第二回 「うたかたの日々」ボリス・ヴィアン
2007.09.25 [Tue] 00:26

あー、だいぶ遅れてしまいました。こんばんは。ずいぶんと秋めいて涼しくなってまいりましたが、風邪などひいていませんか。この時期寝床に腹巻きは必需品。我が家ではラブラドールの泰三くんが湯たんぽ代わりで大人気です。
そんな人肌恋しい秋の夜長には、やっぱりとびきりの恋愛小説が似合います。鍵盤を弾けばメロディに合わせてカクテルを作り出すピアノカクテル、明日のデートが詰まったホールケーキ、シナモン・シュガーの香りで二人を包むバラ色の雲。”現代でもっとも悲痛な恋愛小説”とうたわれた小説「うたかたの日々」をご紹介します。
作者は1940年代から50年代に活動したフランス人作家、ボリス・ヴィアン。デューク・エリントン、マイルス・デイビスなどアメリカの産んだジャズミュージックをこよなく愛し、自身もトランペット奏者として活動していた彼の作品は、まさに感性的な即興演奏の連続。はじめてのデートの途中に通り過ぎたショーウィンドウの中では肉屋の男が子供の首を切り落とすパフォーマンスをしているし、スケート場へ行けばお客が次々に衝突して窒息死。恋人たちの愛らしく甘い時間は、常にどこか醜悪な重低音のうねりで歪曲されています。そのモティーフひとつひとつが物語を非現実へといざない、彼独自の限りなく甘美で果てしなくグロテスクな世界が作り上げられるのです。
いや、ここで”非現実”と書いてしまうには語弊があるかもしれません。ヴィアンはこの小説の序文に寄せて、次のような言葉を残しているからです。
「それ(小説を書くこと)は…参照次元に現実を投影することなのだ。」
つまり彼の作風は、まったくの即興によるフリー・ジャズ的なものではなく、あるコード(参照次元)の上に不規則なアレンジ(現実の投影)を重ねていくビ・バップやクール・ジャズに近いものだったといえるでしょうか。彼は決して”非現実”のファンタジーを作り上げようとしたのではなく、飽くまで自身の現実にコミットした作品を描こうとしていたように思えます。
心理療法士の河合隼雄さんは、ある対談でこう語っています。
「現実にはおもしろい偶然はそうそう起こらない、という前提の上に現代の小説が書かれているとすると、それはみんなSFなのです、ぼくに言わせれば。近代小説にはほんとのリアリティーなんか書いてなくて、あれは空想科学小説みたいなものです。科学に縛られて、つまり、因果的に説明可能なことしか起こってはならないとか、そんなばかなことはないんです。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
アメリカの文学作家、P・オースターも自身のエッセイ集『空腹の技法』で、近代小説によってねつ造された”現実”から逸脱した要素を作品のなかに盛り込めばすぐに批判を浴びせられるが、それはおかしい、と書いていました。
ヴィアンが「参照次元に現実を投影する」というとき、もちろんその現実はねつ造されたリアリティーを指すのではないでしょう。すなわち、私がもしヴィアンの小説を”非現実”と呼んだ場合に逆説的に真とされる”現実”とは違う現実。私たちが現に生活しているこの現実は、実は<この現実>などとひと掴みにできるほど確固としたものではないということを理解した上での現実。今、あなたが見ているこの文字の色が、あなたがグレーだと呼ぶこの色が、他の色との差異によってのみ同等のものとして万人に理解されるのならば、私に見えるグレーと同じ色だという保証はどこにもない。それほどこの現実は不確定なものであるはずです。それこそが唯一の真実、ともいえるかもしれません。けれどもその不確定さを抱え続けられるほど人は強くない。だから人は、安心して寄りかかっていられる”揺らがない現実”をねつ造し続けるのでしょう。もちろん、そうやってねつ造を続けられるからこそ人はいわゆる正気でいられるわけです。
ただ、時折そこに亀裂を与えてくれる人々がいる。ボリス・ヴィアンもその一人です。”揺らがない現実”に大きく歪みを加えてくれる、彼の知っている真実を彼らしい感性で描いてくれる作家です。この小説が”現代でもっとも悲痛な恋愛小説”と称されるゆえんは、この小説が終止現実を凝視しているからなのかもしれません。
めっきり過ごしやすくなってきた秋の夜長、鈴虫の声に少し寂しさを感じたら、ヴィアンによるチャーミングな愛の演奏に耳を傾けてみてください。その甘美なメロディの先で、ほんの少し、あなたの”現実”が揺らぐのを感じられるかもしれません。
 

第一回 「家出のすすめ」寺山修司
2007.09.13 [Thu] 00:05

うわぇ!出だし早々締め切り過ぎた!すまん!
ということで仕切り直して…

いやあ、ここのところめっきり涼しくなって、なんだかすっかり秋ですね。お元気ですか。私はすっかり食欲の秋、芸術の秋、といったところで、今日は久しぶりにタイツなんか履いてみたりして。元気にやっております。ええ。いやーしかしついに始まりましたね、この企画。どんなテンションでいけばいいのか皆目見当がつきませんがね、ええ、こんな感じでね、初回ですから。とにかく書きましょうね。
姿勢、ということで。なんのひねりもなくいきなりテーマから入ってしまった。だいぶ昔のことですが、ご近所の某イタリアンチェーン店で両親が食事をしていたときのこと、かのノーベル賞作家・大江健三郎さんがガラス向こうの歩道を自転車に乗って爽快に通り過ぎていったそうです。そのときの姿勢といったらSONYウォークマンCMの猿にも勝るほどだったそうで、やはり立ち居振る舞いはその人を表すと言いますか、身体と心は切っても切り離せないものなんですね。日々精神的探求を要求される類いの芸術家なら尚更のことでしょう。まあ、今回大江さんはこれ以上関係ないのですが…あの、おそらく姿勢においては大江さんの対極を成すであろう、3面記事的アヴァンギャルドのパイオニア・寺山修司氏にね、今回はスポットを当ててみます。私の拝見した限り殆どの写真において、一番の特徴は恐縮してすぼまったような肩にぽんと乗ったお顔。自身の劇団天井桟敷の処女作品「青森県のせむし男」というタイトルにも示唆されている通り、お世辞にも良い姿勢とは言えない風貌の方です。フロックコート姿が印象的で、常にどことなく困ったような哀愁漂う表情をされています。青森県の男性の特徴なのでしょうか、太宰治といい、宮沢賢治といい、寺山さん自身母性本能をくすぐるタイプの人だったようです。
寺山修司氏の本当に本当に簡単なご紹介をしますと、60年代、演劇を中心として俳句、詩、小説、映画、競馬評論、、、などなどなど様々な角度から世界を刺激し続けた世界的前衛作家です。中でも今回紹介したいのは若者に向けた強烈なアジテーション本、「家出のすすめ」です。これは、早稲田大学中退後、創設当初の劇団四季の戯曲やラジオドラマの脚本などを手がけながら名を馳せていくなか、20代後半で大学を講演して回った内容を刊行したもの(当初の題は「現代の青春論」)。『第一章 家出のすすめ』の他、悪徳のすすめ、反俗のすすめ、自立のすすめを合わせて全四章から成る本書ですが、やはり圧巻は第一章。1963年刊行ですから、やはりここで扱われる“家”そのものの在り方が現在とは大きく異なるのは確かです。しかしその奥座敷に潜んで、私たちを優しく抱きしめ、絞め殺すほどに抱きしめ、比喩でもないほどに「食べちゃいたい」なんて言い出す“母親”の存在(あるいはイメージ)は、野性の思考から神話に紡がれフロイトやユングらによって用語化され、今なお人々の精神の奥底で脈々と息づいているでしょう。そしてその“母親”から離脱せよ、母を捨てよ、というメッセージこそ本書で綿々と語られていることなのです。母との精神的な分離が不明瞭であればあるほど、子供自身はもとより、母親自身の愛情に何か狂いが生じることも多いのではないでしょうか。こう考えると現代にも母親の異常な愛情による不具合、といったことがあちらこちらで伺える気がしますね。
しかしながら、ここで最も注目したいのは、「母を捨てよ」とうたう寺山さん自身の在り方です。本書はエッセイ的な語り口によるものですから、当然寺山さん自身の母親に対する記憶、経験が綴られる箇所が出てきます。しかしそれは、“はつ”という母親の本名を露呈した上での誇張に次ぐ誇張、嘘か真か真意の定まらぬほど劇的で赤裸な内容になっています(はつさん当人はこれについて相当恨みを持たれていたそう)。寺山さんは「あらゆる過去は物語に変わる」「記憶は変えられる」といった信念の持ち主であったため、母親の記憶のみならず自身の経験については、虚飾、虚構を厭わなかったのです。この点を批判する人たちもいます。しかし、これこそが、寺山さんの芸術に対する姿勢だったのだ、とわたしは思うのです。そう、姿勢。エッセイであろうが何であろうが、創造の精神を忘れないこと。自身の人生すら、虚構にしてしまう。むしろ人生は虚構?(この点についてはデビッドリンチ作品との絡みとか書きたかったけど、もう字数も時間もない!)
とにかく、芸術家として、作家としての姿勢を学ばせてくれる人、寺山修司さん。またいつか別の著作を紹介したいなあーとおもいます。
つか、長くて支離滅裂でごめんなさい…次はもちょっと面白くするわ!
 

てすと
2007.09.05 [Wed] 09:42

てすとー