ゆうきまさみの憎悪

June 20 [Fri], 2014, 1:08
マンガの機動警察パトレイバーを読んで、非常に面白かった。
面白かったという以上に、個人的にこの作品が好きだと思った。
うまく言葉にしたいものだが・・・


1.パトレイバーというマンガの「中心」

私が好きだと思ったのは、物語も終盤になって、野明が遊馬と居酒屋に行くシーンだ。
野明はここで酔っぱらいながら、「自分は立派な大人になりたいんだ」と口にする。
それを聞いた遊馬が「立派な大人ってどんな人だ」と聞くと、野明は「自分の父親や隊長のような人だ」と答える。

父親や隊長のような人とはどのような人かというと、それは「子供を幸せにできる人だ」という。
私はこの答えが、パトレイバーというマンガの中心であると思った。
こういう望みを持つ人(たち?)が、この作品の主人公なのである。

パトレイバーというマンガを初めて読んだとき、私には面白さが分からなかった。
最初は読み飛ばしていた上記の居酒屋のシーンの意味に気づいたとき、初めてこの作品が好きになった。

どれだけ控えめな作品なんだと思った。
2人は酔っぱらっているし、マジメになんか話していないし、ギャグまで入ってくる。
それでもこのシーンは、自分にとってはそれと気づいて以来、パトレイバーという作品において最も好きなシーンである。

含羞の人とはこういう人のことかしらと、ぼんやりと思ったことを記憶している。


2.作品における敵と、作者にとっての敵

パトレイバーという作品には、敵が存在する。
それは1つには内海課長であり、もう1つには「企業」であろう、と私は思う。

ただ私自身の過度に勝手な解釈では、内海課長は野明たちの敵であるのに対して、企業という存在は作者のゆうきまさみ自身の壁としてあるように感じられる。
作中の敵役である内海課長ですら、より大きな視点では、「企業」に対する敵役として配置されているように思える。
その意味では、真の大ボスは、極東マネジャーや遊馬の父親らであると言えるだろうか・・・?

さておき、
内海課長が敵としてあるのは、主に前述の「子供を幸せにできる」という観点に、真っ向から対立しているからだ。(ある意味では、対立していないとも取れるのだが)
内海課長は、野明が尊敬する「大人」ではない。
内海課長は、自らが「子供」であって、彼が楽しむ側であり、彼が幸せになる側であり、その逆ではない。

別に自分が楽しむだけ、幸せになるだけなら野明たちと対立する理由はないのだが、彼自身は自らの目的のために子供の人身売買や殺人などを行ってしまっている。
要は「自分の楽しみのために子供まで利用してしまっている」のであり、この点において野明の、あるいは捻くれた遊馬の、そして特車二課の性格から、決定的に外れている。

その一点をもって、内海課長は特車二課の敵たりえている。
おそらく子供の人身売買さえなかったら、内海課長というキャラクターは、パトレイバーというマンガにおいて「排除されるべきもの」とまでは定義されえなかったのではないだろうか。
殺人行為でさえ、メタ的には許容されたかもしれない。

実際、作者自身も内海課長を、作者にとっての真の敵であろう(と私が決めつけている)極東マネジャーなどのような「エリート」と同じようには描いておらず、むしろ主人公たちの能天気ぶりに親和する、「こちら側」に近いキャラクターとして描いている。

結局、熊耳さんとの因縁があったりはするものの、作者によって殺されてしまうほど存在が許されなかったのは、「自らの楽しみのために子供さえ不幸にする」という一点に原因があったのではないかと私は思っている。
ただ、エゴを抜きに考えれば、内海課長の行いは、あれはあれで子供を幸せにしていたと言えなくもないのでは・・・と思うところではあるが。


3.ユートピア

このマンガは、主人公と敵の戦いを描いたものとして捉えるのが基本かと思う。
主人公というのは特車二課、敵というのは企画7課、そして企業だ。
また、この戦いは、格闘の技術などを描いた戦いではなく、ある種の「価値観」の戦いだ。

このマンガでは、主人公のグループと敵のグループに分かれて戦いが繰り広げられる。
つまり、特車二課というグループ、企画7課というグループ、企業というグループだ。

このグループというのが私の気にしたいところで、基本的に同じグループの人間は、似たような価値観によって統率されている。
同じグループ内でも権謀術数が渦巻いていたり、裏切りの臭いが漂っていたりすることは、あまりない。
同じグループに属するメンバーであれば、基本的には、安心して頼れるのである。

では主人公のグループはどんなグループなのかというと、
基本的に自由、自主放任、和気藹々、平凡、普通、平和、良識的・・・アホばっかである。
もう少し言えば、「立派な大人」がいる「子供たち」の場所だ。

野明にしても遊馬にしても、主にスポットを当てられるメインキャラクターはまだ子供で、物語終盤においてもまだ「大人になっていこうとする子供」と評するのが近いだろう。
そして後藤隊長や南雲隊長といった人たちが、「立派な大人」として彼らを監督している。

このグループでは「悩む」ことが許されている。
そして「時間」が与えられている。
これはいわばモラトリアムの延長であり、普通は組織、しかも警察のような人を守る組織に入ったからには許されないことだろう。

実際、子供たちの周囲にいる大人たちは、彼らのそういった不十分さを戒める。
しかし戒めながらも、遊んだり悩んだりする若者たちを大事に思い、つきあい、信頼している。
立派な大人たちは、そういう甘ったれた若者たちのナイーブな部分を、芯から嫌悪しているわけではないのである。

これはおそらく、作者であるゆうきまさみにとっての1つのユートピア像であろうと私は思う。
疑似的な「家族」に近いグループだ。「立派な大人」がいる「子供たち」のユートピア。
これを作品の中心として定置した、つまり主人公として設定したというところが、パトレイバーという作品の基礎であり始まりであると思う。

このユートピア像をもって、物語の全局面が、ユートピアに対するものとして展開していく。


4.もうひとつのユートピア

ではそれに対する内海課長、そして企画7課はどうなのかというと・・・

こっちはこっちで、別にそんなに劣悪な環境だったり、シビアすぎて胃が痛くなるようなグループだったりするわけではないのである。
自由、自主放任、和気藹々くらいまでは特車二課と同じで、ある意味こっちもアホなのは変わらない。
その意味では、こちらのグループもまた、1つのユートピアとして現れている。

企画7課が特車二課と明確に異なるのは、企画7課は人死にさえタブーにはしないという点だ。
抽象化すれば、究極的には目的のためなら手段を選ばない、そういう性質が比較的強いグループといえる。
だから自分の意志で人を殺せるし、子供の人身売買もできる。

つまりこちらのユートピアは、徹底した刹那的な快楽主義のユートピアである。
倫理や社会性といった謎の何物かに縛られることなく、自らの欲求を満たすことに集中できる。
重要なのは自分たちが楽しむことだけで、それ以外のことはどうでもいい。
自分たちの欲求のためなら、人を殺すことも、巻き込むことも、利用することも躊躇わない。

野明たちのユートピアは、「子供を幸せにできる」というユートピア。
内海課長たちのユートピアは、「子供のように楽しむ」というユートピア。
野明たちは自らのユートピアの中で、自らを知り、悩み、大人たちに育てられ、「立派な大人」になろうとする。
内海課長たちは自らのユートピアの中で、ひたすら自らの楽しみを追求していく。

作者自身は、どちらのユートピアにも惹かれるものがあったに違いない。
社会に出て働き、倫理や常識といったものに価値を置き、ひとりの人間としてまっとうに生きていこうとする中で見い出したもの。
倫理や常識を超えて純粋に楽しみを追求すること、ひたすら輝かしいものに没頭することの中で見い出したもの。
その両方が、自らにとって捨てることのできない大切なものだと、自覚していただろう。


5.ユートピアを超えて

では、なぜ作者にとって愛すべき2種類のユートピアが、互いに対立することになってしまうのか?

それは、この2つのユートピアの、倫理と常識に対する「バランス」の違いからだ。
野明たちが比較的バランスを取れているのに対し、内海課長たちは明らかにアウトなレベルで偏っている。
つまり人を殺してもいいし、子供を売買してもよい、「楽しみのためには何をしてもよい」というレベルにまで天秤が傾いてしまっている。

主人公たちと内海課長たちの戦い、特車二課と企画7課の戦いというのは、この「行き過ぎ」に由来する。
「楽しいのは分かる。でもいくら何でもそこまでやっちゃダメだろう」という理屈だ。

結果的に、この2種類のユートピアの対立は、行き過ぎた内海課長たちに野明が一撃かますという形で決着する。
それまで敵としては内海課長の眼中にすらなかった、単なるパトレイバー操縦者としてではない泉野明、
後藤隊長に育てられ、遊馬や太田らと共に自らの望むものと向き合ってきた、「立派な大人」になろうとする泉野明という生身の人間が、内海課長の横っ面を引っぱたくわけである。

読者には激昂するなど想像すらできなかった後藤隊長に、電話に八つ当たりさせるほど完璧に勝利した内海課長は、後藤隊長のもとで育ち、後藤隊長のようになりたいと言った野明によって、痛烈な一撃を食らう。
食らって初めて、そして唯一「傷つく」のである。

そして同時に、内海課長と共にいた熊耳さんも、その野明の姿を見る。
これまでずっと頼りなく、未熟で他愛ない子供だと思ってきた野明が、自分はどうなりたいのか、そのために何をするべきなのかを自覚し、自分にできる最大限の努力をした姿を見て、熊耳さんは自らの中の「子供」を自覚する。
そこでようやく「私は・・・いったい何を・・・」と己の姿を平静に見て自問するのである。

ここで野明に勝たせるということ、内海課長が負けるということ、熊耳さんが野明を見て気づくということ、
これが2つのユートピア像に対する、調停者としてのゆうきまさみの結論であると私は思う。


6.真の敵

ではもう一組との戦いはどうか?
2種類のユートピアと、企業あるいは巨大権力との戦いは、どういうものか。

対企業あるいは対巨大権力といった戦いは、作品の中で明確に描かれることは、ほとんどない。
とりわけ特車二課とシャフトの戦いというのは、人間と鵺の戦いのようなものだと私は思った。

おそらく唯一、この鵺のようなものとわずかながらも直接対峙したのは、内海課長くらいだろう。
内海課長はこの点において、つまり「企業あるいは巨大権力との戦い」という点においては、ゆうきまさみのキャラクターとして、ゆうきまさみの望む行いをするものとして、行動していると思う。

もっとも、内海課長自身は自らの楽しみ以外に執着がないため、局地的にはともかく、本質的に企業や巨大権力と対立するキャラクターではない。
ゆえに、ゆうきまさみ自身の嫌悪や憎悪を晴らすまでの性格は持っておらず、それゆえに作中であれだけ企業を手玉に取りえていたと思わなくもない。

内海課長は個人の享楽をもって企業に打撃を加えるカウンターであり、その意味において主役でもある。
この戦いにおいては、特車二課は敵の存在すら把握できず、一方的に踊らされているだけだ。
しかし内海課長は敵をそれと認識しており、トリックスターとして体制側のエリートを困らせる・・・くらいのことはできる。

しかし野明たちは、これらの企業や巨大権力に対して為す術がない。
内海課長たち企画7課とは面と向かって戦うことができても、暗然とした「その奥にいる真の敵」には辿りつくことさえできない。
その意味では、極東マネジャーや遊馬の父親にとって、特車二課は「敵になりえてすらいない」存在だ。

内海課長や企画7課が引き起こした大規模な混乱も、結局は大企業の「陰謀」の一端でしかない。
そして陰謀を巡らせた影の権力者たちは、メタ的な視点においてすら、ほとんど姿を現さない。
彼らの存在は完全に合法的で、違法な行為については絶対に外には漏れない。
しかし多くの凶事の根幹には、彼らの手が加えられている・・・決して捕まえることができないのに。

これは、ユートピアの敗北の1つであると私は思う。
ゆうきまさみ自身が、これは敗北するしかないと認めざるをえなかった、と私は考える。
野明たちにはどうしようもない、手の届かないレベルでの出来事、
一種の超越的な存在として、大企業や巨大権力といったものが描かれていると思う。


7.ゆうきまさみの憎悪

それを思ったとき、つまり巨大な権力が邪悪を行ったにも拘わらず、野明や遊馬のような「平凡な人々」には何もすることができないという「現実」を悟ってしまったとき、これまでユートピアを描き、日常というものを愛してきたゆうきまさみという人物が、何を考えるのか?

ゆうきまさみという人は、パトレイバーというマンガにおいて、実に多くの「日常」を描いてきた。
草刈りをして、水撒きをして、掃除をして、訓練をして、食事をして、飲んで、話して、笑って、喧嘩をして、青春をして・・・
話のメインは非日常、つまり切った張ったの戦いにこそあると思っていた私は、やたらと丁寧な日常パートに退屈さを覚えたこともあった。

なにせ話(非日常の部分)が進んでは止まり、進んでは止まりして、しかもバトルパートにしてもあんまり盛り上がらない。
悲愴感もなければ緊張感もなく、高揚感もなければ爽快感もない。ただし無力感と疲労感はある。
ぐだぐだの戦いばっかりで、勝敗も定かならぬうちに季節は移ろい・・・みたいな。

これはおそらく、物語の全編が緩やかな1つの流れとして描かれているためだ。
その長大な1つの流れというのが、すなわち日常である。

しかもこの日常というのは、ただならぬ者の日常ではなく、「ユートピアの住人の日常」なのである。
野明たちのユートピアの性格を考えれば、これで悲愴感とか緊張感とかを期待する方が間違っている。
要するにユートピアの日常というのは、ただの日常なわけだ。

先述のようなユートピアを形成した時点で、この作品の主眼は、非日常よりも日常に寄っていると思うべきだ。
警察官という職業上、どたばたと騒がしい日常ではあるが、基本的にはのんべんだらりとしたものだ。
このぐだぐだとした、平和ボケしたような空気こそ、パトレイバーというマンガにおいて作者が大事にしたかったものではなかろうか。

そこで、一方においてユートピアの日常を愛おしむゆうきまさみという人物は、他方における現実的な不穏さや不条理を前に、何をするのか?
私はおそらく、この作者はそういったものを嫌悪しつつも、どうすることもできないだろうと思う。

パトレイバーのラストにおいても、結局のところ事件の真相は解決できていないということが明確に描写される。
それに対置される野明たちの姿は、今日もお仕事がんばりますか、という地に足のついた朗らかなものだ。
日々は続く、といったところだろうか。日常に始まり、日常を描き、日常に終わる。
この作品にふさわしいラストシーンだと思う。

ただ、この朗らかさ、しっかりと日常を生きていくという主人公たちの姿が、隠然たる権力の強大さを示した直後に対置されているということが、作者の屈託を現しているのではなかろうかと私は思う。

極東マネジャーに象徴される現実的な暗部に対して、野明ができることは何もない。
それでも空は青く、周りには信頼できる仲間たちがいて、今日も明日も日々は続いていく・・・
という構図は、結局のところ、作者が自らの抱く最大の問いに答えられていない、あるいはその答えが納得いかないものであるのに乗り越えることができずにいる、という葛藤を残したままの終りになっているのではないか、と思うのである。
もう1つの対立であった、2種類のユートピアの問題に関しては、かなり明白なレベルで作者の答えが提示されていると思うが・・・

この最後に至るまで断固として解消されえない現実と、それを認めてフィクション的に解決させることがどうしてもできなかった作者の感情というのは、嫌悪というものの時間的な熟成を経て、むしろ憎悪と呼ぶにふさわしいのではないかと思う。
嫌悪であれば執着はないが、憎悪には執着がある。嫌うものからは離れられるが、憎むものからは離れられない。

日常を愛するゆうきまさみという作者は、このテーマについて、どのような答えを出すのだろうか。


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