草壁カゲロヲさん率いる劇団VOGAの15周年記念作品『Ato-Saki』を観た。
ジャケットには、「一九四五年八月十五日の【Ato-Saki】を描く、日本の物語」とある。
スタイリッシュさと、泥臭さの入り混じった舞台を、とても面白く観させてもらった。
以下、感想。
戦争、あるいは戦場を描くと、ステロタイプになる。それは、戦争とは、公共化された言葉による個人の言葉の駆逐という側面を持つからである。公共化とは、制度化されたテキストとその構造による囲い込みによって、個人をこえて権威的に機能し、「一致団結」を強制的に要請するものだ。そして、戦場においては、かけがえのない「この私」から「この」をとりさって、兵士たちに「私」となることを要請する。これもまた、公共化による作用である。本作品における前半部分の多くがステロタイプであるのは、このような理由から生じていると考えられる。
「この私」とは、永井均のつきつめている問題であり、私もあなたも彼も彼女も、それぞれに「私」であるのに、何故、私は「この私」であるのかという難題である。しかし、それは永井による研究があるので、ここではつきつめない。
本作品中盤以降、つまり、終戦直後、流れは一変する。それは、戦争という名のもとにあった公共の言葉が一転、無きものになるからだ。戦時中の登場人物が、公共的な要請のもとに語るのに対し、ここから登場人物は極私的な語りを始める。例えば、クサカベの前に、死んだ軍医のタカハタが現れ独白する。この中の「たった一人の私」とは、まぎれもなく、かけがえのない「この私」を示している。「なんでサッチャンが死ななあかんの?」、「生まれてくるはずだった子供。」、…、と自分の身の回りに焦点が移っていくのだ。
しかし、女性たちが傘をさして、「通り雨」「降りやまない」…とリズムにのって繰り出すシーン。これは象徴的である。戦争という雨が、終戦後も、彼女たちだけではなく、復員兵たちをも覆っているのだ。ここで、公共の言葉の原理はまだ亡霊のように残っている。登場人物は極私的なことを語りながらも、未だ戦時中の公共の言葉から逃れ得ていないのだ。
それは、酒場でのクサカベとオオシマのやりとりにも見られる。オオシマは娘を失った怒りをクサカベにぶつける。クサカベは、「失う未来がなくてよかった」と言う。オオシマは大声で自分は脱走兵だと叫ぶ。その後の闇市での二人のやりとりで、オオシマは天皇をパチンコで打つ、という。クサカベは虚無的であるという点で、オオシマは闘う相手が変っただけという点で、両者はまだ戦時中にいる。
終盤にマチコが「ありがとう、あなた」という。この「あなた」という語りかけによって、クサカベは、戦時中の「私」から、「この私」になる契機を得たように思える。クサカベがマチコに語りかけるシーンで、クサカベは「ニューギニアに帰りたい」という。ニューギニアで、クサカベは、戦争が終わってからいつも笑っていた、という。これは、クサカベの本音であろう。「あなた」という言葉を契機に、クサカベは本音をマチコに語りかけることで、クサカベは真の終戦をむかえ「この私」になったのだろう。そして、マチコも「この私」になることができたのではないかと思う。
ラスト・シーン、クサカベは、人間が七転八倒しながら生き続けることを肯定的に示す台詞を繰り返す。しかし、それは単に、生を肯定的にとらえているのではない。絶えず、公共の言葉に脅かされ続ける個人の言葉、そして、ともすれば「私」となってしまいそうな「この私」をどう生きるのか? クサカベの台詞は、そのような問いかけだと、僕は受け取った。とても、重い問いだと思う。