほど面白いものを残している。
痛がりだから痛いところに行きたいと思う。痛がりは痛がりたいのだ。

荒野の孤独

May 02 [Sat], 2015, 23:08
最近iPadなるものを手に入れまして。
ずっと一緒にいたバイオたんが私に似て引きこもって(インターネット繋げなくなって)半年。
その間できなかったことをしています。

やっぱりiOSは文字の形がきれい!Safariがきれいで楽しくて、でもなんの生産性も持ち合わせてないので、iPhoneのでかい版と変わらんことをしてます。
ブログとかデカイ!嬉しい!デカイことはいいことだ!デカイは幸せだ!
これは所謂バカの思考ですね。

そんなわけで自分のブログを延々読み返しているのですが、
羞恥しかないです。
多分あまりにも家にいてネタがなくて、ちょっと精神的な方向にそれを求め出した結果ですね。
やだ、はずかし。

でもここまで記録していると、自分がどんなこと考えて、どんな感情を抱いていたのかがよくわかっておもしろいです。案外忘れてることも多いし。
きもちわりーくっそだりー文もあるけど いや、それしかないけど、
自分で責め立てていたほど頭にくるようなことは書いてないし。(そう思いたい)

これだけの具体例たちがあるから、いくら謎めかそうと、規則のようなもの、アイデンティティまがいのものも勝手に抽象されるし。
多分それは「孤独」で、もうそれは今や、別の素敵なものに昇華しているな、とも思う。

最近は友達とお喋りするのがすごく楽しい。自分の考えが、水蒸気になって外の空気に混じっていくのがすごく面白い。活字も冷んやりしてて好きだけど、こっちの表現方法も開拓したいぜフロンティア!

唐揚げとチョコレートばかり貪ってたら肌が西部の荒野みたいになったなぁやんでした。

カレー曜日

March 23 [Mon], 2015, 18:04
たまに、たいそうなことを考える。
それと同じくらいの頻度で、しょうもないことを考える。


人とは何か、と考えるのと同じ力量で、カレー曜日はレトルトカレーとして最高だ、と考える。


考えるのと同じくらい真剣に、なにも考えていなかったりもする。


何かをしたことに、何をしなかったことに、確固たる理由があった、気もするし、なんとなくしてみた、ような気もする。

そんなアヤフヤな事実が目の前にある時、「これはどうして?」と訊かれると、まぁ、それも何も考えず、カッコイイ理由で説明してしまう。


どうもそれは、一般に"謙虚さが足りない"らしい。
寡聞な引きこもりにも、世間が謙虚を美徳としているらしい事が理解できる。
だから自分のことを説明するときはあまりカッコイイ理由じゃなくて、「イヤイヤ、ジブンハ、マダマダデスヨ」とか、そういう呪文を唱えるのが無難らしい。

能ある鷹は爪を隠すらしいが、隠し続けて死んでいく鷹もそこそこいる。
果たして彼に爪があったのか、はたまたあの鳥は鷹だったのか、いやなんだかセキセイインコの様にも見えたぞ。

じゃあ、地球上の全部の鷹が爪を丸出しにして「万鷹の、万鷹に対する闘争」をしたらしたで大変だし、そんなことならもう私はセキセイインコとして生きたいと思う。


私が思うに、能ある鷹は爪を隠そうが爪を丸出しにしようが、同じような良い結果を出す。
みっともない理由を人に伝えようが、見栄を張ってカッコイイ理由を伝えようが、どっちも真実(だし、どっちも理由としては足りないもの)なのだから。


カレー曜日は至高だと思う。

イモがどうとか、レトルトカレーにおける最大の難関は家庭的な美味しさをいかにうまく表現するかだ、とか、なんだかムツカシイことを並べて考えた気もするが、
カレー曜日は今日もチョーうまい。



ものくるおしけれ

March 07 [Sat], 2015, 23:47


文章褒められにっこにこ、なぁやんです。
正直このブログ、すっげぇ気持ち悪いこと書きすぎてもうやめてしまおうと本気で考えてたけれど、もうちょっと続けます。


といっても私の日常は客観的に見ればほとんど面白いこともなく、それはそれで穏やかで幸せなのですが、ブログのネタとなるともうびっくりするくらい無いのです。


久しぶりに会った友達(パリピ)にお前の引きこもりは気質だ、みたいなことを言われまして、ほんともっともだ、こいつめっちゃ私のこと見てくれてるやん!って思ってたら大体みんな思ってたらしいです。みんなめっちゃ私のこと好きやな!


というわけで、徒然なるままに私的で具体的な事柄をそこはかとなくかきつくるようなことは、これからあまりないかと思います。

いや、あるかな、そんな決めません。
ネタ欲しい、みんな遊んで!

そういえば、新しくかなり趣味めいたブログを開設しようかどうかとも考えているのですが、そうするとますますこっちに書くことがなくなっちゃうんですよね。ますますこっちが評論もどきになる。
ただ、趣味を全開にしても、趣味が趣味なので論めくのはおんなじなんですけど。




やっぱり私は文章が好きなんだとつくづく感じることが多々あり、何かの囚われから自由になってきています。
自分の文章も考えもあんまり好きじゃなくて、それでも何故か、何故かずっと文章は書き続けていました。好きだったからです。

好きなことを好きだ、と認められるだけでもこんなに"雪解け"るんですね。
上手くないと、出来ないと好きっていっちゃだめだっていう先入観が知らぬ間に身体を拘束していたのだと、今では断言できます。勉強だって。
すごく苦手な数学も、好きです。


好きになるのに誰かの許可は要らない、というのは月並みなセリフですが、みんなが躓くのは、この"誰か"に自分自身も含まれているという所ではないでしょうか。
顕在意識で感情を生み出すことはできないですから。


18歳になりました。
17歳は今までの勘違いをひたすらに正した歳でした。
楽しかったです。


また色々書きにきます!



知識のみなり

December 23 [Tue], 2014, 0:38
綺麗で素敵な人を、"高嶺の花"なんて言ったりする。手を伸ばしても触れられないのに、凛として咲くその花に魅力を感じられずには居られない。
でもそれは、果たして全ての事柄に、都合良く作用するのだろうか。


読書家を称するには稚拙だけれど、本は好きだ。面白そうなタイトルがずらずらならぶ本屋さんの壁は、見ているだけでも面白い。
三宮のジュンク堂の一番上のフロアでは、見上げるほどの専門書が美しく秩序を創っている。
実際に測ったことはないけれど、下よりも天が高いように思う。
その姿は凛として美しく、手を伸ばしても届かない。
高嶺の花だ。


二階まで降りると、町の花屋さんである。
小説や新書は専門書に比べて格段にお手頃だ。
そのはずである。


欲しい本の目星をつけて探す。
見つける。
手に取る。
ここまではいいのだ。
千円もしない新書がやたら生意気なのである。「お前なんかが俺に歯がたつのか?」なんて声が聞こえる。
少しムカついて、どんなもんじゃいと気になる所だけ立ち読みをしてみる。
何も大したことはない。良い事は言ってる。ただ生意気になるほど大したことは書いていない。
閉じて、また表紙を見てみると、まだ生意気である。
ムカついた。でも、結局買った。

その時までは何故かわからなかったけれど、私の癖に読み始めた本の帯を引き剥がすということがある。
その生意気新書も例のごとく引き剥がしてやった。
すると、何故だか少し距離が近づいた。読み進める。すると、紙をめくる動作に合わずに、ペコペコ音を鳴らすカバーが気になった。引き剥がす。
すると、生意気新書がとても親しみやすくなった。
そいつは面白かった。面白いので色々と書き込みをしてみた。
仰々しい装丁の本に感じるような抵抗は、もうなかった。


物として美しい本は持っていてワクワクする。中の文字もタイトルも、デザインとして捉えられる。内容が美しく濃厚であれば、その本のデザインまで更に美しく思える。
極端な例に聖書がある。


美しい物語を携える小説は、それにふさわしいほどの装丁がいる。目に入った途端に物語を読んだ時と同じくらいのトキメキを感じさせなければならないと思う。そうじゃないと、折角の美しい物語が感性ある人々に読まれないまま消えてしまうから。

しかし、広く自論を知らしめたい時に、美しい装丁が功を成すとは考えづらい。
一般に、日本では殆どの本にカバーと帯が付いており、また紙の質も良い。洋書の藁半紙を固くしたようなそれとは大違いだ。

だから、大事にしてしまう。カバーの上に本屋でカバーを重ねたりもする。読むのに支障がないくらい軽いシミがついても落ち込む。
新書に書いてあるような内容がネットで読めてしまう時代で、仰々しく新書を飾ることが意味をなしているのだろうか。
むしろ、知識を高嶺の花にして壁を作っているようにしか思えない、というと、戯言にしか聞こえないのだろうか。

ネット社会だ。情報を手に取れる形にすることの意味は様々だが、書き込めること、雑に扱えることは今の時代に大きく思える。

文字の書いているものを雑に扱うとバチが当たる、なんてことを言っていた小学校の時の担任が、新聞紙で嘔吐物を吸っていた。
そんなことを見ている私たちの世代、本の形が変わってしまってもいいんじゃないの。






P R
2015年05月
« 前の月  |  次の月 »
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31