毛利元就を中心とする安芸・毛利一族を探求します。同時に、元就研究家・福原雅俊の独自の史観から世相を斬る。そして、天衣無縫の旅遊記・映画・文芸評論・作品集。

2005年07月
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青春18切符2005(その3) (2005年09月05日)
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造賀への道(下) / 2005年07月21日(木)
細道を上っていくと槇原(字)で国道と合流する。そこからは国道脇に歩道がある。国道と合流する一歩手前が、両町の最高所、つまり峠である。

峠には、鍼灸マッサージの看板を掲げる古風な家があり、大正時代に据えられた石の道標もある。昔は、さながら峠の茶屋の風情であったろう。

が、家は倒壊しそうで、営業がなりたっているようにも見えず、老いた世代とともにやがて消滅するであろうことを予感させる。

思えば、因果な時代を生きている。田舎の近くに住み、田舎の風景に癒される楽しみを覚えたが、田舎はもうすぐ、世の中から消滅し、中世から近世にかけての日本の文化が、誰にとっても実感の伴わない、単なる記録へと遠ざかっていくであろう。

 

 
Posted at 21:47 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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造賀への道(上) / 2005年07月21日(木)
近畿大学の敷地を横切るように道を選び、山手(字)の車道に出る。

この車道を国道375号線に向って進みながら、右手の細い道へ入っていく。

軽トラックなら通れるほどの舗装道路だが、杵原川沿いに上るこの道は、車が通るための道ではなく、自転車や単車用である。逆に国道375号線は、人が歩くようには出来ていないし、実際、国道を歩く人はいない。きついカーブの坂道を自家用車やトラックがしきりに往来している。

東広島市高屋(大字)と、これから向おうとしている造賀(大字)は、標高差が100mほどある。国道は杵原川に迫る崖面を削って作られたものである。

ただ川の反対側の石挟(字)は、多少の耕作地が広がり、民家が散在する。いわゆる旧道がその中を蛇行しながら、登っていく。車の危険も、蛇の危険もなく、道は舗装され、上りとはいえ傾斜は緩やかで、おまけにのどかな田園風景の中を歩くので、格好のウォーキング・コースである。

造賀方面から、時々男子高校生が自転車で降りてくる。さながら高屋地区の女子高校生のもとへ遊びに出かけているような風情だ。高屋地区は振興の団地があちこちに出来ている。それで人口が急増といえば急増だが、顕著なのは、住人の世代の偏りがあるという点である。一戸建てに移り住んだ時、幼児だった子らが、現在、高校生前後となっている。

この年代の人口ウェートが非常に高いのだ。これは広島県の平均的老齢化と大きく異なる様相を呈している。造賀地区は、過疎化とベッドタウン化のきわどいバランスの上に立っているが、基本的に人口は少ない。そこに棲んでいると、隣町の団地群は、異性交遊の巨大マーケットに見えるだろう。

もちろん、どの町も男女比は、ほぼ均衡しているのだが、男の方が機動的であり、特に行きが下りということで、出かけるには容易なわけである。


 
Posted at 21:44 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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梵字岩 / 2005年07月21日(木)
近畿大学附属東広島高等学校・中学校の校舎は、まるで中世領主の館のような威容を示しているが、その麓に、梵字岩と呼ばれる巨石がある。実は、この辺りの国人・平賀氏の筆頭家老、名井光叶(みょういみつやす)の墓碑のようである。


その巨岩には、2種の梵字を刻み込まれる。右の種子は、胎蔵界大日如来の慈悲を、左の種子は金剛界大日如来の智徳を表わしている。


名井氏は平賀氏の傍流で、東広島市河内町入野の竜王山城主であった。第12代・名井光叶は、頭崎城(東広島市高屋町貞重)の城主・平賀興貞(尼子系)の股肱の臣であった。

ていうか、どうやら、光叶が平賀一族の中で最もコテコテの尼子系だったようである。享禄3(1530)年、安芸国人・毛利元就を陣営に組み入れることに成功した周防の大内義隆は、他の安芸国人衆に対しても攻勢に転じた。大内義隆は、尼子へ傾斜する平賀氏を厳しく追及した。おそらく平賀家は、大内氏への忠誠の証として、名井光叶に詰め腹を切らせなければならぬ状況へ追いこまれたのであろう。


その後、尼子晴久の逆襲も激しく、天文年間には吉田郡山の毛利元就を襲うこととなる。元就は、尼子氏を迎撃する体制を整える一環として、頭崎城の平賀興貞を夜襲、興貞は入野へ逃亡し、竹林寺の住職として余生を送ることとなる。

竹林寺の本堂前にも、名井光叶の墓とされる宝篋印塔がある。

 
Posted at 21:42 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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東広島市高屋地区の谷戸地形 / 2005年07月21日(木)

東広島市高屋地区には、鉄器が使用され、人口が急増した頃の弥生遺跡が、そこかしこの丘陵に集中する。

天武天皇が、壬申の乱の戦死者の英霊を祀らんと、全国のクニに一箇所づつ祭祀施設を作らせたことが日本書紀に記録されるが、その記録と符合する遺跡が、そうした団地の一つを造成する際に発見された。

つまり、この一帯は、大和時代における安芸国の中心地であったと考えられる。

中心地で有りえた理由は、当然、農業生産力に求められるべきであるが、この一帯は、決して広大な平野部ではない。

むしろ、緩やかな丘がそこかしこに隆起する盆地である。丘陵には、谷川が葉脈のように枝分かれしながら、斜面を奥深くまで削っている。こういう地形を谷戸地形と呼び、関東平野(山の手)でも多く見られる地形のようである。

これは勝手な憶測だが、丘の緩やかな斜面をさらさらと流れる谷川こそ、天然の灌漑施設であったのであり、農耕の初期段階では、手間のかからない好立地条件だったのかもしれない。


 
Posted at 21:34 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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