毛利元就を中心とする安芸・毛利一族を探求します。同時に、元就研究家・福原雅俊の独自の史観から世相を斬る。そして、天衣無縫の旅遊記・映画・文芸評論・作品集。

2005年07月
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梵字岩 / 2005年07月21日(木)
近畿大学附属東広島高等学校・中学校の校舎は、まるで中世領主の館のような威容を示しているが、その麓に、梵字岩と呼ばれる巨石がある。実は、この辺りの国人・平賀氏の筆頭家老、名井光叶(みょういみつやす)の墓碑のようである。


その巨岩には、2種の梵字を刻み込まれる。右の種子は、胎蔵界大日如来の慈悲を、左の種子は金剛界大日如来の智徳を表わしている。


名井氏は平賀氏の傍流で、東広島市河内町入野の竜王山城主であった。第12代・名井光叶は、頭崎城(東広島市高屋町貞重)の城主・平賀興貞(尼子系)の股肱の臣であった。

ていうか、どうやら、光叶が平賀一族の中で最もコテコテの尼子系だったようである。享禄3(1530)年、安芸国人・毛利元就を陣営に組み入れることに成功した周防の大内義隆は、他の安芸国人衆に対しても攻勢に転じた。大内義隆は、尼子へ傾斜する平賀氏を厳しく追及した。おそらく平賀家は、大内氏への忠誠の証として、名井光叶に詰め腹を切らせなければならぬ状況へ追いこまれたのであろう。


その後、尼子晴久の逆襲も激しく、天文年間には吉田郡山の毛利元就を襲うこととなる。元就は、尼子氏を迎撃する体制を整える一環として、頭崎城の平賀興貞を夜襲、興貞は入野へ逃亡し、竹林寺の住職として余生を送ることとなる。

竹林寺の本堂前にも、名井光叶の墓とされる宝篋印塔がある。

Posted at 21:42 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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