毛利元就を中心とする安芸・毛利一族を探求します。同時に、元就研究家・福原雅俊の独自の史観から世相を斬る。そして、天衣無縫の旅遊記・映画・文芸評論・作品集。

2005年09月
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青春18切符2005(その3) (2005年09月05日)
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青春18切符2005(その3) / 2005年09月04日(日)
元和3年(1617)、小笠原忠真(ただざね)が信州松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1qの所にあった船上(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。

現在の明石城は、元和4年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるよう命じ、 3か所の築城候補地を挙げ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀一千貫目(時価およそ31億円)を与え、 3名の普請奉行を派遣している。

駅から東入口をやりすごし、お堀に沿って東の丸入口へ向う。お堀は、草が生い茂り、鳥が遊ぶ。

階段を上ると右手に「明石市立文化博物館」がある。心惹かれながら、余り長居もできないと思い、やり過ごす。

東の丸の手前に薬研堀がある。


東の丸から、二の丸・本丸・天守台へと連なる。

石垣の普請は元和5年(1619)の正月に始められ、工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、三の丸の石垣、土塁、及び周辺の堀の普請が同年8月中旬に終わり、幕府より派遣の普請奉行は、その任を終え江戸に帰参している。幕府直営工事は、本丸・二の丸・三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は、幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

麓から二の丸へ登城路があり、二の丸の門に達したところから巽櫓を正面に望むことができる。この日、巽櫓は無料開放され、地元の郷土史研究家と思しきボランティア老人が説明してくれる。 櫓の格子窓からの景色もさることながら、吹き来る風が気持ちいい。天然の冷房室だ。阪神大震災の時、石垣がはらんだりしたので土台から積みなおし、この櫓も傷んだ柱は交換したようである。その古い柱が床に無造作に置かれている。これが元和のオリジナルかと思われる。
 
   
Posted at 18:28 / Z軸 愛地球博 / この記事のURL
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青春18切符2005(その2) / 2005年09月04日(日)
N駅の駅前のコンビニで食糧と飲料を買っていた。糸崎から尾道の間の海を眺めながら朝食とする。飲料は「サントリー天然水 阿蘇」2リットル・ペットボトルである。税込210円ほど。名古屋まで直行するつもりだったので、荷物になっても構わない。
8時12分。岡山駅で乗り換える。乗換3分、思いのほかホームが離れており、慌てる。
9時24分。相生駅で乗り換える。乗換1分、ホームの向かい側で電車が待っている。
姫路行きの電車は満員で座れない。この付近の女の子たちが、猛暑に相応しく露出度の高い服装で立っている。乗客はほぼ全員、姫路まで降りないと予想された。
9時45分、姫路駅着。ここからの新快速が運転休止となっており、9時53分の快速を待つ。快速といえども実質、各駅停車である。何もなかりせば、西明石駅10時6分到着のところ、10時30分にようやく到着。

山陽電鉄は明石駅から乗り換える必要があるため、青春18切符でも、明石駅までの代行バスには乗れるという。バスは余り待たなくても来たが、何しろ不発爆弾除去のため、通常のルートが立入禁止であり、渋滞した迂回路を通る。
明石駅に着いた。さて、この時点で14時ごろ名古屋に到着し、名古屋城をゆっくり見物する、という当初の予定は修正を余儀なくされた。そういえば目の前に明石城公園がある。では、急遽予定を変更して明石城を探索する事としよう。
 
   
Posted at 18:25 / Z軸 愛地球博 / この記事のURL
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青春18切符2005(その1) / 2005年09月04日(日)
JR山陽線N駅。午前6時の時報とともに改札が開き、さっそく未使用の青春18切符を提示した。
「どちらへ行かれますか?」
なぜそんな質問をするのか不審に思いながらも、
「名古屋へ」
実は、のっけからトラブルに直面していた。 JR神戸線西明石駅付近の川崎重工業株式会社明石工場内の工事現場において、不発爆弾が発見されたのである。そのため、この日、除去作業が実施される事となり、明石駅〜西明石駅間の一部が半径300m以内の立入り禁止区域となる。 その結果、新快速は神戸駅〜姫路駅間で、快速・普通電車は須磨駅〜西明石駅間で、午前9時30分から午後0時30分頃まで、運転休止になるというのだ。
「詳しくは解りませんが、運転休止区間では、山陽電鉄で代行運転を行いますが、青春18切符は代行手配の対象外となりますので、自費で移動して頂く事になります」 是非もなし。何はともあれ、今日のうちに名古屋に到着せねばならぬ。私は6時8分発の電車に乗った。
 
   
Posted at 18:19 / Z軸 愛地球博 / この記事のURL
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高野連、黙祷を迫害す / 2005年08月06日(土)
8/6、高校野球の開会式が、原爆投下時刻に重なった。広島県代表・高揚東が全国の参加校に黙祷を提案しようとしたが、高野連がこれを迫害したそうである。理由は、原爆投下は広島ローカルな事件だからだそうだ。
ただただ呆れてモノが言えない。一発の爆弾が、二十数万の人間を死に至らしめた。これは人類史上、類まれな異様な事件であった。
ニューヨークで3500人ほどの犠牲者を出したテロが、アフガンやイラクの無政府状態につながる戦争を引き起こした。
その後も、尼崎で百人余りの人がデタラメな運転の犠牲になったり、ロンドンで五十名ほどがテロの犠牲になったりといった事で、人類は衝撃を受けている。
しかし、人類史上、一瞬の閃光が二十数万の人命を消滅させた、という事件とは比べ物にならないスケールだ。
これが広島ローカルな事件とは、日本人として聞き捨てならぬ妄言である。
 
   
Posted at 21:39 / Y軸 広島県 / この記事のURL
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次世紀ファーム研究所(下) / 2005年07月24日(日)
今回の事件で最も深刻なのは、

@母親が、この医学的事実を正面から受け止め理解することができていなかった事。医者は素人にも解るように噛み砕いて説明したと推測できる。母親は、娘の生死に関わる事実が、どうして頭に入らなかったのだろうか。また、その時、父親は、全く無関心に傍観していたのか。

A悪徳商法といえども、糖尿病に対する自社製品の薬効を標榜する商人が、小児糖尿病に関する知識を持っていなかった。薬事法違反うんぬん以前の勉強不足と言わざるを得ない。そこにこそ悪徳商人の悪徳商人たる本質を追求すべきではないのか。

B報道する側の姿勢もおかしい。「重い小児性の糖尿病」という表現は誤解を招く。「軽い小児性の糖尿病」ならインスリン療法は不要とでもいうのか。実は幼少期に通常の糖尿病を発症する可能性は皆無ではないが、「小児性の糖尿病」をわずらっている場合、99%は、通常の糖尿病とは異なる「小児糖尿病」である。その病状に重いも軽いもなく、その病気であれば、インスリン療法が不可欠である。またインスリン療法が行われていれば、血糖コントロール状態の良い、悪いはあるが、合併症の発病や急性の低血糖状態を除いて、普通の生活が可能であり、「重い」という表現には当たらない。

上記のどの側面を見ても、明らかなことは、「小児糖尿病」という難病(かつ奇病)が存在し、通常の糖尿病とは性質も治療法も異なるという事実が、社会全般に知られていない事に問題があるのである。もし社会的に認知されていれば、今回の事件は起こり得なかったのである。

もう少し掘り下げると、知られていないなりに折りに触れ啓蒙されるべきなのに、一見わかったような病名であるため、誤解されやすい事、これも不幸の遠因となっており、小児糖尿病に関する病名自体、見直しが必要ではないか。




 
   
Posted at 09:04 / 小児糖尿病 / この記事のURL
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次世紀ファーム研究所(中) / 2005年07月24日(日)
20世紀の初めごろまでは不治の病だったが、インスリンの発見により、人工的にインスリンを体内に取り込むことによって、通常通り生活することが可能になった。

但し、インスリンは水に溶けやすいため、飲み薬などでは取れず、いまだにインスリン注射による治療しかない。しかも、食事のタイミングや血糖値の状態をみながら注射のタイミング・インスリンの量を調節しないといけない。

インスリンには、即効性・遅効性などいろいろ種類があり、自己注射である。医者のアドバイスに加え、自分でうまく工夫しないと、血糖コントロール不良で合併症を招くこともあるし、異常な低血糖状態に陥り、意識不明になることもある。

他にも知られていないことは多々あるが、大切なことは、この病気に対してインスリン治療は、生存のため、絶対不可欠なものであり、それを否定する民間療法は成立し得ない、という事実である。

 
   
Posted at 09:02 / 小児糖尿病 / この記事のURL
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次世紀ファーム研究所(上) / 2005年07月24日(日)
7/18、岐阜県「次世紀ファーム研究所」(堀洋八郎代表)に滞在していた神奈川県の女子中学生が死亡する事件が起こった。

その後、「次世紀ファーム研究所」を巡っては、ワイドショーでも一週間で最も時間をさいて報道された。が、それは、もっぱら堀代表の悪徳商人としての実態を暴露することを目指すものであって、少女が死に至ったという事実に対する掘り下げは不十分、というか、全く考慮が及んでいないに等しい。

その顕著な表われは、少女の病状を「重い小児性の糖尿病」という一言で片付けてしまっている点である。皆さんは、その表現を正しく理解できるだろうか。そもそも「小児性の糖尿病」とは、普通の糖尿病とどう違うのか。「重い」と「軽い」で何がどう違うのか。

まず「小児性の糖尿病」だが、英語では「インスリン依存型高血糖症(略称・IDDM)」といい、日本では医学的には「T型糖尿病」、通称として「小児糖尿病」という場合もある。一旦、ここから「小児糖尿病」で統一するが、病名は名称でしかなく、大切なことは、通常の糖尿病とは異なる病気であるという点である。

小児糖尿病は、体内の膵島という組織からインスリンが(全く、もしくは微量しか)分泌されなくなる病気であり、発生原因は正確には解明されていない。現在、日本では1万人に1人の割合で患者が存在するとされ、近年増加傾向が見られるそうなので、計算上、患者数は1万5人強かと推定される。

発症は男性より女性に多く、年齢的には幼少期に発症することが多い。もっとも集中するのは11才前後である。

事件は12才の少女に起こった。確認が必要だが、発症後わずかな期間しか経過していなかったと思われる。

人体と言うものは、インスリンがないと、血液中の糖分を細胞に取り込むことができないため、放置しておくと、人体は、エネルギー源を食事ではなく、体の脂肪分を燃焼することによって補うしかなくなり、極端にやせ細る。やがて、脂肪も燃焼しつくすと栄養不足で死亡するしかない。また、糖分を摂取できないにもかかわらず食事を取り続けると、無制限に血糖値が上がる。その異常な高血糖状態そのものも、発熱など人体に悪影響を及ぼすため、死期がより早まることにつながる。

 
   
Posted at 09:01 / 小児糖尿病 / この記事のURL
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造賀への道(下) / 2005年07月21日(木)
細道を上っていくと槇原(字)で国道と合流する。そこからは国道脇に歩道がある。国道と合流する一歩手前が、両町の最高所、つまり峠である。

峠には、鍼灸マッサージの看板を掲げる古風な家があり、大正時代に据えられた石の道標もある。昔は、さながら峠の茶屋の風情であったろう。

が、家は倒壊しそうで、営業がなりたっているようにも見えず、老いた世代とともにやがて消滅するであろうことを予感させる。

思えば、因果な時代を生きている。田舎の近くに住み、田舎の風景に癒される楽しみを覚えたが、田舎はもうすぐ、世の中から消滅し、中世から近世にかけての日本の文化が、誰にとっても実感の伴わない、単なる記録へと遠ざかっていくであろう。

 
 
   
Posted at 21:47 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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造賀への道(上) / 2005年07月21日(木)
近畿大学の敷地を横切るように道を選び、山手(字)の車道に出る。

この車道を国道375号線に向って進みながら、右手の細い道へ入っていく。

軽トラックなら通れるほどの舗装道路だが、杵原川沿いに上るこの道は、車が通るための道ではなく、自転車や単車用である。逆に国道375号線は、人が歩くようには出来ていないし、実際、国道を歩く人はいない。きついカーブの坂道を自家用車やトラックがしきりに往来している。

東広島市高屋(大字)と、これから向おうとしている造賀(大字)は、標高差が100mほどある。国道は杵原川に迫る崖面を削って作られたものである。

ただ川の反対側の石挟(字)は、多少の耕作地が広がり、民家が散在する。いわゆる旧道がその中を蛇行しながら、登っていく。車の危険も、蛇の危険もなく、道は舗装され、上りとはいえ傾斜は緩やかで、おまけにのどかな田園風景の中を歩くので、格好のウォーキング・コースである。

造賀方面から、時々男子高校生が自転車で降りてくる。さながら高屋地区の女子高校生のもとへ遊びに出かけているような風情だ。高屋地区は振興の団地があちこちに出来ている。それで人口が急増といえば急増だが、顕著なのは、住人の世代の偏りがあるという点である。一戸建てに移り住んだ時、幼児だった子らが、現在、高校生前後となっている。

この年代の人口ウェートが非常に高いのだ。これは広島県の平均的老齢化と大きく異なる様相を呈している。造賀地区は、過疎化とベッドタウン化のきわどいバランスの上に立っているが、基本的に人口は少ない。そこに棲んでいると、隣町の団地群は、異性交遊の巨大マーケットに見えるだろう。

もちろん、どの町も男女比は、ほぼ均衡しているのだが、男の方が機動的であり、特に行きが下りということで、出かけるには容易なわけである。

 
   
Posted at 21:44 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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梵字岩 / 2005年07月21日(木)
近畿大学附属東広島高等学校・中学校の校舎は、まるで中世領主の館のような威容を示しているが、その麓に、梵字岩と呼ばれる巨石がある。実は、この辺りの国人・平賀氏の筆頭家老、名井光叶(みょういみつやす)の墓碑のようである。


その巨岩には、2種の梵字を刻み込まれる。右の種子は、胎蔵界大日如来の慈悲を、左の種子は金剛界大日如来の智徳を表わしている。


名井氏は平賀氏の傍流で、東広島市河内町入野の竜王山城主であった。第12代・名井光叶は、頭崎城(東広島市高屋町貞重)の城主・平賀興貞(尼子系)の股肱の臣であった。

ていうか、どうやら、光叶が平賀一族の中で最もコテコテの尼子系だったようである。享禄3(1530)年、安芸国人・毛利元就を陣営に組み入れることに成功した周防の大内義隆は、他の安芸国人衆に対しても攻勢に転じた。大内義隆は、尼子へ傾斜する平賀氏を厳しく追及した。おそらく平賀家は、大内氏への忠誠の証として、名井光叶に詰め腹を切らせなければならぬ状況へ追いこまれたのであろう。


その後、尼子晴久の逆襲も激しく、天文年間には吉田郡山の毛利元就を襲うこととなる。元就は、尼子氏を迎撃する体制を整える一環として、頭崎城の平賀興貞を夜襲、興貞は入野へ逃亡し、竹林寺の住職として余生を送ることとなる。

竹林寺の本堂前にも、名井光叶の墓とされる宝篋印塔がある。
 
   
Posted at 21:42 / Z軸 東広島市内 / この記事のURL
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