世の中の頑張っている母たちにエール!

2010年09月17日(金) 23時00分
『女子大生がヤバイ!』小沢章友氏著新潮新書2009年6月発行の中に、女子大生が書いた「偉大な母よ」という作品があります。そしてこの作品に対する小沢氏の後述文は、私を含め頑張っている皆様のさらなる励みになるのではないかと思います。

「 私には尊敬というか、頭が上がらないというか、とにかくそういった人物がいる。それは偉大な歴史上の人物でもなければ、家族の大黒柱の父でもない。そう、我が母だ。そう思うようになったのは、中学の時だった。当時私は一丁前に反抗期なんぞになっていた。
‘勉強しなさい’ばっか言う母がウザくて、学校から帰って来ると再放送のドラマばかり真剣に見ている母に、イラッとしていた。
‘母よ、人に勉強だの何だの言う前に、少し動いたらどうだ’
いつもそう思っていた。だが、あれは中3の秋だった。クラスで文化祭の出し物をすることになり、私と友人がクラス費を集める係になったのだが、そのクラス費がなくなってしまったのだ。私たち2人はそれを確かに先生に渡したのだ。しかし、先生は‘記憶にない’だの、‘渡す現場を見た者はいるか’だの言って、私たち2人を犯人に仕立てあげたのだ。
 それから3日間は地獄だった。先生からの事情聴取とイヤミ。クラスメイトからの冷たい視線。なんでこんなめにあわなければいけないのかと思った。そして3日め、校長室に呼び出された。どんなに私たちが否定しても、聞いてはくれず、しまいには‘警察呼ぶぞ’とまで言われた。その時だった。
‘ちょいと失礼’と言って、母が校長室に入って来たのだ。
 なぜ母がここに来たのかワケもわからず混乱していると、‘ウチの子が文化祭のお金取ったとか言っているけど、お金はちゃんとアンタに渡したらしいじゃない’入ってくるなり、担任と校長に突っ掛った。‘アンタ、自分の周りは探したのか?’
‘探しましたよ!私の机の中も全部’‘机だけ?他は?’‘他なんて探す必要ないでしょ’‘アホ言うな!探し物をする時は、他の場所も探すのが当然でしょ’
 母はドカッとソファにすわり、ドンと片足を校長室のテーブルにのっけて、気迫で担任に迫った。母よ、アナタは元ヤンか。気迫に押され、担任と校長は職員室中を探しに退室した。数十分して担任と校長が戻ってきた。手にはクラス費を集めた袋を持って。なんでも事務室の金庫に入れたのをすっかり忘れていたらしい。担任は私たちに平謝りし、明日クラスのみんなに話して謝ってくれると言った。
 私はその後友人と別れ、母と家に帰った。‘何で私がやっていないってわかったの?’
 たずねると、‘アンタ、嘘つくのヘタだもん’と笑いながら言った。‘最初聞いた時は、何やってんのと思って、怒鳴ってやろうと思ったんだけど、アンタが嘘言ってる風じゃなかったからね’
‘そんなんでわかるの?’
‘あたり前じゃん。アンタの母親なんだから。どんだけアンタの事見てきたと思ってるの’その時初めて、母が‘私’というモノすべてを見てくれていたということに気づいて、少しムズがゆかったけど、嬉しかった。そして‘ああ、母よ、私はアナタについていく’そう思ったのだ。」

(以下は、小沢氏の言葉です)
「 しかし、この担任と校長はゆるせない。この子たちに土下座して謝れと言いたい。へたをしたら、この子たちの一生をだめにしてしまうところだったかもしれないのだ。猛省をうながしたい。それに、この母親が太っ腹で寛大だったからよかったものの、もし‘モンスターペアレント’だったら、大変なことになっていただろう。
 面白かったのは、これと同じような体験をしたという学生が、数人いたことだ。クラス費の紛失といったことではなく、自分がほんとうに困っている時、母が救ってくれたという体験を、彼女たちは持っていたのだ。
 そんな時の母は、娘たちにとって、なんと偉大に見えることか。世界の誰よりも、頼りになる存在なのである。
 ちなみに、‘母が偉大に見えた時’を聞いてみると、‘クラスでいじめにあったとき、担任にかけあってくれた’‘ケガをしたとき、おんぶして、病院に走ってくれた’‘兄がぐれたとき、逃げずに、立ち向かった’‘父が病気になって、働けなくなったとき、母が私たちの面倒を見ながら、外で働いてくれた’などという答えがあった。ただ、一番多かったのは、‘自分を犠牲にして、家族のために生きている’であった。彼女たちにとっての母親は、縁の下の力持ちという役割を我慢してやっている、偉大な存在なのだ。
 ともあれ、この学生が書いているように、母親ほど、娘のことを理解している存在はいないだろう。それが最も自然なことなのだ。しかし、そうでなくなったとき、母が娘のことを理解できなくなったときに、その家族は漂流し、崩壊していくのかもしれない。」

‘自分の人生ってなんなんだろう’とか‘自己実現’とか考える母親も多い現代ではありますが、しかし、子どもから見た場合、‘自分を犠牲にして、家族のために生き、縁の下の力持ちという役割を我慢してやっている母親を偉大な存在として感じていることが、わかります。

赤ちゃんをあやすのが大変だったり、雑用に追われる日々だったり、気がめいることも多いお母さん業かもしれません。でもその頑張りを子どもたちは正当に評価し感謝して育ってくれているのだと思います。地味な人生かもしれませんが、楽しく笑いある日々を過ごしていきましょう。

『女子大生がヤバイ!』には、現代の20歳女子大生の実像が綴(つづ)られています。家族友達恋愛など、どう感じているかがそのまま伝わってきます。母親としての立場で読むと、思春期・青年期の心を知る育児書でもあると思います。

不登校の考察(親の連続性と一貫性)「小児科医林隆博氏心のカルテ」よりNo3

2010年09月15日(水) 14時30分
「小児科医林隆博氏の心のカルテ」には、親の育児姿勢には連続性と一貫性が大切ということが書いてあります。

『女子大生がヤバイ!』という小沢章友氏著新潮新書2009年6月出版の本があります。この本では、小沢氏の小説創作の講座で学生が書いた作品を紹介しています。その中に、「母へのしこり」という題名で書かれた作品があり、「親の育児姿勢の連続性と一貫性」に関連していると思うのでご紹介します。

「 捨てて来なさい。母の言葉は冷たかった。小学校1年の私は、学校帰り、猫たちと暮らしていたおじいさんから、1匹の猫をもらったのだ。金色と青色のすてきな目をした白い猫だった。猫を手放したくない私は、捨てて来いという母を憎んだ。けれど、さからえなかった。近所の茶畑に行き、猫を放した。私になついてしまった猫は、ふた色の目で私をじっと見つめ、なかなかどこかへ行ってくれなかった。私はこらえきれず泣いた。そして、心の中で猫にあやまり、うがあ!と犬が吠えるように叫んだ。猫はびっくりしたように茶畑の奥に消えてしまった。家に帰って、捨てて来たという私に、母はそうと返しただけだった。あれから12年が過ぎて、私は18歳になった。この間に、わが家では犬を飼いはじめた。あの白い猫とは正反対の、黒い犬だ。母は、私がつけた名前を気に入り、食事を与えながら、頭を撫(な)でている。それならどうして、あの猫を捨てなければならなかったのか。しかし、母に向って、それを言ったことはない。ただ、ときおり猫の鳴き声を耳にすると、胸がかすかに痛む。金色と青色のあの目がじっと私を見つめているようで。」

(以下は、著者の言葉です)
「 12年前の、母への‘しこり’。娘のなかには、まだそれは息づいている。といっても、娘は母を、とりわけうらんでいるわけではない。ひどく憎んでもいない。べつに強い感情を抱いているわけではないのだ。にもかかわらず、‘しこり’はある。なくなったようで、あるのだ。・・・12年前に猫を捨てさせた母の気持ちをいまだに受け入れてはいない。母に対する‘しこり’として、彼女の胸の中に、いつまでも残っていくだろう。」
 
この出来事は、この子の人生において1回だけの事であったけれども、大学生のこの子の心の中に残っています。
 もしも普段、親が何度もころころ態度を変え、子どもが親の気持ちが理解できない事が何度もあったら、子どもはどれを基盤として行動したらよいのか分からなくなるでしょう。また、容易に心の病気になってしまいそうです。親というものは、自分の気分で子どもをしかったりしからなかったりしてはいけない。同じ出来事に対しては、同じ考えのもとに同じ行動をとるという姿勢が大切ということがわかりますね。

―以下、「小児科医林隆博氏心のカルテ」より―――――――――――――――――――――――――――――――
連続性と一貫性を保つ

 乳児期の子育てにおいては母親の養育態度の連続性と一貫性が重要で、それが子どもの心のなかに自己と他人に対する根源的信頼を形成していく、ということを前項でお話しました。母親の養育態度の連続性と一貫性というのは、乳児期にかぎらず子どもが完全に精神的に独立するまでのあいだ、常に求められてくることです。乳児期以後は養育者は母親だけではなく、父親やその他の家族も子育てに加わってくるようになりますので、「大人たちの子育てに対する態度の連続性と一貫性」といったほうが適切かもしれません。

 子どもの生育歴を探っていると、よく両親の口から「うちは甘やかし過ぎたから」とか、「うちは厳しく育て過ぎたかもしれない」などという言葉が出てくるのを耳にします。しかし本当のことを言えば、少々甘やかして育ててもかまわないし、かなり厳しく育ててもかまわないのです。両親や大人たちの養育態度のなかに連続性と一貫性が保たれているならば、それがいかに甘やかした養育態度であろうと、いかに厳しくしつけた養育態度であろうと、子どもは自分の養育環境を受け止め、どのような環境のなかにもきちんと順応できる力をもち合わせているのです。

 問題なのは養育態度に連続性と一貫性がないばあいです。かわいいと思って甘やかしてみたものの、途中で飽きていやになる。自分勝手な理由で子どもの世話を放棄してしまう。気分が向かないと子どもの要求をすべて無視する。このような連続性のない養育態度は、子どもの心のなかに自閉や抑うつといった感情をつくるもととなります。またいつもと同じように発せられている子どもの要求に対して、大人たちの態度に一貫性がないのも困ります。昨日は気分がよかったので、褒めたり甘やかしたりしたのに、今日は気分がよくないのでしかりつけてしまった。父親と祖父母は甘やかして認めていることを母親は厳しくしかりつける。このように一人ひとりの大人のなかと、家族のなかに一貫性が欠けているのは、子どものなかに迷いや分裂といった感情をつくるもととなります。

 態度の連続性と一貫性ということは、保育園の保母さんや学校の先生たちにも要求されることです。これらの人びとは子どもと接する時間が長く、子どもに与える影響も強い職業についているわけですから、自分勝手な理由で、子どもに接する態度や子どもの指導方針をコロコロ変えるというのは好ましくありません。

 子どもに接する態度の連続性と一貫性というのは、不登校の子どもたちを治療する私たち医師やカウンセラーにも強く求められることです。治療者の治療方針に連続性や一貫性がないと、子どもを治すことはむずかしくなります。ですから親が自分勝手に子どもを連れて治療者のあいだを転々とするのは、子どものためにはならないことです。

 子どもに接する態度の連続性と一貫性、そのことの大切さをいま一度心に刻み込んでおく必要があります。  


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