その後・・・4 

2005年11月18日(金) 10時57分
母がICUに入り、何日たったろうか。母の肺は病原菌と強い薬とで限界だった。自分の力では酸素を取り込むことができず、機械での人工的な酸素供給。機械の酸素供給量はMAXだった。そのため母のボロボロだった肺には穴が開き、母の命はもって数日だと告げられた。その日、我が家で家族会議が行われた。皆でテーブルを囲み話し合った。悲しみの中で静かな時間が流れていた。母の命の宣告以来、こんなに静かな時間があっただろうか。話し合いの結果、できるだけ早く家族全員で母のところへ行くコトに決まった。話し合いの最中、私はふと自分の横のほうに何かを感じ振り向いた。なぜかそこには人一人分のスペースが空いていた。私は母がいるんじゃないかと感じた。病院で眠り続けている母の魂だけは、皆がいる我が家へ帰って来てるんじゃないか。母は静かにすべてを聞いているのかもしれない。自分の命の終わりを静かに見つめているのかもしれない。次の日、私は仕事が終わりしだい叔母達と一緒に病院へ向かった。父と兄達は午前中のうちに病院へ向かっていた。私達かちょうど家を出たときだったろうか、父から電話がかかってきた。兄達が病院から一度家へ戻ったのだが、すぐ戻るように伝えてほしいとのコトで、私達も今出発したことを伝えると安心したように気をつけて来いとのことだった。

その後・・・3 

2005年10月26日(水) 17時15分
母がICUに入った。ICUには重病患者ばかりのため無菌室になっている。そのため面会も1日2回、決められた時間に10分ずつというものだった。一回の面会で二人ずつしか入ってはいけないため、家族が二人ずつ交代で面会した。帽子・マスク・白衣・スリッパを着用し、体全体の消毒を終えてから部屋の中へ入る。普通の病室とは違い、中央の医師達のデスクを囲むように患者のベットが配置されている。容態の急変に、即座に対応するためだろう。患者同士のベットはカーテンで区切られているだけだった。部屋の中は、薬品の臭いと、静かに機械の音が響いている。話し声などほとんど聞こえない。意識のある患者はほとんどいないようだ。母のところへ通される。さっきまで話をしていたのに、今はもう呼びかけても動くことさえない。ただ、ゆっくり呼吸を繰り返すだけ。眠りにつき夢を見ているのだろうか。今の母には何か見えているのだろうか。何を感じてるのだろうか。訳の分からないまま、薬で眠らされ、母にとって本当にこれで良かったのだろうか。母は口と喉から大きなパイプを入れられて、すごく痛々しかった。けれど、この処置で助かる可能性は5:5だという。他人が聞けば少ないのかもしれないけれど、絶望的だった私たち家族にとっては希望になった。まだ助かる可能性が半分もある。きっと母ともう一度言葉を交せる日が来るって信じてる。今、母は一人で頑張っているのに私たちが諦めたら、きっとすべては終わってしまうから。意識はなくても、私たちの声が聞こえてるかもしれない。私たちが母を励まさなきゃ。きっと大丈夫。だって世の中には、たくさんの奇跡が起こってる。半分の可能性があれば、きっと奇跡は起こるはずだから。こんなに優しい母が死ぬなんてあってはいけないよ。アヤを置いて行かないでよ。アヤのお母さんは、お母さんしかいないのに・・・。神様お願いします。奇跡を起こしてよ。代わりにアヤを殺してよ。

その後・・・ 2 

2005年10月20日(木) 12時21分
一刻を争う状況で、家族全員で会話をすることとなった。もしかしたら、これが母との最後の会話になるかもしれない。母はひどく胸が苦しかったのだろう「本当に良くなるとやろうか?」と聞いてきた。私は涙をこらえ「当たり前やん!良くなるに決まっとるたい。」って言った。それが私の精一杯だった。そして母は借金のコトをずっと謝っていた。「ごめんね・・・。ごめんね・・・。」って・・・。そんな言葉を母の最期の言葉にしたくなかったのに・・・。母の借金は母のせいではないことを家族皆が分かっていた。今まで、母が贅沢をしている姿など一度も見たことがない。全部、私たちの教育費や生活費のために出来た借金だったのだろう。それなのに私たちは気づいてあげられず、ワガママばっかり言ってきた。一人どんなに大変な思いをしていたのか、そのとき初めて気づいた。自分が情けなかった。あんなにも大好きで、仲良しだったのに、なんで分かってあげれなかったんだろう・・・。母の病気は私たちへのその酬いなのか・・・。それなのに、こんなにも優しい母ばかりが、どうしてこんなにも苦しい思いをしなければならないのか。母が死んでしまったら、これから父はどうすればいいのか。父の人生のパートナーは母しかいないのに・・・。私たちがどんなに近くにいても、母の代わりにはなれないだろう。きっと父の寂しさは埋められない。部屋の外では数人の医師達が焦りを抑えて待っている。母は自分の病気の重さなど知らず、これから何が行われるのかも知らなかった。一通り皆が話し終わると、医師たちが流れ込んできた。取り囲まれた母の不安げな表情を今でも忘れることができない。そして、そのまま母は連れて行かれた。

その後・・・ 1 

2005年10月20日(木) 10時51分
その後の母の容態について書こうと思います。
私が妊娠問題で悩んでる一方で、母の肺のレントゲン写真には影が占める割合が日増しに大きくなっていた。素人の私にも、それは目に見えて分かった。母の入院直後から、最後の手段と聞かされていた処置がとられることになった。母の肺はすでに自分では酸素を取り込むことが困難になっており、酸素を人工的に肺まで送るため、太いパイプを直接母の口から肺まで通すとゆうものだった。それは意識がある場合に行うと、患者が非常に苦しい思いをするらしく薬で眠った状態にし行わなければならない。なぜこれが最後の手段なのかとゆうと、この処置を施すことで患者の容態が良くならなければ、患者は眠ったまま息を引き取ることになるのだと言う。その処置を施すため母はICUに入ることになり、家族全員で面会に行った。病院までの長い道のり、涙が止まらなかった。病院についても涙が止まらず、少しのあいだ廊下の隅で泣いていた。けれど泣き顔を母に見せるわけにはいかない。何もしらない母が見たら、どんなに不安に思うだろう。私は涙を拭き笑顔で母に会おうと思った。

妊娠 6 

2005年10月19日(水) 15時15分
ようやく麻酔が抜けて目が覚めると、6時くらいだったんじゃないかと思う。外が真っ暗だった。昼の一時から分娩室に入ったので、長い時間寝てたことになる。廊下で待っててくれてる彼氏のコトが気になった。部屋を出るとき隣の分娩台のほうを見ると、難産だったお母さんも私の目が覚める少し前に出産したのだろうか、まだ分娩台の上にぐったりと横になっていた。
大変だったんだろうな。だけど、それだけ頑張って産んだ自分の子供なんだから、すごく可愛くてしかたないんだろうな。廊下に出てみると彼氏が心配そうに昼からずっと待っててくれた。私の体を気遣ってくれた。すごく嬉しかった。この人とずっと一緒にいたいと思った。
手術が土曜日だったため、週明け膣に入れたガーゼを取り除いてもらいにもう一度病院へ行った。先生がガーゼを取り、私が服を着終わると先生が真剣な目で話を始めた。「どんなに好きでも、断る強さを持たなくてはいけない。男の人の気持ちに流されてはいけない。最後に傷付くのは自分なのだから・・・。」ホントは全部自分が悪いんだけど、先生の真剣な目と自分の愚かさに涙が出た。「はい」って答えて、この先生に処置してもらって良かったと心から思った。

妊娠 5 

2005年10月19日(水) 12時19分
女の人のうめき声が聞こえ、だんだん意識がはっきりしてきた。すごく苦しそうな声。気づくと、私はいつの間にか分娩台の上で眠ってしまったらしい。すると看護婦さんが、目が覚めたことに気づき降りるのを手伝ってくれた。あれ?いつの間にか手術は終わってた・・・。先生が来る前に看護婦さんから注射を何本か打たれ、「これはまだ麻酔じゃないからね」って言われ安心したことまでは覚えてるんだけど・・・。騙された。だけどそれは不安にならないように病院側の配慮だったのだろう。そのとき不安でいっぱいだった私には、その心遣いがすごく嬉しかったのを覚えてる。だけど、お腹の中にはもういないんだね赤ちゃん。胸が痛い。ところで、ずっと女の人の苦しそうな声がする。数人の看護婦さんたちが忙しそうに行き来している。なんだろう?分娩室には2台の分娩台があったのだが、カーテンを隔てた向こう側では妊婦さんが苦しそうにしていた。話を聞くところでは、へその緒が赤ちゃんの首に絡まりなかなか出てこないらしい。私は麻酔の抜けきれてない体で、看護婦さんの肩を借りながら同じ部屋の中にあるベットへ横になった。一つの命が生まれようとしている中、私はもう一つの命を消してしまった。そのお母さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。お腹が酷く痛かった。だけど溢れてくる涙はお腹の痛みのせいじゃないと思った。学生の頃、保健の授業で聞いたことがある。中絶のとき、お腹の中の子供は『生きたい』と願い、かき出すカンシからお腹の中を逃げ回るのだという。だから、かき出された子供の体はバラバラになって出てくるらしい。痛かったよね。アヤのお腹の痛みなんて、キミに比べればどんなに小さいことだろう。何度も「ごめんね」って繰り返し思いながら、いつの間にか眠ってた。そのとき隣のベットでは赤ちゃんの声と手術前に聞いた優しいルゴールの曲が流れてた。

妊娠 4 

2005年10月18日(火) 17時11分
仕事がら遠くの産婦人科に行くコトにした。彼氏も仕事を休み付いてきた。
待合室にはたくさんの、お腹を抱えたお母さんたちがいた。その中には自分と同じ年頃のカップルも幸せそうに診察を待っていた。悲しかった・・・。胸が痛くなった。
診察の順番が来た。先生から尿に妊娠反応が出ていることを告げられ、お腹の中の子供の状態を見せてもらった。妊娠3ヵ月。標準よりも少し小さかったらしく、子供は数mmしかなかった。こんなに小さくても生きてるんだ。命のすごさを感じた。
それ後、先生から産めるのかどうかを聞かれ、産めないと言った自分の言葉にまた悲しくなった。おろすなら早めにしないといけないと言われ、おろす覚悟を決めていた私は、その日の午後からおろす手術を受けるコトにした。幸い朝から何も食べてなく、食べていると麻酔が出来ないため手術はできなかったらしい。手術が始まるまで恐かった。手術の説明を受けながら、今までにないくらい体がガクガク震えていた。体の振るえを押さえられなかった。私は人殺しになるんだと思った。
手術は分娩室で行うらしく、予定時間の少し前に部屋の前で待っていた。すぐ近くの大きな窓ガラスのある部屋では、看護婦さんに抱っこされた赤ちゃんがオルゴールの鳴るぬいぐるみでむじゃきに遊んでいた。とても暖かい気持ちになれる曲が流れていた。少し切なく、でも幸せの風景がそこにあった。
分娩室に入り、注射を何本か打たれ、私はいつの間にか意識がなくなっていた。その後、女の人のうめき声で目が覚めた。

妊娠 3 

2005年10月18日(火) 16時42分
妊娠が分かってから数日。毎日のように遅くまで二人で話し合った。そのうち産みたいと思う気持ちが強く湧き上がることもあった。けれど現実問題、育てて行くのは無理だろう。うちの親も出来ちゃった結婚なのだが、お金のない生活を身を持って体験し、お金のないことで悩む親の姿も見てきた。何日も結果の出ない話し合いが続いた。
そのうち母の命が危ないと聞かされた。遠くの大きな病院に移され、良い効果が出るかどうかも分からないあらゆる処置が施された。家族が毎日交代で病院に見舞いに行くが、泣き出しそうな顔の家族を見るだけで、結果なんて聞くまでもなかった。毎日家に帰るのが嫌だった。悪い結果を聞き、泣きながらご飯の用意をすることも少なくなかった。8時過ぎの電話はたいてい病院からで、母の容態が悪くなるとかかってきた。家族皆が、夜の電話のなる音が恐かった。もう考えてる時間なんてなかった。おろす決意をした。
同じ頃、母がICUに入るコトになった。

妊娠 2 

2005年10月18日(火) 16時01分
すごく好きで、もっと一つになりたかった。
そのうち、ゴムは付けなくてもいいと私が言った。子供が出来たときのコトを考えていなかったわけではなかったけれど、出来たら結婚してくれるだろうと安易に考えていた。実際、妊娠なんてことはテレビやマンガの中での話のような、どこか現実身のない話だった。
ある日、体調がすぐれない日が続いた。肌荒れもひどく、何か病気になったのかな!?それにしてはお腹が減るし、食べても太らない。何で?生理が遅れるのはしょっちゅうだったので、まさか妊娠してるなんて思いもしなかった。
それよりも同じ頃、肺炎で入院した母のコトが気になっていて、家のコトもしながら仕事にも行き、自分のコトを考える余裕なんて少しもなかった。
生理が遅れて一ヶ月。さすがに何かおかしいと思い、不安な気持ちを抑えながらも検査薬で調べてみた。結果は陽性反応。愕然とした・・・。自分のお腹の中に小さな命が生きてる。そう気づいたとき、自分が犯した過ちの大きさに気づく。何をやってるんだろう・・・。どんなに後悔してもたりなかった。だけど産むわけにはいかない。母が入院して、重い病気だと知らされたのだ。若いゆえに進行も早く、命が危ないと医者から聞かされた。そんなテレビドラマのような話が自分の身内に起こるなんて、夢にも思っていなかった。家に多額の借金があることも分かり、産んで育てていけるわけがない。悲しくて悔しくて、どれだけの涙を流しただろう。それでも殺されてしまうこの子の悲しみの、何分の1なんだろうか。小さな体に大きな希望を抱いてこの体にやどり、外の世界を見るコトすら叶わずに死んでいく。それは、どんなに悲しいコトだろう。「ごめんね・・・。お母さんを許して下さい。」何度も繰り返し思った。彼氏には言わずに、おろしてしまおう。そして、そのままバイバイしよう。悪いのは私なのだから・・・。
それから何日か彼氏とは連絡をとらなかった。私の態度がおかしいコトに気づき問い詰められ、妊娠したことを告げた。彼氏にもお金なんてなく子供や自分たちの将来を考えると、産ませることは出来ないと言われた。分かっていた言葉だったが、直接聞くとやっぱり悲しかった。心のどこかで「結婚してほしい」と言ってくれることを望んでたんだろう。だけど「逃げたりはしないから。」って言ってくれた。その言葉で、少しだけ心が落ち着いた気がする。

妊娠 1 

2005年10月18日(火) 12時11分
実は数年前、子供をおろしたコトがある。以前付き合っていた人の子供なのだが、そのときの気持ちを忘れないためにもここに残しておきたいと思う・・・。
自分の周りでは、スキンを使う男の子は少ない。友達に聞いても、同じような答えが返ってくるし、それまで付き合っていた人たちも皆そうだった。男の子からすれば、スキンを買うのが恥ずかしい・付けなくても妊娠しないだろうといったふうな答えが返ってくる。
その頃の私にとっても、付けないコトが普通だった。今考えれば、自分が付き合ってきた男がその程度だったんだろうと思う。でも、そのとき付き合ってた彼氏は違ってた。その人と初めてのエッチのとき、ゴムを付けるのを見てすごくビックリした。それと同時に嬉しくなった。私にとってそんな人は初めてだったし、すごく大事にされてるのを感じた。小さいころは内弁慶だったため学校では暗く、俗に言ういじめられっ子だった。たまに何かしゃべると気持ち悪がられ、そのせいか男の人と付き合っても自分の気持ちを言葉に出来ない性格だった。何か言って嫌われるのが恐かったんだと思う。いつも自分の意見を言えなくて、結局何でも相手の言うとおりにしてきた。相手にしてみれば、結局それはお人形さんと何も変わらない。嫌われないかわりに、それ以上好きにもなってもらえない。いつも、いつの間にか相手の気持ちは消えてなくなってた。だから付き合ってもすぐに振られたり、浮気されたり・・・。でも、その人は違った。いつも私に対して一生懸命だった。自分の気持ちをぶつけ、私が自分の意見を言うまで話をしようとしてくれた。私が何度逃げ出しても、何度でも追いかけて来てくれた。私を変えようと努力してくれた。私も少しずつ変われたと思う。アユの歌に『誰が諦めないでいてくれた〜・・・』って歌詞があったけど、その歌詞が心に響いた。私にとってそんな人は初めてだった。恋愛とゆうのは、お互いの気持ちをぶつけ合ってお互いを知り、信じる気持ちが生まれてお互いをもっと好きになっていくものなんだと感じた。その人のコトがすごく好きだった。
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