年年歳歳 

2004年11月17日(水) 17時06分
年年歳歳花相似(年年歳歳花あい似たり)
歳歳年年人不同(歳歳年年人同じからず)
 桜の季節にぴったりの詩句とはいえ(あらためてその詩句を探したら、なんと桜ではなく桃李モモとスモモでしたね)、この紅葉の季節にも、変わらない自然と人との対比を思い起こさせてくれるので、ふと浮かんでくる一節です。
 私はあと何回この紅葉を見ることができるだろうか。夫婦二人であと何回この景色を見られるだろうか。同じような幸せな気持ちで見られるだろうか。などと人の生のはかなさを感じ、まただからこそ今を大切にと思います。震災以降ですかね。こんな思いを折に触れて持つようになったのは。歳のせいと2つの要因がからんでいるらしいです。
 なにやら今日は殊勝なことを言うじゃないですか。
 でもねえ。花だって紅葉だって、去年と同じ花がそのまま咲くわけじゃないしね。あくまでも似ているというだけで。人も自分に似た子どもを作って、自分は居なくなってもその血が連綿と続くという意味では、自然と同じですよね。
 だから何がいいたいのかって? 紅葉を見に行きたいのに、この土日出勤という事態をうらんでいるということです。

デジャヴュ 

2004年11月10日(水) 11時18分
 デジャヴュを生きていくための道標のようにしてきた。
 デジャヴュは、いつやって来てくれるかわからない。ある日突然やってきて、ほんの何秒かで通り過ぎていく。あれは本当にデジャヴュだったのかと、過去の記憶を探り、単なる記憶の再現ではないことを確認して、デジャヴュだったと認識する。それをして、やっと今の自分を肯定し、この道に決めた過去の決定を肯定する。
 道標と言っても、未来を暗示するものでは決してなくて。あくまでも過去の肯定。

 これまでのいくつかのデジャヴュ。
 一番は、院生の頃ある幼稚園に行ったとき、床を掃いているときに感じたデジャヴュ。院に進んだことを初めて肯定できたから。
 二番は、転居した時に、子どもが友だちを遊ぶ様子を見ていたとき。そこに転居したことと、子どものためにもよかったのだと思えた。(しかし、このデジャヴュは、評価が難しい。どの部分を肯定するのかという点において。その友だちと息子との関係は、その後不幸なことになったので。)
 三番目は、もう言語化できる決定的なものはない。でも、青年期以降、両手の指の数くらいはあったはず。

あくまでも過去の肯定ということは、デジャヴュがこないと、今の自分は間違っているというメッセージになるので、もし真剣にそれだけを待ち望んだとしたら、怖いことですねえ。

ここにいる自分のデジャヴュはまだありません。

生きづらさ 

2004年11月09日(火) 17時30分
 今日はツライことばかりだった。でもメタ的に生きるつもりでいるので、なぜツライのかを分析して、「ああ確かにね。でもその程度のことでしょ。」と自分に言い聞かせます。ということ自体、かなり無理しているともいえますけどね。
その1:私の言ったことにわざと尾鰭をつけて、私を強硬な意見の持ち主に仕立てあげることで、結果として自分を仕事熱心でよい人に見せる人がいるということ。
 なぜ、客観的にみて正しいから動くということができないのでしょうかねえ。自分のしたことが、私とその出来事に関わった人との人間的関係を険悪なものにしているという認識ももてないのでしょうかねえ。
 結局、頭が悪いだけなんじゃない。傷つくことすら馬鹿げている。
 ただ、世の中がそうやって自己アピールの強い人に有利にできているから、それをハスに眺めていられるだけの達観の閾に、自分をもっていけないといけない・・・
その2.:議論のできない会議。まあ、これはもうこんなところというしかないですね。言うだけ自分がよけい苦しい立場に追い込まれるから。昔は、それでもがむしゃらに言うべきことは言ってきたつもりだけれど、むなしさに気づきました。
 どうしても譲れないところだけ頑張っていけばいいのだと。それって?まあ基本的な人権と法に関わる問題かな。例えば、学生がその件で裁判を起こしたらこちら側が負けてしまうような、理不尽な対応に対してとか。でも、言ってそれが受け入れられなくても、それ以上はもう私の責任の範囲ではないと、執着しすぎないことですね。

ADHD的な私 

2004年11月02日(火) 14時12分
 幼い頃(といっても、小学校4年生くらいのときだったろうか)、いつもは厳格な顔つきで叱る父が、妙に穏やかな口調で諭すように、私に言った。「おまえは、そのおっちょこちょいを直さない限り、人生で必ずや大きな失敗をする。肝に銘じておけ」と。
 その言葉は、結構いつも自分の傍につきまとうように、ときどき「大丈夫?」と顔を覗かせてきた。だからか、人生をやり直せないほどのダメージの大きい失敗は、たぶんしてはいないと思う。(といっても、人生は自分が失敗しなかったからと言って、うまくいくものではないし、どうにもならないことも多かったけれど、主要因が自分の粗忽さにあることはなかったという意味で。)
 しかし、日々のおっちょこちょいとそのための失敗は数知れずで、どちらかというと間一髪セーフという場面の方が多いかもしれない。これも、あまりにもそういうことが多いのは、不思議なほどで、ゆえに神に感謝、感謝。
 先日も、あまりの情けなさに涙が出そうなほどだった。両面印刷6枚を左端5ミリで糊付けしたものを7部。それを作るのに、なんと3日もかかってしまったのだから。まず、7ページ目の裏に8ページを入れるべきところを、6ページ目を入れていたことに、すべて作り終えてから気づき、1からやり直し。次に、11ページ目に一箇所ミスプリがあり、これも気づいたのが糊付け後で、1からやり直し。その他、印刷の汚れや、糊付けの失敗やら、印鑑の押し方やらで、何部かやり直し。そんなこんなで3日間、イライラし通し。
 1部つくって後は両面コピーでやれば、もっと簡単なのはわかっていても、コピーよりは印刷したほうがきれい、ときれいさを求めるあまり、つまり変に完璧主義なのがイライラの原因で、大量の時間と紙を無駄にしながら、両面印刷をし、そのくせ、糊付けのスキルは完璧にはいかないので、余分に作成し、それでもいいものを選ぶというより、どうしてもダメなものを落として、やっとやっと、不本意ながら7部提出したというところ。
  

疲れ度 

2004年09月28日(火) 12時52分
 ご無沙汰してしまいました。忙しいといえば忙しく、でも時間を無駄にしている部分も大きく、心が疲れているというのが最も近い表現かも。こんなことをしていること自体、時間の浪費です。
 疲れ度は、電車の中での爆睡や(今朝など隣の汚いオジサンに寄りかかってしまっていてこちらも嫌でしたが、そのオジサンにしても若いお嬢さんならともかく、きっと嫌だったろうなと思います)、細かいミス(コピーカードを置き忘れるとか、持っていくべきプリントを部屋に忘れたとかーーこの辺は歳の功で、忘れたなんていわずに、なんとか済ませました)、顔の老け具合とか、いろいろなところに出ますが。
 でも何と言っても、頭がボーっとしていて働きがわるいのが一番つらいところ。コーヒーは今3杯目。胃のほうがやられてしまいそうです。
 どうしたらよいのでしょうか?? まあ散歩ですかね。ちょっと図書館にでも行ってきます。人と話をすれば少しはテンションが上がるかも。
 やる気のないときは、とにかく何でもよいからやることだなんて言ったこともありますが、今回はそれ以前の問題という気がします。
 ひょっとしたらウツの状態かも。いえいえ、単なるやるべき仕事からの逃避状態でしょう。
 

成長への自由その2 

2004年09月11日(土) 16時56分
「成長への自由」その2

  「成長への自由」という概念に驚いていた私でしたが、なんと社会科学の領域では「成長論的自由主義」なる主張もあり、そこでは人間を無限の努力へと駆り立てる人格理念も構想されているのですね。知らなかった。
 領域が異なると、その世界になかなか入り込めないものですね。一つ一つの専門用語の意味がわかった感じがしないのです。想像して想像して、こんな感じかなという理解の程度です。学生の「心理学は難しい」という嘆きも、勉強不足のせいと学生側の責任と思ってきた部分が大きいのですが、なんだかその気持ちが少しわかったような気もします。ということで、思わぬ収穫。 

成長への自由 

2004年09月10日(金) 15時46分
次のテーマは「私事化」のはずでしたが、予定変更。(でも底の方ではつながっています。)

近頃気になるCMは、「とらばーゆ」(たぶん。森光子のナレーション)に出てくる「成長への自由」というメッセージ。これは文字のみで、CMの最後の画像にでてきます。
 転職は自由だし、転職が自己の成長をもたらす可能性は大きいので、確かに「成長への自由」ではあるのですが。だから、文脈依存的には理解できる内容なのです。
 でも、転職という文脈を離れて、一般的に「成長への自由」という言葉を考えると、<ああ、これこそまさに現代を象徴する言葉なのだ>と、感動よりはむしろ怖れに近い感情を抱いてしまうのです。それって私だけですか?
 
「成長」という概念は、発達心理学においては、一般的に、どちらかというと内的な成熟を強調した言葉であり、それだけにどの個人にも当然のごとくに存在する、発達を規定する主要な過程という意味合いがあるだろう。だれにでも、時間の経過に従って、サラサラと流れ込んでくるような、待っていれば訪れる「成長」というよい方向への変化。
 しかし、心理学においても、「成長欲求」と呼ぶ場合は、マズローの欲求階層説に関連付けると、高次の「自己実現の欲求」(達成の欲求、自律の欲求も含む)に相当する。(対語は「欠乏欲求」。)この意味合いでは、「成長欲求」は個人的なものであり、それゆえに、その欲求を持つか持たないか、どの分野における欲求なのか、どれくらい強く欲求をもっているかなど大きな個人差が生ずることになる。
 だから、心理学における後者の意味合いからすれば、「成長への自由」はまさに、個人の成長欲求がその個人に任せられているということを端的に表しているといえる。
 
となると、別に、真新しい考え方でもないじゃあ、ありませんか。
それなのに、私はいったい何にこんなにおびえているのでしょうかねえ。
限りない自己責任の時代。自己の欲求を端的に自覚しない限り、成長はありえないという、すべてが自己に帰属してしまう苦しい時代。自分のことは自分で決断しなければ人並みに生きていくことも難しい時代。そんな風に思います。
私事化の時代は、安易に流れれば、快楽主義に陥るけれど、「成長の自由」を本気で求めつづけようとすると、あまりにつらいですねえ。

誤釣生活から 

2004年09月08日(水) 13時56分
 日々の生活の中で考えたことについて考える、メタな思考のあれこれです。メタ的に考えることは、自分をある程度客観的に見られていいのですが、メタ的に考えたことをさらに考えるとと際限がなくなり、メタメタになってしまう危険も。
 さて、今回は糸井重里さんの「誤釣生活(ごちょうせいかつ)」(1996)から。
 何が良いって、メタ的思考に満ちているのですよね。
 釣りをしては考え、考えては釣りをし、といった生活を記す作文集との前書き。「なんとも名づけようのない釣り」(=自由な釣り)が、いつのまにか「レベルアップのための釣り」をするようになっていたこと。またそれは「自分を解放してくれる遊びであった釣りが、自分を「釣りのなかに閉じ込めていく」という苦しみに変化し、「自由な人」が「熱心な人」に変化せざるをえなくなっていくということであり。しかし、それで釣りが嫌いになったかと言えば、そんなことはなくて「つらいが楽しい」状態になっていくのだということ。
 それが副題の「おもつらい」になるのですよね。実はこの「おもつらい」という単語をどこかで見て、ずっと気になっていて、何ページの何行目にあるのかを知りたくて読んだのですが、本文中にはなかったですね。しかし言いえて妙。
 さらに感動したところは「「よく釣る人」になれないことはわかりきっているが、「よく釣る力」をもちたいと考えている。」というくだり。
 「メタ認知」が重要と日頃考えている私としては、ああ学校での学びもこんな風にメタ的になってほしいとか、それにはどうしたらよいのだろうとか、内発的動機づけの理論も「楽しい」から「おもつらい」にならなければとか、学びの目標は結果像ではなく過程像でなければとか、あれこれ考えさせられています。
 まだ自分のものになるには時間がかかりそうですが。
 問題は学ぶ「価値」をいかに自分の求めたい価値と重ね合わせるかというところでしょうか。 次のキーワードは私事化です。
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