台湾:綿と水 vol.2
2006年02月24日(金) 2時57分
ニニ八紀念館に入ったのは朝の11時ごろ。建物自体は小さいのに、案外客がいて、その大半は日本人だった。
なぜ彼らが日本人だとわかったかというと、集団の先頭の方から、紀念館のガイドさんの巧みな日本語による説明が聞こえてきたからである。
ガイドさんの名前は忘れてしまった。もちろん台湾人で、今年81歳だと聴いたが、カクシャクとしたおじいさんである。
展示は、日本の近代化政策の影響から始まった。経済発展の度合いを示すグラフや、台湾総統の後藤新平の写真、「国語家庭」と書かれた賞状。これは一家揃って日本語を使うことを表象されたものだ、と説明しながら、ガイドさんは自分の話を交える。
彼は幼少の頃から日本の近代化政策を目の当たりにし、皇民化教育を受ける中で、日本に対する憧れを次第に強めて行った。
「もともと文化のレベルの低い土地でしたからね、本当に日本は有り難い、そう思っております」
大陸(中国)と今でも「文化のレベル」が全然違うのは、日本の近代化政策があったおかげだ。有り難い、有り難い、と彼は何度も口にした。
「そりゃあ差別はあります。私らは二等国民でしたけど、植民地だったから、当たり前のことです。それでも、こんなに立派な土地にしてくれたのだから」
差別は当たり前のことです、と聞いて、日本人観光客たちは顔を見合わせる。ガイドさんはますます声を高めて、
「日本の軍人さんは、本当に偉い。軍服が、格好よくてね」
懐かしそうに、言った。
日中戦争が始まってからは、陸軍に志願兵として入隊した。というのも、当時、「二等国民」は本国にとってはまだ信頼を置けない存在であったため、皆兵制は採られず、志願兵制度しかなかったからである。戦争中、彼がどこに送られたかはわからないが、多くの「二等国民」が最前線に送られた、と彼は話した。
展示は日本の敗戦、台湾からの撤退から、国民党占領開始の時期に移る。
パネルの中では、台湾の人々が、国民党の青天白日旗を手に手に振って、大歓迎している。しかし、彼らの持つ青天白日旗は、よく見ると、「白日」の位置が正規のものとは反対である。
「いかに我々が、国民党を盲目的に歓迎したか、ということですよ」
終戦を大陸で迎えたガイドさんは、経歴の良さを変われて、新聞記者の仕事に就いた。その頃になって、すでに国民党の抑圧は始まっていたのだという。
「復員して、日本が撤退して、次に中国が来るって言ったでしょう。それ聞いて、僕は泣きました。戦った相手ですよ。敵国ですよ。どうしてその敵に、従わねばいけないのですか」
国民党員の汚職、失業率の上昇、「親日」と見なされた人の財産没収、増税、倒産、治安の低下、餓死……、新聞記事の切り抜きを拡大したパネルが、壁中を埋める。
そして47年、2月27日、台北で、前回書いた「闇タバコ摘発事件」が起きる。それをきっかけに翌28日に大規模な暴動が起こり、沢山の死傷者を出す。
「私の勤めておりました新聞社が、ちょうどタバコ専売局のすぐ近くで、駆けつけました。怒った群衆が、建物の二階から、椅子やら机やら、手当たり次第に投げ出しては、建物の正面で焼いておりました」
ガイドさんの語る話は生々しい。
この暴動から数日間、国民党は時に対話姿勢を見せつつ、事件の黒幕として「親日派」エリートを片っ端から検挙した。日本に留学した知識人が大半で、検挙といってもその殆どがすぐに銃殺されるか、拷問の挙句に処刑された。死体が見つかる場合の方が、稀だった。
「この事件で、私も死に目に遇いました」もっと生々しい話を、ガイドさんはしてくれた。
聴けば、彼の叔父という人が日本に留学の経験のあるエリートで、ある日新聞社に男が2人来て、彼に叔父の居場所を教えろという。居場所なんて知らなかったから、その通りに答えると、男たちは彼を目隠しして縛り上げ、別の場所に連れて行った。
その日から、拷問である。叔父の居場所を言え、と強要されて、水責めを受ける。知らないと答えると、一人が後ろから自分の顎を掴んで開かせ、もう一人がバケツ一杯の水を流し込む。器官に水が入って呼吸ができず、何度も卒倒する。
「その度に、靴で体中を蹴られて意識を取り戻す。それの繰り返しでした」
何度目かの時に、このままでは死ぬ、と思って、叔父はどこどこにいる、と嘘を吐いた。再び監獄に戻されて、何日目かにどういうわけか解放された。
なぜ彼らが日本人だとわかったかというと、集団の先頭の方から、紀念館のガイドさんの巧みな日本語による説明が聞こえてきたからである。
ガイドさんの名前は忘れてしまった。もちろん台湾人で、今年81歳だと聴いたが、カクシャクとしたおじいさんである。
展示は、日本の近代化政策の影響から始まった。経済発展の度合いを示すグラフや、台湾総統の後藤新平の写真、「国語家庭」と書かれた賞状。これは一家揃って日本語を使うことを表象されたものだ、と説明しながら、ガイドさんは自分の話を交える。
彼は幼少の頃から日本の近代化政策を目の当たりにし、皇民化教育を受ける中で、日本に対する憧れを次第に強めて行った。
「もともと文化のレベルの低い土地でしたからね、本当に日本は有り難い、そう思っております」
大陸(中国)と今でも「文化のレベル」が全然違うのは、日本の近代化政策があったおかげだ。有り難い、有り難い、と彼は何度も口にした。
「そりゃあ差別はあります。私らは二等国民でしたけど、植民地だったから、当たり前のことです。それでも、こんなに立派な土地にしてくれたのだから」
差別は当たり前のことです、と聞いて、日本人観光客たちは顔を見合わせる。ガイドさんはますます声を高めて、
「日本の軍人さんは、本当に偉い。軍服が、格好よくてね」
懐かしそうに、言った。
日中戦争が始まってからは、陸軍に志願兵として入隊した。というのも、当時、「二等国民」は本国にとってはまだ信頼を置けない存在であったため、皆兵制は採られず、志願兵制度しかなかったからである。戦争中、彼がどこに送られたかはわからないが、多くの「二等国民」が最前線に送られた、と彼は話した。
展示は日本の敗戦、台湾からの撤退から、国民党占領開始の時期に移る。
パネルの中では、台湾の人々が、国民党の青天白日旗を手に手に振って、大歓迎している。しかし、彼らの持つ青天白日旗は、よく見ると、「白日」の位置が正規のものとは反対である。
「いかに我々が、国民党を盲目的に歓迎したか、ということですよ」
終戦を大陸で迎えたガイドさんは、経歴の良さを変われて、新聞記者の仕事に就いた。その頃になって、すでに国民党の抑圧は始まっていたのだという。
「復員して、日本が撤退して、次に中国が来るって言ったでしょう。それ聞いて、僕は泣きました。戦った相手ですよ。敵国ですよ。どうしてその敵に、従わねばいけないのですか」
国民党員の汚職、失業率の上昇、「親日」と見なされた人の財産没収、増税、倒産、治安の低下、餓死……、新聞記事の切り抜きを拡大したパネルが、壁中を埋める。
そして47年、2月27日、台北で、前回書いた「闇タバコ摘発事件」が起きる。それをきっかけに翌28日に大規模な暴動が起こり、沢山の死傷者を出す。
「私の勤めておりました新聞社が、ちょうどタバコ専売局のすぐ近くで、駆けつけました。怒った群衆が、建物の二階から、椅子やら机やら、手当たり次第に投げ出しては、建物の正面で焼いておりました」
ガイドさんの語る話は生々しい。
この暴動から数日間、国民党は時に対話姿勢を見せつつ、事件の黒幕として「親日派」エリートを片っ端から検挙した。日本に留学した知識人が大半で、検挙といってもその殆どがすぐに銃殺されるか、拷問の挙句に処刑された。死体が見つかる場合の方が、稀だった。
「この事件で、私も死に目に遇いました」もっと生々しい話を、ガイドさんはしてくれた。
聴けば、彼の叔父という人が日本に留学の経験のあるエリートで、ある日新聞社に男が2人来て、彼に叔父の居場所を教えろという。居場所なんて知らなかったから、その通りに答えると、男たちは彼を目隠しして縛り上げ、別の場所に連れて行った。
その日から、拷問である。叔父の居場所を言え、と強要されて、水責めを受ける。知らないと答えると、一人が後ろから自分の顎を掴んで開かせ、もう一人がバケツ一杯の水を流し込む。器官に水が入って呼吸ができず、何度も卒倒する。
「その度に、靴で体中を蹴られて意識を取り戻す。それの繰り返しでした」
何度目かの時に、このままでは死ぬ、と思って、叔父はどこどこにいる、と嘘を吐いた。再び監獄に戻されて、何日目かにどういうわけか解放された。
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